大洗女子学園の命運を賭けた黒森峰戦で、河を渡る時にエンストしてしまった私たちのM3。これは練習試合じゃない、負けたら私たちの大洗女子が廃校になってしまう。絶対に負けられない戦いなのに、私たちが足を引っ張るわけにはいかない。全員がそう思ったから、先に行ってくださいと言った。それが私たちの、精一杯の勇気だった。
あの人は、翼が生えたように私たちの元へと飛んできた。その迷いのない姿は、あまりにも綺麗で、戦場に舞い降りた女神のようだった。あれだけギリギリの状況で、どうしてそんなことができるのだろう。分からない。分からないから、実際に聞いてみたことがある。どうして、あんなに勇気があるんですかって。
私の質問に対して、あの人は何だか困ったような、照れているような、戸惑っているような、少し不思議で独特な表情を見せた。僅かに首を傾げて、答えを探しているようにも見える。何処にでもいる、普通の女の子のような仕草。そんなあの人を見ていると、私の胸の奥で、私の知らない感情が静かにドアをノックしているような気がした。
――私は、勇気があるわけじゃないよ。
あの人らしい、謙虚な姿勢。そう思ったけど、その言葉には続きがあった。
――大洗に来るまでは、ずっと逃げてばかりだったから。でもね、私は変われたんだ。皆のおかげなんだよ。
あの人は、軽く目を閉じた。とても大切な想いを噛み締めるようにして。
――あの時だってそう。皆が背中を押してくれた。行ってあげなよ。そう言ってくれたから。
「沙織先輩、おはようございます」
「おはよう、梓ちゃん。日曜なのに早いんだね」
声の主は、武部沙織であった。沙織が梓の隣に座ると、ウェーヴがかったブラウンの髪が風に揺れて、梓の想像する最大限の“女性らしさ”に満ちた甘い香りが、優しく辺りを包み込んだ。
「何だか目が覚めちゃって。散歩してました」
「私も同じかな。うーん、これはお散歩作戦だね!」
偶然の一致をみた沙織の言葉に、梓は思わず嬉しくなって微笑んだ。もしかしたら日曜の朝の出会いとかあるかもしれないじゃん、と続けた沙織らしい思考はともかくとして。
武部沙織は2年生という立場だが、個性豊かな大洗女子学園の戦車道メンバーの中でも、上級生から下級生に至るまで、全員から慕われている(リーダーという意味ではなく)存在である。特にウサギさんチームの面々は、沙織のことを母親のように慕っており、プライベートの悩み相談にも乗ってもらうような関係であった。
「梓ちゃん、その七分袖のパーカー可愛いね。この前欲しがってたやつだっけ?」
「そうです、沙織先輩が似合うよって言ってくれたから……買っちゃいました」
うん、私の見立て通り。満足そうに梓を見つめる沙織は、確かに姉を通り越して母親の慈愛を感じさせる。この溢れ出る母性に唯一対抗できるのは、自動車部のナカジマくらいだろう、と戦車道メンバーでは専らの評判であるのだ。勿論、当人たちの知らないところで盛り上がっている話ではあるのだが。
「いい天気! 気分いいなあ」
「はい、気持ちいいです」
「季節の変わり目って、何だかセンチメンタルな気持ちになっちゃうよねえ」
「何となく……分かります」
うんうん、秋の訪れは恋の予感、みたいな? そう言って大きく背伸びをする沙織を見て、誰であっても、この人に対する警戒心などというものは、きっとその役目を果たすことは許されないのだろうな、と梓は思う。いつかの戦車探しの最中に、学園艦で迷子になってしまったあの時からずっと、ウサギさんチームにとっての沙織は、どうしても力いっぱい甘えたくなってしまう、理想のお母さんなのである。
「梓ちゃん、どうかした?」
「沙織先輩、今日も素敵だなって」
