深紅の狙撃手《クリムゾン・スナイパー》   作:伊藤 薫

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 まもなく11時半になろうとしていた。長い間、冷え込んだ岩場で待っていたトールヴァルトは身体が強張っているのを感じた。じっと待つ間、自制心で心を無にしていた。疑念や後悔を頭から追い払い、心を静めていた。こうした不気味な冷静さが最高の射撃を生み出すことが分かっていた。

 トールヴァルトは別荘から400メートル離れた地点にいた。角度は約30度。これがギリギリのところだった。今は土から露出した岩の後ろで半屈みになっていた。暗視装置を装備したライフルは眼の前にある。岩の上に二脚架に載せてあった。かさばった照準器が片側に斜めに飛び出している。射撃の妨げにならないように、装置はすでに背中から下ろしてライフルの隣に置かれていた。

 周囲が十分に明るい内に、トールヴァルトは眼下の建物をじっくりと観察した。別荘は煉瓦壁で囲まれており、まるで監獄のような雰囲気があった。一番古い建物が礼拝堂。実用本位の石造りの建物で屋根が尖っている。ドーム型の尖塔の先端に厳めしい小さな十字架が付いている。トールヴァルトは別のもっと大きな建物に双眼鏡を向けた。中庭に面している元修道院の居住部分。薄れゆく光の中で辛抱強くそこに眼を走らせ、ついに目立たない木の扉を見つけた。階段と立派なアーチのついた出入口の近くにある。しっかりと閂がかかっていた。標的は真夜中にそこから出てくるものと思われた。

 屋敷にいると思われる護衛は5人。もしかしたら周囲を哨戒して回っている兵士もいるかもしれない。その可能性は高かった。《ザックス》によれば、仮に大所帯だったしても護衛は20人程度になるという話だった。望遠照準器に現れる者は全てを殺すつもりだった。

 以前に標的の写真を眼にした。グリューネワルト伯爵夫人というのは美しい女性だった。なぜ皇帝はこんな美しい寵姫を独りにして山奥の別荘に閉じ込めるのか。同衾して子孫を遺そうという気にならないのだろうか。伯爵夫人には弟がいるようだが、その弟に遠慮するような年柄や間柄でもないだろう。

 そろそろ腰を上げて準備に取りかかる時間だ。トールヴァルトは体操を始める。決まった手順通りに準備運動を行う。それが終わってから、トールヴァルトは静かに横たわった。動悸が収まる頃には完璧に落ち着いているはずだった。

 これからの数分間を脳裏に思い描く。照準器を通して見る建物は冷たくのっぺりしていることだろう。それから一瞬、視界がぼやける。扉が開いて、夜の冷気の中に熱が放散されるせいだ。無数の粒子が渦を巻きながら広がる。虹色に煌めき、揺らめいている人影が眼の前を横切る。親指でライフルの安全装置を外して標的に狙いを定める。

 そこでトリガーを引く。

 遠くから飛行機の音が聞こえる。

 不意に脳裏に浮かんだイメージが消えた。トールヴァルトはライフルが置かれた岩まで這って行った。迷いは無い。自分の心奥から意志の力を感じていた。腹ばいになって肘をついた。腰を岩に押し当て、バランスを取るために脚を開いた。それからライフルを自分に引き寄せる。銃床を肩に当てる。掌でグリップを包み込む。冷たい金属とプラスチックの塊が掌の中ですぐに温もりを帯びた。

 二脚架に載せたアサルトライフルを前後左右に動かす。自分の動作にすばやく反応するかどうか確認した。暗視装置の照準器にかかっている覆いを取り外す。バッテリーのスイッチを入れる。人差し指で湾曲したトリガーを探り当ててから指を離した。

 トールヴァルトはゆっくりとボルトを押した。ボルトはギクシャクと銃身の中を滑る。かすかに抵抗を指先に感じる。カチッと音がしたところで手を停める。これで亜音速の銃弾が弾倉から薬室に送り込まれた。ライフル全体がトールヴァルトの意のままに動いていた。思わず笑みを浮かべながら、射撃の切り換えスイッチを確認する。セミ・オートマチック。

 トールヴァルトは安全装置を外した。

 飛行機の音が小さくなっていった。

 最後にもう一度、腕時計に眼を落とす。もうすぐ真夜中だった。

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