美濃にある斎藤家の本拠である稲葉山。その城にて、当主である道三は息子である義龍が謀反を起こしたとの報を受けた。
道三は評定を開くこともなく出陣を決意したのだった。
「道三様!敵は優に2万を超えます!対する我が方は3千程、ここは籠城すべきです!この稲葉山城は難攻不落の堅城、そう簡単には落ちません!!」
「ならん、ここは打って出る」
取り巻く者達の中心にいる剃髪した頭の老齢の男――斎藤道三は家臣らの提案を一蹴し鎧具足を身に纏い、城の外へと出る。
「道三様」
「光秀か」
同じように鎧具足を身に纏った光秀が道三に歩み寄る。
「籠城しないのは信奈様のことを想ってのことなのですね。仮に籠城すれば、道三様をお慕いしている信奈様が援軍を送ってしまう可能性がある。そうなれば、無防備な尾張は今川に蹂躙されてしまう。だから…」
「…そんなことではない。ただ、裏切り者である義龍をこの手で討ち取りたいだけよ。光秀お前は城を守っていろ」
「!?そんな…。私もお供します!」
告げられた内容が納得できず食い下がる光秀。
「ならん。これは命令だ」
「そのような命は聞けません!私は…」
「ならば、失せよ。言うことを聞けぬ者等いらん。部下共々どこへなりとも行くがよい」
そう言い放ち騎乗すると、道三は光秀を置いて他の部下の元へ行こうとする。
「道三様!」
「…お前は生きよ、その才はこんなところで朽ちて良いものではないわ」
駆け寄ろうとする光秀に。道三は振り返えらずに、言い放つ。だが、その声音は彼女を想いやる優しさを帯びていた。
そんな『父』に、光秀は思わず涙を零しそうになる。
「出陣!」
道三が号令と同時に馬を走らせると、部下らがそれに続いて城から出ていく。それを光秀はただ見ていることしかできなかった。
「光秀様…」
「ああ、分かっている」
光秀は涙を拭うと、部下が連れてきた愛馬に跨る。
「尾張へ向かう。まだ、諦めるには早い」
下知を飛ばすと、馬を走らせる光秀。絶望を覆すため、最後まで足掻くために。
清州城城主の間。斎藤家で起きた謀反と今川侵攻の報を受け、当主である信奈以下重臣らが集結していた。
「信奈様。お分かりかと思いますが」
「ええ。美濃に援軍を送る余力がない以上、蝮は見捨てるしかないわ」
信盛の言葉に、信奈は至って平然と答える。――が親しい者達には分かっていた。父親のように慕っていた道三、それに自分の理解者であり友である光秀を見捨てることに、彼女が心を痛めていないことを。ただ、当主として感情を殺し己の責務を果たそうとしているのだ。それは、信盛も理解していたが、筆頭家老という立場上自国を最優先で行動しなければならないのだ。
勝家や利家は、縋るように信奈の側に控えている翔翼に視線を向ける。
これまでも似たような事態があり、その度信奈は当主として非情になろうとしたが、全て彼の機転で最悪の事態は避けられたのだ。今回も彼なら信奈を救えるのではないかと、期待を寄せていた。
「……」
だが、翔翼は評定が始まってからというもの、腕を組んで目を伏せ沈黙したままであった。
そんな中、城番の者が慌てた様子で入ってきた。
「申し上げます!斎藤家より使者が参りました!」
「通しなさい」
信奈がそう告げると、城番が下がり。暫しして光秀が姿を現した。友である彼女の無事な姿を見た信長が、一瞬表情を綻ばすも、すぐに引き締め直す。
翔翼以外の織田家臣の視線を浴びながら、彼女は信奈の元まで歩み寄る。美濃から休むことなく馬を走らせたのだろう、疲労を隠しきれていないも、その足取りは強い決意を感じさせた。
光秀は信奈の前まで進むと、伏して一礼する。対する信奈の視線は冷徹さを帯びていた。
「来てもらって悪いけど、今川が本気で攻めてきた以上援軍は出せないわよ」
「無理難題であることは承知しております。ですが…」
