館に戻ると、リリィは音を立てずに扉を閉め、ゆっくりと静かに歩きながら自分の部屋へと急いだ。周りを見渡して誰もいないか常に気を張っていたし、赤ん坊がまた泣き叫ばないかと不安で仕方なかった。いずれ館の皆にもこのことを知らせなければなかったし、知られることになるのだが、それをどう伝えるか一時の間でも考える必要があった。ちゃんとこの赤ん坊が幸せになるように私がみんなに説得しなければならない、という強い気持ちでいた。
ところが、リリィは気づかなかったが、階上にいた者がこっそりと彼女を見ていた。ムンだ。十にも満たない子供のように背が低く、マシュマロのように太っていて、黒と紫色が入り混じった長い髪が特徴的な女性だった。目も髪と同じような色をしており、目付きの悪さのせいもあってか、その視線に当てられたものは自分でさえ知らない自分の内側を覗かれたような気分の悪さを味わうことになる。陰険で人を寄せ付けないような険しい表情をいつもしている。
ムンは二階の台所に向かう途中、庭から戻ってくるリリィが木の籠を持っているところを見て違和感を覚えた。あの子、これまであんな籠を持って外にでたことがあったかしら、と彼女は思った。しかしムンは自分がお腹を空かせていることを思い出し、それ以上気に留めることなく脂肪を蓄えた身体をのそのそと動かして通り過ぎていった。
次にムンがリリィを見たのは自室に戻るときだった。クッキーの箱一つ分を食べ終え、でっぷりとした腹を撫でていると、廊下の角でリリィと擦れ違ったのだ。彼女は相変わらず木の籠を両手に持っていた。
「おはようございます、ムン様」とリリィは悟られないように笑顔で言った。
「おはよう、リリィ。今朝も早いわね」
それからムンは興味深そうに木の籠を見つめた。中にどんな食べ物が入っているか想像していたのだ。しかしリリィの背が高く、逆に彼女は小さいため中を覗けそうになかった。リリィはムンの欲望を宿した視線に気づかないように目を合わせなかった。
「それ、何が入ってるのかしら? 」とムンが我慢できなくなって訊ねた。
「林檎です。偶然、庭で落ちてまして」
「林檎? うちに林檎の木なんてないのに? 」
「あ」とリリィは自分の咄嗟の嘘が暴かれてつい言ってしまった。そしてすぐにそんなことを言ってしまった自分が恥ずかしくなった。
「あ、とは何よ? 嘘なの? 」
「いえ、そうではなく、ええと、その……」
「話が進まないわね。中を見せなさい」
「それは駄目です! 」
リリィはそう言うと、持っているものを天井に向けて高く上げた。もっとも、そうせずともムンには届くことはなかったのだが。
「これはとてもプライバシーなものなんです。誰かに見せたり出来ません」
しかしそのとき赤ん坊がけらけらと笑い出した。上に持ち上げられた浮遊感が楽しかったのか、あるいはまた別の理由で笑ったのかわからなかったが、リリィは頭の中が真っ白になった。それはムンも同じで、開いた口が塞がらないようだった。
「全く、何を拾ってきたの! 」とムンは叫んだ。
リリィは観念して籠の中身を見せた。するとムンは目を大きく見開き、自分が見ているものが正しいのかたしかめるように瞬きを何度もした。しかしどんなにやっても彼女の視界から赤ん坊は消えることはなかった。
「どこの子よ? 」とムンは言った。それから顔がさっと青くなった。「まさか! あなたが産んだんじゃないでしょうね? 」
「違います! 館の側に籠と一緒に捨てられていたんです」
「あなた、ここがどこかわかっているの? ここは村の奴らが恐れる魔王のお城なのよ。子猫を育てるのとは話が違うんだから」
「それは私もわかってます。しかしこのまま館の側で置きっぱなしにするわけにもいきません。それこそ悪魔の所業じゃないですか」
「まあ、それもそうね」とムンは訝りながら言った。「とにかく館の全員を起こしてみんなで話すことにしましょう。全く、何でもかんでも好き勝手に拾っちゃって」