トニオは、異変が起きているという橋に向かい走り続けていた。
重いパソコンを持って走る。まるで空気が凝り固まっているように、呼吸は苦しかった。けれど、体は不思議と軽い。
現状は見渡す限り疑問だらけで、頭の中は情報が渋滞していた。『どうして』と自分に問いかける。
答えは、封鎖された大橋を見た時に分かった。
『これは、ダークライの仕業じゃない』
一時の共同研究者は、それをダークライの能力より説明した。けれど、トニオは違った。
「――違う。そうじゃない。違うんだ」
「トニオ?」
アリスが、困った顔をする。
トニオは首を横に振った。
そんな顔をさせたくて、呼び止めたんじゃない。けれど、この気持ちこそが正解なのだと思う。きっと『彼』もそうだ。小刻みに震える彼女の細い手を握る。そして、伝えた。
「アリス、聞いてほしい。――あの日、君を助けたのは僕じゃなかったんだ」
「え?」
長らく疑問だったことが、今になって分かり始めている。
『ダークライは異変の中心にいるのだろうか?』
男爵が語り、一時の共同研究者は否定した。
けれど、トニオが捨てきれなかった疑惑は、たった今経験が否定した。
「僕を信じてほしい。そして、何よりダークライを信じてほしい」
驚き瞠られるアリスの瞳は、昔日と同じ色をしていた。
■ ■ ■
「ダークライのせいだ! この街の異変はすべてダークライの仕業なのだ! ダークライをやっつければ、必ずすべては元に戻る! 優秀なポケモントレーナー諸君! 私に力を貸してほしい! 憎むべき悪のポケモン、ダークライに正義の鉄槌を下してやるのだ!」
ベロベルトなりしアルベルト男爵が、威勢よく宣言した。
ほとんどのトレーナーがそれに同調した。
「パンジャさん、あのぅ、アレ言わせておいていんですか?」
コソコソと小さな声で名前を呼んだヒカリは、パンジャの袖を引いた。
「……うぅん。判断が難しい。ああ、もちろん。良くはないし、正しくはないのだが、現状のところダークライには本当に申し訳ないことだが……他に理由が見つからない以上、彼にやり玉にあがってもらわないと困る。人間を疑い出したら、死人が出そうだ。パニックで疑心暗鬼なんてB級ホラー映画でもわりとある展開じゃないか」
「そうですか……」
「わたしにも問題がある。我々には、客観的に示せる『ダークライではない証拠』は無いからね。分の悪い弁護だ。それに――」
パンジャは、橋の向こうを眇めた。
「『ダークライが原因ではない可能性は大きい』――とはいえ、彼が解決のために動いているのか分からない。まあ、やみくもに攻撃を加えているワケではなさそうだから、彼も彼なりに何とかしようとして動いているのかもしれない。でも、その結果、状況を最も掻きまわしているのは彼だ」
「…………」
「その点、アルベルト男爵の言葉には一理ある。敵か味方か分からないのなら――倒さずとも――彼をしばらく動けないように封じてから状況を見るべき、かも、しれない」
彼女は、鞄を握りなおしてトニオに視線を映した。
「さて。状況は、三つに分かたれた。ひとつはダークライ。目的は不明。二つ目。男爵率いる討伐隊。目的はダークライの成敗。そして、三つ目。わたし達は第三勢力になりうる」
少年少女達の混乱と困惑を深めた視線が棘のように痛い。それに構わず、パンジャは指先でモンスターボールを弄んだ。指はついにボールを弾き――眩い光と共に現れたフリージオが鈍く陽光を反射した。
「わたしはアオイの合流を待って街の調査を続けますが、あなた方はどうする心算ですか?」
「僕らは……」
「……。我々はトニオさん達と争いたくない」
――仲間同士の殺し合いは、ちょっとマンネリ、いえ、ウンザリ気味なのです。
パンジャの小さな呟きは誰にも聞こえなかったが、ずっとモニターを見ていたトニオが顔を上げた。
