その光景は正に地獄絵図だった。
本来、神に祈りを捧げるはずの教会の礼拝堂。数十人もの人が収まる広さを持つその中は、今は死臭と死体で埋め尽くされていた。
老若男女、職種も身分も問わず、礼拝堂の部屋中に真新しい人々の死体が所狭しに存在した。
夥しく流れゆく鮮血。
所々に転がっている血に濡れた凶器の数々。
礼拝堂の天井から吊られている首吊り死体。
見る者の顔を歪ませるこの凄惨な光景だが、その光景をさらに異様に見せる存在がいた。
それは死者で溢れかえる礼拝堂で唯一、呼吸をし、瞳に光を宿し、細くしなやかな両足で血溜まり上に立つ、一切の穢れを纏わぬ美しい女だった。
死屍累累の中、死体よりも一際目を惹かれる程の美しい女がそこにいること自体、異様なこと。
しかし、それ以上に異様なのは、その女が“踊っている”ことだ。
音楽も流れていない、自然の音だけを伴奏にし、その女は死者たちを観客に一人、華麗に踊っていた。
くるりくるりと舞踊るその様は優美そのもの。
そんな女の踊りを一層際立たせているのが、踊るたびに靡く女の燃えるような髪の毛だった。
女の踊りに続きその燃えるような赤髪も軌跡を描きながら舞踊る。その様はまるで揺らめく炎のようだ。
死屍累累に囲まれ舞踊る燃えるような赤髪の女。一見するとその様は、まるで死者の魂が飛び交っているように錯覚してしまいそうである。
「〜〜〜っ! ふぅ……」
踊り終えた女は、荒々しく鼓動する心臓を落ち着かせるように深く息を吐いた。
一体どれほど踊っていたのか。女の額には玉のような汗がいくつも浮かんでいた。
「……」
未だ胸の内を激しく叩き続ける心臓の鼓動に対し、女は呆然とその場に佇み無言で虚空を眺めていた。
「ごめんなさい……」
虚空を眺め続けた女は、ポツリとそんな言葉を零した。それと共に女の硝子玉のような瞳から一粒の涙が流れ落ちていった。
◆
女はこの世に生を受けて直ぐに生みの親に捨てられた。
それは生まれたばかりの女の産毛が燃えるような赤だったからだ。
女が生まれた村では、古くから赤い物は不吉の象徴とされており、過去、女と同じように赤毛の子供が生まれた時、村に大きな災いが降り掛かったという言い伝えがあった。それ故、赤毛として生まれた女は、不吉の象徴とされ、それを恐れた両親に捨てられてしまったのだ。
女は村中から蔑まれて育った。陰口をたたかれ、物を投げつけられ、住む場所も、その日の食べ物さへも得るのが厳しい状況だった。
よそ者から見れば、「なんと非科学的な」と村人たちの行いに呆れ、女に救いの手を差し伸べるだろうが、言い伝えは、ただの言い伝えではなかったのだ。
女が生まれてからというもの、村には数々の不幸が降りかかった。最初は不作や不猟などが続き、食べる物に困り始め、村人たちは次第に飢えに苦しむようになっていった。
次に降りかかった不幸は、村中で流行り始めた奇病。突然、奇声を上げ踊るように暴れ始める原因不明の病。その奇病にかかった者はキチガイのように変わり果て、最終的には生きたまま体を腐らせながら死んでしまう。
それ以外にも数多くの不幸が村人たちに降り掛かった。そのどれもが、女が生まれるまで起こり得なかった事柄ばかりだった。
そして決定的なのが、村に不幸が起きた時、必ずその近くに赤い髪の女がいたということなのだ。
赤い髪の女は、言い伝え通り不吉の象徴そのものと言っても過言ではないのかもしれない。
月日が経ち、女が成人する頃には、村は廃村同然の有様となっていた。
押し寄せる不幸の波に耐えかね、村人はその大半が死に絶え、生き残った村人たちも女を恐れて村を出ていってしまい、この村に残っているのは、赤い髪の女ただ一人だけだった。
しかし、その女も暫くしてから村を出て何処かへ行ってしまい、百数年と密かに栄え続けた村は、僅か二十年の月日で廃村になってしまった。
◇
「……」
踊りで荒れた息と心臓の鼓動が落ち着いても、女は死屍累累の中に佇んでいた。
髪色と同じ燃えるような赤い瞳は眼下に広がる地獄のような惨状をただ静かに見つめていた。
ギイィィィィ
女の後方、礼拝堂の出入り口の扉が音を立てながらゆっくりと開いた。
「こんな夜更けに誰かいるのか?」
開いた扉から顔を覗かせたのは、この礼拝堂がある教会の神父だった。
時刻は既に丑三つ刻。辺りは闇に包まれ、神父の持つランプの淡い灯りだけが唯一の光だった。
扉を開けた神父の視界には案の定、闇が広がっていた。
