心の乱れは気の迷い。
精神とは、一度崩れると雪崩式にそれが重なっていく難儀なものだ。
先日あったアレも、きっと、俺の中にあった隙が生み出してしまった『くだらないモノ』。
気をしっかり保っていれば何て事は無い。
その証拠に、あれから何度か5人と話す機会があったが、普段通りに対応出来ている。
うん、俺はいつも通り大丈夫だ。
今は3時間目の授業中。
教科は、我等が担任の三沢先生が担当する数学。
黒板には正の数と負の数による、足し引きの計算の羅列が並べられている。
それを眺めながらノートに写していると、視界の隅で金色の何かが動いた。
何かって言うか、ハラオウンの頭なのだと言うまでも無い事だが……。
まぁ普通に見れば、別段変わった所は無い。
だけど、どうも違和感を覚えてしまう。
どこがどうっていう訳でもないんだけどさ……。
そのハラオウンに気を向けつつも、俺は再びノートに文字を写し始める。
淀み無くノートの上を滑るペンの音、ハキハキとした先生の解説を耳にしながら、時間は進んでいく。
そして気付けば、終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。
「はい、じゃあ今日は此処まで」
チャイムの音で先生は手を止めて授業を締める。
授業が終わった開放感か、突如ざわつき始める教室。
俺はソレを尻目に、机に置いてある教科書やらノートやらを中に片付ける。
「よしっ」
その唐突な声に反応すると、ハラオウンが鞄を持って立ち上がりだした。
「急用があるから、私帰るね」
帰り支度を整えた彼女は、こっちに挨拶するとそのまま出口に向かっていく。
教室から出て行く時にバニングスへ何か告げていたのを、俺は黙って見送っていた。
――って、おいおい。
まだ3時間終わったばかりだぞ、何で帰るんだ?
とか何とか思っても、当の本人は既に居ない為、どういうつもりか聞くに聞けない。
何なんだ、一体……。
4時間目も恙無く終わり、昼休みに突入する。
ある者は教室内で弁当を広げ、ある者は購買や食堂に走っていく。
さて俺も、と鞄から弁当箱を取り出した時、何処ぞの誰かが俺に近付いてくる。
そちらに向くと、最近はもう見慣れてしまった奴が立っていた。
「おぅ、バニングス。どうした?」
「お昼でもどう、って思ったんだけど……」
昼飯の誘いか。
しかし何だろうか、バニングスの表情が硬い。
頬も微かだが赤いし、まぁ純粋に恥ずかしいんだろうな。
「で、どうするの瑞代?」
「あぁ、行かせて貰う」
内から漏れ出るモノを誤魔化すように、急かし気味に聞いてくる。
俺としても断る理由は何処にも無い、特に逡巡する事なく受け入れた。
それにしても珍しい、バニングスの方から誘ってくるなんて。
いつも誘う役のハラオウンが居ないから、同じクラスのコイツが誘ってきたのだろうけど。
……目の前の非常に稀な光景に、一種の新鮮味を感じる。
「ぼ~っとしてないで、早く行くわよ。すずかも待ってるんだから」
月村も……って事は、高町や八神は?
口内で引っ掛かったその疑問は、スタスタと先を行く彼女によって発せられる事は無かった。
「あっ、アリサちゃん」
屋上には聞いた通り、月村が待っていた。
バニングスを見付けた彼女は小さく手を振って呼び掛けている。
そして、さっきの疑問の答えとばかりに、月村の傍には誰も居なかった。
珍しいという声にならない感想と共に、何か事情があるのだろうと納得する。
俺が口出す事でもないだろうしな。
「おっす、月村」
「聖君、こんにちは」
俺の気軽な挨拶に、たおやかな笑顔で返してくる月村。
その仕種一つ一つにも、やはり気品とかそういうものが感じられる。
生粋のお嬢様なだけはあるな、隣のバニングスも同じ筈だが……。
「じゃあ、お昼にしよっか?」
「そうね」
「良し、食うか」
ってな訳で、早速昼飯タイムが始まった。
今日の弁当はサンドイッチで、具は以前と同じく玉子、ハム、サラダの3種。
今朝の残りや有り合わせで済ませたが、料理出来ない俺ではこれが精一杯。
相も変わらず侘しい食事だが、文句を言っても仕方ないとばかりにサラダサンドに手を付ける。
それにしても、月村とバニングスの弁当は良い物だな。
月村の方は和食に近いけど、栄養面や味付けを考えて一部洋食を取り入れている。
バニングスの方は俺と同じくサンドイッチなのだが、三角のサンドイッチやロールパンもあり、しかも具を挟んだだけの簡素なものではない。
きちんと食べる人の事を、つまり2人の事を考えて作られたものだと良く分かる。
……何だか、無性に虚しくなってきた。
うぅむ、俺もシスターに……………って何馬鹿な事考えてんだ!?
