ある年の夏のことである。
桜もすっかり散り終え、風は蒸し暑く、田植えも終えて漸く落ち着いてきた頃合いのこと。
経津主家でも穏やかな日々を過ごしていた。
刀哉は毎日の鍛錬や道場での稽古に加えて、里人たちに混じって田畑で鍬を振るい、水を引くなどの農業にも精を出していた。もっとも、主人が土いじりなどをする姿を白刃は快く思っていなかったのだが、彼がやると決めた以上はてこでも動かない。
本人は体全てを駆使する農作業は何とも良い鍛錬になる上に、しかも食い扶持まで得られるというのだからむしろ喜ばしかった。
自身が元は貧しい農村の生まれであることも起因しているかもしれない。
そうして午前中を終え、住まいの城の御殿で質素な昼食を食べる。
玄米、麦、粟や稗などの雑穀飯に大根の味噌汁、それに加えて川釣りの漁師から譲ってもらった旬の鮎も塩焼きや丸干しにして膳を飾った。
体を動かして働いたあとの飯の味は格別。
腹も八分まで満たされ、食後の熱い茶を飲みながら、風鈴の音色を聞きつつ雑談に興じる。
「もうすぐ盆の納涼祭か。出店も並んでさぞ賑わうだろうな」
「楽しみでございますね。拙者は、綿飴とやらを食べてみとうございます」
「それはそれとして、先日に稗田家から送られた馬はどうしている?」
「元気にしております。秣(まぐさ)もよく食み、夏の湿気にも負けずに聡明な目をしておりまする」
「そうか」
「殿もたまには野駆けなどなされては?」
「俺は馬には乗れん。地を歩けばそれで良い」
「ならば拙者が僭越ながらご教示致しましょうぞ! 城持ちの主たるものが、馬に乗れぬようでは示しがつきませぬ」
「俺は剣客であって武士ではない。気に入ったならば白刃が乗ればいい。力が強いならば田畑で用いよ。里人たちも年寄りが多いので助かるだろう。ただし阿求殿には丁重に礼をせねばなるまい。なにかよい手土産を見繕わねば」
当然だが馬は高価なもの。
しかも名馬となれば、半端なお返しでは非礼になってしまう。
さてどうしたものかと腕を組んで唸っていると、来客の報せがあった。
またぞろ霊夢か魔理沙あたりが茶菓子でもタカリにきたか。
そう思っていたのだが、訪ねてきたのは意外な人物だった。
応接間に通された二人の来客者は、恭しく三つ指をついて深く頭を下げる。
「突然の失礼を、どうかお許しください」
「顔を上げられよ。お二人は確か、稗田家の……?」
「はい。阿求様にお仕えしております女中の、菊と申します」
「右に同じく、小梅でございます」
二人は姉妹のようであった。
菊のほうが年上で二十歳そこら、小梅はまだ十五程度に見える。
ともあれ稗田家からの使いとなれば刀哉も丁重に努めた。
「先日は立派な馬を頂戴し、誠にかたじけない。いずれ御礼に伺うと阿求殿にお伝えを」
「は……」
「して、今日は何事かな?」
問われた二人は互いに顔を見合わせ、しばらく葛藤した後に菊の方が恐る恐る口を開く。
「その……刀哉様にお願いの儀がございまして」
「ほう? 俺に出来ることであればいいが」
「実は、この度に阿求様が幻想郷縁起の資料集めのために妖怪の山へ行かれると言われまして、私どもとしてはとても危険だとお諌めしたのですが、どうしても行かれると聞かれません。そこで、刀哉様に阿求様の護衛をお願い出来ないものかと」
「それは是非も無いが……当然、阿求殿からの頼みなのだろうな?」
「…………いいえ、私どもの一存です」
すると刀哉の眉が動いた。
「それは聞き捨てならん。主の許しも得ずに用心棒を雇うとは」
「で、ですが、私どもとしては藁にもすがる思いでして!」
「無礼者! 殿は藁ではないぞ!」
今まで黙っていた白刃が二人を一喝し、小梅はすっかり縮こまってしまう。
怒る白刃を手で制した刀哉は、健気な二人に微笑みかける。
