深紅の狙撃手《クリムゾン・スナイパー》   作:伊藤 薫

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 ジークリンデたちは携帯用のスコップで塹壕を掘った。塹壕を掘り終えると、その上に折り畳み式の金属枠を置き、それを小枝やセイヨウネズやヘーゼルナッツの茂みで覆ってカムフラージュを施した。これなら鉄橋の上から見ても茂みにしか見えないだろう。さらに、ジークリンデたちは囮を作った。棒にマネキンの胴体を付け、オーバーコートを着せる。頭部にヘルメットを被せ、背中にライフルをしばりつけて本物の兵士らしく見えるようにしたものだ。囮にはパウルという名前を付けた。

 2日間、ジークリンデたちは鉄橋の残骸を双眼鏡でじっくり観察した。ライフルを持った狙撃手が就くのに理想的な場所は2か所しかない。ジークリンデとヴィンクラーは交代で、その2か所を監視した。もしかしたらその狙撃手は新たな獲物を探してここを離れ、森のどこかで友軍がすでに仕留めたのではないか。そんな考えがジークリンデの脳裏にもたげた。だが非常に抜け目のない敵の狙撃手が前線と連隊の後方陣地まできれいに見晴らせるこの鉄橋を簡単には捨てられないのではないか。それがヴィンクラーの答えだった。

「狙撃手は必ず姿を現すでしょう」ヴィンクラーは言った。「重要なのはその時、こちらが先に敵を見つけることです」

 3日目の朝。ジークリンデはうとうとしていた。塹壕に肩をもたせかけてしゃがみ込んでいた。冬用の軍服―暖かな肌着、チュニック、ひだ付きで中綿入りの袖なしのベストにズボン、オーバーコート、白いカムフラージュ用スモックを身に着けていた。凍えることはないが、とても暖かいというわけではない。不意にヴィンクラーがジークリンデの肩を揺らし、鉄橋を指さした。ジークリンデは胸にかけたケースから双眼鏡を取り出して眼に当てた。夜は次第に明けつつあった。鉄橋の輪郭が早朝の靄の中に姿を現し始めていた。黒い影がねじれた鉄筋の間をすり抜けて歩いている。一人の男が明るくなりつつある空を背景に浮かびあがった。次の瞬間、その影はすぐに消えた。

 ジークリンデとヴィンクラーは視線をかわした。獲物が作戦地域に到着したことを確認しあった。敵はこれから周囲に眼を配り、ライフルの準備をして銃弾を装填する。自分の仕事がやりやすいように、この地域に目印をいくつか置いているはずだ。敵が準備を整え、目印を確認するまで待たねばならない。

 2人は塹壕に向かう前に、この後の行動を打ち合わせていた。ヴィンクラーはパウルを担いで塹壕沿いに前線近くまで忍び寄る。狙撃の準備が完了したというジークリンデからの合図を待つ。準備は簡単。これまで何度もシミュレーションを行ってきた。今回は地平から射撃することになる。標的との角度を考慮して照準を合わせる必要がある。

 30分が過ぎた。

 夜が明ける。周囲は静まり返っていた。ヘルマゴールでは敵味方どちらも戦闘を行っていなかった。大砲も迫撃砲も機関銃も沈黙していた。戦争がまるでこの世から消え去ったようだった。ふと思うことがあった。殺戮が終わり、平和な生活が戻ってこようとしていた。自分たちの技術がもはや必要ではないのだと思えてしまう。だが残念ながら、今この瞬間はそんなことを考えるのは危険だった。

 ジークリンデはいつにない静寂に耳を澄ませながら、2本の指を唇に当てて口笛を鳴らした。ヴィンクラーが短い口笛で答える。ジークリンデは照準器に眼を当て、鉄橋から眼を離さずにいた。ヴィンクラーが塹壕に身を隠したまま、パウルを無人地帯(ノーマンズ・ランド)までひきずっていった。遠くからは、斥候が塹壕を出て眼の前の地域を見渡しているように見えるはずだ。敵はこんな古い手口にひっかかるだろうか。

 鉄橋からくぐもった音がした。まるで木の厚板を金属の棒で叩いたような音だった。敵が撃ったのだ。正にジークリンデが予想していた場所で閃光がパッと上がった。敵の陣地は左側が鉄筋で盾になっている。ライフルは曲がった小枝に乗せればいい。狙撃手は右脚の踵に体重をかけ、膝はバラバラになった枕木に置く。左腕の肘は左膝に乗せる。ついにジークリンデは敵を見つけた。

 照準器に敵の頭が見えた。凍えるような寒さの中でジークリンデはじっと息を止める。そして滑らかにトリガーを引いた。


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