自分に出来る事は自分でやる、そう誓ったのは俺自身だ。
自分で決めた事に対して、不平不満なんて漏らすのは以ての外。
「どうかしたの?」
いつの間にか月村がこっちを見ていた。
しまった、と思った頃にはもう遅く、バニングスまでこっちを不審な目で見てくる。
その視線には「何か変な事考えてるんじゃないでしょうね?」みたいなものが込められていた気がする、主観だが……。
ヤバい、どうする俺?
どうにか誤魔化そうと、脳の回転を無理矢理引き上げて、慌てて話を振る。
「いっ、いやな……高町と八神はどうしたのかなと思ってさ」
少し詰まってしまったが、現状に沿っている俺にしてはナイスな弁明だ。
ハラオウンの事もあったから、実際にそう思っていたのは本当だし。
俺の言葉に2人は顔を見合わせている。
表情にも、微妙な焦りを感じるが、どうしたのだろうか?
「ちょっとした家の事情らしいよ」
「そ、そうそう、だから偶にすぐ帰っちゃうのよ」
「ハラオウンもか?」
「そうだよ」
ふぅん、家の事情か。
偶にって事は、何度かあるって事だよな。
どんな用事なのか気にならない訳ではないが、人の家の事情に首を突っ込むつもりは無い。
まぁそんなだから、2人共落ち着け。
そこまで態度がおかしいと、嫌でも勘繰ってしまう。
……本当に勘繰る程、不謹慎な俺ではないけどな。
「それじゃもしかして、その用事があるから部活に入らないのか? あの3人は」
「うん。行く日が不確定らしいから、そういうのには所属出来ないし」
なるほどね、そういう事か。
高町と八神は分からないが、ハラオウンなら運動系の部活に入れば、かなり良い成績を残せる。
それでも入らないのは、そういった事情があるからだったか。
そっちを優先させるって事は、それだけ自分にとってそれが重要なのだろう。
「なら、2人はどうして部活に入らないんだ?」
俺のふとした疑問。
偶々、そういった話だった事もあってのついでに出た、ほんの少しの好奇心だ。
「私達は、習い事とかあるから」
「習い事?」
「ヴァイオリンよ」
即答するバニングスの言葉に、あぁなるほどと得心がいった。
これは俺の偏見かもしれないが、一般的な令嬢が受ける稽古事には必ずといって言って良いほどヴァイオリンとかピアノが思い浮かぶ。
目の前の2人もその例に漏れていなかったらしい。
しかしそういった高貴な家柄が、ヴァイオリン等の楽器を嗜むのも分かる気がする。
楽器ってのは、それを扱う奏者の人となりを表すものだ。
ヴァイオリンも、それを弾く人の心を音で表現する。
心が綺麗な人なら美しい音色を、その逆も然り。
特に大衆に見せるものとなると、その部分だけで自分を判断される事だってある。
つまり奏者としての腕が良ければ良いほど、周囲からの評価は高くなる場合が多い。
実際は分からないが、社長令嬢である2人も社交場に顔を出すこともあるだろう。
その時、ヴァイオリンの実力を評価されるようなら、自分にとって何よりもプラスされる。
何か上辺だけの探り合いとか、親の体面を整えてるように見えて、習わされてる子供を穿った見方で見てしまう。
そういった事を含めて、この2人はどうなのだろうか?
