「おぉ、美しい空、美しい庭、果てしなく広がる湖! ――あぁ、素晴らしい出来だ。何度心のシャッターを切っても足りない。素晴らしい。良い仕事をした。アーティスト・ゴーディ! やはりシンオウ地方の美意識はイッシュの気風と合うのではないかな。伝統的なカントー風ではないところもポイントが高い。そこはかとなくガラルの風を感じるのは、気のせいではないだろう。先見の明と言うのは、いやはや、恐ろしい。あとはバリアフリーに徹してくれたら、わたしが嬉しいのだが……数百年前にそれを求めるのは酷というものか。彼には良いリハビリだと思ってもらうとしよう! 庭! ガーデニング! アオイも野菜ばかり植えてないで、たまには花を植えると良い。心が安らぐだろう。良いアイディアだ、提案しよう!」
ぶつぶつと独り言を話していても通りすぎる誰もそれを異様に思わないのは、彼女の一連の所作を演技だと思っているからである。
東風が吹く。もうすこしで夏だろう。心の底がうずいて仕方が無い。
――彼女には、多重人格者という側面があるが、ここではあまり関係の無い話だった。もちろん、今のところは。
美しいものを見る。肌で触れる。感じる。理解する。
それは、人生における最上の楽しみのひとつだ。
パンジャ・カレンという女性は、そう信じている。ただひとり親友もそう信じて生きているだろう。
知識とは単なる寂れた時間の積み重ねではない、人生の潤いなのだ。
パンジャは、くるりと一回転してずっと一緒に歩いていたリグレーを抱え上げた。
「美しい。……ずっと見ていたいほどに。理解できるかい、リグレー。これが、この景色が、多くの人の心を震わせる光景というものだ」
彼女はリグレーの機械じみた音声も光も理解できない。
しかし、彼が感情のひとかけらでも理解してくれないかと期待を込めて話しかけ続けていた。
「もしも、君が本当に宇宙から来たのなら、ここでは美しいものを見ると良い。人の作り出したもの。ポケモンの作り出したもの。うつくしい物だが、全て美しいとは言えない。けれど、美しいも醜いも全てが命の営みだ。それを学ぶことは、きっと君の糧となる。経験値は大切だ。アオイもきっとそれを望むだろう」
美しいものには、それだけの価値があるのだから。
彼女は語り聞かせるように言って、不意に空を見上げた。それから数秒。機嫌よく手足を動かしていたリグレーが周囲を警戒するようにキョロキョロと頭を巡らせた。
眩暈だろうか。
一瞬だけ平衡感覚を失うような感覚があった。
「君か? ――いいや、違うな。では、わたしか……?」
しかし、庭園で無邪気に遊んでいるポケモンも異変を感じ取っているのか、身を潜めることができる岩や草むらに一斉に飛び込んでいく。
その様子を見ると自分だけが感じ取っている異変ではなさそうだ。
「幻覚という考えもあるわけだが……ふむ?」
リグレーとほんの一瞬だけ目が合った。
途端に「ぼくじゃないよ!」と両手を振るリグレーに、彼女は笑いかけた。
「もちろん、疑っていないとも! さあ、歩こう! 歩こう! 歩くのだ! 何か良からぬことが起きているのならば、それは幸いだ。フィールドワークは大好きだが、探す手間が省けることはまったく悪くないのでね!」
そう言って、彼女は水路を渡す橋を歩く。
起伏に富んだ庭園だ。人間が歩くとかなりの運動になるだろう。それを感じさせないのは、どこを切り取っても美しい光景のおかげだろう。
庭園をぐるりと一巡りした頃、ふぅ、と息を吐く。ふよふよ浮いているリグレーは、何ともなさそうだ。心配そうに顔を覗き込んで来た。
「大丈夫だよ。アオイならこうはいかないだろうけどね。さて、参ったな。空にも河にも、もちろん庭園にも異常は無さそうに見える……」
しかし、それならば先ほどの『揺らぎ』は何なのか。
説明ができない現象が解明されずに転がっているのは、研究者としてどうも居心地が悪い。
原因が突き止められない以上、ここに留まるのは良くも悪くもない選択肢だったが、庭園は広い。そしてパンジャが歩いたのは舗装されている経路だけだった。これは森と見紛う林まで歩くべきだろうか。もちろん、そこに原因があるかどうかはさっぱり見当もつかない。しかし、想像の余白を潰していく『しらみつぶし』は、往々にして有効な手段であることを彼女は知っていた。
そんなことを考えながら歩く。辿り着いたのは大きな河を見渡せる展望台だった。何となく行き着いてしまったが、ベンチがあるのは幸いだ。
アオイに現在地の報告だけしておこうとベンチに座り、モバイルを開く。
「送信後、10秒……返事なし。まだまだお話し中のようだね」
日よけの帽子を脱ぐとハンカチで汗をぬぐった。
「ここも良い景色だ。アルバム作りが捗る。さあ、カメラ、カメラは……はて、えぇ、どこにしまったか……カメラ……カメラ……」
探し物をしていると視界の端でリグレーがふわふわと離れていくのが見えた。
「ああ、君、あまり遠くへ行かな――あー、うん、まあ、好きにするといいよ。息抜きは大切だからね」
パンジャはそう言いつつ、彼の行く先を見た。ポケモンや幼児が遊ぶ遊具がある。リグレーが何歳なのか知らないが、楽しそうに遊ぶ声には気を惹かれてしまうのだろう。
ポッチャマ、エイパムにパチリス、ルリリ、マリル、マリルリ……彼らは、この庭園に生息しているポケモンたちだろうか?