「僕が、原因を見つけるよ。――上空からフワライドに街のデータを取ってもらっていた。まだ調べられることは、あるはずだから」
「分かりました。健闘を祈ります。――それでは、Best Wish!」
パンジャは、手を挙げて彼らに背を向けた。
(何となく予感がする。時間が少ない)
なぜそう思うのか。自問自答した彼女は、トニオ達の姿が見えなくなってから足を止めた。
リグレーがピピ、ピと警戒の音を鳴らす。音は響かない。
しかも石畳は暗く、淀んでいた。
「ああ、そうだ。警戒。警戒が必要だ。絶対的な警戒が必要なんだ。だって。どうして。風が止まっているんだ」
パンジャは空を見上げ、静止した雲を見た。
■ ■ ■
「これからどうする?」
トレーナー達の背中を見送った後。
少年たちは顔を見合わせた。
「どうするって……」
「事情を知っていそうなダークライを探すしかないだろうな。できれば、さっきのトレーナー達より前に」
タケシの案に、サトシとヒカリが頷いた。
話は、一瞬、まとまりかけた。
「ダークライ……。あの、サトシ君――」
声をかける。
足を止めたサトシには、きっとアリスの不安そうな顔が見えただろう。
「アリスさん……?」
「きっと戦いになってしまうから……でも、ダークライを……」
「できる限り、声をかけてみます。それに、ダークライは強いから大丈夫ですよ!」
アリスは「うん」と小さく頷いた。そして。
「トニオ、わたしはサトシ君達と一緒に行くわ」
「ああ、僕は研究室に行く。みんなはダークライを。……でも、無茶はしないようにね」
「はい!」
二手に分かれ、トニオは研究室に走った。
■ ■ ■
「アオイ、気分はどう?」
「二、三日休みたい気分だが……大丈夫だ。フィールドワークしよう」
アオイがパンジャと出くわしたのは、ポケモンセンターの出入り口だった。
ラッキーが忙しく出入りし、水や食料品を求めてやってきた人々に配っている。
アオイの足元をうろうろするヒトモシのミアカシがその様子を興味深そうに見ていた。
「……そう面白いものではないだろう。……いや、君には新鮮な光景なのかな」
生まれて一歳とすこしのミアカシは、まだ見るものすべてが新しい様子だった。
もっとも、現在は緊急事態なので特に興味を惹かれたかもしれない。
「アオイ、早急に伝えなければならないことがある。――風が動いていない」
「…………」
アオイは、そう言われてミアカシの頭上に灯る焔を見つめた。しかし、彼女は動き回っているのでアテにならないことに気付く。大人しく手袋を外して指を舐めた。
「……その、ようだな。無風状態は、珍しいが無いわけでは無い――と突っぱねたいところだが。橋はどうだった?」
「ああ、聞いてくれよ! 鞄をね、こう、霧の向こう側に投げるんだよ! すると、同じ速さで戻ってくるんだ!」
「そりゃ楽しそうだな」
アオイは、他意無く言ったのだが、パンジャの繊細な心には刺激が強かったらしい。
表情を無くして詰め寄られた。
「――そう思わないとやってられないんだ」
異常事態なんだから、と彼女は言った。パンジャは、語弊を恐れず言うとキレていた。
アオイは迂闊な発言だったと謝罪した。彼女を怒らせて良いことは何も無いのだ。
「だ、だろうね。いや、ご苦労――違った、ありがとう。調べてくれて。わ、私の足はこれだからね。頼りになるよ」
「……どういたしまして。まあ、後でゆっくり話をするとして。男爵が扇動してトレーナー達はダークライ討伐に出た。サトシ君達はダークライに接触を試みるようだ。情報収集としてね。トニオさんは地下でデータの精査するとの話だ」
「ふむ。……まあ、それしかないだろうな、という行動選択だな。私達もそう変わり映えしないが……」
「何か策があるのか? 何か、こう、起死回生、9回の裏満塁ホームラン的な策は」
「リグレーに強めの幻覚をお願いする程度かな」
「よし来た! やれ! リグレー! とびっきりの幻覚を食らわせてやるんだ!」
