ソロモンがアジトの広場でのんびりしていると、なにやら右の耳の中でごそっと異音がした。正確には「ような気がした」なのだが、一度気になってしまうとこういうのは悪くなるばかりで、今すぐにでも耳の穴を大掃除したくなってしまう。
しかしソロモンは耳の穴に突っ込むのにおあつらえ向きな道具など持ってはいない。小指で何とかしようとしたがどうしたって耳の細くなる穴の入口に阻まれた。致し方あるまい。医務室へGOだ。
「もしもし、誰か居るかな」
医務室の扉をノックして中に入ると、バティンがいた。
「あら、ソロモンさん。どうかしましたか」
「いや、なんでもないよ。お邪魔しました」
踵を返すソロモンの手が後ろにねじられる。なんというスピードで接近してきたのか。職業は看護師など虚偽申告も甚だしい。アサシン兼尋問官だ。
「逃がすとお思いですか」
「いてててて・・・折れる!」
この女、怪我をさせるために医務室に居るのか? ソロモンは大人しく白状した。
「大したことじゃないんだ。耳の中がごそごそして、なにかいい道具とか無いかなと思っただけなんだよ」
「取ってあげましょうか」
「痛くないよな?」
「痛い訳がありませんよ。怪我もしてないのに」
「させようとしてなかった?」
「いつ?」
ソロモンは首を振った。もはや何も言うまい。
「で、どうするつもりなのかな」
「耳かきで取るだけです」
「耳かき?」
バティンは長い爪楊枝のような、とても細長い匙のようなものを取りだした。なるほど、これなら耳の中にも差し支えなく入りそうではある。問題はあれをソロモンの耳の中に突っ込むのがバティンだと言うことだ。
「さて、始めますか」
バティンはベッドに腰掛け、びくびくしているソロモンを見上げた。
「なにぼさっとしてるんですか。ほら、早く」
「え?」
バティンがぽんぽんと自分の膝を叩く。
「ここに頭を乗せてください。安定しませんので」
「は、はい・・・」
ソロモンは恐る恐る、右耳が上になるように膝に頭を託した。なんだかギロチンにかけられている気分である。その余りにも緊迫した状況にそぐわない、不思議な柔らかさとふわっとした甘い香りにソロモンは余計に緊張した。
「動かないでくださいね。入れますよ」
「はい」
一ミリたりとも動くものか。死んでしまう。息すら詰めてソロモンは身体を固くしていた。不意に、耳にふーっと息がかけられた。
「わーっ!!」
「動かないでと言ったでしょう!」
ガシッとバティンの左手がソロモンの頭を掴む。異常な力だ。
「だっていきなり」
「軽く耳垢を飛ばしただけです。それに」
一度バティンは言葉を止めた。
「それに、なんだか緊張しているようだったので」
「へ?」
「なんでもありません。医療ミスです」
「穏やかじゃないな・・・」
いよいよ耳かきが耳の中に入ってきた。かり・・・かり・・・と小さな摩擦音が耳の中に響く。痛くない。それどころかなんだかくすぐったくて、眠気すら誘いそうだ。
(あ、これ・・・けっこう良いかも)
ようやく身体から力を抜くことができたソロモンは、静かに目を閉じていた。バティンも黙って耳掃除を続けている。時々耳かきを取り出して布で拭いたり、なにやら他の道具などに持ち替えたりはしているようだが、全く苦痛などが与えられることは無かった。
「ソロモンさん、どうですか」
「うん? どうって」
「悪くは無いでしょう」
「ああ。むしろすごく心地良いよ」
今バティンがふっと微笑んだ気がしたが、気のせいだろうか。なんにせよ耳を破壊されなければ御の字である。いや、バティンは決して残るような危害は加えないのだが・・・。
「ソロモンさん、緊張していたのはなぜですか」
不意にそんな事を聞かれた物だから、ソロモンはとっさに返事できなかった。まさか耳を拷問されると思っていたなどとは言えない。少なくとも現実として痛い事はされていないのだから。
「いや、女性の膝に頭を乗せたり、耳を触られたりなんてした事ないからさ。あはは・・・」
完璧な答弁だ。ソロモンは力強く自画自賛した。唐突にバティンの手が止まる。なにか、まずいことを言っただろうか。にわかにソロモンの胸中に暗雲が立ちこめる。
バティンの行動に意識を集中していると、ソロモンの頭がそっと撫でられた。そう、撫でられたのだ。ソロモンは驚愕し、耳かき中に頭を動かすとバティンじゃなくても危険だということすら忘れて頭を起こした。バティンの顔を見ると、彼女も驚いたような顔をしていた。
「あ、ごめん。動いちゃまずかったよな・・・」
「・・・・・・」
「その、バティン?」
なぜか悲しそうに見える目にソロモンの不安は微妙にその形を変えた。恐怖と言うより、興味へと。
「なんか、怒ってる?」
「いいえ。そう見えるとしたらあなたの修行不足ですよ。続けます」
「はい・・・」
自分の修行不足とはどういう意味だろうか。ソロモンは釈然としないながらも取り敢えず機嫌を損ねた訳では無いならいいかと頭を再び寝かせる。
「なんで撫でたのか聞いていいか? 嫌だったとかじゃなくて、気になっただけ」
「撫でたくなったので」
「・・・そっか。え?」
百万パーセント、バティンらしくない台詞だ。頭が自由だったら二度見していた。
「その、なんでかな」
「撫でたくなったと言ったら撫でたくなったのです。逆に、嫌だったら答えなくてもいいので私も質問してもいいですか」
「うん」
「恋をした事は?」
ソロモンが黙った。バティンはそれが困惑や時間稼ぎなどではなく、真にシリアスな思考や感情が彼の中で動いたのを知っていた。だからそのまま黙って耳掃除を続ける。
