ようこそ才能至上主義の教室へ   作:ディメラ

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ここら辺は原作が最高すぎるから是非読んで欲しい。


軽井沢恵

 

 

 

 

 

 時間は、龍園がXを呼び出す数時間前に遡る。

 椎名と伊吹は何事もなく図書館に到着した。

 今日は終業式であるため部活動はない。学校側からも理由がなければすぐに帰宅するように説明をされたが、大の本好きである椎名ひよりは図書館に向かうことを決めていた。

 終業式なだけで、学校内で利用できる場所は大抵空いている。

 空いているならば、図書館ほど静かに読書を楽しめる場所に椎名が行かない理由はなかった。

 

「今日は私のお誘いに乗ってくれてありがとうございます、伊吹さん」

 

「……別に感謝しなくていい。いつも断ってばっかで悪いから来ただけ。それに、私この後予定あるから1時間くらいしか付き合えないよ」

 

 刺々しい物言いの伊吹に椎名は楽しそうに笑う。

 

「それでも私、嬉しいんです。今日を機に伊吹さんも読書に興味を持ってくれればなぁと思ってます」

 

「私は読書に興味なんて……」

 

 もたない、そう続けようとした伊吹だったが、椎名の悲しい表情を見てその先を言いづらくなる。

 

「……まぁ、1冊くらいは読むわよ」

 

 結局、折れてしまう伊吹。

 普段は疎か、人生で本を読むなんてこと片手で数えるくらいしかしていない。

 集中力が続くかどうか、伊吹は不安で仕方なかった。

 加えて、伊吹はこの後予定がある。

 今朝、下駄箱に入っていた1枚の手紙。

 高そうな便箋に包まれ、ハートのシールが貼ってあったそれによって指定された場所と時間に呼びだされていた。

 それを見つけた時、そして内容を見た時に伊吹は驚愕した。

 なにせ、それは恋文だ。

 

(呼び出されるような出来事が起こるって言ってたけど、まさかこんな形とはね)

 

 差出人はAクラスの橋本正義。全く関わりのない相手だが、一目惚れしたという理由で呼び出したようだ。

 カムクラの忠告がなければ、伊吹は多少疑いこそすれど何の想定もなしに呼び出しに応じていたかもしれない。

 

(一目惚れね。私、そんなプロポーション良くないんだけどな)

 

 自分に一目惚れしたという理由が気になった。

 伊吹は自分の容姿に自信がある訳では無い。

 顔はそれなりに整っている自覚はあれど、人を睨んでいるような細い目から怖がられることが多い。身長も身体付きも平均的、一目惚れしたと言うならどこにしたと疑問を持っていた。

 

(……罠なんだよな。X……綾小路による)

 

 昨日、カムクラから今日の自分の役目を全て聞いた。

 Xの正体、綾小路の策に乗っかること、その上で自分は囮として犠牲になること。

 最終的な立ち回りが無人島試験のような立ち回りなので、少し懐かしく感じていた。

 同時に、今回はカムクラが事前に計画を教えてくれたことが信頼の受け渡しのようで非常に嬉しく思っていた。

 

(こういう役目は男の石崎にやらせろ……って思うけど、馬鹿なアイツじゃ無理か)

 

 石崎では、咄嗟の判断に向かない。

 アルベルトもまた囮になるタイプではない

 ならば適任は自分しかいないと自覚する。

 

「これなんてどうですか? アガサ・クリスティ著の『そして誰もいなくなった』! 名作です!! 世界中で発売されているベストセラーで読みやすくてオススメです!!」

 

 思考していると、椎名が一冊の本を持ってセールスマン顔負けの怒涛の言葉責めをしてきた。

 あまりに唐突すぎた行動に伊吹は興奮気味の椎名に押し負け、その本を受け取ってしまう。

 

「……分かった。なら、それを読んでみるよ」

 

 本に全く興味のない伊吹は椎名が熱烈に推す本を知らない。

 加えてカムクラに勉強を教わるまで、活字のみの本を見ることすら無理だった彼女は未だ気が乗らない。

 だが、偶には新しいことをやってみるかと気分転換も兼ねて適当な席に座って1ページ目を開いた。

 呼び出しまでの時間潰しくらいにはなるかと思いながら登場人物をざっと見て本編を読んでいく。

 そして数十分経つと、

 