彼女はミアカシと楽し気にお話していたリグレーをひっ掴むとアオイに突きつけた。リグレーは当惑して『ピ、ピー、ピ』と鳴いた。
「パ、パンジャ、場を和ますジョークだとも」
「そういうことにしておこう。今はね。それで、真面目なところ、どうなんだ」
「怪しいところを探すしかないだろうな」
「怪しいところって?」
アオイは腕を組んで宙ぶらりんの雲を見つめた。
「ふむ。庭園にいたダークライが、この街の中を闊歩しているところを考えると……やはり、この街のどこか、なのだろうな。まずは、時空の塔を目指そう。何か異変があった時、街のほぼ中心部に位置する時空の塔の近くならば全体を見渡すことができる」
「了解だ。――そうそう、君はそれでいいんだ……」
「何がだい」
しみじみとパンジャが言うのでアオイは訊ねた。
「方針を定めることは大切だ。星が無ければ舟は漕ぎだせない」
「頼りになるかどうか分からないぞ。私だって分からないことだらけなんだ」
すべての辻褄を合わせるために、必要な情報を探す。今はそれしかなかった。
そうして、街の中心へ歩き出したアオイ達だったが、その行く手はあっさりと妨げられることになった。
「――あっちに行ったぞ、追え!」
「こっちだ! 囲め!」
何事だろうか。
声を探し頭を巡らせるより先に、角から曲がってきたトレーナーと正面衝突しそうになり、パンジャに助けられた。
あまりに素早い動きだったので喉から変な音が出た。
「おプっ……パンジャ、首しまる……!」
ケープの紐が喉を直撃している。
咳き込むとパンジャは一拍遅れて「ああ」と手を放してくれた。
「すまない。大丈夫? 前も見ずに走ってくるなんて危ないトレーナーだ。すり抜け様に足をかけてやろうかと思ったが」
「やめておいて正解だ。荒事に突っ込んでいくものではない」
危なく踏まれそうになったミアカシがアオイのズボンを引っ張った。掬いあげて腕に抱える。
片手で乱れたシャツの襟を整えながら、二人はトレーナー達の喧騒を聞いた。
「ダークライを見つけて、その追い込みといったところかな」
「杜撰なラプラス漁を見ているようだね」
何と感想を言うべきか迷っていると壁を通りに抜けた半透明のドーミラーがふたりの間を通り抜けた。ミアカシがアオイの腕を飛び出してドーミラーが壁に入っていく後を追いかけた。
今この瞬間にも、悪夢のなかで彷徨っているポケモン達がいるのだ。
視線を切るとアオイは前を向いた。
「急ごう」
杖を手繰り、アオイは駆け足になる。
思考は目まぐるしく、加速的に流れた。思い浮かぶ策のどれもがこの状況を変えるほどの力を持たない。
誰が何をやっても原因が分からない以上、手詰まりが見えている。最悪の想定を浮かべて、彼は顔を顰めた。
「アオイ?」
「パンジャ、よく聞いてほしい。そして考えてほしい。――本当は、話すつもりはなかったんだ。前提条件が多すぎて口に出すのも嫌な話だ。何より事実だったら打つ手が無さそうだから」
「何の話?」
「仮定の話だ。トレーナー達がダークライの探索と並行して行っている街の巡回で異常が見つからなかった場合。そして、トニオの研究が間に合わなかった場合。また、この街に入り込み異常を起こしているものがダークライではなかった場合。それらがすべて成り立つ時、容疑を受けるポケモンはどこにいるのか。『見つからないように細工をしているポケモンを探す』方法は、そのどれも不確実で時間がかかるだろう。特に、私の提案する方法は」
「それは?」
「彼女だ。――ミアカシ、魂を探してほしい。それは姿が無い。けれど、確かにこの街のどこかにある魂なんだ」
「モシ?」
アオイ の せつめいする !
ミアカシ には こうかがないみたいだ…
「そう首を傾げずにだね、頼むよ。君だけが頼りなんだ……!」
「モシ?」
アオイ の なきすがる !