そんな礼拝堂の中をよく見ようと弱々しいランプの灯りで照らしてみる。すると礼拝堂内に広がる闇の中から、淡い光に照らされ浮かび上がってきたものを見て、神父の口から悲鳴が飛び出した。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁ!?」
神父の視界に広がる死体、死体、死体の山。その中には、教会にやってくる近隣の村人たちの姿もあり、その村人たちは、神父もよく知る顔馴染みでもあった。
目に飛び込んできた凄惨な光景。
老若男女問わず見知った者たちの死に様。
この礼拝堂で一体何があったのか。
驚愕、困惑、疑惑。大量の視覚情報や感情が神父の中に雪崩込み、溢れかえる。
パニックに陥っている神父だったが、そのパニックは一瞬で消え去っていった。
「っ!」
神父の目に死者の中、佇む女の姿が写った。
「君! 怪我はないかい!? 一体ここで何が……っ!?」
神父は女に訪ねた。しかし、途中で言いかけた言葉が喉の奥へと引っ込んでしまった。
何故なら女の燃えるような赤髪に気づいたからだ。
神父の脳裏にいつだったか村で耳にした噂が蘇ってきた。
“赤髪の女が災いを連れてくる”
話を聞いた時は「何を馬鹿なことを」と笑って聞き流していたが、死屍累累に囲まれていても表情一つ変えていない無表情の女を目の当たりにした神父は、噂は強ち嘘ではないかもしれない。そう思った。
「き、君が、やったのかい……?」
思わず神父はそんなことを女に訪ねてしまっていた。
「……」
女は何も答えなかった。
その無言が暗に「私がやりました」と肯定しているように神父は思えた。
「ゴクリ……」
静寂の中、神父の生唾を飲む音がはっきりと聞こえる。
今、自分の前に殺人者がいる、という考えが神父に恐怖を感じさせた。それも眼前に広がる死体の山を築いたかもしれない虐殺者だという可能性が、神父の体を硬直させた。
そんな神父の方へ女がゆっくりと近づいてきた。器用に床を覆う死体を踏まぬように一歩一歩。
「っ!?」
神父は怖気づいて後退る。
女が一歩近づき、神父が一歩後退る。幾度かそれらを繰り返す内、更に一歩後退ろうとした神父の体は何かに遮られた。
「ハッ!?」
驚いた神父は自分の背後へ視線を送った。そこには、先程自分が入ってきた出入り口と開きっぱなしの扉が見えた。
どうやら後退る内、開放されている出入り口の方ではなく、内側に開いた扉の方へと後退っていたらしい。
これ以上下がれない。だが、出入り口は直ぐ隣にある。
一瞬、後ろへ視線を向け焦りの色を浮かべた神父だったが、その僅か隣に外へと続く出入り口を見つけ、すぐにこの場を逃げる算段を考えた。
「(次に女が一歩近づいて来た時、あの出入り口へと走る……!)」
一縷の希望を得た神父は、逃げるタイミングを見計らうべく、再び女の方へと視線を戻した。
しかし、ここで神父の計画に誤算が生じた。
「っ!?」
神父が女から視線を外していたのは、ほんの一瞬だった。ついさっき見た時は、女との距離はまだ幾分か離れていた。
しかし、その一瞬の間で女は神父の手が届く距離まで近づいてきていた。
神父はパニックになった。どうやら女の歩く速さは、神父が考えていたよりも速かったようだ。
ただでさえ緊迫した空気が漂い神父自身も怖じ気づいている中でのパニック。
神父は考え出した算段など忘れて無我夢中で出入り口へと走ろうとした。
しかし、焦りに焦った神父の足は縺れ、走るどころかその場へ派手に転んでしまった。
「あぅっ!? ひっ!?」
転んだことで床に出来ていた血溜まりへも倒れ込んでしまい、神父の服は血で赤黒く染まってしまった。
そんな神父などお構いなしに女はどんどん近づいてくる。
「た、助けてくれぇぇ!!」
命乞いの悲鳴を上げながら、神父は両手で頭を覆い強く瞼を閉じた。
「……?」
いくら待っても何の感触も襲っては来なかった。
心のどこかで死を意識した神父だったが、何もアクションがない事に疑問を抱き、恐る恐る片方の目だけを開けて見た。
先程まで自分の方へと近づいてきていた女の姿はどこにもなく、死屍累累の惨状だけがそこに残っていた。
狐につままれたような感覚に神父は呆然とした。
暫くの間そうしていた後、ハッと我に帰った神父は、慌てて出入り口の方へと駆け寄り、バッと外へ飛び出した。
外は変わらず夜の闇に覆われていた。今夜は月も厚い雲に遮られ、外は一層闇が濃く何も見えない
ただ一点。礼拝堂の正面にある森の入り口。その入り口は、礼拝堂の外よりも一層闇が深く、まるで巨大な生き物がぽっかりと大口を開けているようだった。
