ジークリンデは走り続けていた。風邪が悪化したようだった。熱で頭がぼんやりとして倒れてしまいそうだった。幼年学校の頃から短距離走はどちらかと言えば苦手だった。今すぐ草の上に倒れ込んで、山の冷たい空気を思いっきり吸い込みたかった。
気が付けば、カイルベルトが肩を並べて走っている。普段から脚を鍛えていたのか、後ろから追いついて来ていた。ジークリンデも抜かれまいと踏ん張った。誰かが屋敷の門に取りついている。リーゲルではないか。
ジークリンデは胸がむかついた。思わず泣きそうになる。
《どうやって門を突破すればいいの?》
リーゲルは屋敷の煉瓦壁に設えた門を叩いた。ビクともしなかった。
トールヴァルトは指をライフルのトリガーにかけていた。力を徐々に入れ始める。
ジークリンデは門にたどり着こうと必死に駆けていた。もう間に合わないだろう。刹那の数秒間に起きるであろう恐ろしい出来事が脳裏をよぎる。
誰かが「軍曹!」と叫んだ。自分の裂帛だった。
オーディンの士官学校で行われた特殊部隊向けの訓練を受けていた頃、リーゲルは古くから伝わるトリックを教わったことがある。講師を務めていた男は辺境星域で警官として働いていたことがあり、荒っぽい手段のトリックを全て知っていた。そして、これも教わったトリックのひとつだった。
「もしドアに鍵が掛かっていて、中に急いで入りたいとする」元警官は言った。「そうだな、例えば同盟軍の兵士に追われていたりして。軍曹、君ならどうする?」
「蹴破ります」
「その間に敵に追いつかれてしまうな。だから、その時は西部劇に出てくる連中みたいに拳銃を取り出して撃つといい。ただし、狙うのは錠前じゃない。映画とかドラマはそこを間違えてる。それだと、跳ね返ってきた弾が自分の腹に命中するだけだ。そうじゃなくて角度をつけて木の部分に撃ち込むんだ。錠前の後ろを狙ってな。デカい45口径なら、最高のレンチになってくれる」
それから紆余曲折を経て5年も経つ。ちょうど必要な時にそれが脳裏によみがえってくるとは不思議なものだった。リーゲルは拳銃を抜いて撃鉄を起こす。慎重に狙いをつけ、古い真鍮製の錠前の金属板から2センチ離れたところから斜めに撃った。目の前に白く眩い火花が散った。すかさず扉を蹴りつける。
扉が開いた。
あと少しでトリガーに力を込めれば、銃弾が飛び出すところまで来ていた。
トールヴァルトは照準器に当てた左眼をかすかにしかめた。
《あれは何だ?》
「
リーゲルは屋敷の中庭に入る。
白い顔が夜闇にくっきりと浮かび上がって見えた。深みのある碧い瞳がリーゲルを見返した。まるで幻影のようだった。その白い影が逃げ出す。慌てふためいて舗床を逃げ惑う足音がする。悲鳴や甲高い叫び声も聞こえた。
相手にしてみれば、自分こそ暗闇でも見える悪い奴に違いない。リーゲルはそう思った。顔を黒く塗った大男が拳銃を片手に持ち、息を切らして庭に押しかけてきたのだから。皮肉なものだった。その時、ジークリンデが背後で叫んだ。
《一体、何の用だ?》
トールヴァルトは撃った。
ジークリンデはようやく門にたどり着いて屋敷の中庭に飛び込んだ。
何かが駆け回る音が響いている。ジークリンデは闇の中を疾走しているように見える人影に眼を凝らした。誰かが泣いていた。恐怖のあまり抑えがきかなくなった甲高い声が聞こえる。中庭に女性が泣きながら地面に伏せていた。その傍に大男が斃れている。
「神様、お願いです」
「アンネローゼ様!」ジークリンデは叫んだ。
リーゲルは頭をほとんど吹き飛ばされていた。中庭の真ん中に横たわっている。周りの舗床に黒い血の海が広がりつつある。ジークリンデは咄嗟に身体を投げ出して、グリューネヴァルト伯爵夫人であるアンネローゼの上に覆いかぶさった。
トールヴァルトは再び撃った。