至極自分勝手な意見だけど、やっぱり気になってしまう。
「それって親から言われてやってるのか?」
「う~ん、最初はそうだったと思う」
俺の質問に、月村は多少逡巡するも、すぐに答えた。
やっぱりどの金持ちの家でも、そういった習い事を強制するもんなんだな。
でも『最初は』って言うんなら今は違うって事なのか?
「アタシも最初はそうだったわ。でも、今は楽しいって思えるし」
「そうだよね。私も同じ」
顔を見合わせながら笑う2人を見て、納得がいった。
バニングスも月村も、今の自分が良いと思える事を精一杯しているのだろう。
ヴァイオリンの稽古も、強制されたからと言って投げ出したりせず、自分にとって良い方向に持っていこうとしてる。
何よりもそれを好きになれるというのは、決して簡単な事じゃない。
そんな答えを容易く言ってのける、この2人はやっぱり凄いよな。
「すげぇな、お前等」
「「えっ?」」
気付いた時には、それを思わず口に出してしまっていた。
俺自身別に言うつもりは無かった筈なのだが、一度出てしまった言葉はもう引っ込めない。
そして俺の呟きをどう受け取ったのか、当の2人は何故か目が点になっている。
微妙な反応に誤魔化そうとも考えて、しかし口に出した手前、気恥ずかしいが素直な感想を言うしかなかった。
「いや、その……そうやって自分なりに物事を良い方向に持っていけるってのは、簡単には出来ないからさ」
本当に同年代なのか疑いたくなる位に、2人は大人だった。
俺なんかじゃ今の自分に一杯一杯で、良い方向に持って行く余裕すら全く無いのに。
いつの間にか、俺はこの2人に尊敬の念すら感じていた。
「それが出来てる2人は、やっぱすげぇなって思って……」
これが嘘偽りの無い本音。
高杉曰く、俺には『本音を伏せる癖』があると言うが、この時だけは違う。
本当に凄いヤツになら、こういう言葉は惜し気も無く言って良いと思った。
まぁ、流石に恥ずかしくて相手を直視出来ないけどな……。
それを黙って聞いていた2人に恐る恐る目を向けると、何だか顔が赤い。
「べっ、別に、煽てたって何も出ないからね!!」
「あはは、アリサちゃん顔真っ赤だよ」
「ぐっ……す、すずかだって同じようなもんじゃない」
「流石に、こうもハッキリ言われると恥ずかしいよ」
……とまぁ、そう言う事らしい。
此処まで大きな反応されれば、嫌でもどうしたのか分かってしまう。
しかしお前等が恥ずかしがると、言った側である俺はそれ以上に恥ずかしくなってしまうんだが……。
頼むからさっさと落ち着いてくれ、割とマジで!!
「全く、アンタも変な事言わないでよね」
「思った事を言っただけだろ」
「でもあれは不意打ちだよ」
「あぁもう、分かったよ。悪かったって」
バニングスと月村が冷静になるのに、1分程の時間を要した。
ったく、何で俺が謝らないといけないんだ?
明らかに理不尽だろ、コレ……。
とは言え、既に本調子に戻りつつある2人に対抗出来る筈も無かった。
俺って女難の相でも出てるのか?
「でも、私達がこうしているのも、なのはちゃん達のお陰なんだよ」
「そうよね、アタシ達も3人に負けてられないって気持ちがあったし」
「あの3人も……もしかして、家の事情ってやつか?」
2人の突然の告白に、俺は半ば確信していた事を聞き返していた。
「そうだよ。3人共、私達以上に頑張っているから」
「何をやっているのかは言えないけど、それでも人に誇れるものだって事は間違い無いわ」
「ふ~ん」
2人の言葉からは、この場に居ない3人をどれだけ想っているのかを物語っていた。
俺が2人を尊敬するように、バニングスと月村も3人を尊敬してるのかもしれない。
ったく、どれだけ凄いんだよ、こいつ等ってさ……。
4年来の付き合いだって言うけど、その分の絆の深さを垣間見た気がした。
放課後。
特に学校に残ってやる事も無い俺は、さっさと帰宅していた。
もとより、俺にとってのやるべき事はこの家にしか無い。
何よりも大切な、何よりも尊い存在であるこの家にしか……。
「さて、どうするか」
しかし時間とは長いもので、今出来る事は殆んど終わってしまった。
まだ夕方くらいだし、一弥達の所にでも行ってみるか?