そんな真っ暗闇の中、神父の目にはハッキリとそれが映った。
一切の光がない闇の中へ、光るはずのない女の燃えるような赤い髪が、火の玉のように揺らめき妖しく光る赤色が、闇に溶けるようにフッと消える瞬間を……。
残された神父は暫くの間、女が消えた森の入り口をただ呆然と見続けるしかできず、騒動を知らせに走ったのは、空が明るくなり始めた頃だった。
◆
世は混迷を極めている
いつしか誰かがそう言い始めるようになった。
それは妄言ではなく、確かに今世界は混迷の真っ只中にいると言えるだろう。
枯渇する資源を巡って人々は争い、事は戦争にまで発展してしまっている。
未知の病が蔓延し、助ける術も解らないまま、何万もの人々が苦しみながら死んでいった
心を病んだ者たちが錯乱して周りにいる人たちを見境なく殺し始め、遂には発狂しながら自分さえも殺してしまった。
そしてそんな陰鬱な世界が行き着く未来に絶望した者たちが、苦しみからの開放を求め、自ら命を一斉に絶つ、俗にいう集団自殺を決行するまでに至っていた。
世情はそんな闇のように暗い話題で持ちきりだった。明るい話題など、民衆は長く目にすることも耳にすることもなかった。
礼拝堂で起こった事件もそれらの話題の一つとして世情に流された。
神父の証言から、一時は精神異常者による虐殺と考えられたが、実際は前述した集団自殺だったことが後に判明した。その証拠に礼拝堂で見つかった死体には、争った形跡が待つ全くなく、尚且つ死体の側に転がっていた刃物類や毒物の類は、故人たちが持参したものだということが調べで判明した。
しかし、その事実が判明した一方で、ある噂が真実味を帯びていた。
その噂とは、今最も世情を騒がせている赤い髪の女に纏わるものだった。
曰く、赤い髪の女は、不幸を呼ぶ。
曰く、悲惨な事件の場には、赤髪の女が現れる。
曰く、赤い髪の女は死神である。
様々な憶測が飛び交い、噂に尾ひれがどんどんついていき、今では大元の噂から大きくかけ離れ原形を留めておらず、だれが最初に言い出したのか、それすらも曖昧なほど方々に広まっていた。
噂を鵜呑みにする者、俄かに信じられないでいる者、ただの噂と鼻で笑う者。噂に対する人々の反応は三者三葉だったが、今回の件でその噂に真実味が増した。神父という信頼のおける目撃者が現れたからだ。
これまでにも赤髪の女を目撃したという者たちは多くいた。しかし、目撃者は皆、その証言を鵜呑みにできる程の信頼性があるとは言えなかった。
そんな中、新たに現れた目撃者が“神父”だった。
神父はその職業柄から多くの人たちと接する機会があり、神に使える聖職者であることから信心深い人たちからは、神父が目撃者というだけで噂は本当であると無条件で信じられた。
逆に信心深くはない人たちは、目撃者が神父というだけで直ぐに信じたりはしないと思うが、実際はそうではない。
例え神を信じていなくても、村や町にとって神父というのは、とても重要な存在なのだ。
大きな街に限らず、どの町村でも神父やシスターのような教会の関係者は、神父としての職務以外にも多く兼業しているのが当たり前だった。
冠婚葬祭を取り仕切るのは基本的に神父の仕事。その他にも、子どもたちに勉学を教える教師の仕事。病や怪我を診て治療する医者の仕事。
神を信じる信じないに関わらず、誰しも必ず神父の世話になったいるのだ。故に町村民からの信頼度は非常に高かった。
そんな厚い信頼を寄せられている神父が噂の人物を目撃したという証言を疑う者は殆どおらず、赤髪の女の噂は真実であるということが世情へ瞬く間に広まっていった。
「聞いたか? 隣り村の教会で死人がでたらしいぞ」
「その場にも赤髪の女が現れたそうな」
「赤い髪の女が教会で村人たちを皆殺しにしたらしい」
「赤髪の女があの村に災いを寄越したんだと」
「赤髪の女はやはり災いを齎す者だった」
「赤い髪の女はやはり魔物だった」
「赤髪の女はやはり死神だった」
「次はどの村が襲われるのか?」
「次はあの村を襲うらしいぞ」
「次はあの街を襲うらしいぞ」
「恐ろしや恐ろしや」
「助かる術はないのか?」
「やられる前にやるしかない」
「女を殺せ」
「女を火炙りにしろ」
「女を探せ」
「女を見つけろ」
「女に髪の裁きを与えよ!」
口伝えで広められる赤髪の女の噂。面白可笑しく話に尾ひれを故意に付ける者、誤って伝わった話をそのまま広めてしまう者。善意も悪意も含まれ、赤髪の女という化物の噂は、世情を恐怖のどん底に陥れた。