(存外、面白いものね)

 

 意外にも読み込んでいた。

 カムクラの教育によって、文章を読むことへの不快感が消えたことと集中して文を読めるようになったことが主な理由だ。

 当然、伊吹はそんなことを知りもせず、自分がさらに賢くなったと自画自賛しながら、まだまだ浅い推理をしながらさらに読み進める。

 そしてそれを続けてあっという間に時間が経過した。

 

「……もう時間か」

 

 思った以上に没頭した伊吹だったが、幸運にも約束の時間には間に合う頃合に集中力が途切れた。

 伊吹は読んだところまで栞を挟み、携帯だけを持って立ち上がる。

 対面に座っている椎名に荷物を見ておくように頼んだ後、伊吹は指定場所の特別棟に向かう。

 道中、Xからの監視や刺客が来ないか警戒していたが、それも杞憂のまま終わった。

 特別棟は一学期に龍園たちが須藤を利用して起こした事件の現場。

 伊吹はあれから随分と時間がたったなと懐かしい思いに駆られる。

 が、すぐに龍園のむちゃくちゃな行動にハラハラとしていたことを思い出し、腹を立てる。

 少しは変わったと思われていた龍園だが、伊吹の中では評価はやや低いままだった。

 

「ここが指定した場所か。……誰もいないじゃん」

 

 指定された場所は使われていない特別棟の一教室。

 教室内は清掃が行き届いてはいるが、椅子や机も後方で積まれているものが数台ずつしかなく、告白する場所としては魅力的な雰囲気がない。

 扉を開けっ放しにして室内をジロジロと見回した後に、伊吹はつまらなそうに告げた。

 

「0点ね。来て損したかな」

 

 

「厳しい評価だな」

 

 

 独り言に返事があった。

 伊吹は警戒して声の方向を振り返る。

 

「あ、あんた!?」

 

 差出人、橋本正義の姿はなかった。

 あったのは────ホワイトルームの最高傑作、綾小路清隆。

 瞳に何の感情も映さない怪物が伊吹の開けた扉から教室に入ってきていた。

 

「……なんであんたがここにいるわけ?」

 

 伊吹は動揺を隠し、低い声を出す。

 ここは正念場。

 決して、こちらが綾小路の策を知っている(・・・・・・・・・・・・)と思われてはならない。

 もし伊吹が計画を知っていると分かれば、綾小路が誘導されていることを考慮し、軽井沢を切り捨てる可能性があるからだ。

 

「なんで? それは俺がお前に手紙を送ったからだ」

 

 慎重に、慎重に。

 一挙一動を観察するように綾小路から視線を外さない。

 そうすれば、1つ気がかりなことに気づく。

 綾小路の両手に軍手のような手袋が身につけられていることだ。

 

「でも差出人の名前には橋本の名前があったはずだけど?」

 

「鈍いな伊吹。まさか何も警戒せずに来るとは……こちらとしても想定外だ」

 

 煽られたことに反応しそうになる伊吹。

 以前会った時の綾小路とは違って貶すような口調に戸惑うが、それ以上に怒りが脳に現れる。

 だが、何とか堪えて1度心を落ち着かせる。

 

「あんなものはブラフだ。お前をここに呼び出すためのな」

 

「……あっそ。で、何のようなわけ? ちなみに言うけど、もしこれから告白するってんならNOの答えを突き返してやるけど?」

 

「生憎だが、その冗談に付き合ってもいられる時間はなくてな。オレにはやることが山積みなんだ」

 

「……一体何の話をしているのあんた? それに私を煽るってことはさ、覚悟出来ているわけ?」

 

 惚けた振りを続ける伊吹。

 だが伊吹に芝居の才能はないため、鋭い目付きは隠せない。

 感情は丸わかりだ。

 

「まだ俺がどうして今ここにいるのか分からないのか伊吹? 