今は暇を持て余して、堂内で突っ立っているだけだ。
静寂な空気がそこを包み、自分以外この場に存在しない事を嫌でも思い知らされる。
別に孤独が嫌いな訳じゃない。
唯この静寂が、今の自分の精神に妙に障るのが分かる。
1人で構わないが、無音だけは好きになれない。
音とは、楽器が鳴らすものだけじゃない。
そこに存在している人間の発する声も、心臓の鼓動も音の1つ。
人が音を発すると言う事は、『生きている証拠』なのだと俺は思っている。
故に無音の空間とは、死んでいるも同然。
だから嫌いだ、誰が好き好んで死んだ世界に居たいなんて思うのか……。
そう思うとすぐに体が動いた、聖域と身廊の間の内陣へと。
その西側にあるクワイヤと呼ばれる、分かり易く言えば聖歌隊席。
身廊との間の仕切りである内陣障壁を越えて、そこに俺は立つ。
普通の聖堂ならオルガンが置いてある場所には、1台のグランドピアノが設置されていた。
教会とか聖堂ならパイプオルガンとかがあるんだろうが、此処はそこまで宗教的な部分に拘っていないらしい。
俺は進む、この無音の世界を払う為に。
ピアノの反響板を斜め45度に固定し、身廊側に音の指向性を持たせる。
――――準備万端。
黒塗りの木造椅子に腰掛け、鍵盤を覆う蓋を外す。
「すぅ……はぁ……」
リラックスする為に、一度深呼吸。
いつもの習慣、ピアノを弾く時は集中しないといけないからな。
――俺の数少ない特技というか趣味の1つ、それがピアノだ。
元々は、歌を歌いたい子供達の相手をする為にシスターが弾いていた。
しかし常日頃から仕事の多いシスター、その負担を少しでも減らせるようにと、俺はシスターからピアノの弾き方を習い始めた。
まぁ習った部分は基礎的なものだけで、それ以後は殆んど独学に徹したから、大したものにはなり得なかったが……。
師父やシスター曰く、俺の弾く曲は『感情が強く表れる』らしい。
それは俺にしか出せない個性的な音であると共に、人に合わせるという面では邪魔になるという難点を持つ。
……別にアンサンブル取らないから、構わないんじゃないのかと思ったのは秘密だ。
何を弾くか脳内で考えながら、左端から右端まで十指を用いて鍵盤を弾いていく。
それが終わったら、今度は逆方向に弾く。
これも軽い指の運動として習慣でやっている。
「よし―――――ピアノ協奏曲第1番“蠍火”」
選曲を終え、いよいよ演奏に入る。
つい最近聴いた曲だから楽譜なんてものはない。
何となく弾いて、何となくで出来た2分程度の曲。
鍵盤の上に両手を添え、もう一度深呼吸。
…………。
「演るか」
フレーズを最初から思い出しながらスタート。
最初は緩く穏やかな音色、だが決して明るいニュアンスは出さない。
そして唐突にそれは砕かれ、高速で鍵盤は弾かれる。
静から動への刹那的な変化、スタートから激しく指が流れていく。
素人目では決して追い着けない、高速の指技。
そこからおよそ15秒、動は静へと回帰する。
それでも気持ちは治まらない。
底から徐々に上ってくるように、音は鮮明さを表していく。
リズムを保ちつつ、スピードを徐々に上げていく。
「……」
その速さに合わせて、俺の脳内も忙しなく働き続ける。
メロディーを思い出しながら弾いていくので、精神的な余裕はあまりない。
片っ端から思い出していかないと、頭が指に置いていかれる。
ここから最後まで十指の休まる所は殆んど無い。
思い出した音の並びを指に投影、一気に駆け抜けていく用意をする。
「っ……」
そろそろ1分が経つ頃だろうか。
そして始まる、静から動への転換。
穏やかなメロディーは、鍵盤を強く弾く指によって、重く悲しげなものに変わっていく。