もう、褒めても何も出ないよ、と沙織はやや大げさに手を振った。梓は、あんこうチーム全員をそれぞれの立場から尊敬しているが、沙織に関して言えば、彼女が持つ柔らかい女性らしさという点において、澤梓という高校一年生の少女にとっては一番の憧れでもあったのだ。
「私、あんまり特徴あるわけじゃないし、地味だと思うし……沙織先輩や華先輩みたいな、素敵な女性に憧れます」
「何言ってるの、こんなに可愛いのに! 梓ちゃんの可愛さを分からない男がいたら、徹甲弾ぶっ放してやるから」
「それはちょっと……」
穏やかな波の音が、何処か懐かしい潮風を運んでくる。目まぐるしく過ぎていった日々を思い出せば、こんな平穏な時間もやたらと愛おしい、と梓は思う。自分たちで勝ち取った「今」なのだから、少しくらいは誇ってもいいのかもしれない。同時に、それは騒がしい毎日の大切さと表裏一体と言える。戦車道をやる前の自分にはもう戻れないし、戻りたいとも梓は思わない。戦車道の皆と一緒にいられる今が、一番大切だ。あの人と共に戦える今が、私を突き動かすんだ。
そして、
「梓ちゃん、今日はウサギさんチーム皆で戦車道の練習だっけ?」
「はい、たくさん練習して、もっと先輩達の役に立ちたいです」
「えー、ウサギさんチームの皆は凄く頑張ってるじゃん! 大洗女子の戦車道に欠かせないチームなんだよ?」
「でも、まだまだです。もっと頑張って、先輩達みたいになりたいです。皆、そう言ってます!」
「ああもう、ほんと可愛いなあ……」
えい、と一声かけて、沙織は大切な後輩を抱きしめた。甘い香りが、ゼロ距離で梓を撃った。照れくささと恥ずかしさとが双方せめぎ合う中で、哀しいことがあった時も、嬉しいことがあった時も、やや過剰なスキンシップで応じてくれる沙織ママが、やっぱり大好きだ。そう梓は心の中で呟いた。
「お母さ……じゃなかった。沙織先輩、ちょっと苦しいです」
「やだもう、可愛い!」
沙織と別れ、梓は一人帰路についた。今日の午後の練習には、あんこうチームも参加してくれることになり、梓は自分でも笑ってしまうくらいに、浮ついた気持ちになっていた。尊敬する先輩達との練習は、どんな練習よりも勉強になる。そのような慎ましい態度と一定の距離を保ちながらも、
――いけない、せっかくの機会なんだから。真剣にやらなきゃ。
生真面目な性格の澤梓が、自分自身にそう忠告する。
――どうしよう、凄く嬉しい。あの人に頑張ってるところを見せなきゃ。
もう一人の澤梓が、素直な気持ちを暴露する。
「ああ、もう」
自宅に戻った梓は、とめどない感情の応酬に耐え切れず、部屋の中でしゃがみこんで、立ち上がり、もう一度しゃがみこんで、また立ち上がる。本当に、私は何をやってるんだ。
今日で3回目の大きなため息をついて、梓はベッドに倒れ込んだ。窓から漏れる日差しは、今の梓にとっては、適度な睡眠欲を刺激するものへと変化していた。うん、練習まではまだまだ時間がある。少し寝てしまおう。
梓は目を閉じた。――否、戦車道で鍛えた精神力を発揮して、梓は起き上がる。枕元にある目覚まし時計を、午後の練習には十分間に合うような時刻に設定し、改めて目を閉じる。生真面目で慎重な、澤梓の真骨頂であった。
――また、あの夢を見るのかな。できれば、そうじゃなくて。夢の中でも、あの人に会えたら。意識が遠のく中で、梓はそんなことを考えている。数時間後には会えるのに。不思議だな。
「どうしよう……こんな気持ち……」
梓の唇から漏れた言葉は、甘い秘め事のような響きで。聖書の一節のような神聖さで。戦場に舞い散る花びらのような儚さで。
西住隊長が、西住みほさんが、好きです。皆のことが好きって気持ちとは、たぶん違うみたいなんです。
夢の中でも、きっと言えないんだろうな。