「察するに、あの馬もそなたたちの一存か?」
「はい……屋敷の馬丁さんがこっそりと用意して下さって」
感心できる話ではないが、阿求の無事を憂う心はわからないではない。
何よりも阿求には多大な恩義がある。
報いるには丁度よい機会かもしれない。
「日時は?」
「あ、明日の早朝に」
「承知した。せっかくだ、飯でも食っていけ」
一度決めたらトコトンまでが彼の性分だ。
白刃も何か言おうとしているがモゴモゴと唇を動かすのみ。
刀哉はその後、何事も無かったかのように子供たちに剣術を教え、一日を終えた。
翌朝、まだ日が昇らぬうちに起きた刀哉は、井戸の冷水で身を清めて着替えをし、布都御魂剣を取って城を出た。伴を願い出た白刃は留守番を命じられた。
さて、件の阿求は朝の静けさの中を歩いていた。
薄緑色の小袖に黄色の羽織を纏い、肩掛けのカバンには巻紙や筆と硯が入っている。
人里の出口に差し掛かったとき、朝霧の中に立つ刀哉を見た阿求は、驚きで目を丸めた。
「お、おはようございます」
「うむ。おはよう、阿求殿」
「こんな時間に何をなさっていたのですか?」
「いやなに、これから少し妖怪の山にでも散歩に行こうかと。阿求殿こそ、早朝から何処へ?」
あまりの嘘の下手さに呆れるやら可笑しいやらで、阿求はすぐに彼の真意を悟る。
「最近、家の者たちがザワザワしているかと思えば……」
「ひとえに主人を思うがゆえのことだ。大目に見てやれ」
「ふふ、では私も、奥方様を大切になさってください、と言わせてもらいます」
「これは一本取られたか。さて、里人たちが起きると面倒だ。行くとしよう」
「刀哉さんに護っていただくなら安心ですね」
「あまり無茶はせぬように頼む」
本音を言えば一人きりで山に入るのが不安だったのか、阿求は軽い足取りで刀哉の先を歩きながら時折振り返ってはニコリと笑った。
妖怪の山には馴染みの顔も多い。
神やら天狗やら河童やら、幻想郷ならではの面々ではあるが、刀哉にとっても大切な友人だ。
問題は山に巣食う妖魔どもだ。
奴らは本能のみで生きている。
しかも、人を喰らうことを何よりの楽しみとしているので、安易に遠出した里人たちも度々餌食になっていた。そんなところへ阿求が踏み込めば、それこそ据え膳であろう。
一応、山には守矢神社へ行くための山道がある。
しかしそれでは調査にならない。
阿求は道から外れて木々の合間に分け入っていった。
早速にも化け狐やら小鬼やら人の肉が大好物の木っ端妖怪たちが飛びかかり、それらは刀哉が抜き払った霊刀の閃きで両断されていく。
普段、屋敷の奥座敷に引きこもっている阿求には中々に刺激的な光景だったようだ。
「すごい……無銘一刀流か。刀哉さんの項目に書き加えないと」
「殺生のための技だ。そう褒められたものでもない」
刃についたドス黒い血を懐紙で拭き取り、鞘に納める。
出来ればこのような連中で刃を汚したくは無いのだが。
すると、頭上から羽音が聞こえた。
「あやや! 聞き覚えがある声かと思えば!」
黒羽根を舞い散らしながら、烏天狗こと射命丸文が二人の前に降り立つ。
「これはこれは珍しい組み合わせですねえ! 失礼して写真をば一枚。どうしたんですかあ? 刀哉さんともあろう御方が、稗田家のお嬢様とお散歩とは。もしや奥様を差し置いて、秘密の逢引ですかあ? これから草葉の陰でシッポリと……ひゃあ!」
下品な冗談を口走る文であったが、刀哉が鯉口を切るや大きく後退した。
「やはりあの時に成敗しておくべきだったか?」
「あやや、冗談キツイですよお。で、なんでこんなところに阿求さんが?」
「幻想郷縁起のための資料収集ですよ。相変わらず、口から生まれてきたような饒舌ですね。新聞の方は順調で?」
「おかげさまで。幻想郷縁起の完成、楽しみにしてますよ」
