やはり俺の恋慕はまちがっている。 作:真園(しんえん)
翌日も雨がザーザーと降りしきり、梅雨の本領発揮といったジメジメした湿度にやさぐれた俺は教室の机でうつ伏せていた。
戸塚はこんな景気の悪い天気の中昼練だそうで、そうなると必然的に俺は一人クラスに取り残される。
だからといって悲観的になるはずもない。何せこれが俺の本来の日常で、寧ろ戻ってきたと称するべきだ。俺からすれば慣れたもんである。
イヤホンを両耳にセットしてるお陰で周囲の喧騒感など音楽を引き立てるBGMにしか思えない。孤独感に苛まれることも無ければ虚無感に浸ることも無い。これがオンリーマイライフだ。
と、夢想に耽っていると突然耳からイヤホンを外される。
「八幡、また寝てたの?」
戸塚だった。
少し汗をかいたのか、髪が湿っていつも以上に光りを放っている。今日も可愛いよ戸塚、とかいう率直な感想を口にしたら気持ち悪がられそうなので心の中でストックしておこう。
「昼練じゃなかったのか?」
「うん。筋トレだけして早々に切り上げたよ、こんな天気だしね」
そう言って戸塚は少し悲しげに空を見上げる。
その姿はまるで名高い画家によって描かれた一枚の肖像画で、一つ一つの輪郭に丁寧に筆が入ってるかの如き柔らかい体つきはさながらエンジェル───って待て待て。戸塚は男、友達は男。
よし、まだ戦える。
「急に自分の頬を叩いたりしてどうしたの八幡」
「いや、な。愚鈍な本能を少し叩きのめしただけだ」
「なにそれ……まあいいけど」
隣に座ると、体操着を持ってきた袋に仕舞った。
制服で部室に行って着替えて、体操着で部活して、それで制服に着替えて戻ってきたのか。大変だな運動部。ここで着替えれば良いのに。
「あー疲れた、てか八幡もテニス部入らない?運動神経良いよね?」
「悪い。俺、2時間以上運動したら水に溶けて消える体質だから」
「八幡……体育祭で死んじゃうんだね。短い付き合いだけど楽しかったよ。あと形見ちょうだい」
「なんてもん要求してんだよ、マザー・テレサでも助走を付けて蹴り飛ばすレベルだからな?」
なんか最初に会った時より戸塚、ブラックジョーク増えたよな。それが心の距離が縮まったのか、遠慮が消えたのか微妙なところだが。
と、そこでキーンコーンと昼休み終了のチャイムが鳴った。
確か5限は……文化祭関連の学級だったか。
興味ないし寝るか、と再度身体を伏せようとして俺はすぐに起こした。
文化祭実行委員になれれば雪ノ下陽乃とのコンタクトが取れる可能性がある。無碍にするには惜しいチャンスだ。
先生がガラガラと戸を開けて、入ってくると教卓を軽く叩いた。
担任の、須賀先生だ。
光を全て吸い込みそうな黒髪は所々跳ねていて、シャツの上からピシリとした白衣を着こなしている。最低限の身嗜みはしている事は髭の剃り具合や白衣の皺を見れば分かる、だが髪や服装のせいで如何にも理系といった容姿になってしまっている。
須賀先生は億劫そうにボリボリと頭を掻いた。
「えーっ、よし、全員席に付いてるな。早速だが俺は正直この授業、滅茶苦茶面倒臭いと思っている。だから一番無駄に時間のかかる、物事を決める時間、それを究極に減らすためにさっさと終わらせようと俺は思う。ってまあ先週も言ったからお前らも完全に理解してるな?んじゃ始めるぞ。先週出し物を決めたのは覚えてるな?次は文化祭実行委員を決めようと思う。終れば各自解散……と行きたいところだが残念ながらそれは学年主任に断られたから無しだ無し。と言うわけで終了次第俺は職員室に戻るし、お前ら適当に自習なり親交を深めるなりしてて良いぞ。はい、ここからは学級委員頼んだ」