「ない、と言えば嘘になるかな・・・。振り返ってみればだけど。なんで?」
「あなたはソロモン王です。しかし、あなたをソロモン王としてだけ、皆が慕っているわけではありません。そして、あなたを慕っているのはメギドだけでは無いはずです」
「・・・・・・」
「あなたは、若い。ヴィータとしてまだあらゆる道が残されています。ソロモン王としての責務だけであなたが人生を送っていないか、私は心配になりました」
「なんだか、バティンらしくないな」
「らしい、というのがよく解りませんが。一人の女として気になっただけです。あるいは『個』として」
「なるほど」
『個』という単語でソロモンは納得した。そういう意味では、確かに自分は『個人』ではなく、『機能』として行動しているのかもしれない。
「俺がいろいろ我慢してたり、自由が無いと思ってたりしてないかって心配してくれてるんだよな」
「そんな所です」
「ありがとう。でも、俺は今がすごく楽しいよ。戦い始めたのは確かに復讐心が全てだったけど、ちょっと変わってきた。今は、ただ守りたい」
「誰の為に?」
「誰のためって、皆の為だよ。それぞれの大切なものの為に」
「そこにあなたは居ますか?」
ソロモンが黙る。
「俺が、『そこ』に居る?」
「あなたの大切な物は、あなたの物ですか?」
「それは、重要な事なのかな」
「そのはずですが。ところで、右の耳が終わりましたので左耳を上にしてもらってもよろしいですか?」
「あ、うん。分かった」
とは言ってもどうしよう、とソロモンは考えながら身体を起こそうとした。が止められる。
「わざわざ反対側まで動かなくてもいいですよ。身体の向きだけこっちに変えてくれれば」
「そっか」
くるっと反転して、ソロモンはぎくっとした。バティンの腹部が目の前にある。別に裸だったりする訳ではないのだからなにも気にしなくてもいいはずなのに、緊張する。
「どうかしましたか?」
「お腹が近い・・・」
「ああ、顔の前に何かあると嫌な人もいますね。身体ごと動きますか?」
「そういうわけではないけど、その」
「触ってみます?」
「なんで!?」
「冗談ですよ」
「真顔で言うからな・・・」
「まあ触っても構いませんけどね」
「遠慮しとく・・・」
耳の向きが変わってもバティンは手際よく掃除を続けた。むずむずしてたのは右耳だけだから左は別にしなくてもいいのだが、今更断る理由もない。ソロモンはなんとなくバティンに質問をし返す事にした。
「バティンは好きな人とか居るのか?」
「おや、積極的ですね」
「す、すみませんでした」
「どうして謝るんですか」
「やっぱ失礼だったかなって」
ソロモンがごにょごにょ言っているが、バティンはそれを遮るように答えた。
「ソロモンさんの事はわりと好きですよ?」
「えっ」
「ヴィータにしては、見所があります」
「あ、ありがとう。でもそれは恋とかじゃないよな」
バティンは黙る。そう、恋ではない。しかしこれは何と言うのだろうか。バティンも言語化は出来ていなかった。
「興味、ですね。ソロモン王という個人が、どのような人格を持っているのか。どのような人生を望むのか、あるいは歩む事になるのか」
「ソロモンとしての、俺に・・・かな」
「かもしれませんね。ともすれば失礼な話ですが・・・。しかし」
「うん?」
バティンの手がソロモンの耳をくすぐった。
「わーっ!!」
頭を動かしたソロモンを、バティンは叱らなかった。彼女は、あははっと笑った。そう、笑ったのだ。ソロモンは二度見した。
「ソロモン王があなたで良かったと、本当に思っていますよ」
「・・・・・・そうか」
「だから、あなたはもっと勝手に生きた方がいいです。どうせあなたの事だから、良い風にしかなりませんよ。それをもっと見たいのです」
「俺個人として、か」
バティンが頷く。
「さて、ちょうどいい頃合です。もう耳はすっきりしましたか?」
「あ、うん。すごくすっきりした。ありがとう」
「まあまた何時でも来て下さい。怪我人でも居ない限りは暇なので」
「分かった。怪我してなければまた来るよ」
「・・・なるほど?」
バティンの目がすっと細められたのを見てソロモンは部屋を飛び出した。お礼は言いつつ。
「ほんと、いいキャラしてますね。あの人は」
バティンは再び、ふふっと微笑んだ。ハサミを磨きながら。
※
「あれ、アニキ。怪我でもしたのか? 医務室から出てきたけど」
廊下に出るとモラクスが声を掛けてきた。ソロモンは少し息を切らしながら首を振る。
「いや、怪我は無いよ。あったら無事に出てこれなかっただろうな」
「ああ、バティンのねーちゃんか! まあ怪我してねえならなによりだな」
「ちょっと耳がゴソゴソしたから見てもらったんだ。モラクスはどうかしたのか?」
「いや、特訓がてら斧ぶん回してたらちょっと筋肉痛でさ。しっぷ? とか言うのを貰ったらどうだってガープが教えてくれたんだ」
「なるほどな。まあ、それなら大丈夫か」
「やばかったら逃げるって! じゃな〜」
モラクスを見送り、ソロモンはそういえばと思い出す。
(ガープもブネも、ヴィータの家族が居たな。彼らはいま幸せなんだろうか。一人の、ヴィータの『個』として)
戦っているのは何故だろう。彼ら自身の大切な物の為だろうか。そこには多分、彼らが『居る』のだろう。
(もしあの二人がまた酒場に行くなら、一緒に行ってみようかな・・・)
頼れるメギドではなく、一人の人生の先輩として。彼らと話してみたい。ソロモンはそう思いついて、広場へと向かった。