「里に戻った折は鞍馬殿に宜しく言っておいてくれ」
「承知致しました! と、言いたいところなんですが、鞍馬様ったらまた何処かへ消えてしまって、私も探してる途中だったんですよねえ。それでは失礼します!」
旋風と共に文は自慢の翼で飛び去る。
まったく騒がしいことこの上ない。
ただ、阿求と文は互いに筆を取るものとして認めあっているようだ。
剣の道を行く刀哉にはわからぬ世界ではあるが、同好の士というのは美しいものだ。
脳裏に妖夢の顔が浮かぶ。
たまに道場に稽古をつけにくるが、元気にしているだろうか。
そんなことを考えながら小川に出た。
大小様々な岩が転がるせせらぎは見晴らしもよく、休息するにはもってこいの場所だ。
阿求はその風景を水墨で写生していく。
傍らの岩に座る刀哉は山桜を眺めていた。
大天狗鞍馬のもとで山ごもりの修行をしていた頃を思い出す。
厳しくも楽しい日々だった。
師がいれば風流には酒が欠かせんと瓢箪を傾けていたことだろう。
だが酒はなくとも、風流を楽しむ手はいくらでもある。
「ふう、こんなところかなあ。すみません、お待たせして」
「構わんよ。風の中に花の香りが混じっている。心が洗われるようだ」
阿求はカバンの中から竹の皮に包まれた弁当を取り出し、膝に乗せる。
「粗末なものですが、どうぞ召し上がれ」
「ほう、これはまた雅な」
皮を開くと、五目の稲荷寿司をはじめとして、だし巻き卵や昆布巻きの煮しめ、山鳥の照り焼きなどが並んでいた。無論、刀哉も弁当を持参している。ただし阿求のような花見弁当ではなく、無骨な雑穀飯の塩握りと漬物であるが。
何やら恥ずかしくもあったが、阿求に是非にとせがまれて懐から出す。
「これは白刃さんが?」
「いや、俺が作った。アレに料理はまだ任せられん」
「刀哉さんの手作り……あの、一つ頂いても?」
「阿求殿の弁当に比べれば味は数段落ちるぞ?」
手渡してみると、華奢とはいえ男が握った飯は阿求の手に余るほど大きかった。
それでも阿求は小さな口を一杯に開けて齧った。
刀哉も割り箸で稲荷寿司を頬張る。
酢飯は極上、出汁も完璧。
さすがは名門稗田家、弁当も一流だ。
年末年始や吉日ならばともかく、普段はとても城では出せない。
阿求も普段からよい食事をしているのだろう。
だが、彼女は刀哉が握った飯を、さも美味そうに頬張っていた。
口の端に麦粒をつけ、黙々と小さな口を動かす。
「茶、飲むか?」
「ふぁい」
喉につまらせそうな勢いだったので、刀哉は竹水筒を渡してやった。
食事もほどほどに済んだ頃。
阿求が不意に尋ねた。
「刀哉さんは、なぜ剣をお続けになるんですか? 怖く、ないんですか?」
「……怖いと考える暇さえ無かった。一度、鞘から抜けば、あとは死ぬか生きるか。他のことを考えると、鋒が鈍る。だから考えないようにしている」
「それでも続けるんですか?」
「俺にはこれ以外にない。これだけは、変えられない。変えるとすれば、死ぬときだ」
阿求はそれ以上聞けなかった。
あまりにも彼の生き方が哀しすぎたからだ。
友を得て、家族を得て、家も仕事も得た。
その気になれば何の苦労もない人生を送ることも出来るし、それを許されるだけの功績も築き上げた。それでも彼は血なまぐさい道を歩み続けようとしている。
もし彼が戦いの果に無残な最期を遂げてしまったら……。
脳裏に浮かんだ不吉な光景に、阿求の顔が暗くなる。
「そろそろ行こう。あまり長居しては日が暮れる。それに……」
刀哉は音もなく愛刀の柄に手をかけた。
「どうやら抜かねばならんらしい」
木っ端妖怪の生き残りの仕業か、身の丈九尺ばかりの巨躯を誇る独眼の妖怪が、身の毛もよだつ唸り声を上げながら茂みから躍り出た。それなりの力はあるらしいものの、人の言葉を操れる知能まではないらしい。