ようやくカメラを見つけたパンジャは立ち上がり、遊びに夢中なポケモンたちを撮った。
「元気なことは良いことだよ。……リグレー、君も遊んだらどうかな。わたしはここでもうしばらく休憩しているから」
リグレーはまだパンジャの数歩先にいた。遊具で遊ぶポケモン達を遠巻きに見つめている。リグレーの性格は「ひかえめ」と診断されているようだが、それにしては引っ込み思案が過ぎる。ひょっとしたら。
パンジャは「あぁ……」と思いついたことがあった。
「もしかして、君はあまり遊んだことがないのかな」
このリグレーはもともとアオイの母、ヒイロのもとで生活していたポケモンだ。彼女は3体のポケモンを持っているらしい。ほかの彼らはリグレーと、その進化後のオーベムだと聞いていた。
エスパータイプに加え、特性の「テレパシー」で相互の意思疎通が容易――という特殊な環境からアオイ達のもとにやってきたのだ。またヒイロの研究の特性上、ほとんど軟禁状態だった彼女にポケモンを十分に遊ばせる余裕があっただろうか? ……うーん、無さそう! パンジャの考えは的中していたらしい。
ほかのポケモンより、ほんのすこし背の高いウソッキーがリグレーの存在に気付いた。
ピーピピ、と甲高い鳴き声を上げて、リグレーはパンジャの後ろに隠れた。
「なんだい、恥ずかしがり屋さん。ははぁ、さてはこれまでミアカシを隠れ蓑にしていたなー?」
アオイのヒトモシことミアカシは「むじゃき」な性格だ。興味のあることなら何でも頭から突っ込んでいく彼女はリグレーにとって「目が離せなくて心配だ」と思うと同時に、一緒にいて楽しい存在なのかもしれない。
「ひとりが不安だと言うのなら、わたしのポケモン達を――あ、すまないね。こおりタイプなので日中は露出NGなんだよ。意地悪ではない、ホントに忘れてたんだよ、ホント、ホント、トントン……」
リグレーの手が背中を叩いた。重い荷物を持って疲れた背筋に、若干効く。
その後もふたりでお話をしていると、経路から人がやってきた。
「おや――あなたは、先ほどの……」
「こんにちは! また会いましたね」
ひとりは知っている。先ほど気球に乗せて運んでくれたアリスだ。
そして、ほか3人の少年少女は。
「こんにちは!」
元気の良い挨拶に、パンジャは帽子を取り去って応えた。
「こんにちは。良い天気ですね。そして、美しい庭園です。――ああ、なるほど。彼らは君たちと一緒に来たポケモンなのですね」
リグレーがパンジャの肩に寄り掛かった。
「やあ、君。この子が、あそこの遊具で遊んでいるポケモン達と遊びたがっているんだが……ちょっぴり恥ずかしがりな性格でね。もしよければ、誘っていただけないだろうか?」
パンジャは少年に、声をかけた。なぜなら、彼の肩にはピカチュウがいて興味深そうにリグレーを見ていたからだ。
「もちろん、いいですよ! ――な? ピカチュウ!」
軽々とした身のこなしでピカチュウは少年の肩から降りるとリグレーに呼びかけた。何度かのやりとりのあと、リグレーはピカチュウのあとに続いて、階段を下りて行った。
一度だけ振り返る。それに右手を挙げ、笑いかけた。
「わたしに構わず、遊んでおいで! 旅で楽しい思い出を作ることは、素敵な景色を見ることと同じくらい良いことなのだから!」
諭すように言う。
リグレーは、もう振り返らなかった。
パンジャは少年に向き直った。
「ありがとう、君――ええ、名前を聞いていなかったね、失礼した」
「オレ、マサラタウンのサトシです」
「サ、トシ? ……サトシ君か。初めまして、わたしはハクタイシティから来たパンジャだ。夢に関する研究者をしている、街の司書だよ」
「司書さんなんですかっ!」
サッと前に進み出たのは、すこし色黒の少年だった。
三人のなかでは、一番背が高い。人好きのする笑みの少年だった。
「自分、タケシと言います。美しい自然の中でこうして出会ったのも何かの縁、いえ、きっと運命、どうでしょうか、今度お食事でも……」
「申し訳ない。わたしには、尽くすべき人と果たすべき役目がある。即ち運命というものだね。――君に良い縁がありますように」
がっくり肩を落としたタケシの肩をふたりが叩く。手慣れた様子だ。まさか出会う女性を毎度口説いているのだろうか。
「ところで、君たちは旅の途中のようだね」
