イタリア映画の歴史に残る伊達男、マルチェロ・マストロヤンニ演じるマリオが、短い夢のような恋に別れを告げ、哀愁漂う寂しげな背中を見せるラスト・シーン。イタリー風の大胆さ、良い意味での奔放さなどは全く感じさせない、白い雪に似た静寂と静謐が画面を覆っていく。ニーノ・ロータの美しい音楽が流れ、雪の道を歩くマリオに寄り添うように近付いてくる、一匹の犬の無邪気な愛らしさと共に、映画は終わりを告げた。
「……はぁ……」
画面に『Fine』の文字が映し出されたのと同時に、安斎千代美は誰にも気づかれないように、そっと吐息を漏らした。恋愛小説を嗜む千代美にとっては、恋愛をテーマにした映画も当然ながら大いに興味のある分野である。今日は、千代美の通うアンツィオ高校の映画研究会が開催した催しで、イタリアのクラシックな恋愛映画の特集が行われることを知り、勇んで足を運んだわけなのだが――。
「私には、まだ早かったかなあ」
大いなる実感と共に、千代美は独りごちた。散々主人公を振り回しておきながら、結局は以前愛した男へと走る女性の気持ちも、そんな女性に感謝の言葉を述べて、背中を押すような真似をする主人公の気持ちも、千代美にはどうにも理解ができなかった。
いや、分からないわけではないのだが、とにかく主人公が可哀想でならない、それくらいの感想しか抱けなかった自分は、きっとまだまだ子供なんだろうなと自己分析したまでのことである。オールセットで作られたという街並みの物悲しさ、閉塞感、そこから生じる美しさは何となく理解できたものの、ルキノ・ヴィスコンティの映画を理解し、心から楽しめるほど私は大人じゃないのだろうと、千代美は納得することにした。
「千代美ちゃん、もう帰り?」
呼び止められ、千代美は気を取り直して声のする方へと振り向いた。
「今から戦車道だよ」
「そっか、今度勉強見てね」
「いいよ」
「安斎先輩、今度出す屋台の件なんですけど」
「ああそれはね」
千代美が校内を歩けば、大抵誰かしらに声をかけられる。"安斎千代美"としての千代美は、級友にも後輩にも慕われる存在だ。成績優秀で面倒見が良く、優しくて責任感も強い。姐御肌でありつつも、強気な瞳には少女らしいイノセンスが宿り、その輝きは人を惹きつける魅力に溢れている。
「あーいたいた! ドゥーチェ!!」
「ドゥーチェ!!」
「……」
アンツィオ高校そのもの、といったような威勢のいい声に呼ばれ、千代美は小さなため息をついてから振り返った。
「お前らさあ、校内では大きな声を出すなと言ったろ」
「いやーすいません、急いでたもんで」
「姐さん、眼鏡なんかしてどうしたんすか」
「マント付けてないし」
「あのなあ」
ここで戦車道やってるわけじゃないだろ、と千代美は口にしながらも、何回同じような説明をしたのだろう、と心の中で自問していた。
イタリア人の国民性をカリカチュアライズしたような、陽気でノリの良い学生が集うアンツィオ高校ではあるが、校風に染まってはいるものの、実態としては割合に普通の生徒達が多い。その点、戦車道のメンバー達は、陽気ではあるけれど、
「アマレット、昨日頼んでおいた戦車の整備はどうなった?」
「昼飯食べてお腹いっぱいになったら、寝ちゃってました。だから、とりあえずドゥーチェに報告しよって」
「同じく」
「うんうん」
「ジェラート、パネトーネ……お前らなあ」
今度こそ、千代美は呆れたように大きなため息をついた。統帥(ドゥーチェ)などと呼ばれてはいても、戦車道メンバーが千代美に向けるものは、尊敬の眼差しというよりも、友達のような雰囲気漂う姉妹関係のそれである。そもそも弟が一人いる千代美であったが、戦車道の隊長としての千代美は、厄介な妹たちに囲まれた長女のような立場であった。
「まあ仕方ないか、早くやっとけよ」
「了解っす!」
「ほんと、しょうがないなあ……おい、廊下は走るなよ! 怪我したらどうする!」
了解っす、と言いながら
「ドゥーチェは甘いですね」
「わ、驚いた」
前触れなしの声に、千代美は大げさな仕草で驚きを示した。アンツィオ高校生徒らしからぬ、落ち着き払った声の持ち主は、戦車道メンバー副隊長のカルパッチョであった。
「すみませんドゥーチェ、私があとで叱っておきます」