 なら、答え合わせをしてやる」

 

 綾小路は淡々と言葉を告げていく。

 鉄仮面のような無表情は伊吹を見ているようで見ていない。まるで舞台装置の確認作業をするように瞳は光を映さない。

 

 

「────オレがXだ」

 

 

 その雰囲気は以前一緒に占いをした綾小路のものではなかった。

 龍園に似た肌を刺すような攻撃的な雰囲気、それも別格のものを放っている。

 しかし、伊吹は全く堪えず笑った。

 

「へぇ〜、あんたが。龍園より私の方が先に出会えちゃうとはね。

 あいつはあんたに会いたくて会いたくて仕方ないってのに」

 

 伊吹は綾小路が嘘を言っていないと確信する。

 雰囲気、状況、発言と様々な要素からそう判断した。

 無人島試験、占いと何度か話した仲でお人好しのイメージが定着していたが、それは伊吹の頭の中から吹き飛んだ。

 

「その龍園も今日潰すぞ。そして伊吹、お前はその計画の要だ。悪いが拘束させてもらう」

 

 拘束。

 その言葉を聞いてすぐに伊吹は膝を軽く曲げ、つま先立って戦闘態勢に移行する。

 

「何だか知らないけどさ、やれるものならやってみるんだな!」

 

 この場は特別棟。かつて龍園が事件を起こした場所。

 そしてなぜ事件を起こしたか、それは監視カメラが存在しない場所だからだ。

 だから、伊吹は証拠が残らないことを理解していた。

 足に力を込めて地面を蹴る。

 一直線に棒立ちの綾小路へと向かっていく。

 カムクラ曰く、それなりに強いと聞いていた綾小路相手に確実な先手を取れた。

 その事実に伊吹はほくそ笑む。

 構えることもせずに伊吹の突撃を待っているだけがその証拠だった。

 伊吹は左足を軸に首元へ必殺の回し蹴りを振るう。

 しかし、

 

「言っただろ。時間がないんだ」

 

 顔面の寸前まで迫った踵は時間が止まったように静止した。

 伊吹は驚きを隠せなかった。

 勝てないと忠告されていたとは言え、綾小路が全力の回し蹴りを容易に掴んだという実力差の露呈。

 構えもせず、ただの反射神経だけで必殺の蹴りを完璧に受け止められたことに伊吹は理解が遅れた。

 

「なっ!?」

 

 綾小路は伊吹の足首を払うように投げる。

 当然、体勢を崩した伊吹だが、身体を地面に回転させて受け身をとる。

 ダメージを最小に抑えれば次は攻撃。

 伊吹はもう一度綾小路に突撃するために向き合おうとする。

 しかし、体勢を整えた一瞬で綾小路は伊吹との距離を詰め、その細首を掴む。

 

「グッ!?」

 

 そしてそのまま床へと背中を叩きつけた。

 あまりのダメージに伊吹の意識はもがれ、ピクリとも動かなくなる。

 

「さて」

 

 首から手を放した綾小路は伊吹を教室後方に移動させ、積まれている机を背中にして内股で座らせた。

 次に制服からポケットティッシュを取りだし、証拠になりそうなものを片っ端から拭き取っていく。

 その次は伊吹のブレザーを脱がす。

 伊吹の両手を背中に回し、脱がしたブレザーと机の脚を手錠のように手首に巻いた後、リボンを外してワイシャツの第二ボタンまで開ける。

 胸と下着が薄らと見えるように調整すれば、最後にリボンをスカートの上に置いて放置だ。

 その後、綾小路は手袋を外し携帯を操作した。

 ワンコールで通話相手は応答する。

 

「準備は出来た。そっちはどうだ?」

 

「まだ自室から出てないようですよ。真澄さんはきっと退屈そうに見張っているでしょう」

 

「そっちは任せる。橋本は好きにして構わない」

 

「はい。フフ、橋本くんのコウモリ気質な性格は楽しみの一つだったのですが、あなたとの勝負と比べれば彼の処理なんて容易い選択です。

 ────約束、守ってくださいね」

 

「お前が計画通りに事を進めればこちらも約束を守るさ」

 

 綾小路はそれだけ言って通話を切った。

 ポケットにしまう前にはだけた伊吹の写真を一枚とれば、綾小路のやることは終了する。

 そのまますぐに特別棟を抜け出し、担任である茶柱の元へと向かった。

 

 

 

 ──────────

 

 

 

 