途中、旋律が切れる所があるが、それも刹那の出来事。
またすぐに、指は聴いただけのメロディーを奏でていく。
今まで以上に速く、そして重く。
それは嵐のように、全てを吹き飛ばす程の荒々しい旋律。
何者も入り込む事の出来ない、絶望のメロディー。
この曲を作った者の背負った悲しみが、音となって排出される。
次から次へと出でては消えてく悲しみの音色、無尽蔵に溢れるの負の感情。
それを俺の指は、ひたすらに速く、ひたすらに重く、俺自身の音で奏でていく。
「くっ……」
速さに拍車が掛かり、俺の指も限界に近付いていく。
これ以上は流石にキツいものがある。
それでも我慢、絶望も過ぎてしまえば過去のもの。
自分の負を吐き出すように、鍵盤を強く叩きつける。
此処を過ぎれば大丈夫、負の音色はゆっくりと勢いを無くしていく。
だがまた浮上し、絶望すら払ってしまう重いメロディーを奏でる。
指と頭に力を込め、最後の旋律を思い描いて負を砕くように弾いていく。
「……」
絶望の音の旋律は暴風のように、そこにあった感情を全て吹き飛ばしていった。
最後に残ったのは、小さく繊細な音色。
それを噛み締めて、優しく触れるように奏でる。
最後の一音を鳴らした指を止めて、全身を脱力させる。
「……はぁ」
指を鍵盤から離して、俺は体中の疲労感を吐き出す。
たかだか2分程度の曲だが、指の動きが忙しないので、かなり集中力を要する。
実際に掌は結構熱くなってるし、特に指先が真っ赤だ。
まぁ、正規の修練を積んでいない素人の力量じゃ、こんな無様でもしょうがないか。
完成度には目を向けず、取り敢えずは演奏し切れた事に安堵する。
その時、再び訪れた静寂に乾いた音が響いた。
「えっ……師父」
振り向けばそこには静かな雰囲気を纏った初老の男性が、手を叩きながら佇んでいた。
黒シャツの上に黒のロングコート、更にズボンまで黒という真っ黒な服装。
胸には金の十字架が掛けられている。
この人は、この礼拝堂の牧師兼瑞代家の父である瑞代隆さん。
俺達、養護施設で暮らす子供達の父親だ。
「聖、中々の演奏だった」
「いえ、素人に毛が生えた程度です。俺より上手な人なんて、世界中に腐る程居ますから」
我等が父の賞賛に対し、俺は冷静に否定する。
師父の俺に向けた感想は、決して煽てている訳じゃない事は知っている。
正直を言えば、賞賛される事自体はかなり嬉しい。
まして相手は尊敬すべき師父だから、その度合いは一入だ。
この人は自分の子供達に対して間違った事はしない。
過剰に甘やかしたりしないし、悪い事をすれば途轍も無く怒る。
前に俺がピアノを弾いてた時も「ペダルの踏みが弱い」とか「鍵盤を雑に叩かない」とか散々注意を受けたし。
……実の所は、注意を受ける方が殆んどだったりするが。
だからこそ師父から褒められる事実が、俺にはどうしようもなく嬉しくて堪らない。
「“蠍火”の作曲者は、不運な自分の境遇に絶望した時にこの曲を作った」
落ち着いた佇まいのまま、師父はこの曲の詳細を語りだした。
元々、この曲はピアノ協奏曲の名の通り、3楽章で構成される予定だった。
しかし、初公演は大きな鍵盤と円盤でやる事になり、急遽2分強で纏めた1楽章での発表となったらしい。
その説明で気付く、明暗や静動の起伏が激しかったのはその所為だったのかと。
流石に2分という短い時間で曲として完成させるには、あれだけのサイクルで上げ下げをしないと成立しないのだろう。
うむ、納得だ。
「聖の奏でた蠍火には、原曲とは違った暗部が見え隠れしていた」
――――うっ、拙いかもしれない。
師父の言ってる事は間違っていない。