「まあまあ、やればできるいい子達じゃないか」
「ドゥーチェ、いつもそう言ってあの子達を庇っているのだから」
「そうだっけ」
「そうです」
自覚のない千代美に、今度は逆にカルパッチョが呆れたような表情を浮かべた。
「皆、ドゥーチェが卒業することを分かってないと思うんです」
カルパッチョの言葉は、受験を控えた身ということを特に忘れていたわけではない千代美に、複雑な感情を生み出す一撃を与えた。それに気付いたのか、そうでもないのか、カルパッチョはその穏やかな瞳に、一抹の寂しさを揺らす。
「ドゥーチェがいなくなってしまったら、アンツィオ高校の戦車道は大丈夫なのかなって。とても心配です」
「カルパッチョも、あいつもいるから。あいつが頼りになるかどうかはさておき」
「でも……」
後輩達が、私たちにちゃんとついてきてくれるのかなって思うんです、そうカルパッチョは呟いた。本当に心配そうにしているカルパッチョを見て、千代美は複雑さを増した感情に対して、心からの微苦笑を差し出した。実は戦車道メンバーの後輩達が一番恐れているのは、怒ると誰よりも怖いカルパッチョなんだけどな。カルパッチョ以外は誰もが知っている事実を、千代美はあえて口にはしなかった。
自分が自分のことを一番分かっているわけじゃない、ということなのだろうか。
「ドゥーチェがアンツィオ高校に来てくれたから、私もこうして戦車道に携わっていられる。大好きな皆と、楽しくやれてます。だから、私は」
平日でも屋台が立ち並び、賑やかでない時間の方が珍しいアンツィオ高校であるはずなのに、二人の間に、ほんの僅かではあったが、感傷的な静寂が訪れた。あまり慣れているとは言えない瞬間から逃れるように、千代美は意味も無く窓に目をやった。
雪が降っていた。季節は冬、千代美にとっては、隊長として最後の戦車道大会になるであろう、『無期限軌道杯』の開催は、もう目の前であった。
千代美は、視線をカルパッチョに戻した。人目を引く美貌を持った金髪の少女は、千代美を見ている。ずっと見ていたようだった。
「そうだ、ドゥーチェが留年しちゃえばいいんだ」
「あのなあ、お前まであいつらみたいなこと言うなよ」
「そこはノリと勢いで」
どうあれ、カルパッチョも立派なアンツィオ高校戦車道のメンバーなのだった。
戦車道メンバーが待っているであろう、スペイン階段風階段のある場所へと向かう最中、千代美はカルパッチョとの会話と、先程鑑賞した映画のラストシーンを交互に思い出していた。別れというものは、どんなに取り繕ったところで寂しいものである。映画の主人公の彼は、別れた女性に何を残せたのか。女性は、何を彼に残してしまったのか。私は、皆に何を残せたのか。皆は、あいつは私に何を残してしまったのか。
答えは出ないが、とても寂しいことだけは嫌でも分かると千代美は思う。よく考えてみると、転勤で街にやって来て、知り合いのいない寂しさを抱えていた映画の主人公と、スカウトで全く縁のなかった土地にやってきた千代美は、割と似たような立場にあった。とはいえ、千代美はその大らかな性格もあって、苦労も心配も人一倍したとしても、絶望するようなことは一度たりともなかったのだ。それこそが安斎千代美という少女の美徳であり、ドゥーチェと呼ばれ、愛される所以であったのだ。
そもそも、私一人ではアンツィオ高校の戦車道を立て直すことなどはできなかった。それは、千代美の胸の中でいつも彼女を鼓舞する、宝物のような価値を持った想いであった。
カルパッチョがいて、あいつがいて。
私の名前を付けてくれた、最初に私を信じてくれたあいつがいたから。
「姐さーん!! アンチョビ姐さーん!! もう全員集まってますよー!! 早く終わらせて鉄板ナポリタン食べましょうよー!!」
あいつの叫び声に、皆がそうしましょう、それがいいっすね! などと同調する。カルパッチョですら、楽しそうにドゥーチェ・コールを始める始末だ。
千代美――アンチョビは、寂しさとそれに似たような優しさと、ささやかで特別な感情を胸にしまって、威勢よく黒いマントを翻した。
「よーし、お前らよく聞け!!」
「アンチョビ姐さん、カッコいいっす! 今日もウィッグ決まってますね!」
「地毛だって言ってるだろ、ペパロニ」