この男、本当に高校教師なのかとも思うが残念ながらこのクラスの担任だった。
学級委員が黒板の前に出ると、須賀先生は教室後ろへと下がった。
「では、早速ですが文化祭実行委員になりたい人いますか?」
シーンと静まり返った教室内。
それも当然で、こんなのは誰も進んでやりたがる役職ではない。
文化祭実行委員とか大層な名前こそ付いているがやる事なんて謂わば雑用係。ボランティア活動も良いところで、にも関わらず履歴書とかに書けるほど大層なものでもない。AO入試の自己推薦要項に書くアピールポイントとしてもあまり印象強くないだろう。よって、あくまで求められるのは奉仕精神である。
割には合わない。旨味が少ない。そう感じて当然だ。
───とかなんとか考えつつも俺は右手を天高く掲げた。
我ながらこういった場面で手を上げたことなんて人生で一度も無いからか、腕は微妙に震えていた。
別に変わろうとしている訳じゃない。ただ漠然と前へ進む意志だけは確かに、その結果が大団円でも惨劇でも興味無く、灯籠のように俺の心の中で点っていた。
「ええと……」
「比企谷だ」
……まあ、そりゃ名前覚えられてませんよね。俺も学級委員の顔見ても名前は全然ピンと来ないし。つまり両成敗ってことに……ならないですか、そうですか。
「比企谷君、ですね。あともう一人……は戸塚君で良いですか?」
「はい!」
………………戸塚?
反射的に隣を見る。
戸塚は、戸塚彩加は、確かに視線を前へと向けて腕を上げていた。
───何故、戸塚が立候補したのだろうか。
同じクラスになってから2ヶ月、関係を持ち始めてからだと1ヶ月しか経ってない俺には微塵も理解できなかった。
それとも、純粋に戸塚は文化祭実行委員になりたかったのだろうか。まあ、あり得ない話じゃない。俺に対しては少し毒混じりで話すことあれど、基本的に戸塚は天然記念物かってくらいには優しい。それを俺はこの短い期間で知っている。だから不純な動機で立候補した俺と違って、文化祭に対して何かしら想いを持って自推してもおかしくはない。
おかしくはないのだが、どうも引っ掛ける。
「先生、終わりました」
そんな思考をしていたら三言くらい聞き逃したようで、委員決めが終わっていた。
「そうか、じゃあこれで解散。自由にしてて良いぞ。後文化祭実行委員は今日の放課後、初日の顔合わせみたいなのがあるらしいから面倒だと思うがサボらず頼むわ」
と、言いたいことだけ言うと須賀先生は教室から去っていった。
ミーティングがあるとか、無いとか、そんなことより今は戸塚だ。俺はすぐさま口を開いた。
「戸塚、どうして」
「僕はね八幡、決めんたんだ」
俺の言葉は戸塚の強い言葉に掻き消された。
その目は、覚悟と羨望と諦観を一度にごちゃまぜにしたような、複雑の色を帯びていて俺は言葉を失った。
何があったのか、なんて聞くことすら俺に許されないような、良く分からないながらもそんな空気が漂っていて目眩すらする。
「八幡、僕は応援するよ」
「……何をだ?」
「八幡の恋……ちょっと恥ずかしいけどね」
戸塚は頬をほんのり赤くして、照れくさそうに小声で吐露した。
「僕、羨ましいんだ……そういうの、駄目だったから」
「駄目?その、失恋したことあるのか……?」
「…………まあね。まあ、それより今は文化祭実行委員のことを考えようよ」
明らかにはぐらかすように戸塚は話題を変えた。
話す気は一切無いようで、それは俺も同感だった。
恋なんて大抵はほろ苦く、影の付き纏う結果に終わるものだ。特に子供の頃など一回りは年の離れた大人に恋するなんてのも至極当然に起こり得て、その結果なんて実際に見なくとも一目瞭然と失恋に終わる。その想いは年月が経てば雲散霧消と記憶と共に掠れてゆき、やがて「ああそんなこともあったな」なんて極めて理知的に俯瞰できるほど過去の感情としてメモリーの片隅に追いやられる。