サトシと並ぶ少女が元気よく手を上げた。
「はい、わたしがコンテンストに出るんです!」
コンテストとは。
時空の塔で行うとチラシがあったことを思い出し、パンジャは頷いた。
「そういえば、明日だったね。今日は前夜祭があるとか、何とか。調整はどうだろうか、順調かい?」
「大丈夫です!」
打って返ってくる答えは、きっと口癖なのだろう。
けれど意気込みは本物だ。握った両手は力強かった。
「上手くいくことを祈っているよ。――Best Wish!」
「ベ……?」
「ベス……?」
「あ」
そういえば、ここはシンオウ地方だったな。
カラカラと笑ったパンジャは、困惑する少年少女達に「ああ、すまない」と口元を押さえた。
「イッシュ地方の言葉で、シンオウ地方やカントー地方で言うところの『あなたのことを祈っています』という意味なんだ」
「そうなんですか。ありがとうございます」
しかし、彼らの頭には「?」マークが浮かんでいた。
ひょっとしたイッシュ地方の説明から行った方が良かったかもしれない。
口を開こうとしたパンジャを留めたのは、ポケモン達の騒ぎ声だった。
何事かと思って遊具を見れば、どうやら喧嘩になっているらしい。
少年達が階段を駆け下りて仲裁に入る。
リグレーは、驚きのままパンジャのもとへ飛んで帰ってきた。
「わあ、驚いた。騒動は君か?」
リグレーに聞くとしきりにピピピイ、とアラームのような声を鳴らして否定した。それから順番にポケモンを指さしていく。
誰が悪いという話では無さそうだ。
これをどう説明しようかと考えていると、風音に紛れて美しい音が聞こえた。
それは草笛だった。音色は、聞いたことがない。それでもどこかで聞いた覚えのある曲のような気がする。
(わたしの、私の記憶などアテにならないからな……アオイなら、知っているだろうか)
気付けば、音は草笛しか聞こえなくなっていた。
喧噪は瞬きの間に静まりかえり、音色に耳を傾けている。
仲裁の必要も無くなったようだ。
きのみを分け合い、ポケモン達は仲直りをした。
曲が終わる。
ほう、と安心したように息を吐いた奏者はアリスだった。
「素晴らしい曲でした」
戻ってきた少年達も口々に賞賛した。
「ありがとう、おばあちゃんに習ったのよ」
「自分、感動しました!」
タケシが声を弾ませて何度も頷いた。同感だった。
素敵な技能だな、とパンジャは思う。
争わずに諍いを治めることは難しい。
それができずにいるから、自然を巡る人とポケモンの溝は大きい。人と人の争いでさえ絶えない。
しかし、世の中には、彼女のように根治の解決ではないものの治めることができる者もいるのだ。
自分にはできないことでも、手段があることは覚えていたほうがよい。
心のノートに書き留める。
パンジャはそろそろアオイから預かっている仕事に戻らなければならないと感じていた。
鞄を握る手に力が入る。事件の発端は、その直後のことだった。
エルレイドが軽い身のこなしで森から飛び出してきた。
真っ先に気付いたアリスが目を瞬かせた。
「エルレイド? どうしたの?」
エルレイドは階段を飛び越えると森を指した。
その声音は緊張していた。この場の誰もが「何かが起こった」と察していた。
彼らは遊んでいたポケモン達をボールに収納すると階段を駆け上がっていった。
「わたし達も行こう。発見があるかもしれない」
パンジャも同行を決めた。
階段を上がるとエルレイドの後に続き、庭園を駆け抜けていく。
森を抜けると開けた場所に出た。庭園の池のための貯水槽らしい。
だが、美景のなかに異物があった。
「これは……ひどい、誰がこんなことを……」
アリスが苦しげに言った。
彼女が見ているのは立ち並ぶ石柱の根元だった。
数本の根元が捻られていたのだ。
わたしが見ましょう。パンジャは進み出た。
「――石造りの柱、これは間違いない。まあ、材質は石だから、壊すことは簡単だ。しかし、この状態に『石を捻る』ためには、高熱で溶かしてもこうなるだろうか? 溶けたチーズのようだ。庭園のポケモン達が喧嘩したとか……? ふむ……判断の材料が足りないな……」
推測で誰かが口を開こうとした、その瞬間。
「ダークライだ」
断定的な男声に、全員が石柱から目を離す。そして、木々のアーチから現れた彼を見た。