ミアカシ には こうかがないみたいだ…
アオイは咳払いをして、片手を振った。――忘れてくれ、と言うように。
「やっぱり、アレだよ、抽象的過ぎるんだな、魂という概念が。説明が難しいていけない。あー、ミアカシさんがいつも燃やしてるアレだよ、アレ。君がよく拾い食いしそうになるヤツさ」
「アオイ、ミアカシさんには難しいんじゃないかな。あと、他の魂やらに興味が無さそうなのは、君の命がおいしいんじゃないかな。そう。命。ああ、そうだった。わたしも君の命に興味があ――」
「あああああッ! 私は! 何も! 聞かなかった! 足で稼ぐぞ! 主に君がッ! 行くぞ!」
「後で、ゆっくり、話そうねえ。そう。時間はたっぷりあるんだから焦る必要は無いとそういう意味だね」
「前から思っていたんだが……君、さりげなく私の後ろを歩かないでくれないか。それから足音消さないでくれ。――というか、君、隣を歩いてくれると言っただろう。あの時の感動はどこいったんだ?」
「そ、そうだよね……そう、そうね……ああ、いけない、いけない」
パンジャは、すこしだけ照れた顔をして隣に立つ。
そして、手袋に包まれた指がアオイの手を持ち上げた。
「これでいいかな?」
アオイは、口の中でもごもごと言葉を探した。
「……手を繋ぐ必要は、あまり、無いんだが。まあ、いいよ。君がそうしたいなら――」
「あ。安全上、片手は空けておいた方がいい。君は杖を持たなきゃならないのだし」
あっさり手を離された。
――もうすこし、なんというか、余韻というか、温情というか。手心とか……。
彼女の感触の残る手を擦り合わせ、彼は頬を掻いた。アオイにはそういう思いやりが必要だったのだが、言うだけ惨めになりそうなのでやめておいた。
それよりも、現実である。
パンジャが耳を澄ませた。
「ダークライの方向は……角度が違うが、塔に向かっているように聞こえる」
アルベルト男爵率いる有志トレーナー部隊の声は、アオイの耳にも小さくなっていって届いていた。
しかし、それは距離のせいではない。
「ダークライは強いな。もうトレーナーは半数ほども残っていないんじゃないか? うちのダークライもあれくらい強いのだろうか」
「ミアカシさんと『残像ダ……』ごっこをやってるから、強いんじゃないかな。ミアカシさんは戦闘の経験値が低い。けれど、至近距離で『はじけるほのお』を避け切るのは、スピードが長所のポケモンであっても難しいと思うよ。あの技は、火が予測不能に爆ぜるからね」
パンジャのそばを浮遊するフリージオが光を明滅させた。それは「難しい」と言っているように見えた。
アオイは道のひとつで足を止めると裏路地に入った。
「――この先の道には見覚えがある。抜ければ中央に時空の塔が見えるはずだ」
「地理に関しては、君に一日の長があるように思うよ。わたしには、どうにもさっぱりだ」
「君は地図を回すことをやめればすぐに上達するよ」
倒れかけているゴミ箱を飛び越えた二人は、街の中心路地に出た。
「急ごう」
ポケモンの叫び声。衝撃。争う音が再び近く、大きく聞こえていた。
ダークライが街を駆け抜ける。
驚きふためく人々の間を怒号のような指示がすり抜けていく。
あらゆるポケモンがトレーナーの号令を聞き、獲物を追う。
その情景は、数本の通路を挟むアオイ達にも容易に想像ができた。
パンジャが空を飛ぶポケモン達を見た。
「逃げるものを追うことは楽しいだろうね。それが抵抗するなら尚更のこと」
「そういうものか。……分からないな。経験則か?」
「いいえ。打ち倒すということは、手に入れると同じくらい魅力的なことだからね。壊すことも同じだ」
狭い路地ですれ違う、ふたりの隣を新たなトレーナーが走り去っていく。
ダークライの存在や行い――とされているもの――に対し中立だったトレーナー達も今回ばかりは狩りにまわる。
彼らの目は真剣だ。