伏したままの光秀の体が僅かにだが震えていく。
「お願いします。道三様を、
頭を畳に擦りつけながら願い出る光秀。その声は徐々に掠れていき、流れ出た涙が畳を濡らす。
「――!」
そんな光秀の姿に、信奈は抑えていた感情があふれ出そうになる。それでも彼女は歯を食いしばり抑え込もうとする。自分は織田家の当主、守るべきは己の家臣と領民、そう言い聞かせるが。同時に父のように慕う道三と、親友である光秀を救いたいという少女としての織田信奈が助けに行くべきと叫んでいた。
相反する二つの感情に飲まれそうになり、目の前が真っ暗に――
「諦めるな」
静まり返っていた室内に、その声は透き通るように響いた。
まるで引き戻されるように、意識がハッキリとした信奈が声の元へ視線を送ると。今まで沈黙していた翔翼が伏せていた目を開けて彼女を見ていた。
「翔?」
ポカンとした信奈が無意識に声を漏らす。そんな彼女を見て、翔翼は珍しいものを見たと言いたそうな顔をしていた。
「大空氏」
その場にいる者達の視線が翔翼に集中している中。どこからともなく、五右衛門が彼の後ろに跪きながら姿を現した。
「首尾は?」
「すべてご指示通りに」
振り返りながら立ち上がった翔翼に、五右衛門は懐から取り出した書状を差し出す。
それに目を通した翔翼は、口元を僅かに吊り上げると信奈に向き直る。
「信奈、お前は道三のオッサンを助けに行ってこい。その間今川は俺が抑える」
告げられた内容に理解が追い付かず、信奈は思わずは?と間抜けな声を出してしまった。五右衛門を除く他の者達も唖然としてしまっていた。
「待ちなさい翔翼。あなたの手勢は五十程度。前線の兵を合わせても千足らずなのですよ!?」
いち早く理解した長秀が、声を荒げながら翔翼に詰め寄る。
「まともに相手なんぞするか。小細工で時間を稼ぐだけだ」
「小細工?あなた何を「それは僕さ!!!」」
長秀の言葉を遮るように襖がパァン!と豪快に開かれると、信奈によく似た顔立ちの少年が姿を現した。
「信澄!?」
その少年を見た信長驚愕の声を上げる。現れたのは津田信澄。信奈の実の弟であり、かつては織田信勝と名乗っていたが。尾張を統一前の頃に、信奈に反発した者達に担ぎ出されて謀反を起こした過去があり。敗北した彼は打ち首にされかけるも、翔翼の機転で織田家の分家である津田家に身を移し、ついでに名も変えることで許されたのである。
信奈としては軍事の才がない弟を戦に出す気がなかったので、この場に呼んでいなかったのである。
「あんた信澄に何やらせる気よ!?」
溺愛する弟を戦に巻き込もうとする翔翼に、信奈が興奮した様子で詰め寄る。
「時が来たら、今川に寝返ると偽りの書状を書いてもらっただけだ」
「ええ!?今度信奈様に逆らったら、打ち首になるって言ったじゃないですか信澄様!!」
「偽りって言ってたよね!話聞いてた!?」
両肩を掴んで激しく揺さぶる勝家に、全力でツッコミを入れる信澄。
「それを今川義元の側近に送ってな、今返事が届いたのだ。どうやら向こうは信じてくれたらしい」
信奈は渡された書状に目を通す。確かに寝返りが上手くいった際は、相応の報酬を与える旨書かれていた。
「信奈様に相談も無しに、それだけのことをしたのですか?」
「すまんと思ったが、言っても反対されそうだったんでな。悠長にやっている刻がなかったのだ、流石にもうやらんよ」
咎めるような長秀の視線に、両手を上げて反省の色を示す翔翼。
「それで、どうなるの?」
「寝返りの内容は、頃合いを見てここ清州城を乗っ取り今川に差し出すってな。本拠であるこの城を無傷同然で手に入るのだ。――つまり、向こうはこの戦は勝ったも同然と考えて、可能な限り損害を出さないよう慎重に動くだろう」
疑問符を浮かべている利家に、翔翼が己の策を説明する。
「確かに進軍速度は多少は落ちるだろうが、それでも焼け石に水だろ」