木陰から現れたのは赤髪でオールバックの青年だった。貴族の格好をしている。この街の名士だろうか。
たっぷり注目を浴びた後で、彼は全員をぐるりと見渡す。そして、口元で軽く笑った。鼻につく、なんだか偉そうな雰囲気だ。
少年達は萎縮しているのではないだろうか。
パンジャが心配して様子を見るが、どちらかといえば呆気にとられる、という状態だったので問題は少なかった。
「アルベルト……。何か知っているの?」
アリスが訊ねると彼は「ふぅ」と軽く息を吐いた。
「近頃、ダークライを街で見かけたという話を聞いた」
「ダークライってなんですか?」
サトシ少年の質問に、彼はどこか自慢げな顔をして崩れた石柱を踏みつけた。
「これを、やったポケモンだ」
「ポケモン?」
ヒカリが驚いたように言う。初めて聞く名前だったので、彼女はそれを現象の名前と思ったのかもしれない。
パンジャにとってダークライは、恩とも仇とも言いにくい存在だ。
とはいえ。
「証言は本当だった――というワケか。なるほど」
彼女の呟きに、ほんのすこしの時間だけアリスと目が合った。
「ああ、ええと、そう、この庭に、いるらしいんだけど……」
「自分、聞いたことがあります」
タケシが思い出そうとするように顎に触れながら言った。
「悪夢を見させるポケモンですよね……?」
その言葉を聞いて、少年達は困惑していた。
悪夢。悪夢とは何か。いまいちピンと来ていない顔だった。
「そう。ダークライの周囲で眠ると悪夢を見てしまう。ナイトメアと呼ばれる特性を持ったポケモンだ。彼らが悪意を持っているわけでも、意地悪しようという意志があるわけではない。ただ、そういうモノというだけだ。それだけ。ただ『それだけ』だが、それが致命的でポケモンの生態系の中でも浮いてしまっているポケモンだ。……分かりにくいかい? 馴染みにくい、という意味だよ。仲良くできないんだ」
「詳しいんですね……あっ。そうか、夢について研究しているからですね?」
タケシの言葉に、パンジャは頷いた。
「そう。――だからこそ、ミスター・アルベルト。ダークライの仕業と断定するのは誤りです。彼らが干渉できるのは『夢』であり、『現実』ではない。彼らはこの柱を捻ることはできない」
「なにぃ? だが、証言がある。ダークライが現れてからだ。この石だけではない。街のあちこちで似たような現象がある。そして、ダークライの目撃証言があるのだ!」
不明な現象に明らかな根拠を結び付けたがるのは、不安の解消を目的とする無意識の思考だが――好ましい心理とは言えない。
パンジャは首を振り、言葉を捨てるように手を払った。
「研究者として残念なことだが――この石柱も他の件の原因にも情報が少なすぎてまったく見当が付かない。だが、悪夢を研究している私達が確実に言えることは、それらはダークライが原因ではないということだけだ」
「はっ。話にならんな」
アルベルトはパンジャとの視線を切った。
「残念なことだが同感だ。しかし、異常事態であることは確かなようだ。……原因が分かるまで、流言は控えた方がよいでしょう。いたずらに人々を煽り立てても仕方が無い」
パンジャの忠告は無視された。もっとも、聞き入れられるとは思っていなかったが。
彼女はカメラを取り出すと石柱の写真を撮った。
その時だ。
風の音に紛れて、草木の揺れる音が聞こえる。そして、この場にいた誰もがそれに気付いていた。何かいる。思わず叫ぶアリスの声に全員が身を固くした。そのなかでアルベルトは揚々とモンスターボールを開く、そして現れたベロベルトに躊躇いなく命じた。
「ベロベルト、はかいこうせん!」
果たして、草藪に命中した。
やったか……! そんなことを呟いたのは誰だったか。
「もぉ……なんだよぉ……いきなり……もぉ……!」
だが、草むらからよろけて出てきたのは青年だった。思わず「あっ」と声を上げたアリスがよろめく青年に駆け寄った。
――アリスさんの知人のようだ。これは、ひょっとしなくても人違いなのでは。
パンジャは、気まずい雰囲気になっているのでは無いかとアルベルトをちらりと見る。しかし、彼は悪びれた様子が無かったので、やはり問題は少ないようだった。
騒動から数拍遅れて「何事かな」と低く問いただす声が後ろから聞こえる。聞き慣れた声に振り返れば、ちょうど杖を突いてアオイが現れたところだった。
