幹が曲がったカエデの樹を過ぎる。今度は道が二股に分かれていた。ハージェクは右に曲がった。この森番がいなかったら、ジークリンデたちは山の中を彷徨っていただろう。この地点では灌木の茂みが2メートルもの高さになって広がっていた。
「お嬢さんは特殊な照準器が付いたライフルを持ってると聞いたが」ハージェクは言った。
「ええ」
「それを奴らに使ってくれ。あの橋までの道はワシが教える。すぐに分かる」
「実際の距離はどのくらいあるの?」
「あまり遠くない。近道を行けば、あと5キロくらいだ」
「アンタが言ってるその近道は簡単に見つかるのか?」ヴィンクラーが聞いた。
「そんなのは簡単だ」ハージェクは言った。「人と同じだ。道もみんな違う。生えてる樹は種類も違う。樹齢も違う。それにいつ花が咲くか。実がつくかも違う。樹の顔形の見分けもつくんだ。1本1本違う。覚える気があったらお兄さんにも分かる」
ハージェクの言葉はおとぎ話や伝説のように思えた。冷たく曇った朝が木々にどんよりとした色を与えている。自分たちは眼の前に生えているカエデの太い幹とニレの樹でさえもはっきり区別できないのだ。ジークリンデはハージェクの話に素直にうなづくことが出来ず、苦笑を浮かべるしかなかった。
まもなくジークリンデたちは古い水道管にぶつかった。直径20センチほどの錆びた鉄管で使わなくなった井戸まで続いていた。鉤の付いた柱が空に伸び、井戸の存在を知らせていた。森は深くなり、木々は水の周りに密集していた。突然、かすれたため息のような音が井戸から聞こえてきた。ハージェクがその場に立ち止まり、そのすぐ後ろにいたジークリンデとぶつかった。
ジークリンデたちが井戸を覗いた。井戸の中に野生の猪がいた。井戸は大きな石を粗く積み上げて壁を造り、厚板で入口が半分覆われていた。猪はまだ若く、毛は薄茶色で牙はまだ伸びきっていない。自力で井戸から出られなくなっていた。頭を上に向け、悲し気な焦げ茶色の眼でハージェクを見つめてぶうぶうと鳴いた。
「仕留めるか?」ハージェクが聞いた。「ホカホカの猪肉のカツレツが出来る。コイツを食べない手はないだろう」
ヴィンクラーがごくりと喉を鳴らした。ジークリンデは若い猪を見つめながら答えた。
「いいえ。この子はまだ大人になってない。生きてもらいましょう」
ハージェクは嬉しそうだった。井戸の近くで長い竿を探し、それを井戸の中に突っ込んで猪の腹の下に入れて持ち上げた。井戸の外に出てきた猪を地面に転がした。まるで解放されたのが信じられないかのように鳴いた。そして飛び上がったかと思うと、身体を揺すり、落ちた枝を踏みしめながら全速力でその場を走り去った。次の瞬間、くるっと巻いた尻尾が茂みの中にチラッと見えた。ジークリンデは思わず笑った。
ジークリンデはポケットから地図を取り出した。シュパイデルが「無いよりはマシ」だと言って手渡してくれた大縮尺の地図だった。味方の前線は井戸を越えたところで終わっていた。そこから先は敵が占領した地域になる。ジークリンデたちは腰を下ろして休憩した。基地で支給された携帯食糧を食べる。ハージェクも同じ物をもらっており、ジークリンデたちはそれで食事を済ませた。ハージェクはこの森について話し始めた。
ジークリンデが猪を逃がしたのは正しい行いであり、森はきっとご褒美をくれる。森も寺院と同じである。森に佇んでいる時は慣習を守り、娯楽のために無暗な殺生を行ってはならないのだという。ジークリンデは皇帝の別荘について聞いてみた。別荘は山脈の奥深くに広がるアッペンツェルと呼ばれる湖の畔にあるという。元は修道院だった石造りの建物には目印となる鐘塔がそびえている。
日が昇る頃、ジークリンデたちは鉄橋の北端に着いた。ハージェクは自分の小村に帰るという。ジークリンデたちはハージェクに礼を言い、数日分の食糧と煮沸した水を入れた水筒を手渡した。森に消えるハージェクの後ろ姿をジークリンデはいつまでも見つめた。