 ポタリ、ポタリと髪から滴り落ちる水滴。

 制服に、下着に、床に。びしょびしょになったそれらに含まれる水は湿りを持たせて軽井沢恵の体温を奪い続けている。

 畳みかけるように冬本番の寒さが風に乗って肌を刺激する。

 既に4度目のバケツがひっくり返されていた。

 

(どうして虐められているんだろう。……なんであたしは生きているんだろう。何が……いけなかったんだろう)

 

 崩れるように床に座り込む軽井沢は身体だけでなく心まで冷え込み始めていた。

 自責の念に駆られ、心の奥底に大きな闇が顔を覗かせていた。

 

「なあ、いい加減に楽になれよ軽井沢。この地獄をまだ続けたいのか」

 

 虚ろな瞳に映るはこの原因を作った張本人、龍園翔。

 龍園はこの状況を楽しむように軽井沢の自白を迫っていた。

 

「まぁ、最後の『希望』ってのは簡単に捨てられねぇよな。ここでXの正体を明かせば、守ってもらえる可能性すら消えちまう」

 

 仮に今すぐX、綾小路の正体を軽井沢がバラせば、この場から解放されることは間違いない。

 しかしそれは一時的。決して恒久の救いではない。

 軽井沢恵がXに対する貴重な手がかかりであることは変わらない。

 ゆえに、龍園が再度脅してこない保証なんてなかった。

 この場が袋小路であることを軽井沢は誰よりも理解していた。

 そしてこの現状を変えることが己の力だけで出来ないことをとうの昔に知っているからこそ、軽井沢は希望を抱き続けるしかなかった。

 

「昔のお前に戻りたいのか?」

 

 絶対に嫌だ、そう心の中で軽井沢は否定する。

 

「俺は敵対する者に容赦しない」

 

 恐怖が押し寄せてくる。

 

「お前がXの正体を教えないなら明日にはお前の本性が学校中に広まっている」

 

 心の悲鳴が身体に伝わってくる。

 

「そうなればクラス上位に君臨していたお前は消える」

 

 動悸が恐怖をさらに助長させる。

 

「また戻っちまうんだよ。惨めに虐められていた自分に」

 

 砕け散った心がさらに細かく、かつ丁寧に潰されていく。

 

「……い、やだぁ」

 

「だったら楽になれ。Xは誰だ?」

 

「お、ねがい。……ゆる、して」

 

 嗚咽交じりの声に龍園は笑みで返す。

 

「ああ、許すさ。Xの正体を言えば、どんなことだって許してやる」

 

 軽井沢は嫌でも思い出す。

 あの屈辱の日々を。光から闇に落ちた時の絶望感を。

 些細な出来事から始まった地獄の日々が一つ一つ、鮮明に思い出されていく。

 

 閉じていたはずの記憶(・・・・・・・・・・・)が徐々に蘇る。

 

「……うぁ、あぁ」

 

「まだ素直に吐かないか。なら、少しばかり真実を教えてやる」

 

 龍園は膝を曲げ、軽井沢と目線を合わせる。

 

「……しん、じつ?」

 

「随分とXを信頼しているようだが。Xはお前の思っているような奴ではないということだ」

 

 龍園の顔から笑みが消える。

 

「真鍋は諸藤の復讐のためにお前を虐めるつもりだったが、その機会は得られていなかった。お前を人気のない場所に呼んでもお前は無視をしてこないだろうからな。

 だが船上試験終了後、お前は真鍋の呼び出しに応じた。それはなぜだ?」

 

「それ、は……」

 

 船上試験終了後の二度目のトラブル、軽井沢が真鍋の呼び出しに応じたわけではない。

 軽井沢は彼氏である平田洋介によって人気の少ない場所に呼ばれたのだ。

 そこに真鍋たちがやって来た。

 

「ぐう、ぜん?」

 

「なわけあるか。広い船内で四六時中お前を付け回すなんて不可能だ。

 なら答えは一つ。真鍋が現れたのは偶然ではなく、必然ということだ」

 

 精神的に限界な軽井沢にとっては受け入れるのに時間が必要な情報だった。

 彼氏である平田が軽井沢を騙して呼び出した? 