「独眼鬼(サイクロプス)……!」
阿求が驚きの声をあげる合間にも、独眼鬼は大木のような腕を振り上げて、鋭く伸びた爪で二人を引き裂こうとする。瞬時に青白い閃光がそれを払った。
「下がっていろ」
太刀を小脇に構え、刀哉の鋭い視線が敵の独眼を射抜く。
先程まで静かだった川のせせらぎに、両者の殺気が満ちる。
片や本能のままに荒々しく。
片や理性のままに清々しく。
阿求は岩場の陰から刀哉の背をじっと見つめていた。
彼の戦い、彼の生き様を見逃してたまるものか、と。
独眼鬼は巨岩を持ち上げるや刀哉目掛けて投げつける。
砕けた石塊が飛び散る中、刀哉は既に敵の懐深くまで踏み込んでいた。
このまま胴の急所に一撃すれば……と考えた直後に体を捻り、独眼鬼の蹴りを避けていた。
一発でも腹に受ければ只では済まないだろう。
気づけば刀哉は笑っていた。
互いに一撃必殺……こうではなくては面白くない。
動いたのは双方とも同時だった。迫る五本の爪を紙一重で躱し、体を捻って蹴りさえ避け、体を支える左足の腿を斬り裂く。ドス黒い血が溢れ出した独眼鬼はたまらず背から崩れ落ち、気づけば刀哉はその胸板に立ち、かのものの心臓を貫いた。
断末魔の呻き声を響かせた独眼鬼は間もなく事切れ、胴から刃を引き抜いて血を拭き取る。
「存外に呆気なかったな」
納刀しながら張り詰めていた呼吸を乱れさせる。
額の汗を拭っていると、阿求がハンカチを片手に駆け寄ってきた。
「お怪我はありませんか!?」
「大事ない。阿求殿こそ無事か?」
「私のことより……これでお顔を」
半ば強引にハンカチを渡してきたので、刀哉もそれで額を軽く拭いた。
阿求は生まれて初めて見る剣戟に興奮気味だった。
しかし、それにも増して刀哉が無傷であったことに安堵の溜息を吐く。
「……肝が冷えました」
「あの程度のこと、造作もない」
「あまり無茶はしないでくださいね?」
「わかった。では行こう」
川を上り、谷にかかった吊橋を渡れば、間もなく天狗が支配する縄張りへと至る。
見回りの白狼天狗も多く、少なくとも鞍馬天狗の弟子である刀哉は顔が知れているので警戒されることもないが、今日に限っては阿求がいるのでそこかしこから視線を感じた。
もし彼がいなければ問答無用で襲われていたに違いない。
それほど天狗の領域とは排他的で踏み込み難い場所で、いや、むしろだからこそ阿求の探究心がくすぐられたのかもしれない。
二人はそのまま天狗の山城へ向かった。
遠目に監視していた白狼天狗たちも、ここまで近づかれると黙って通すわけにはいかなくなる。門前まで進んだ二人の前に旋風と共に現れた若い者が、行く手を阻んだ。
「お待ちを。これより先はご遠慮願いたい」
「怪しい者ではない。俺たちは人里から参ったものだ」
「刀哉殿のことは存じ上げておりますが、お連れの方は我らと縁もゆかりも無い者と見受けます。部外者は早々に立ち去って頂くのが我らの掟」
すると阿求が一歩進み出た。
「突然の非礼はお詫びします。私は稗田家の当主で阿求と申します。今日は、先祖代々より続く幻想郷縁起の資料収集のために参りました」
「稗田家の……?」
「どうか、天魔様にお取次ぎください」
流石は幻想郷でも名門と名高い稗田家とあって、下っ端の天狗も狼狽え始めている。
しかし上下関係が絶対の天狗社会では直接天魔に取り次ぐこともできず、上司からそのまた上司へと話が回るうちにかなりの時間を食ってしまうだろう。
かといってこのまま無碍に追い返すというのも後が怖い。
困り果てた白狼天狗たちが円になって話し合っていると、不意に強い風が辺りを吹き抜けた。
「カッカッカ、お主らでは千年経っても結論など出ぬわい」
錫杖の音色が響き、しわがれた声が白狼天狗たちに冷や汗を流させる。