「狙いはそこではない可成。この策の鍵は敵先鋒の松平家だ」
松平家とは織田領の尾張と、今川領の遠江の間にある三河を治める大名家である。現在は今川家に従属しており今回の尾張侵攻では先鋒の一翼を担っていた。
「松平家を味方につけると?それは流石に…」
「無理だろうな。当主の元康は危ない橋は渡らないからな。要は敵でなければいいのだ」
「中立、ですか。確か君と信奈様は元康殿は親交があるのでしたね」
思い出したように言う信盛に頷く翔翼。
「ああ、彼女が織田家に人質としていた時にな。俺のことを覚えてくれていたら、話くらいは聞いてくれるかもしれん。とは言っても、一度くらいは矛を交わらせる必要はあるが、それくらいなら耐えられるさ。それで松平家が足踏みしてくれれば、今川家も足を止めざるを得まい」
「松平家を無視して進むんじゃないか?」
「それはないだろうな」
「何でさ?」
断言する翔翼に、勝家は首を傾げる。
「今川が松平を従属させているのは、三河兵は精強であり家臣団の団結が強いからだ、力づくで支配しようとすると痛手を被るからな。だから松平家を矢面に立たせることで消耗させ、三河を併合できれば良し、そうでなくとも今まで以上に縛りつけやすくなる。今川としてはいいこと尽くしという訳だ。元康もそのことは気づいているだろうから、こちらの誘いに乗る可能性は低くはなかろう」
「それは我々に勝算があれば、の話でしょう。信奈様、この際なのでお聞きしたいのですが、どうなのでしょうか?」
半信半疑といった様子で聞いていた信盛が、信奈に問いかける。すると、翔翼以外の者達の視線が彼女に集まる。それこそが、誰もが知りたがっていることなのだ。
「ええ、私に従えば必ず今川に勝てるわ」
その視線を前に信奈は、迷うことなく言い放った。
「分かりました。ならば、もう僕から言うことはありません。全てをあなた達に賭けましょう。勝家もそれでよろしいですか?」
「ああ、あたしは元からそのつもりだ」
信盛の問いに、勝家は力強く頷いた。筆頭家老の2人が従う以上、他の者達も反論する気はないようであった。
「さて、後はお前次第だ信奈。俺に賭けてみるか、損はさせんぞ」
自信満々に言い放つ翔翼に、信奈は思わず笑みを零す。
「いいわ、あんたに全賭けしてあげる。出陣よ!蝮を助けにいくわ!!」
ハッ!と応じると家臣らが慌ただしく動き始める。
「zzz」
「って一益目を開けたまま寝てるぞ!?」
「どうりで静かだと思ったら…」
「俺が話し始めたくらいから寝始めてたぞ」
「起こせ!起こせ!」
別の意味で慌ただしくなる勝家らを愉快そうに見ると、翔翼は光秀に声をかける。
「お前は休んでいろ。後は俺達でどうにかする」
「いえ、私にもお手伝いさせて下さい。私の隊は鉄砲の扱いに長けています、必ずお役に立ちますから」
「だそうだが信奈」
「いいわ。なら、翔に着いて行きなさい」
どうする?という視線を投げかけると、信奈は悩むことなく答える。
「いいのか?」
「蝮を助け出すくらい私達で十分よ。それよりあんたの方が人手がいるでしょ」
「まあ、鉄砲を使える奴が増えるのはありがたいが」
「じゃあ決まりね。光秀も翔と一緒の方がいいでしょう?」
「ふぇ!?そ、そんなことは…!」
予想外の言葉に顔を赤くしあたふたしだす友に、満足そうな笑みを浮かべる信奈。
「じゃあ、行くわ。2人とも死ぬんじゃないわよ」
「ああ、また後でな」
互いに笑みを浮かべると、信奈は評定場を後にしようとする。
「…ありがとう」
翔翼とすれ違う際に、彼だけに聞こえる大きさで照れくさそうに告げると、そのまま出ていく信奈。
素直じゃない主君の言葉に、満足そうな様子の翔翼。
「では、俺達も行くとしようか」
「はい!」
どこか嬉しそうに後を着いてくる光秀を連れて、翔翼も評定場を後にするのであった。