深紅の狙撃手《クリムゾン・スナイパー》   作:伊藤 薫

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プロローグがちょうど、この話の前半部分に当たります。


[7]

 風がリーゲルをどんどん運んで行った。ジークリンデは自分が蜂蜜の中を泳いでいるような気がしていた。リーゲルの白い落下傘はすでに30メートル下を降下中で、100メートル横手の方で風に揺れていた。ジークリンデに見えるのはそれだけだった。爆撃機のエンジン音はすでに聞こえなかった。重苦しい静寂の中を落ちていく。地面まであと1分ほどのところで、リーゲルのパラシュートが急にしぼむのが見えた。着地したのだ。

 ジークリンデは着地と同時に、痛みに襲われた。衝撃で眼の奥に閃光が走り、脚が疼き始めた。脚をかばおうとして倒れ込んだのが間違いだった。尻と肩をしたたか地面に打ちつけ、しばらく訳が分からないままそこに横たわっていた。リーゲルのパラシュートが野原をひらひらと横切っていくのが見えた。どうにか立ち上がる。脚が痛んだものの、走る分には大丈夫そうだった。ハーネスの索留めを外す。締め付けが無くなって身体が楽になる。ハーネスを脱ぎ捨てる。

 すぐ近くで地面に身体がぶつかる鈍い音がした。「あいたッ!」という声が上がる。ジークリンデは眼を向ける。カイルベルトが絡まりつくパラシュートと格闘しながら立ち上がろうとしていた。

 ジークリンデはMP-34短機関銃を肩から降ろした。自分が谷間に広がる牧草地に立っているのが分かった。足首ほどの長さの草に覆われたなだらかな丘が続いている。400メートルほど先に、別荘とそれを取り囲む壁が見えたような気がした。

「こっちです」

 ジークリンデはまだ落下傘と格闘しているカイルベルトに小声で言った。

 痛みを覚えながらゆっくりと走り始めた。リーゲルの姿はどこにも無かった。

 

 リーゲルは走っていた。目的地にどんどん近づいているような気がした。脚に少し痛みを感じていたが、大したことはなかった。短機関銃がどうなったのかは分からない。着地した時に無くしてしまったのだ。いま身に着けているのは用を為さない短機関銃用の弾倉が3つと9ミリ拳銃のみ。建物はまだかなり先にあるようだった。

 ひたすら走り続ける。自分の中にいる別の人間が苦しそうに喘いでいた。咳き込むか立ち止まるしかなかった。かけっこだ。帝国軍ではある種の将校―特に貴族出身の将校はなりふり構わず野原を駆けたりはしない。そのことをリーゲルは士官学校で始めて知った。そうした連中が吐きそうになるまで、汗で肌が燃えそうになるまでリーゲルのような平民を走らせるのだ。将校は部下に命じるだけで汗をかかないものなのだ。士官学校の教官たちはそんなことを嘯く奴ばかりだった。内心で糞野郎だと罵った。似たようなことを口にした上官を何人か殴ったこともある。そのせいなのか階級がいつまで経っても軍曹止まりだ。損な性格だった。今はどうしようもないほどブーツが重く感じられた。草が足を絡めとろうとする。頭の中は空っぽ。

 

 トールヴァルトは望遠照準器のスイッチを入れた。最終段階に来たのだ。空いている方の手でレシーバーのすぐ後ろの銃床を掴み、射撃の時に使う眼―左眼を照準器の柔らかいゴムに当てる。右眼はわずかに瞼をすぼめるだけにしてつぶらない。眼を閉じている状態はストレスを生む。

 暗視装置を通して見える世界は緑色だった。静寂に包まれている。

 トールヴァルトはいくらでも待てそうな気がした。自分が歴史の一部ではなく、歴史そのものになったような気分だった。深き淵から手を伸ばして未来に変える。そんな荒々しい力を感じる。これから行うことは今、野蛮な行為に思われるかもしれない。だが、もっと長い眼で見れば評価は変わる。これは《善》や《正義》に値する行為だ。

 扉が開いた。光の染みが照準器の中を横切る。無数の渦巻く分子がこぼれ出した。

《運命との約束に時間通りに現れたな―》

 人間とは分からないくらいぼやけた光の塊がちらつきながら姿を見せた。

 トールヴァルトは呟いた。照準器の十字線でその姿を追う。

「よし、いい子だ。そのまま出てこい」

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