姿のない噂の恐怖に踊らされた民衆は、またも姿のない噂に唆され、凶行へと走ってしまった。
包丁、鎌、鍬、斧、果てはただの木の棒まで、民衆は持てるだけの武器を手に取り、どこにいるやも分からない赤髪の女を追い駆け出した。
右手に凶器を構え、左手に松明の灯りを携え、民衆は血眼になって赤い髪の女を探した。木の根草の根を掻き分け、女の一際目立つ萌えているような赤い髪を探した。
そんな民衆の姿は正に鬼と言っても過言ではなかった。
「居たぞ!!」
「そっちに逃げた!!」
「捕まえろ!!」
「殺せ!!」
民衆の狂気に満ちた捜索は、数カ月という月日を経て、遂に実を結んだ。
夜の山での山刈りの最中、木の影に潜んでいた赤髪の女を見つけたのだ。
女は民衆に見つかると一目散に逃げ出した。
そんな女を逃すまいと、民衆は鬼気迫る形相で女を追いかけた。
木々の枝葉に遮られ月光も届かない暗闇の山中。燃えるような赤い髪を振り乱しながら女は走った。何度も転び泥に塗れ、獣道を走り体中に切り傷擦り傷を負っても、女は一心不乱になって走り続けた。
そんな女の背後、無数の鬼火が不気味に揺らめき、右往左往と乱舞しながら女を追いかける。
山を駆け下り、川を渡り、谷を越えようと、民衆は執拗に女を追い続けた。
しかし、その逃避行も遂に終幕を迎えた。
必死に逃げ続けた女だったが、流石に体力の限界に達し、その場に倒れ込んでしまった。
「ハァ、ハァ、漸く追い詰めたぞ……」
追いかけてきた民衆が女を囲い込む。
疲労で息も絶え絶えな女に対し、同じ位に疲労が溜まっているはずの民衆には、肩で息をしてはいるものの疲れの色が全く見られなかった。
アドレナリンの分泌によって疲労を感じていないだけ。医学的に説明がつく現象である。しかし、噂に踊らされ狂気を宿した民衆の鬼気迫る形相と、薄暗い闇の中、松明の揺らめく灯りも相まって、その場にいる民衆の形相は正に悪鬼そのものだった。
「ハァ、ハァ、ハァ……」
先程より女の呼吸は落ち着いてきたはいたが、まだ呼吸は荒く、胸を打つ鼓動は忙しなかった。そんな満身創痍な状態でも、女は這いつくばって少しでも民衆から逃げようとした。
しかし、女は既に悪鬼となった民衆に囲まれており、おまけに女が這うその先にあるのは、底の見えぬ切り立った崖だった。
もはや女は袋の鼠。どこへも逃げることはできなかった。そんな女が行き着く先は、“死”だった。
「ハァ、ハァ、ハァ―――――」
崖の先端に到達し、女は崖下を覗き込んだ。下は夜の闇さえ飲み込む闇で覆われ、まるで奈落の底のようだった。
後ろからはジリジリと民衆が、その手に握り締めた凶器を構えながら迫る。
完全に万事休すだった。
「ハァ…ハァ…っ!」
女は立ち上がる。疲労と傷だらけで満身創痍な体に力を込め、フラフラとまるで生まれたての子鹿のように震えながら、女はゆっくりと、そしてしっかりと両の足で立ち上がった。
「ハァ…ハァ…」
未だ荒い息を吐きながら、女は崖の方を見つめていた。いや、正確には崖の方に向いて虚空を見つめていた。
「ハァ…ハァ…これが…最後…」
女は独りポツリとそう呟いた。その呟きは民衆の耳には届かず、崖下から吹き上がる風の音に飲まれてしまう。
民衆が女へあと一歩と迫ったその瞬間、力なく垂れ下げられていた女の両腕が勢い良く広げられた。
「ひっ!?」
突然のことに驚いた民衆は一気に後退った。女が何かするのではないかと恐れたのだ。
民衆は恐れに震えながら凶器を更に強く握りしめ身構えた。
両手を広げ、俯く女。その表情は俯いていることに加え、垂れ下がった燃えるような赤髪に覆われ見えない。
その下で女は人知れず瞳を閉じていた。これまで歩んできた人生を振り返っているのか、はたまた自分を蔑んできた者たちへの憎しみを思い返しているのか、その時、女が何を思っていたのか、誰も知る由もなかった。
「っ! この…っ! 魔女め!!」
静観に耐えかねた民衆の中の一人が、足元に転がっていた石を拾い佇む女目掛けて投げつけた。
「魔女め!!」
「化物め!!」
「悪魔め!!」
一人が石を投げたのを皮切りに一人、また一人と女に石を投げつけだした。
持ってきた凶器を使って直接斬りかかればいいのだが、ここに来て女の理解できない行動に民衆は恐れを抱き、女に近づくことを体が拒絶したのだ。それ故、民衆は辺りに転がっている石を礫としたのだ。
大量の石礫が女に襲い掛かる。
ガッ!
ザッ!
ゴッ!