『街から出られない』という実害が出ている以上、その原因を追及するだろう。
空間を封鎖したものが誰であれ何であれ――今のダークライは『いかにも』名存在感があり、疑わしい。
「そういえば……打ち倒した後のことは、考えているのだろうか」
「まさか」
ミアカシが、アオイの腕にぎゅっとしがみつく。
無邪気で闊達な彼女らしくない。
「モシ、モシ……」
殺気立った狩りは、お祭りとは似て非なるものだ。
空気の違いを明敏に感じ取り、アオイに寄り添った。
「そばにいてほしい。……守るよ」
細い路地を抜ける。
リグレーとパンジャが警戒したのは、直後だった。
「……! アオイ」
「くっ。あれは、いったい何ベルトなんだ……!」
時空の塔へ向かうアオイ達が、目にしたものは街角の一角に追い込まれたダークライ。倒れ伏すポケモン。そして、渾身のジャイロボールを躱されたアルベルト男爵だった。
「あー、惜しいね。もうちょい右、右さ」
パンジャがちょいちょいと指差した。
「ダークライは素早いからね」
しかし、梨型体系に似合わず、素早いベロベルトなりしアルベルト男爵はジャイロボールが外れたと見るや、舌を伸ばした。
「おっ捉えた」
「それからどうするんだ。はかいこうせんは撃てないはず」
「ダークライが……おっ。あの巨体を引っ張った……遠心力で、飛ばした。ふむ。ダークライって怪力なんだね」
「感心している場合でもないな。トレーナー連合が総崩れだ。しかし……」
女子供の悲鳴。
二階のテラスから戦いを見守っていた人々がせわしく扉を閉めてはカーテンを閉め切る。
違う、と彼は呟く。そして、辺りを見回した。ダークライが動かない。
「どうしてダークライはここにいるんだ」
この場から逃げ出すと思ったのだ。
住んでいるという庭園に戻るのだろう――。彼の予想は外れた。
ダークライを見つめるトレーナー達のなかに、手を出しあぐねているサトシ少年達がいた。
驚き戸惑う観衆の目もくれず、ダークライは空を眺めている。
アオイの目には、ただの時空の塔だ。
ミアカシが腕の中で小さく「モシ?」と辺りを見回した。
「何を……? 空……? 時空の塔より高い――パンジャ、単眼鏡を」
「え? ああ、ちょっと待って……」
アオイは単眼鏡を受け取るとレンズの調整ダイヤルを回した。
「私達は、ダークライがここにいる理由を勘違いしてしまったかもしれない」
「なぜ? 追い込まれたのだろう?」
「ああ、私もそう思っていた。けれど、単体で強い彼が、数の劣勢を覆せる力を持つポケモンが、追い込まれるなんて滅多な話だと思わないか?」
ダークライにとって、大人しくやられる義理は無い。
自分から叩かれに出てくるワケがない。
ならば、彼は理由があってこの街の中央へ姿を現したのだ。
「……? 何のために?」
「これから分かる。――パンジャ、ダークライの視線から仰角を割り出せ」
アオイの命令にパンジャはわずかに驚いた顔をして――それから、嬉しそうに笑った。メモ帳を取り出し、ペンを走らせる。
「そうそう、君はそれでいいんだ。調子が戻って来たじゃないか。L、ダークライから私たちの距離を三〇メートルとして。Q、時空の塔までの距離、時空の塔の全長が四〇〇メートルだから。三角形の内角の一八〇から引いて。――アオイ、これでどうぞ!」
パンジャが預かっていた単眼鏡。
単眼鏡は、片目で覗く。そのため、立体物であっても平面的に見えるという性質がある。
「レンズを焦点距離を最長まで調整した。これで、立体で見えるものがあるのなら――その空間は歪んでいる」
■ ■ ■
同時刻。
トニオは、時空の塔地下の研究室でデータを精査していた。
「…………」
眼鏡に薄く反射するのは、時空の塔付近で発行体が確認された時点の記録だ。これ以降、ダークライはさらに活発になり、悪夢は実体化するようになった。
「……何か……何か、手掛かりがあるはずなんだ。ここに……」