 その疑問が、責任を押し付けるための方便として浮かんだ。

 だが、実際は違った。

 

「仕組んだのはXだ。奴は密かに真鍋に接触し、お前を誘い出す手引きをしたんだ。

 その理由はお前という駒が欲しかったから。そのために奴はお前を意図的に虐めさせその現場の証拠を押さえた」

 

 龍園は一つ一つ答え合わせをするように真実を軽井沢に教えていく。

 

「陥れられ、駒として利用され、最終的には自分の手がかりになるという理由で切り捨てられる」

 

「……すて、られて、ない」

 

「現実を見ろ軽井沢。捨てられてなかったら、なぜ今Xはこの場に来ない。

 どうしてXはお前を助けようとしないんだ?」

 

「そんな、そんなのっ……」

 

 心が揺らぐ。軽井沢恵はXに利用されるだけされて裏切られた。

 その事実が闇となって心を蝕んでいく。

 絶望が這い上がり、怒りがふつふつと湧き上がる。

 

「哀れな女だ。結局、お前はどう足掻いても以前から抜け出せない。

 過去の虐めも、今の真鍋とXからの虐めも、そして未来の虐めもな」

 

 唇がかすかに震える軽井沢。

 恐怖が、後悔が、絶望が。

 荒波のように押し寄せてくることに身体が拒絶反応を起こす。

 

「助かる方法は一つだけあるぜ」

 

 その方法はXの名前を告げること。

 助かりたい、過去に戻りたくない。

 軽井沢の心内はそう叫んでいる。

 

「……っ」

 

「ゆっくりでいい。そいつの名前を言え」

 

 寒さと恐怖によって軽井沢の声は掠れる。

 心の声を振り絞るかのように一言を告げた。

 

「────た……」

 

「た?」

 

「た……か……」

 

 龍園はそのキーワードに満足そうに微笑む。

 それが求めていた答えだと確信して。

 

「もう一度。ゆっくり話せ」

 

「何度……」

 

 軽井沢の震えが止まった。

 俯いていた顔を上げ、表情をのぞき込んでいた龍園と視線を合わせる。

 そして、

 

「何度聞かれても……ぜっ『た』いに、言わない……『か』ら……」

 

 龍園から余裕の表情が消えた。

 

「たとえ、明日からあたしの居場所が、ここに、この学校になくなってしまうとしても苦しめられ続けるとしても……名前は、絶対に言わない……」

 

 屋上に沈黙が広がる。

 龍園はこの予想外の言葉に面食らっていた。

 絶望を前にして人は本性を現す。

 たった一つの、己が救われるという希望の前にはどんな義理も情も意味をなさない。

 だが、軽井沢恵はその常識を打ち破った。

 

「クク、そうか。……本当に惜しいな。

 お前もどうしようもない絶望を前にしても希望を捨てない人間ってわけか」

 

 龍園は今度こそ本当に軽井沢恵を認める。

 その精神の強さに敬意を抱いた。

 龍園は知っている。

 絶望と恐怖に抗うことがどれだけ難しいかを。

 虐められ続けてきた人一倍弱い女がそれを、その困難を突破したことに感服してしまった。

 

「訊くが、なぜXを庇うんだ? Xはお前を都合の良い駒としか思っていないぜ」

 

 軽井沢は歯を食いしばって答える。

 

「あたしにも、最後まで格好つけたいことはある……!」

 

「大したもんだぜ本当に。……おい、カムクラ」

 

 龍園は今の今まで黙っていた怪物の名前を呼ぶ。

 カムクラは指示に従うために龍園の横まで移動した。

 

「────あの気配を出せ」

 

 カムクラはその意味を正しく理解する。

 あの気配、それは龍園が知っている最も大きな絶望のことだ。

 すなわち、超高校級の絶望の才能。

 

「あれに耐えられたら軽井沢は本物だ。

 もし耐えられたなら、これ以上苦痛も絶望も与えず止めを刺す」

 

「真実を言うのですか?」

 

いいや(・・・)、慈悲深く終わらせてやる」

 

 龍園はその言葉を最後に数歩下がる。

 その際、会話を理解していなかった石崎の首根っこを掴み、乱暴に転ばせた。

 龍園さん何を、と石崎は告げるが、龍園は視線で黙らせる。

 それは龍園なりの配慮だった。

 