誰もが正門の瓦屋根を見上げれば、煙管の煙草をくゆらせる赤ら顔の大天狗が一同を見下ろしていた。途端に白狼天狗たちは膝をついて頭を深く垂れる。
「小僧、よう来たのう。しかも何じゃ、べっぴんのお嬢まで連れ回して、隅に置けぬのう?」
「鞍馬殿、似たようなことを射命丸にも言われた」
「カカ、あやつめが。相変わらず動きが早い。して、なんの用じゃったかの?」
「げ、幻想郷縁起執筆のために、ぜひとも天狗の里を見せて頂きたいと思って参りました」
「左様か。結構結構。よろしい、拙僧が天魔様に取り次ぐとしよう。なれど長居はならぬぞ?」
鞍馬の計らいで二人は短時間ながらも入城を許された。
本来であれば人間が決して入ることができない場所だけに、阿求の目は活き活きとして、瞳に写った光景を己の能力を駆使して、あるいは巻紙に文章として記録していく。
中にはギロリと威嚇する天狗もいたが、刀哉の冷たく静かな凄みに圧されて引っ込んだ。
阿求の踊るような足取りが何とも微笑ましい。
出来れば隅から隅まで見て回りたかったのだろうが、結局、あっという間に約束の一時間が過ぎたので二人共山城から追い出された。
「どうだ、参考にはなったか?」
「はい! とても!」
普段は月のように物静かな阿求が、今は太陽のように笑みを輝かせている。
素直に、良かったと思えた。
山を降りる頃にはすっかり夕暮れとなっており、空にはカラスの群れが山へ帰っていくのが見える。また里の家々では夕餉の支度の炊煙が立ち昇っていた。
朱色の夕日に照らされながら田圃道を歩くうちに、阿求が刀哉の前に出て頭を下げる。
「今日は本当にありがとうございました。何もかも、刀哉さんのおかげです」
「なに、礼には及ばん。礼ならばあの健気な姉妹に言ってやってくれ」
「はい! ところで、今度の納涼祭は、ご予定はありますか?」
「別段無いが?」
「もしご迷惑でなければ、一緒に回りませんか? あ、もちろん、白刃さんと回られるならそちらを優先で構いませんので……」
「ふむ」
刀哉は暫し空を見上げて黙り込み、やがてフッと笑って、不安げな顔をする阿求の肩を優しく叩いた。
「承知した。用心棒は納涼祭の終わりまで務めるとしよう」
「は、はい! よろしくおねがいします!」
その日は里の入り口で分かれた。
城に戻ると水を汲んで戻る女中と鉢合わせ、夕餉は家で食べることを告げて屋敷に上がる。
すぐさま白刃が飛んできて主人を出迎えた。
「おかえりなさいませ」
「いま、帰ったぞ。中々に面白かった」
刀を妻に預けて居間で寛ぐ。
程なくして湯浴みの準備が出来たと報せがあり、檜造りの風呂で一日の汗を流した。
浴衣に着替え、涼しい夜風にあたりながら白刃と夕食を共にする。
「ささ、ご一献」
火照った体に冷酒が染み渡る。
膳に目を移すと、今宵の夕飯は一汁二菜。
朝同様の雑穀飯と葱の冷や汁、そこに加えて泥鰌(どじょう)の蒲焼きと、茄子の揚げ浸しが小鉢に盛られていた。茄子には夏バテを防ぐために山芋のトロロがかけられている。
「豪勢だな」
「夏場ゆえ、精をつけて頂きませんと」
「ではいただこう」
食事をしながら白刃に土産話を聞かせてやった。
肴も美味いのでついつい冷酒も進み、泥鰌のおかげか胃袋もやけに調子がいい。
今年の茄子も良い出来栄えだ。
山芋も疲れた体には嬉しい心配り。
徳利の酒もすっかり無くなって、最後は冷や汁を飯にかけた。
「ごちそうさま。いかん、今宵は飲みすぎた……」
「では寝床へ参りましょう」
白刃に手を引かれて布団に腰を下ろし、夏の香りがする夜風を深く吸い込んだ。
「ふう……飯が美味いのは良いことだが、こう酒が進んでは不覚を取る。考えものだな」
「良いではありませんか。我が家、なのですから」