鈍い音が響き渡る。
女の華奢な体のあちこちに大小様々な石礫が衝突する。
骨に罅を入れ、肌を裂き、肉を抉る。傷という傷口から、女の髪よりも深く紅い血が滴り、辺りに飛び散る。
垂れ下がる髪の下で女の表情は痛みと苦悶に歪んでいた。しかし、それでも女は微動だにしなかった。変わらず両手を広く広げ、その場に佇んでいた。
女のその様は、一見すると無抵抗の意思表示のように見える。女は己が犯した罪の断罪を受ける為、民衆からの私刑を甘んじて受け入れようとしているようにも見えた。
しかし、そんなことを考える者も、思う者もその場にはおらず、皆うちに秘め、溜め込んできた畏れに突き動かされるだけだった。
「っ! 悲鳴1つ出さないなんて……! このっ! 悪魔女め!!」
常人なら激痛に泣き散らし悶え苦しむ状態にも関わらず、涙一つ見せず声すら漏らさない。なおかつ微動だにせずその場に佇み続ける女の姿に、民衆は一層の恐怖を感じた。
そしてそんな女に業を煮やした民衆の一人が、女に向かって駆け出した。
女への恐怖が増したことで既に石礫は止んでいた。
そんな戦々恐々とした状況の中、伐採用として使用してきた斧を構え飛び出した者を、他の者は思わず静止しようと手を伸びした。
「あ! お、おい!」
しかし、その者は止まらない。斧の柄が潰れそうなほど強く握りしめ、ただ一点を血走った目で睨みつけていた。
最早その者の頭にあることはただ一つ。これまで一切の血を吸ったことのない仕事道具で、女の体を真っ二つにすることだった。
「うわぁぁぁぁぁぁぁ!!」
狂気に取り憑かれたその者はあと僅かと迫った女の頭に狙いを定め、斧を振り上げた。
その光景を民衆は固唾を飲み見守った。
そして、女が斧の間合いに入ったその瞬間、その者は勢い良く斧を女目掛けて振り下ろす。
しかし、その瞬間今まで俯き垂れ下げられていた。女の頭がバッと跳ね上がった。髪の毛が宙を舞い、その下に隠れていた女の顔が民衆の目に鮮烈に写った。
顕になった女の顔、その両の瞳がこれまで以上に赤く、そして熱く燃え滾っているような虹彩を放ち、何かを決意した、いや覚悟を決めた強い意志が、その表情からヒシヒシと見る者に伝わってきた。
しかし、振り下ろされた斧の勢いはもう止められない。
「あっ!?」
誰かが声を漏らす。
その刹那、振り下ろされた斧が女を襲った。
「ヒッ!?」
「うっ……!?」
息を呑む者。
凄惨な光景から目を背ける者。
この状況になるよう女を追い込んだのは民衆自身だと言うにも関わらず、民衆は常人振った反応をして見せた。
その場にいる者たちには、もう先程までの悪鬼の如き鬼気は無く、ただか弱く血みどろに怯えるちっぽけな存在しか、その場にはいなかった。
斧を振り下ろした者自身も、自分がした事の重さに恐れを抱き、ガクガクと体全体を揺らすほど震えていた。
「あ……あっ……あぁ……」
言葉が形をなさずその者の口から零れ落ちていく。
崖下から吹き上がる風音もいつの間にか止んでおり、辺りには一瞬にして静寂が訪れていた。
その為、その者の零れ落ちる嗚咽とも鳴き声ともとれる形をなさない言葉は、その場にいる全員に、嫌にハッキリと聞こえた。
恐れからその者の視線は、振り下ろされ大地に食い込んだ斧に向けられ続け、視線を上げ、女を見ることができないでいた。
「お、おい……あ、あれ……!」
民衆の一人が驚愕した表情を浮かべながら何かを指差す。
それに釣られ皆、指が指し示す方へと視線を向けた。
「っ!?」
そこにはあの赤髪の女が立っていた。
変わらず体中から血を流し、泥と流血で全身がボロボロになっているが、その象徴とも言える女の燃えるような赤い髪は、変わらず赤く輝いているように見える。
女は生きていた。
振り下ろされた斧の一撃で死んだと思っていたのか民衆は、変わらずその場に佇む女の姿に開いた口が塞がらなかった。
どうやら振り下ろされた斧は予想に反し、女を直撃することなく寸での所で空を切っただけのようだった。
いや、斧は空を切っただけではなかった。
女の象徴ともされている燃えるような赤髪。その前髪辺が不自然に短くなっていた。他の髪と比べ明らかに前髪が短くなったことで、今は先程よりも女の顔がハッキリと見られた。
その顔は体同様、石礫による傷が痛々しく刻まれていた。加えて、額からは先程の斧で切られたであろう一筋の真新しい傷があり、そこからドクドクと赤黒い血が溢れ、肌を伝って下へと流れていっていた。
民衆は震えあがった。
体全体から血が滴る状態にも関わらず、女の瞳が赤く、紅く、朱く、燦然と輝きを放ち、民衆を鋭い眼光で見つめていた。