「大きな音が聞こえたようだが――おっと、パンジャ。ここにいたのか」
足が不自由な彼なりに急いで来たらしい。
暑そうにシャツの襟を引っ張っていたが、パンジャを見るなりキッチリとボタンを首まで締めた。
「アオイ、どうしてここに。研究室は?」
「そこにいるとも。トニオさんとお話をしていたのだが、異常な数値を捉えてね」
パンジャは首を傾げる。そして、ポンと手を叩いた。
「そうか、彼が……」
「トニオ!?」
土埃にむせながら現れた青年トニオは、よれた眼鏡フレームを耳にかけた。
「ひどいなぁ、もう……」
「大丈夫? はかいこうせん直撃だったように見えたけど」
「足下だったから大丈夫。ちょっと衝撃が来ただけ……」
砂埃を払いながらトニオは苦笑した。
しかし、助け起こしたアリスに安心させるどころか、心配と驚きを招いたらしい。
「しゃんと立って。怪我は……無いように見えるけど」
「ア、アリス、大丈夫だって……」
まじまじとそばで見つめるアリスに彼は赤面した。自己紹介を始めるトニオを傍目に、パンジャの近くにいたヒカリがその様子に何か気付いたようで口をもごもごと動かした。
「……君は、大丈夫だな」
アオイが周囲を見回しながら言った。
普段、こういう機微に疎いはずの彼だが、アリスとトニオを見て気を遣っているらしい。
「攻撃から離れていた。問題は無い」
「ならばいい。引き続き周囲に気を付けてくれ。この街には、何かがいるらしい」
彼の言葉は不穏の前兆だった。そして彼も警戒していた。
一方で、アオイの足元でひょこひょこと小さな焔を灯しているヒトモシ――通称ミアカシが、リグレーと再会を喜び合っている。
ちぐはぐな光景にパンジャの感情は、かき乱されるようだった。
「ダークライのことかい? ああ、ダークライの言った通りだ。やはり、ここにもいるらしい」
証言が見つかりそうだからね。
パンジャの言葉にアオイは温度の無い声で答えた。
「ダークライのことは『今は』どうでもよいのだ。別の問題が発生しているらしい」
「別の問題とは?」
「先ほど、街の一部の空域に重力値がマイナスに転換した空間が発生した。通常であれば考えられないことだ」
「マイナスだと、どうなるんだい」
「体にかかる負荷が軽くなるだろう。――これはつまり、そのままの体では地上における活動に支障があるものが現れた、ということではないだろうか」
「とても大きなポケモン?」
そうだ。――と彼は端的に言てしまいたかったに違いない。
短く息を吐き、彼は空を見上げた。
「……私は、それがヒイロの企みであれば良いと思っているが、どうせポケモンなのだろうな」
アオイが先ほどからしきりに空を見ている理由は、そういうことらしい。
トニオがしゃがみ込み石柱を調べ始めた。
「あれは?」
「ダークライがやった、という話だが……実際のところはどうなのだか。炭化した様子が無い。焔ではなさそうだ」
「……ふむ。私達は物理学は専門ではないからな」
それにしても奇妙な捻じれ方である。
不思議に思うアオイがそばで見ようと足を進める。
何やら貴族風の青年を見つけて足を止めた。
「ご機嫌よう」
「ああ、ご機嫌よう」
「私、アオイと言います。夢について研究している者です」
ああ、そう。――素っ気なく彼は言った。自己紹介してくれないかと名乗ってみたが空振りに終わった。
「パンジャ」
情報を求められて、彼女はひそひそと耳元でささやいた。
「彼はベロベルトだかベルベルトだがベロリンガ……まあ、そんな感じの名前らしい」
「そうですか。ペロペルトさん」
「ア! ル! ベ! ル! ト! 男爵だ! 覚えておきたまえ」
「男爵? シンオウ地方に貴族制度があったとは驚きだ」
「イッシュのようにリベラルな地方だと思っていたから意外だよね」
「ああ、自称でないことを祈ろう」
ふたりの会話を聞いてアリスがくすっと笑う。同じように笑いかけたトニオの頭に崩れかけた石柱の欠片が降ってきた。直撃だった。痛いぁ、とパンジャは見守っていた。
「トニオ! 頭、大丈夫……?」
「だ、大丈夫……平気、へいき……」
「――アリス、そんなヤツに優しくしてやるこたぁない。陰気な研究に付き合って、君もうんざりしているだろう。君はわたしの未来の妻なんだ」