俺だってそうだ。
もう初恋相手なんて影形も浮かばない、きっとそれはそう昔の事でもないのに残酷に記憶は時間によって希釈されてしまう。相手の写真すら残っていないという思い出の消失を加速させるに値する条件を加味しても、過去の感情の希薄化はある種自然の摂理と言ってもいい。
そして若かりし日のあの告白も黒歴史で。
だから、俺は追求はしない。
戸塚の初恋も、何故俺へそこまで肩入れするのかも。
「……そうだな。ありがとな」
「いや、いいよ。僕は八幡の味方だから」
それはどういう意味なんだろうか……、と考える前に戸塚は「うーん」と唸った。
「えっと、雪ノ下先輩に接触するのが目的なんだよね」
「んや、正確には違う」
「え?どういうこと?」
「接触するだけじゃ駄目だ。欲を言えばコネクションが欲しい」
「でもそれ、かなり難しくない?」
その通りだった。
そもそもの話、学年が違う。
雪ノ下陽乃の学年は三年、対して俺はピッカピカの一年生。普通に考えれば話す機会なんて生まれない。と言うかまず人と話す機会自体、外では戸塚と以外無い。アレ、これやる前から詰んでる?
「……でも接触するだけじゃ何の意味も無いんだよなぁ。最低でも名前だけでも覚えられないと」
「何か芸人みたいだね」
「ばっか。俺が芸人なんかやってみろ。芸歴長い癖に名前すら認知されないピン芸人の出来上がりだぞ」
「八幡はコミュ障だからしょうがないよ」
え、何その感想。
良く理解されてるのか貶されてるのか判断に困る。でも戸塚だから良いか。
戸塚は悩むように小首を傾げた。
「名前を覚えられるかぁ……どうすれば良いんだろう。自己紹介の時に名前を3回くらい繰り返すとか?「俺は比企谷八幡、比べるに企てるに谷と書いて比企谷八幡、比企谷八幡です。よろしくお願いします」みたいな感じで」
「いや選挙なの?当選しちゃうの俺?」
「開票結果は一票かな。内訳は僕だけ」
なんだ戸塚だけか。最高かよ。その事実があるだけであと百年は生きれるな。そんな事実無いけど。
「八幡も何か考えとかないの?当事者でしょ?」
「つってもなぁ……」
どうすれば人は他者の印象に強く残るのか。
一番分かりやすいのは顔立ちが整っていることだ。整合性のある顔は他者の心に残りやすく、同性異性問わず好感を得やすい。しかし先天性の問題な為に俺には不可能だ。
次に奇抜なファッションをすることだろうか。例えば金のスパンコールを羽織ったモヒカン男がいたら確実に記憶に残る。意味分かんなすぎて超残る。悪目立ちという点において右に出るものはいないだろう。まあ論外である。
「ん〜。やっぱ、文化祭実行委員長に立候補するくらいしないとダメなのかな?」
「それでも馬鹿な一年生がいる、ってぐらいで終わると思うぞ。何せ俺なら次の日にはそんな奴のこと忘れてる」
「否定できない……じゃあ一発芸とかどう?何か出来ないの?モノマネとか」
「無理だから。俺にできるモノマネとか縁日の金魚すくい屋の水槽の底で衰弱死したデメキンの真似くらいだからな」
「例が具体的すぎる……!」
因みに小町にはウケた。お兄ちゃん、将来はデメキンになれば?とか言われてその晩少し泣いたまである。お兄ちゃんがデメキンで小町ちゃんは良いの?ヤバい、何も気にしてなさそうな表情で「お兄ちゃん本当にデメキンになったんだ。死んだゾンビみたいな目と合わさって似合ってるよ?」とか脳内小町が話しかけてきた。落ち込む。