その瞳はまるで、民衆への怒りを抱き燃えているようにも、不思議な魔術を放とうとしているようにも見え、民衆は怯えていた。
完全に鬼気が消え失せ、逆に恐怖に飲まれ怯え震える民衆。その中には、あまりの恐怖に腰を抜かす者や失禁してしまっている者も少なくはなかった。
そんな中、今まで佇み続けた女が再び動いた。
腕を回し、脚で弧を描き、腰をくねらせ、髪を振り乱し、女はその場で舞い始めた。
伴奏の音楽など無い。あるのは、不規則に崖下から吹き上がってくる風の歌声。民衆が持つ松明の火が弾ける音。女に怯え震える民衆の衣類の擦れる音。それら以外は全くと言っていいほどの静寂だった。
それでも女は踊っていた。
疲労や傷でボロボロな体に鞭打ち女は踊った。
舞う度に額に浮かぶ珠のような汗が、体中を流れ出る血と共に飛び散る。
決して多くはない出血だが、数多もある傷口から血飛沫が飛び、女の体から出ていく。次第に女の顔が青白くなっていくのが、松明の揺らめく明かりしかない闇夜の中でも分かる。しかし、血が減り青白くなっていく女の体に対し、女の髪と瞳はその赤い輝きを更に増していっているよう見えた。
まるで、踊る度に女の命の灯火を燃やしているように……。
「あぁ……あぁぁぁ……あぁぁぁぁぁぁ……っ!」
民衆は震え上がり悲鳴を上げた。
自分たちを狂気へと扇動した姿のない噂という魔物が語る、赤髪の女という悪魔や魔女の舞踊に恐怖して震えているのではない。
血と汗を撒き散らし、泥と傷でボロボロな体でも華麗に舞う女のその姿からは、噂で語られるような邪悪さは微塵も感じられなかった。
寧ろその逆。
大松の明かりに囲まれ、切り立った崖の先端で舞い踊るその姿からは、邪悪とは似ても似つかない神々しさが放たれていた。
民衆は単に恐怖したのではない。民衆は“畏怖”しているのだ。
自分たちが魔女や悪魔と蔑み罵り、凶器を手に追いやって、剰え石礫を投げつけてしまった女から発せられる神々しさに、民衆は自らがやってしまった恐れ多いことに激しい後悔を痛感した。
それと同時に天罰が下ることに激しく畏怖したのだ。
「お…お許しください…!」
「あぁ…あぁぁぁ……!!」
「主よ罪深い私をお許しください…!!」
先程とは打って変わって民衆はその場に跪き女に頭を垂れ許しを請うた。
女は踊りを止めなかった。
どんなに民衆が跪こうが、どんなに許しを請おうが、女は見向きもせず、ひたすら舞い踊り続けた。
満身創痍な姿で祈りを捧げるように踊り狂う赤髪の女。それを崇めるように跪き頭を垂れる民衆。
傍から見れば何かの儀式のように見れる光景だろう。
どれだけ時が経ったのかも分からない。
夜の闇は一層増していき、民衆の手から落ちた松明は僅かな灯火さえも消えていた。
許しを請う民衆に見向きとせず踊り狂う女に、民衆は益々畏怖の念を募らせていった。
踊りが終わると共に天罰が降りかかるのではないだろうか?
そんな憶測すら頭を過りだし、民衆は一層震えあがった。
その時、崖下から突風が吹き上がってきた。
ゴォォォォォォォォ!!
それは雷轟の音とも、凶獣の咆哮とも聞こえる突然の風音。吹き上がって来た突風が咆哮を上げながら女と民衆の間を吹き抜けていく。
女は変わらず舞い続けていたが、民衆は畏怖によって瓦解寸前だった心が、突然の突風の咆哮によって完全に瓦解。これまで以上の悲鳴を上げ、その場から逃げ出し始めた。
「うわぁぁぁぁぁぉぁぁ!?」
「きゃぁぁぁぁぁぁぁぁ!?」
逃げ出す民衆の足音が幾重にも重なりまるで地響きのように大地を揺らす。
皆我先にと駆け出した。
前を走る者を押し退ける者。
足が縺れ転倒した者。
転倒した者を踏みつけて行く者。
民衆は蜘蛛の子を散らすように一瞬にして逃げ去って行き、残ったのはただ一人、未だ踊り続ける赤髪の女だけだった。
民衆というオーディエンスがいなくなったことで、その場は一層の静寂に包まれた。しかし、女は気にも留めず一心不乱に踊り続けていた。その体からは既に微量な血飛沫しか飛び散らなくなっており、その表情は闇夜の中でもハッキリと分かるほどに青白くなっていた。
「ハァ……ハァ……」
早鐘を打つ心臓の鼓動で荒いはずの呼吸も弱弱しく、今にも消えそうな程にか細く乾いた吐息の音が微かに聞こえる。
女の体から流れ出ていった血の量は多く、意識は朦朧として立っているのがやっとな状態のはず。にも拘らず女は何かに取り憑かれたように踊り狂った。
正に己の命を燃やし尽くすように……。
「……っ! …ハッ…!」
女の体はビクンビクンと不規則なリズムで震えていた。いや、震えるというより痙攣している、と言った方が正しい表現だろう。女の体が命の危機に瀕していることを告げているのだ。