二人分のどよめきの声が聞こえた。サトシ少年が「へぇ」と事態をのみこめない呟きを漏らしたのが妙に印象的だ。少女が「嘘!」と思わず叫んだのには同感だ。
親し気な仕草でアリスの肩を抱いたアルベルトは、あろうことか彼女にサッと手を払われていた。
アオイが性格悪そうに口を歪めて「フッ」と小さく鼻で笑う。目は雄弁だった。「もっとやれ」と言わんばかりに見つめていた。パンジャは(バレるよ)と肘で小突いた。
「その話は! きっちりお断りしたはずです! ……わたし、まだ結婚なんて考えてませんから」
「いやぁ、ごめんごめん、人前で話すことではなかったね。謝るから、さ、どうかね、これから我が邸宅でお茶でも――」
二人分の安堵の溜息が聞こえたのも一瞬。息を呑んであわあわしていると、ふたりの間に割って入る少女がいた。ヒカリだ。
「ちょっと、アリスさん、嫌がってるじゃないですか!」
ヒコザルも同調して彼女の足元で騒いだ。
その様子にアルベルトは一応の余裕をもって応えた。
「んん、失礼だよ、お嬢ちゃん。邪魔! さ、行こうアリス。いいお茶が手に入ったところなんだ――」
しかし、アルベルトの手をかわしアリスはトニオに駆け寄った。
駈け寄られたトニオは、全員の注目を集めてしまいポカンと技を忘れたポケモンのような顔面をさらした。
「わたしは、トニオが好きなの!」
一人分の悲鳴が聞こえた。タケシだった。……君、わたしだけではなくアリスさんにも告っていたのか。そのうち刺されるぞ。なんてことを思ったか思わないかという頃、アルベルトの笑い声が響いた。
「はっはっはっは! 久しぶりに笑える冗談を聞いたよ!」
冗談で言いだす話にしては、全員が素面だった。
トニオだけ、自信なさげに眉を下げたまま「冗談だよねー……」と苦笑いをして場を濁した。
「トニオ、もう……!」
プイと怒ったようにアリスはそっぽを向く。
「アリス……」
ひとしきり苦笑いを済ませた後で、トニオは彼女の名前を呼んだ。
「あぁ、よかった。脈なしってワケではなさそうだ。片思いは切ないからねぇ」
「――。……?」
パンジャのこそこそ話に、アオイが何かを訴える目で見つめてくる。
「何だい?」
「いや、私にプレッシャーをかけているのかと思ったのだが、違うのだな」
「はい? ああ、わたしは君に婚約を迫るなんて真似はしないよ」
その点、分かっているものだと思っているのだけど。
そのように伝えるとアオイは表情を硬くして頷いた。
「知っている。我々は世界一信頼できる親友同士だと自覚している」
「そうとも、そうだとも。親愛なる君、親愛なる友よ」
「……しばし……いや、当分は、という話だが」
君がそれを望むならば――と言おうとして、彼の呟きは聞かなかったフリをしておいた。いずれ、相応しい時期というものがあるのだろう。奇跡のようなそれを待つとパンジャは決めていた。その時までに自分の心の準備が済むだろうことも期待しながら。
アオイとパンジャがお互いに情報交換をしようと手帳を開いた、その瞬間だった。
三度、空気が細かく振動するような衝撃が全員を襲った。
「まただ……! 何なんだ、この現象は……」
「観測が追い付かないな。こうも頻繁だとは――」
アオイが空を見上げる。
エルレイドが警戒の声を発した。
警戒する視線の先、石造の花瓶が石の擦れる音を立てながらゴトリと地面に転がる。
誰かが叫ぶ。森の暗所にある草むらは揺れていた。
「何かいるぞ!」
「ミアカシさんっ」
アオイは、事態が飲み込めず「ぽやぁ」としていたミアカシを拾い上げる。彼の前にパンジャが立った。
「……アオイ、下がって」
「いや、手を出す必要は無いとも」
体を強張らせながらも杖を突いたアオイはパンジャと目配せする。
ダークライ。小さく囁いたトニオがアリスをかばうように一歩前に出た。
「ここニ、来るナ――」
ダークライの声だ。ざらついた低音。アリスが怖いと身を縮めた。
暗い森に光が差し込む。
煙のように身を揺らしながらダークライが現れた。
「やはり、現れたな、ダークライ!」
意気揚々とアルベルト男爵が不敵に笑う。
このまま下がろう。
提案しかけたアオイの言葉をかき消したのは、アルベルト男爵の声だった。
「はかいこうせん!」
「――彼、ばかじゃないのか」