確かに蠍火を演奏していた俺は、自分の中にある負の感情を吐き出していた。
自分に対する稚拙さ、未熟さが綯い交ぜになったモノ。
自分に対する不満をぶちまけるように、鍵盤に叩きつけて奏でていた。
だがそれは、目の前のこの人に気付かれてはいけないモノでもある。
「ああいった感情を演奏として表現できる者は、それを宿した者だけだからな」
「ア、ハハハッ。そんな感情、俺にはありませんって」
微妙に怪しんでそうな師父の顔を見て、慌てたように言い訳を並べる。
表情が引き攣っていないか心配だが、それを気にしていられない状況だ。
俺の持つ暗部だけは、この人に知られてはいけない。
……いや、師父だけじゃなく、シスターも子供達にも知られてはならない。
「ただ、原曲を何度か聞いて、鍵盤をタッチする感触を憶えていただけですよ」
「なるほど。今回は上手くいったという事か」
「はい、そんな所です」
追及の手はなく、何とか師父を納得させる事に成功した。
はぁ、危なかったぁ……。
そのまま俺は内陣から降りて、そそくさと家の方に向かう。
此処に残ってボロを出したら、今度こそ気付かれそうだし。
「シスターの手伝いに行ってきます」
「……あぁ、分かった」
足早に退場して、礼拝堂を後にする。
師父の応対が数瞬だけ遅れたのが、少しだけ気に掛かったが。
「ふぅ、涼しいなぁ」
風呂上がり、窓から優しく吹き付ける風を受けて、火照った体が程好く冷まされていく。
「それにしても、今日は危なかった……」
ふと、夕方の礼拝堂での事を思い出した。
もう少しで師父に、自分の心の内を見透かされる所だった。
自身を卑下する、心の暗部。
一度、口が滑って師父に言ってしまった時は、本気で怒られた。
何故そんなに自分を追い詰めるのか、何故そこまで自分を卑下するのかと、何度も怒られた。
そんなにも私達は頼りないかと、何度も悲しまれた。
あんな顔を見るのは嫌だから、そんな悲しみを抱えて欲しくなかったから、以後の俺は絶対にそれを口に出す事は無かった。
家族に心配させたくない、安心して生活して欲しいから。
「……ふぅ」
ベッドに腰掛け、窓から見える夜空に目を向ける。
黒地の世界に、沢山散りばめられた星の装飾。
一際輝く、星とは比べ物にならない存在感を発揮する三日月
月というモノで思い浮かぶのは、やっぱり『アルテミス』だろうか。
ギリシア神話に登場する、月の女神アルテミス。
「アルテミスって言ったら、やっぱり『オリオンの悲劇』かな」
小さい頃からよく読んでいた書物、『ギリシャ神話』を思い浮かべる。
アルテミスが愛した男性、海神ポセイドンの息子のオリオン。
2人の仲を認めなかったアルテミスの双子の兄、アポロンが起こした悲しい悲劇。
ある日、蠍に追われ海に逃げていたオリオンが、頭だけ海面に出していた所をアポロンが発見した。
それを見たアポロンは、アルテミスを挑発して矢を射させようとする。
丸太と偽った、オリオンに向けて。
あまりにも遠かった為、それがオリオンと認識出来なかったアルテミスは、挑発に乗ってしまい、そのまま最愛の者に矢を放ってしまった。
数日後、浜辺に打ち上げられた矢の刺さったオリオンを見て、初めて自分が射った丸太がオリオンだと知る。
悲しみのあまり、月の女神でありながら夜を照らす事すら忘れてしまった。
死者を蘇らせる名医であるアスクレピオスにオリオンの蘇生を頼むが、冥府王ハデスの反対によりそれは叶わない。
最後の手段として、父であるゼウスにある事を頼んだ。
『父上、お願いです。私の最愛の恋人だったオリオンを空に上げてください。そうしたら私が銀の車で夜空を走って行く時に、いつもオリオンに会えるから』