 

 ────絶望が形を成す。

 

 

 殺意や狂気、様々な悪感情を煮詰めたような悍ましい気配。

 少なくとも、それは人間から発生していいものではない。

 

「……相変わらずだな」

 

 龍園は固唾を飲み込む。

 この雰囲気には慣れたつもりだったが、自らの背を流れる冷や汗によって自惚れだったことに気付く。

 転んだ石崎もがくがくと膝を震わせている。

 

「……うぁあ、あ」

 

 怯んだ軽井沢にカムクラはゆっくりと近づいていく。

 ゆらゆらと黒一色の長髪が波打つように揺れている。

 軽井沢には、その髪の一本一本が地獄への手招きに見えた。

 冷え切っていた体と心ですら拒絶反応を起こす何か。

 軽井沢は吐き気を催しながらも、両手を器用に使って全力で後退する。

 大抵の虐めを体験してきた軽井沢でも、あれに関わればもう後戻りできないと本能が告げていた。

 

「こ、来ないで!」

 

 先程まで声を発する事すら困難だった軽井沢からはっきりと拒絶が表される。

 考える時間を与えないようにカムクラは一歩近づく。

 軽井沢も距離を保つために逃げるが、とうとう落下防止の柵に手がぶつかる。

 すなわち、もう逃げ場はない。

 

 さらに一歩近づく。

 

「……あ……はっ」

 

 さらに一歩。

 

「……あたしは!!」

 

 もう一歩。

 鼓舞するように声を張るが、カムクラと目が合えばそれもすぐに引っ込んでしまう。

 

「……あ、あたしは」

 

 最後の一歩。

 怪物の手は軽井沢に届く距離に到着した。

 

「助けましょうか?」

 

 感情が映らないはずの赤い瞳が意思を持って軽井沢を見下ろす。

 

「僕の手を取るなら、今後あなたに関わる全ての障害を僕が消してあげても構いません」

 

 反響するはずがない小さく冷めた声が耳の中を山彦のように駆け抜けていく。

 得体のしれない未知の恐怖が軽井沢の全身に伝わってくる。

 

「あなた自身で選びなさい」

 

 片膝をつき片手を差し伸べたカムクラの選択肢。

 手を取って解放される希望か、手を拒んで追い詰められる絶望か。

 震えた手が勝手に上がっていく。

 追い詰められた人間は無意識に、被害が少ない選択肢を掴みたくなる。

 ゆっくりと伸びていく軽井沢の腕。

 あまりに美しい指先を包もうと震えた手を広げる。

 

 だが────その手は掴む寸前に叩かれた。

 

 甲高い音はならない。

 ただ手と手が接触しただけ。

 しかし、それは明確な拒絶だ。

 

「……あたしは、言わない。なにをされて、も、……えっ?」

 

 軽井沢だけが見えるカムクラの表情。

 一矢報いるために強い言葉を言い放っているつもりだった軽井沢は呆気に取られた。

 そして、

 

 

「そんな状態になっても、あなたは誰かを守ろうとするのですね」

 

 

 カムクラはそう懐かしむように告げた。

 何事もなかったように立ち上がり、龍園の元へと戻っていく。

 いつの間にか、恐ろしい気配は消えていた。

 

「合格ですね」

 

「そうだな。なら、さっさと終わらせてやる」

 

 龍園は満足した様子で再度軽井沢に近付いていく。

 しかしその最中、自身の携帯が振動した。

 それはメールの知らせだ。

 アルベルトには万が一のことがあった場合電話をするように告げているので、候補から消える。

 それを踏まえた上で、龍園は念のためメールを開いた。

 

「……クク、ハハハハハハ! おいおい、Xの野郎は本当に俺を楽しませてくれるなぁ!」

 

 腹を抱える龍園。

 未だ立てない石崎は放置し、カムクラにだけその画面を見せた。

 そこには、拘束された伊吹澪の写真。

 そして、文章が添えられていた。

 

 

『特別棟の一教室。監視カメラはなく、今日は人目が全くない日だ。

 そこにこれを置き、男を呼んでおいた。

 今からそっちに向かう。待っていろ、龍園』

 

 

 

 




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