「アオイッ!」
思わずイッシュ語で呟くアオイは、咄嗟に振り返ったパンジャに押し倒された。
そこからの出来事は一瞬だった。
はかいこうせんの一撃を察知し、素早く影に隠れたダークライがベロベルトを翻弄する。少年達がどよめきながら大きな瞳をパッと開く。そして、突如現れたダークライの手に暗いエネルギー弾がたまっていく。シャドウボール、いいや、きっとダークホールだ。
ベロベルトへ直撃するかと思われたそれは――意外に軽やかな身のこなしで避けたことで、偶然後ろに立っていたサトシ少年に当たった。
「ワぁッ!」
驚きの声を残してサトシは倒れた。
「アオイ、ダークライが消えた」
パンジャがアオイの上から退く。
助け起こされたアオイは辺りを見回して確認する。
「そのようだな」
「探そうか」
「研究者であれば、そうするべき――……なのだろう。だが、パンジャ、今はサトシ少年を介抱しなければ」
ヒカリやピカチュウが泣きそうな声で名前を呼ぶ。
少女の痛々しい声音が耐え難かったのだ。
■ ■ ■
運び込まれたポケモンセンターでは、驚いた顔のジョーイさんがいた。
けれど、事情を聞くと「ああ、やっぱり」とどこか納得した顔に変わった。
ポケモンセンターの個室で、事情を知る彼らは集まっていた。
「いつか、そうなるだろうと思っていました。……あのダークライは、きっと控えめなだけで、戦う手段が無いポケモンではなさそうですし……」
「ああ、それに先に攻撃したのは男爵だったから」
トニオは、その一点で納得したようだ。
「サトシは、いつ目覚めますか?」
「……近くにダークライがいなければ、そう長くは無いでしょう。せいぜい数時間といったところでしょうか」
ヒカリの疑問に答えたのはアオイだった。
ジョーイが不思議そうに彼を見た。
「どうして分かるのですか?」
「何度か実験した結果です。――あぁ、申し遅れました。我々は、ダークライの悪夢について研究しているのです」
「アオイさん、でしたっけ、ダークライに会ったことがあるんですか?」
「……ええ。ここだけの話に留めて欲しいところですが」
「それでは、うなされているのは」
「何か悪夢を見ているのでしょう」
心配そうにヒカリが彼を見る。
気遣わしげにピカチュウが鳴いていた。
「サトシでも悪夢を見るんだ……」
「ちょっと能天気なだけで、いろいろ考えることもあるんだろう……たぶん」
ヒカリとタケシの会話に、すこしだけ安らぎを取り戻していたのはアリスだ。
「……でも、どうして。ダークライは滅多に出てこないのに」
「そうですよね。わたしも何度か聞きました。今年に入ってから目撃情報が多くて……」
ポケモンセンターは、特性として情報が集まりやすい場所だ。
ジョーイが言うのならば、それは真実なのだろう。大人達は互いに顔を見合わせた。
「ダークライは、非常に賢いポケモンです。そして私の知る『彼』は義理堅い。約束を守るポケモンです。……何か、彼にとって大切なものが脅かされているのかもしれません。ダークライの活動は原因ではなく、原因への反応ではないかと思うのです。街の皆様に心当たりはありますか?」
「大切なもの……」
アリスが目を伏せて考え込む。
けれど、その答えが出てくることはなかった。
ピカチュウの「じゅうまんボルト」が目映い閃光を放つ。アオイは驚いてベッドを見つめた。
「サトシ! 目が覚めた!」
「よかったぁ……!」
「あれ、オレ……ピ、ピカチュウ! 無事だったんだな!」
錯乱しているのだろうか。アオイが観察しているとヒカリがサトシを揺り動かした。
「こ、ここは?」
「ポケモンセンターよ。あなたは、ダークライに眠らされて悪夢を見ていたの」
ジョーイの説明に、サトシは思い当たる節があるのか「あぁ」と納得した。
「夢だったんだ……」
ベッドシーツに目を落としたサトシは、すこしの間、目を閉じて深呼吸した。
「かなり苦しそうだったよ」
タケシがホッとしつつ、眠っている間のことを伝えた。
話が一段落ついたところで、ジョーイが申し訳なさそうに言った。
「ダークライは……普段は、人前に出てこないポケモンなんだけど今回は……ええ、街にいろいろと問題があって難しい時期だったみたい……」
「街のみんなからは、嫌われているみたいですね」