フィルムのコマを送るように、一秒にも満たない世界を繰り返し再生する。画像に映る隅から隅まで。
そして、見つけた。
網膜に焼きつくような眩い光の中、大きなポケモンが姿を現す。
「見つけたッ!」
トニオは椅子が倒れることも構わず、立ち上がる。
そしてパソコンを持って駆けだした。
■ ■ ■
「――歪んでいる。ヒットだ、パンジャ!」
アオイはニヤリと笑い、単眼鏡をパンジャに渡す。ミアカシは実体が見えないのに宙に浮かぶ魂に体を傾げた。
ダークライの視線の先にいるものこそ街に入り込んだ異物――この街を混沌に陥れた元凶。
トニオも辿り着いた、ただひとつの正解。
ダークライが空を駆けた。彼もまた、入り込んだポケモンの正体と場所を正確に察知したらしい。
時空の塔――二つ並ぶ塔の間に突進したダークライが、突然、見えない壁に遮られたように墜落した。
「モシ、モシっ、モシ!」
ミアカシがやや興奮気味にアオイの腕を叩きながら、そこを指さす。
何も無いように見える――しかし、歪んでいる――空間が動き出した。
真っ白な巨体に宝石のような紫色のラインが光る。
「あれが……伝説の――」
鋭い眼光は、感情が読めない。
パルキア。
存在するだけで強烈なプレッシャーを与える存在だった。
レンズを覗くパンジャが息を呑み、やがて空の変容に気付いた。
「アオイ、空が――」
ほんの数秒まで空は曇っていた。だが、パルキアが姿を現してから世界は黒とも灰ともつかない澱みを見せている。
しかし。
アオイは別のものを見ている。半笑いの浮ついた声音で空を指さした。
「あれこそが、神話の体現するならば――私達は別のアプローチができるとは思えないか」
「な、何のこと?」
「神話曰く『空間を自在に操る』と言う。それなら、やぶれた世界にいる母を救い出すこともあるいは――!」
「君を否定したくないが、やぶれた世界にいるのはギラティナとかいうポケモンなんだろう。権能の範囲外で『空間を自在に操る』なんて芸当ができるとは、とても……」
パンジャの手が、控えめにアオイの腕を下ろした。
杖で床を何度か苛立たしそうに叩いた後で、アオイはそっぽを向いた。
「言ってみただけだ……はあ……そう上手くはいかないだろうな。私は運が悪いし……」
「そう落ち込まずにだね……」
アオイの腕の中にいるミアカシも柔らかい「モシぃ」という溜息を吐いた。指先でそれをあやしながら、逆に心が慰められもした。
アオイが思い描いた『if』は、後にギンガ団のボス――アカギがユクシー・エムリット・アグノムから作り出した赤い鎖により一部実現するのだが、シンオウ神話に疎いアオイには想像が及ばないことであった。
アカギが採用した手法は、以降に発生するどの団体よりも確実な大手に迫る一手になり得た。しかし、いつの世も阻むものは存在するものだ。――その後の顛末は、別の話で語られることだろう。
「しかし、空が……事態は想定外に深刻だ」
アオイはモバイルを確認して電波が切れていることを確認した。パンジャが橋の様子を見に行ってから常にこれだ。外部との連絡は回復していない。
空の様相は三六〇度見渡しても同じ光景だ。夜よりも暗い色をしている。
「アオイさん! パンジャさん!」
呼ばれた方向を見るとサトシ達に追いついたヒカリが手を振っていた。彼らだけではない。トニオやアリスもいる。
「状況は!?」
「アオイさん、見ての通りだ。街が異次元空間に浮いている」
「い、異次元? それが……ここか」
アオイの目は、目前の脅威であるダークライやパルキアよりも空へ向かった。何か見える物は無いだろうか。――例えば、人。同じように浮かぶ街。物などは、無いだろうか。
トニオの分析説明は続いていた。
パルキアの存在が街を揺るがしていること。ダークライが最も早く存在に気付いたこと。サトシが夢で見た悪夢に出てきた怪物がパルキアだったこと――。