その願いは叶えられ、オリオンは空に上げられ星となった。
そして彼がオリオン座として天に上がったそこは、ちょうどアルテミスが夜空を照らすために月の小舟を走らせる通路に当たる所だった。
アルテミスがいつも恋人オリオンの姿を見られるようにと……。
その後、アルテミスは銀の車に乗りながら、夜空を散歩する度にオリオンに会いに行ったという。
そしてこの話は、学術的な部分も含まれているのが面白い所でもある。
月は公転運動で身欠けの位置を毎日変える。
一日に約13゚ずつ東へ移動して、一ヶ月に一度はオリオン座のすぐ上を通る。
つまり、月の女神アルテミスは今も、月に一度のオリオンと会うのを楽しみに星空を回り、夜を照らし続けるのだ。
「ハッピーエンドに見えなくも無いけど、やっぱり愛する者が死んでしまったのは悲劇だよな」
俺だったら、一体どうするんだろう?
悲しんで、悔やんで、その後は一体どうする?
もし師父が、シスターが、子供達が……死んでしまったら、居なくなってしまったら、俺はどうなってしまうんだろう?
「耐えられないよな、絶対……」
――――それは孤独。
守るべき者も愛すべき者も居ない、無価値同然の世界。
想像するだけでも胸が苦しくなって、思わず手で顔を覆ってしまう。
じゃあ、それが現実になったら?
人間、いつ死ぬかなんて分かる筈無い。
昨日まで元気だった人でも、事故に遭って命を落とす事なんて珍しい話じゃない。
つまり、俺の家族だっていつ死ぬか分からないのだ。
もしそうなったら、俺はもう、生きていく事すら出来なくなってしまうだろう。
それだけ――皆が大切で堪らない。
それだけ――俺にとって皆は必要なんだ。
しかし、それでも……
「でも、それじゃ依存し過ぎてる」
皆が居なくなったから死んでしまうなんて、皆の存在に縋り付いている証拠だ。
間違っている、そんな答え。
例え孤独に生きたって、俺は育ててもらった命を粗末にしちゃいけない。
この命は、皆の為に……。
決して自分の身勝手な行動で失っていいものじゃない。
自分の身も心も、自分で守り通さないと……。
皆に迷惑も心配も、不安に駆られるあらゆる要素を掛けない為にも。
「だから、俺はもっと強くなる」
心も、体も……。
皆が1人で生きていけるようになるまで――
皆が俺を必要としなくなるまで――
俺は自分自身を懸けて、皆を守れるように強くなりたい。
俺の誓い。
それは同時に、俺の願いであり決意でもあった。
そう『なりたい』という、子供染みた願い。
そう『ありたい』という、身に余る決意。
やっぱり聖は照れ屋さん。
どうも、おはこんばんちはです( ・ω・)ノシ
№Ⅵをお読み下さりありがとうございます。
今回は早退という形で、本編に魔法を絡めさせています(その程度です
それと聖のピアノスキルですが、これは№Ⅰの段階で既に公開されてる情報ですね。
習得した理由も本編にある通りなので、別に『超絶技巧(キリッ』とか腐ってもやりません。
それとサブタイトルにある『O's』ですが、これは読み方はそのまま『オース』です。
単純に『誓い』→『oath』→『O's』としただけなので、深い意味は全くありません。
以前掲載していた時は『Another story』であり『After story』という意味で『As』でしたけど、再掲載に際しての作者なりのハッチャケ(?)だと思って下さい。
……だって適当過ぎじゃないですか、『O's』って。
今回は此処までです。
感想や意見、その他諸々は遠慮無くドシドシ書き込んで下さい。
直接メッセージでも、作者的にウェルカムです。
では、失礼します( ・ω・)ノシ