「ナイトメアのせいで眠っている間に悪夢を見てしまうから、疎まれているわ。……ダークライが何か悪いことをした、というワケではないのだけど、どうしても、ね」
「悪夢なんて、誰も見たくないですからね……」
ヒカリが「御免だ」という風に手を振った。
「ダークライのやつ……! 今度会ったら絶対にバトルしてやる!」
意気込むサトシにアオイは記憶の欠陥が無いか聞きたいのだが、どうにも興奮してそれどころではないらしい。
パンジャが控えめな咳き込みをした。
「――だそうだよ、アオイ。一般の少年少女の意見は貴重だと思わないか?」
水を差し向けられ、彼らの不安を拭うために、アオイは口を開いた。
「ええ、皆さん。ダークライの悪夢は、たしかに、仕方の無いことです。健康に害を与える。しかし、それで止まるほど研究者は飽きっぽくないものでね。彼らの体質に意義を与えようというのが、私たちの研究です。つまり、他のポケモンや人と共存できるように暮らしの在り方を考えよう、というものです。実験も成果も、まだまだこれからですが。隣人としてはうまくやっていると自負しています。――彼らにも彼らの事情があることを、どうか理解してほしい」
「さっきは、男爵が先に攻撃したし……」
アリスの言葉に、ひとまず彼らの気持ちは収まったようだった。
「……怖い思いをしたのだから水に流せとは言わないが、慎重にね。ダークライも君たちの存在を理解しただろう。――ところでサトシ、君、といったね。記憶に思い出せないことはないかな? ダークライの悪夢を見た後は、すこしだけ記憶に不和が発生することがある」
「何もありません、けど……」
「そうか……。もし、気になることがあったら質問に答えよう。今すぐに……ではなくて結構だ。君も混乱しているだろう。我々はあと数日ホテルに滞在する予定だ。日中は外でフィールドワークをしているが、何か情報があれば教えてほしい」
サトシが頷いたことを確認して、アオイは席を立った。
「……サトシ君も起きたし、我々はここで失礼する。街の様子も見てきたいのでね。それではBest Wish!」
トニオには明日も研究室へ通うことの約束を取り付けていた。
ポケモンセンターの廊下を歩きながら、アオイは隣を歩くパンジャに尋ねた。
「パンジャ、そろそろホテルにチェックインしてもいい時間だったな」
「ああ、午後三時からだ」
「荷物を置いてから、街のフィールドワークをしよう」
「了解した」
「……謎がその辺に転がっている状況は、何だか落ち着かないな。ダークライが、理由もなく暴れているワケがない」
「その話だが、気付いたか?」
何が。
パンジャは荷物を背負い直した。
「トニオさんは、その話になったら顔色を変えた。何か知っているのかもしれない」
「よく見ていたな……気付かなかった」
「人の顔は良い。情報が飛び交う、刈りたての芝生のようだ。人の顔を見るのは得意だとも」
「では、私の顔には何が見える?」
試すように顔を向けると彼女は視線を彷徨わせた。
「……さぁ。読めない。わたしは、君の顔だけは読めない。君の顔にうっかり拒否を見つけてしまったら悲しいから、心のどこかで理解したくないと思っているのかも……」
「私は大らかな性格ではないが――君に狭量な男だと思われるのは我慢ならないな」
「んー、それじゃ足が痛いとか、そういうこと考えているんだろう。眉間に皺が寄っているもの」
「当たりだ。……運動不足にはこたえるよ」
今日は、長い橋を渡り、庭園のなかを走り回った。普段の活動量からは考えられない足腰の酷使にアオイは立っているのもやっとだったのだ。
途端に鈍くなる歩行に、抱かれていたままのミアカシがアオイの腕を叩く。
――早く、早く。
ミアカシに急かされて困っているアオイは何だか妙に可愛らしく見えてパンジャは笑った。
「わ、笑うことないだろう」
「ごめん、ごめん。ほら、支えるよ。休みながら行こう」
そうして。
彼らは、ポケモンセンターを後にした。
【あとがき】
だいぶ間が空いてしまいましたが、出来上がったところまで投稿します。
お読みいただきありがとうございます!
作中、面白かったもの、興味深かったものを教えてください。
-
登場人物たち
-
物語(ストーリーの展開)
-
世界観
-
文章表現
-
結果だけ見たい!