「理論上だけの存在の異次元が……そこに……」
その全てを聞き逃して、どこかへ行こうとするアオイをパンジャが止めた。
「アオイ、集中して。今は、ここからの離脱を優先しなければならない。まずは生きなければ。そうでしょう?」
「あ、ああ、ああ、分かっているが……どこか、どこかに無いのか、空間は繋がりがあるから空間として成立するのだ。だから、どこかに『やぶれた世界』へ行く空間があるのではないか?」
アオイは誰とも目を合わせない。
ただ――何かを見落としていることがないか。
それだけが心配で空を見上げる。
「どこかに母が……いるかもしれない。いや、現実では見つけられなかった糸口があるかもしれない。調査すべきだ。――パンジャ、フィールドワークをするぞ。ついて来い!」
「ア、アオイさん、どこに……? 危ないですよ!」
杖を鳴らしてどこかへ向かうアオイに、驚いたトニオが声をかける。
パンジャは隣を通り過ぎようとする、彼のジャボットを掴んだ。
「ストップだ、アオイ。わたしは君の脚をへし折りたくない」
クセになりそうだからね、と彼女は低く囁いた。
アオイは、パンジャのタイを引っ張った。互いに額が触れるほど引き付け合い、取っ組み合う寸前だった。
「――ぐぅっ。しかし、好機だ。分かるだろう……! 最悪の時にこそ私は運が良い」
「無謀に過ぎる。後先省みず突っ走るだけなら、いつでもできる。その時は、いいだろう。わたしも付き合う。しかし、問題は『今すべきか』という一点だ」
「今やらずにいつやるんだ。今だろ、今しかない……!パルキアの能力を測る機会でもある。パルキアだけではない。これに釣り合うディアルガの能力さえ測れるかもしれない。それができたらなら、使えたなら――」
甘美な想像だった。否、妄想だった。
実現できることは、時間遡行の類だ。
かつてアオイが望みダークライが見せた悪夢は、どのような現実感に酔い堕ちてもアオイの頭の中の出来事でしかなかった。だが、今回は違う。パルキアとディアルガ。彼らの力は、人間の叡知を容易く超越する。神と呼ぶに相応しい。
母を取り戻せるかもしれない。あるいはそれ以上のことさえ望める、かも、しれない――。
アオイの目に浮かぶ後ろ昏い渇望を認め、パンジャは睨みつけるように目を細めた。
「それでも! わたし達はそれを『選ばなかった』。過去は過去だと言ったのは君だ。突き放したのは君だ。より良い未来のために生きようとわたしを救ったのは君だろう。自分の言葉に責任を持て、アオイ」
「千載一遇の機会を見逃せというのか……!?」
パルキアとダークライは争っている。「あくのはどう」がパルキアを襲い、ダメージをものともせずパルキアが突進する。
パルキアが動くたびに空間が共鳴し、全身にビリビリと小さな震えを起こした。
「手段に問題があると実験を取り止めたのは誰だ? 君のお母さまだろう。ああ、君もそうだったな。似た者同士、結構だ。――だが、結果が全てと言うのなら、わたしも信念に殉じよう。わたしは手段を問わず君を止める。君がミアカシに命じるのが速いか、わたしが君を壊すのが速いか、試してみるか?」
ふたりは、しばし睨み合う。
知らず知らずのうち、肩で息をしていたアオイは、ひとつ長く息を吐き、パンジャのタイを離した。
「……。……やめだ。君と争って私に良いことなど、ひとつだってありはしない」
「そうだね。お母さまのことは別の手立てを考えよう。そのための協力をわたしは惜しまない。今日を除いてはだけど」
アオイは手の甲でパンジャの頬を一度撫でた。それに応じて彼女は一度だけゆっくりと瞬きした。
二人は襟を正してトニオ達に向き直った。
「お見苦しいところを……申し訳ない」
「あ、いえ――」
再びパソコンに目を落としたトニオは、何か話そうと口を開きかけ――アリスに呼ばれた。
「見て……あのパルキア、怪我をしている……」
――怪我?
