見慣れない光景だった。図書室に、彼女の姿。本を読むなんて似合わないな、どうせ漫画か何かじゃないのか、などと悪態の一つでもついてやろうか。
言いたいことをあれこれ考えている間にも、彼女から目を離すことができなかった。気付かれてしまってはまずい。でも、気付いて欲しいような気もする。純粋で軽薄な想いは、少女の信望する上品さをどうにも奪いがちであった。
「――マリー様、パンケーキのお味はいかがですか」
「そうね、とっても美味しいわ」
子供っぽい仕草と、何処か超然とした態度が奇跡的に同居しているようなマリーが満足気にしているのを見て、押田ルカはほっとしたように軽く息を吐いた。
昨日、エリック・ロメールのオムニバス作品『パリのランデブー』の第1話、『7時のランデブー』を観たというマリーが、
「私も『ダーム・タルティーヌ』で出しているような、可愛くてお洒落なパンケーキが食べたいの」
などと言い出したので、急遽用意させたものであった。押田にとって、マリーの存在は絶対的なものであって、彼女の望むものは出来る限り叶えなくてはならない、と心から思っている。先日の『無限軌道杯』においても、結果的には一回戦敗退に終わったとはいえ、あの大洗女子学園を追い込むほどの戦いを繰り広げることができたのは、やはりマリーという支柱あってのものであり、押田のマリーに対する忠誠心は、揺らぐどころかますますその純度を高めていく一方であったのだ。
「貴女もどう? 糖分足りてないのだから」
「いえ、私は……申し訳ありません」
改めて指摘されると、あの時の私は何と浅はかであったことか。そんなことを思い、押田はたまらず俯いた。自分の思い込みの激しさや、熱くなってしまうと冷静さを欠いてしまう性格は、先日の試合で嫌というほど再認識させられたばかりであったから。そう、
「面白いわねえ、押田って」
「そ、そうでしょうか」
「ええ」
押田の心をどのように分析したのか、それとも何一つとして気にしていないのか、眼前のパンケーキの甘さだけに心を奪われているのか、マリーの心の内を推し量ることなど、押田には到底出来るはずもなかった。
魅惑的でいて、やり過ぎない程度の甘い香りが鼻孔をくすぐるのを感じながら、白い生クリームがマリーの艶やかな唇に運ばれるのを、押田は何とはなしに眺めていた。それこそ、映画の一場面のようだ。そんな事を思いながら。
「甘い物を食べてると、しょっぱい物も食べたくなるわ。お煎餅とか」
「マリー様……最近、外部生の連中から悪い影響をお受けになっているのでは……」
「食べ物を差別するなんて、品性下劣な人間のやることよ」
「それはそうですが」
同じエスカレーター組の中でも、最も気高く咲いた華の如きマリーが、お煎餅などという単語を口にするだけでも、押田からすれば、どうにも複雑な気分に陥ってしまう。先程まで、勝手にイメージしていたフランス映画の趣が、パリジェンヌの幻想が台無しである。
とはいえ、当のマリーは校内の受験組とエスカレーター組の対立などには、一切の関心を示すことはない。だからこそ、BC自由学園戦車道チームの隊長職を務めるに相応しい存在である、とも言えるが。
「押田こそ、人のこと言えないのではなくて」
「え!? そ、そうでしょうか」
「あの子と喧嘩しているときの貴女、とても楽しそうよ」
「そ、それは」
それは心外です、とは押田は言いかけたが、何故か口にすることはできなかった。反論の余地がない、というよりは、反論してもこの人には勝てるはずもない、という気持ちが優ったということだろうと、押田なりに自己分析してみる。
「艶けしの金いろの髪が人目を引く彼女は――」
「? ええと……」
「バルザックよ。すぐに名前が出てこないようじゃ駄目ね。聖グロリアーナの誰かさんたちみたいに」
やっぱり糖分が足りてないせいかしらね、とマリーは付け加えた。勿論それは、マリー流のジョークであろう。それを分かっていても、自由気ままなお嬢様、といったイメージはマリーの一面でしかなく、並外れた知性と教養、身体能力の持ち主であることを押田はよく知っているので、糖分を摂取することはよっぽど大事なことなのかもしれない、などと悩み始めているのが最近の押田であった。
「あの子は、貴女よりも読書家よ。私の言うことにもちゃんと返してくれる」
「ほ、本当ですか」
あの子の成績だって、貴女より上じゃない。知ってるでしょ? 追い打ちをかけるようなマリーの言葉に、今後こそ止めを刺された押田であった。
「申し訳ありません」
再び俯いた押田に差し出されたのは、思いの外不揃いに切り分けられたパンケーキであった。食べなさい、という無言の圧力に従って、押田は思い切ってマリーからの贈り物を口にした。美味しい。驚くほどに。
そんな押田の姿を、マリーは満足気な……幼子が自分の成したことに対して大いに自慢げな態度を取っているかのような表情で、残り一口となった美しき糖分を、自らの口に勢いよく放り込んだ。
「ごちそうさま。……押田、貴女はバルザックが書いたモデスト・ミニヨンのように美しい金髪の才女になりなさいな」
「マリー様」
「そして、来年は私たちが勝つのよ」
「……はい!」
やはり、この人には敵わない。そう心底理解した押田の忠誠心のみが、際限なく高まるばかりであった。
――マリーにあんなことを言われてしまった以上、押田は居ても立っても居られず、図書室へと向かっていた。もっと勉強して、マリー様のお役に立たなくてはならない。悲壮な決意のもと、押田は図書室の扉を開けた――。
「ん? 何だ、押田君か。君も読書かい」
気付かれてしまった、と押田が思ったのも束の間、彼女は何を気にする風でもなく、再び読んでいた本へ視線を落とした。何故だか、少しだけ、ほんの少しだけ押田の胸の中に、慎ましやかな寂しさとでもいうべき影が揺れた。
それでも、何とか言葉を発してみる。少女特有の心の機微よりも、押田なりのプライドが優先された結果であった。
「と、図書室なんて似合わないな! 安藤君」