深紅の狙撃手《クリムゾン・スナイパー》   作:伊藤 薫

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 トールヴァルトは納屋を出て裏手に回り、斜面を登って行った。数百メートル先でいきなり畑が途絶え、森になった。木々が残りの山を覆いつくし、その険しさと大きさをぼかしていた。トールヴァルトにはかなりきつい行程になることは分かっていた。事前に撮影された航空測量写真によると、今いる地点からアッペンツェル湖が広がる谷までは約20キロ。山林の中のごつごつとした斜面をずっと行かなくてはならない。いったん登った後、しばらく横に移動してから、反対側の斜面を降りていく。

 手首を返して腕時計を見る。午後2時35分。日が落ちるまであと6、7時間。夕暮れまでには射撃位置に着けるはずだった。太陽が沈む前に着くことが肝心だった。ひと目でいいから明るい光の中で別荘を見ておく必要があった。そうして環境に適応し、射角を計算し、標的を仕留められる範囲を見極めるのだ。

 決然とした足取りで、ゆっくりと大股で歩いていく。すでにライフルの負い紐が肩に食い込んでいた。汗が吹き出すと同時に、筋肉が温まって動きが滑らかになる。高所に行くほど空気は薄くなり、楡や樫といった木が鬱蒼と生い茂る若い森はオーディンの山地とよく似た古の松の原生林にとって代わられるはずだった。

 きつくなる傾斜に手こずりながらも前進を続ける。行く手を岩の塊がさえぎるようになり始めた。森の様子が徐々に変わってきた。ぼんやりとした影が重なりあい、枝の隙間から気まぐれに日が差し込んでいた。この薄暗い風景にもそれなりの美しさがあったが、トールヴァルトにはそれを楽しむような精神状態ではなかった。ひたすら脚を動かすことだけを考えていた。時おり傾斜がなだらかになる箇所にさしかかる。トールヴァルトはそうしたところでひと息をついた。

 トールヴァルトはへとへとになりながらも、再び歩き出した。岩がかなり厄介な障害物になってきた。岩の隙間を通り、滑りやすい急な斜面を登った。途中で木立が途切れ、遠くを望むことが出来た。トールヴァルトは先を急いだ。木立や低木の茂み、アザミに覆われた斜面をひたすら登った。喉が渇いていたが、立ち止まって水を飲む時間さえ惜しかった。不安定な足場で時おりブーツが滑り、一度ひどく膝を石にぶつけた。膝がズキズキと疼き、肩の痛みがひどくなっていた。ペースを落とすか休むかすべきだった。だが今はそれが出来ないことをトールヴァルトは知っていた。薄れゆく陽光が気になって仕方がなかった。暗くなる前に現場に到着しなければ、こちらの負けなのだ。

 自分はどこに向かっているのか。それがキチンと分かっているのか。そう、私は皇帝の寵姫を暗殺するために別荘に向かう。自分を雇った連中はゴールデンバウム王朝のためにこれを為すのだと言った。いや違う。これは自分のためだ。自分にはもう何も残されていない。妻と息子に先立たれた。加齢による眼病で狙撃が出来なくなる前に、歴史に名が残るような偉業を成し遂げようという思いだけでここまで来た。

 前方に光が見えてきた。足元が平坦になる。山の上に広がる原生林に到達したのだ。

 トールヴァルトは急ぎ足で光を目指した。松や樅の木に囲まれた尾根に立つ。空気が涼しかった。周囲を見回す。尾根の彼方に岩だらけの山頂があった。その向こうに木立で輪郭のぼやけた他の山々も見えている。はるか遠くに、雪に覆われた雄々しい山が聳えていた。

 視線を下に向ける。木立の続く山の斜面をずっと見下ろした。碁盤目模様の耕作地が数千メートル先に広がっていた。アッペンツェル湖。それ以外はほとんど緑一色だった。近くにあるはずの小村は影も形も見えなかった。

 皇帝の別荘が見える。はるか昔に建てられた元修道院の別荘は屋根の高い建物で、ドーム型の尖塔が2つある。そのほかに小さな建物がいくつか並んでいる。外界とは煉瓦壁で隔離されている。双眼鏡で屋敷を観察した。中庭が見える。標的は今日の深夜にあの中庭を散策すると聞いている。

 今はひたすら夜を待つだけだった。

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