「我が家、か」
「そして白刃めは、殿の妻でございます。妻の前でくらい、肩の力を抜いてくださりませ」
すると白刃は浴衣の帯を解き始めた。
蝋燭のぼんやりとした明かりの中に、彼女の白い肢体が顕になる。
一糸まとわぬ姿で体を寄せてくる白刃を払いのけようとしたが、酔のためか上手く力が入らない。また先程に精をつけた為に刀哉の体も妙に火照って仕方がない。
いつしか二人は指と指とを絡ませ、布団の狭間で乱れあった。
日は改まって、里は納涼祭の賑わいに湧いていた。
人々は祭りらしく浴衣や甚兵衛などを纏い、里の中心では威勢のよい太鼓が打ち鳴らされて軽快な祭囃子もまた遊び心を掻き立てている。
赤提灯に照らされた街路には多くの出店が軒を連ねて、子供たちが親に甘味をねだっている。
大人たちも屋台の肴で既にほろ酔い気分のようだ。
日頃の畑仕事の辛さも忘れ、人も妖怪も隔てなく祭りを楽しんでいる。
刀哉も着流し姿でそれに加わった。
祭りに刀は無粋なので置いてきたが、代わりに扇子を帯に差していた。
「殿! 殿! 綿飴がございますぞ!」
「あまりはしゃぐな? 転んでも知らんぞ」
白刃が大きな綿飴を堪能しているのを眺めていると、人混みの間から、浴衣に下駄を履いた阿求が見えた。お供には菊と小梅がついており、刀哉が手を上げて招くと姉妹は恭しくお辞儀をする。
「こんばんは。楽しまれてますか?」
「ああ。にぎやかなのも悪くない」
「白刃さんとご一緒だったのでは?」
「アレならば、そら。一番はしゃいでいる」
見れば白刃は小弓を用いた射的に夢中になっていた。
しかも自身は刀の付喪神なものだから弓矢はからきしのようで、何本射ても景品に当たらない。
「ええい、店主! よもや小細工などしておるのではあるまいな!」
「めめ、滅相もない! しかしまあ、よく外れて……」
「なにをぅ! 拙者が下手だというのかー!」
そんなやり取りに周りの子供らに笑われ、刀哉たちも苦笑を禁じ得なかった。
「あの通りだ。しばらくはあそこから動くまい」
「じゃあ、私達は他所を回りましょうか」
屋台には様々な肴や菓子などもあるが、他に金魚すくいだとか風船釣りなどもあった。
それらで遊ぶ阿求は年頃の少女そのものであり、金魚を取り逃したり釣り糸が切れてしまったときなどは悔しくてむくれるなど、何とも可愛らしい一面を覗かせる。
「やあ、先生、稗田のお嬢様、りんご飴などはいかがですか?」
割り箸に刺さった真紅のりんご飴。
一口齧ると飴の甘さの中にりんごの酸味が広がって、なんとも爽やかだ。
阿求も表面の飴を舌で舐めては頬を緩ませている。
あるいはカキ氷を食べて二人して頭痛に苦笑し、刀哉にとっては生まれて初めて飲むラムネへの反応に、彼女は口を手で抑えて大いに笑った。
すると里の頭上で炸裂音と共に夜空に大輪の花が咲いた。
河童たちの手によって次々と打ち上げられていく種々の花火が、大小色とりどりの花弁を広げて、地上から見上げる人々の視線を釘付けにしている。
「綺麗ですね……」
阿求は自分でも気が付かぬうちに刀哉の腕に寄り添っていた。
「阿求殿、はしたないぞ?」
「貴方は誰ですか?」
「そなたの用心棒だ」
「なら、問題なし、です。もう少しだけ、このままで」
今まで遠くから見守ることしか出来なかった。
平穏な日々も、戦いに赴くときも、いつも陰ながら彼の背を見ていた。
故に彼女にとって、今この時は、言葉には決して出さなかった念願が成就した至福の時間であったのだろう。
「刀哉さん……これからも、ずっと、この里にいてくださいね?」
花火は更に勢いを増して人々を魅了し、寄り添い合う二人もまた、いつまでも星々が煌めく夜空を見上げていた。
これは稗田阿求が次代に生まれ変わって尚も忘れ難き、ひと夏の物語である。