しかし、女は踊りを止めようとはしなかった。
何が女をそこまでさせるのか、常人には理解できない。
舞う度に死へと向かっていると言える状態にも関わらず、女の瞳はキラキラと生きていることを主張するように煌いていた。
しかし、女も結局は人の子。手から始まった痙攣は次第に体全体へと広がっていき、女の華麗な舞に歪さを刻みつけた。
痙攣で上手く舞えなくなっても女は止まらなかった。歪になろうとも女は舞い続けようとする。
既に女の体は限界を迎えていた。大量の血液を失ったことで体は痙攣を起こし、視界もボヤけて周りが見えなくなっていた。足も覚束ず、女の意志とは違う方向へと足が向いてしまう。
そうやってふらつきながら舞い続ける女は、ゆっくりと崖の先端、その先へと吸い寄せられていく。
あと一歩……。
あと一歩…。
あと一歩。
崖下に潜む“死”という怪物は、今一歩と女が落ちてくるのを大口を開けて待っていた。
崖下から風が吹き上がる。まるで早く落ちてこいと、怪物が急かし息を吹いたようだ。
そして遂に、その時は訪れた。
既に舞うとは言えない状態で体を引き摺りながらも舞おうとし続けた女は、覚束ない足を釣りに動かそうとした所為でバランスを崩してしまった。
「っ!」
転ばぬように踏ん張ろうとする女だったが、そんな力は女の中に残ってはおらず、女の体は吸い寄せられるように下へと落ちていく。
そこの見えない暗黒が待つ崖下へと―――。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
誰かが言っていた。人は死に直面した時、目に映るものが全てゆっくりに見えると。
(嗚呼、これがそれなのか)
私は思いの外冷静にそう思った。
物心がつく前から、私は自分の容姿のことで周りの人たちから迫害を受けてきた。
それが私の日常だった。だから辛いとか、悲しいなんてことは思わなかった。それが当たり前だったのだから。
大人へと近づいた年頃になってから漸く、私は辛い目にあっているのだと理解し始めた。ただ、それでも私は悲しいとは思わなかった。
私は私自身のことで悲しいとは思わなかった。でも、周りで起こる“災い”を見つける度に、私はとても悲しくなった。涙が流れるほどに。
周りの人たちが話している噂を耳にした。皆は私が“災い”を連れてきてるって言ってた。私は魔女や悪魔だと。
それは違うの。
私は“災い”を連れていけない。私はただ“視える”だけだから。
いつ頃から視えていたのか分からない。でも、小さい頃から私には“それ”が視えていた。例えるなら、“それ”は人魂のようなフワフワとした存在。
彼らがいる所には、必ず不幸が起こる。
彼らが不幸を呼び寄せてるのかは分からない。でも、不幸が起こる場所で彼らは漂っている。
彼らの存在は普通の人たちに視えない。だから、彼らのことが視える私に彼らは語りかけてくる。
『助けてくれ』
抑揚のないくぐもった声で何度も、何度も彼らは私に語りかけてくる。
しかし、私にはどうすることもできない。いや、そもそもどうすれば良いのか、が分からない。
それでも彼らは私に語りかけてくる。そして私を導く。彼らが助けを求めている場所へと。
導かれた先にある物はいつも同じだった。
死体だ。
経緯は様々だけど、彼らが導く先には必ず死体があった。
初めて彼らに導かれた日、私は初めて死んだ人の姿を見た。
最初に見た死体の有様はとても酷いものだった。雨や風に晒されて肉は腐り、その下にある骨が剥き出しになって、鼻の曲がるような嫌な臭いを放っていた。
私は吐いた。
初めて見る凄惨な人の死体と、それが放つ悪臭にやられて、当時、親に捨てられ村人たちからも迫害されていた幼い私は、吐き出せる物もないのに嘔吐した。
胃液しか吐けず、ろくに食べ物も食べれてなかった私に、彼らは構わず助けを求めてくる。
フラフラな状態で私は自分が思いつく限りの方法で彼らを助けようとした。
村で人が死んだら土に埋めていたから、同じように土に埋めた。それでも彼らは助けを求め続けた。これじゃない。
死んだ人に神父様が祈りの言葉を捧げていたから、見様見真似で祈りの言葉を捧げてみた。それでも彼らは助けを求め続けた。これでもなかった。
遠くの村では人が死んだら燃やして灰にすると聞いたことがあったから、同じように火をつけて燃やした。でも、灰にはならなくて、黒焦げになっただけだった。案の定、彼らは助けを求め続けた。
色々と試してみたけど、どれも駄目だった。どうしたらアナタを助けられるの?