「まあ、まだ始まってもないから考えてもしょうがないかもな。捕らぬ狸の皮算用も良いとこだ」
「それはそうだけど……うーん……そんな無計画で良いのかな?」
氷印のコーヒー牛乳を片手に戸塚は言う。
氷印も良いけどやっぱり甘さの暴力って観点から見ればマックスコーヒーの方が圧勝なんだよな。そう、暴力的な甘さ、これに尽きる。二郎系ラーメンが暴力的な量で勝負するならマッカンは暴力的な甘さで世の中をカチコミしている訳で、そんな甘さの頂点たるマッカンを以前戸塚に勧めたところ「甘!無理!」と買ったそれを俺に押し付けて以降一切買わなくなった。マッカン宣教師としては俺はまだまだだったみたいだ、0からキリスト教を広めたザビエルを見習わなきゃな。
「やっぱりなんの作戦も建てずに生徒会長と接触を図るって結構無謀だと思うし、少しは考えてから臨んだ方が確実性も上がる……ってちゃんと聞いてる?」
グイッと戸塚は乗り出した。眼福眼福、違った、顔が近い近い。
……本当に戸塚って顔のシミとか一切無いし肌とか純白なんだな。
いやいや待て待て。動じるな俺、戸塚は生物学上男だぞ。仮に精神的には女だとしても戸塚は男で女じゃなくて男だ。やべ、自分でも何言ってるか分かんねえ。
「あ、ああ。だがどれだけ論じても水掛け論になるだけだろ?何せ俺らは生徒会長について知らない、思想も嗜好も何もな。知ってるのは精々雪ノ下雪乃という妹がいるってことだけ」
「貴方の妹さんを俺にください!って言うのは?」
「却下だ却下。つかそれ結婚を考えてるカップルが相手の親に言う言葉であって決して姉に云う言葉じゃないだろ」
もし小町が彼氏を連れてきたとして「小町さんを僕にください」とか言われたらブチ切れて記憶が無くなって気付いたら目の前が血の海になってるまである。ヤダ、八幡過激派イキりオタクじゃん。
「つか今更だけど恥ずかしいからこの話あんまり言い触らさないでくれよ?」
「大丈夫、僕は八幡と八幡の家族以外に言う気無いから」
「妹とかお袋に言う気満々じゃん」
それ、無関係のクラスメイトよりキツイものがあるんだけど。
戸塚はテヘッと笑うと「冗談だよ冗談、誰にも言わないよ」と笑った。
「ともかく放課後は頑張らないとね、最初のミーティングだし」
「そういや部活、大丈夫なのか?」
「うん、元々このつもりだったから先輩にも言ってあるよ。それに自分で言うのも何だけど強豪とかじゃないからそこまで束縛キツくないんだ」
「でも多分、文化祭実行委員の活動ってアレだぞ、放課後とか多忙期になれば完全に毎日拘束されると思うけど本当に大丈夫なの?」
「…………………………多分、大丈夫」
つまり少し駄目そうと。
まあしかし、文化祭実行委員の参加者が揃い揃って全員帰宅部ってことはないだろうし部活動に対しても一定の理解は成されることだろう。裏返せば帰宅部には無慈悲な全日出勤と残業が待ち受けているると。それは社会だって同じで、企業の部活動に所属してる人間は早上がりしてスポーツで青春の汗を流している一方一般社員は普通に遅くまで仕事をして帰る頃には目がゾンビみたいに腐って行くものだ。じゃあ仕事をしてない俺が何で目が腐ってるとか言われるの?生きること=仕事みたいに捉えてるのだろうか。無いな。自分でも久々に無いなと思ったわ。だって俺の目、先天性だしな。
「まあ、なんだ。いざとなったら俺が直訴してみるわ。こういう学内活動って労働基準法とか余裕で違反してそうだしそこ突けばイケるだろ」
「うーん……それはどうだろう。でもありがとね」
戸塚は控えめに微笑んだ。
多分、というか確実に。
雪ノ下に惚れてなかったら戸塚にガチ恋してたかもしれない。ありがとう雪ノ下、俺をノーマルで居させてくれて。