一見するところ、パルキアは元気そうに見える。威圧たっぷりにダークライと戦闘していて何も問題が無いように見えるのだが。
「あ、肩のところですね!?」
タケシがパルキアを指さす。
人間でいうところの上肢部分――紫の半球体は時おり発光しているが、宝珠のようなそれがひび割れているのだ。
「パルキアを傷つけられるものがいるのか?」
トニオは、顔をしかめた。
ダークライの攻撃は、パルキアを行動不能にする程に至っていない。ダークライの技の威力が低いというわけではない。パルキアの目算は四メートルだ。その神体が大きすぎるため、なかなか体力が減らないということだろう。
タケシが空を飛び交う彼らの技を見上げた。
「ダークライの体力が尽きるのが先か、パルキアが動けなくなるのが先か」
「あのままじゃジリ貧よ。……アオイさん、ダークライは持久戦で戦えると思う?」
「あまり、そういう印象は無いな。個体にもよるが、ほとんどが短期決戦型だと思うよ。ほら、悪夢を見せる技があるだろう、ダークホール。彼らの場合、あれを当てればまず勝ちだから」
「ダークライ、さっきまで他のトレーナーと戦っていたから……」
サトシが悔しそうに言う。
今のところダークライは善戦しているが、いつまでもつのだろうか。
しかし、地上からでは手が出しにくい。彼らが争っている主な場所は上空なのだ。翼のあるポケモンしか手出しができない。
アリスが、何かを探すように上空を見つめた。
「――トニオ、フワライドで援護はできない?」
「えっや、やめたほうが……何かあったら相手が誰でも『ゆうばく』しかねないから」
「ゆうばく?」
ヒカリが首を傾げたので、パンジャが「特性だよ」と説明した。
「勝手に爆発するんだ。面白いよね」
「へ、へえ……だいじょうばないかも……」
「そうそう頑張り過ぎて『じばく』しちゃうかもしれないし」
「あぁ、そうだった……」
今日も今日とて観測用アンテナを携え街のどこかに浮いているフワライドに援護は重い役だ。
いっそ時空の塔に登って、ダークライを援護するのはどうかという話が出る頃に、それはやって来た。
突如、暗い空の中から現れた「りゅうせうぐん」が不意を突かれたパルキアとダークライに直撃する。両者とも耐えたが、新しい敵の存在に再び空間がグラリと揺らいだ。
「今度は、なにっ!?」
りゅうせいぐんの一部は、狙いを大きく外し街に着弾した。
もうもうと立ち上がる土煙の方角から悲鳴が聞こえていた。
声は、それだけではない。
停滞した空間を震わせる叫び声と共に青い光が現れた。
「あれは――」
サトシが大きく目を見開く。
誰も声を上げる暇が無かった。
空から現れたポケモンは、真っ先にパルキアに噛みつくようにとびかかった。
パルキアは大きく態勢を崩し、街を破壊しながら墜落した。
「時を司るとされているポケモン、ディアルガだ……! でも、どうしてここに――」
二体は取っ組み合い、再び時空の塔前広場で噛みつき合う戦闘を繰り広げた。
トニオが驚き叫んでアリスの手を引く。
「離れよう、アリス!」
「待って。ダークライが! パルキアだって怪我をしているのに」
アリスの声はほとんど聞こえなかった。
ディアルガが咆哮する。
空間が軋み、歪む。時間を司るポケモンの真価はいかほどか。アオイは身をもって知ることになった。
「どうして今頃、鐘が鳴っているの……?」
茫然と呟くアリスの声に全員の注目が時空の塔に向いた。
ゴーン、ゴーン、という低い鐘の音が不規則に聞こえる。時空の塔に掲げられた時計が逆回転し始めているのだ。
異常なことが起きている。そんなことはもう嫌というほど理解していたが、日常の象徴たる時計が狂っていく様を見つめるのは精神的に辛いものがあった。
「左回転? ディアルガの力で時間が巻き戻っている……?」
「でも、何ともない」
タケシとサトシが顔を見合わせる。
トニオが「解析が終わった」と小さく言った。
「時間と空間は切っても切り離せない関係にある。でも、切り離せないだけで隣り合ってるものなんだ。でも、それがどういうワケか『何か』があって、交わったんだろう。パルキア、ディアルガ。『何か』のせいで互いが攻め込まれたと感じた。そして、戦いになったんじゃないかな」
「それじゃ肩の怪我は」
サトシの言葉に、トニオは頷く。それが重要なのだと言うように。
「傷を癒すためにパルキアはディアルガから逃げて、逃げて、逃げ込んだ先がこの街だったんだろう。そして、時間を遡ってやって来るディアルガに追跡されないように空間を密閉状態にした。これが、町の状態だ」
それでは。
アオイは、疑問に思ったことがある。
密閉された空間で時間を巻き戻そうとするとどうなるのだろう。
それから、街の端々で淡く細かな光が立ち上り始めるのは長い先のことではなかった。
存在の矛盾。
世界が布いた法則に従い、世界は綻び始めた。
【あとがき】
映画の描写から頑張って理屈付けてあれやこれやを膨らませています。
ああ、映画のあの部分ね、と思い出していただけたら幸いです。原形? ああ、イイ奴だったよ。最近、会ってないけどね……。
【あとがき2】
更新が遅れに遅れました。初夏には終わるでしょう。……たぶん。……ひぃこらひぃこら言いながらやっています。次の話はもうちょっと待ってね……。
【あとがき3】
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