幼い私は、知恵のない頭を振り絞って考えた。
そんな時だった。村に一人の巫女さんがやってきた。当時の私には理解できなかったが、どうやら諸国を渡り歩いて神様や死んだ人たちに慰めの舞を捧げているらしい。
私は村人たちが宴などで踊ったりするのを遠目に見たことがあったけど、その時に見た巫女さんの“舞い”は、それとは全然違って見えた。
とても綺麗だったのを今でも鮮明に憶えている。流れるように足を運び、弧を描くように腕を廻し、優美に動くその姿は正に可憐そのものだった。
私は目を奪われ、巫女さんの舞いを見続けた。そして私の中でこれだという感覚が生まれた。
この舞いなら彼らを助けられるはず!
私はすぐに死体の所へ駆け戻り、黒焦げになって更に悪臭を放つ死体を前に先程見た巫女さんの舞いを見様見真似で舞ってみた。
当時を振り返ると、とても舞いと呼べるものではなく、良くて子供のお遊戯そのもの。私があの時、目を奪われた巫女さんのようには、当然舞うことはできなかった。
しかし、それでも結果は成功だった。
今まで助けを求め続けた彼が、初めて助けて以外の言葉を言った。
『ありがとう』
空腹と嘔吐でフラフラな状態だったのに彼を助けようと無我夢中だった私は、変わらず抑揚のないくぐもった彼からの感謝の言葉を聞いた途端、張りつめていた緊張の糸が切れてその場にへたり込んだのをよく憶えているわ。
その時、初めて私は誰かを助けることで得られる喜びを知ったわ。
それから私は積極的に彼らの声を聞こうと行動を始めた。最初は村の中やその周辺を漂う彼らに導かれ、次第に外の世界へと飛び出していった。嘗て、私の村を訪れた諸国を渡り歩く巫女さんと同じように、私も諸国を渡り歩き彼らを救う舞いを捧げる旅を始めた。
迫害されていてろくな教育を受けられなかった私は、外の世界へ出たことで色んなものを見て、色んなことをやって知恵を身に着け、私は少女から女性へと成長していった。
でも、それと同時に私は厳しい現実というものを目の当たりにすることになったの。
彼らに導かれた先には必ず死体がある。つまり、誰かが死んでいるということ。死因は様々で、病に倒れた人、天災に巻き込まれた人、誰かに殺された人。導かれた先には必ず凄惨な状態の死体が転がっていた。酷い時は何人もの死体が山積みになっている時もあった。
最初の頃は、舞いを捧げることで帰ってくる彼らからの感謝の言葉が嬉しくて、それを聞きたいから例え凄惨な死体が転がる場所であっても自ら嬉々として赴いていけど、それを何度も繰り返す内に当たり前なことを痛感したわ。
私は結果的に誰も救えていない。
助けを求めてくる彼らに舞いを捧げて感謝を述べられてはいるけど、彼らの存在は何も変わっていない。
どこかで聞いた話の中に成仏に関するものがあった。幽霊はこの世に未練を残しているから天国にも行けないでいる。その未練を解消することで、成仏して天国へ行けるというという。
でも、彼らはそれには当てはまらない。だって彼らは消えずに漂い続けているのだから。
私が舞うことで彼らは確かに感謝の言葉を述べてくれる。でも、それが結果的に何を齎したのか、分からない。そもそも、彼らが言う助けてとは、ありがとうとは何に対してなのか。彼らは何を求めていて、私は彼らに何をしてあげたのか、成長するにつれて分からなくなていった。
それでも私は舞い続けた。
だってそれしか生きる意味がなかったから。
彼らの為に動けば動くほど、周りの人たちは私を恐れていく。だって彼らの姿は周りの人たちには視えないのだから。周りの人たちからしたら、死体の傍らに必ずいる私が殺したと思っても仕方ない。弁解しようとしても、彼らのことが見えない人たちに何を言っても信じてはもらえない。だから、言うだけ無駄なの。
私の噂は次第に大きくなっていき、人々の中で私は邪悪な怪物に成り果ててしまった。
私は孤独だった。だから、彼らを助けることに依存していた。そうでないと、この地獄で私は行き続けることはできなかったから。
でも、所詮は依存。根本的な救いにはなってない。
彼らを救うことで私は一時の満足感を得られる。でも、直ぐに罪悪感と虚しさが私の心に押し寄せてくる。
いつしか私は彼らを救う為に舞うのではなく、彼らへの懺悔の舞いを捧げるようになった。
それでも彼らは感謝してくれた。結局、私の心持ちなんて彼らには関係なくて、舞う事自体が彼らの救いになる。それを知って私は一層虚しくなった。
私じゃなくてもいいんじゃないか?
他の誰かがやっても彼らは救われるんじゃないか
偶々、私が彼らのことを視ることができただけで、視えない人がやっても彼らは救われるんじゃないか?
私は私の存在理由が怪しく思えて仕方がなかった。
それでも私は依存し続けた。舞う度に罪悪感に苛まれ、自分の存在理由が霞んでしまったとしても、私は舞い続けた。
舞っている時だけは全てを忘れられる。
依存に逃避が加わった。
存在理由として舞に依存して、罪悪感を忘れる為に舞に逃避して、私は終わらない負の螺旋を築いてしまった。
そしてその報いを受ける時がやってきた。
肥大した私の噂が人々を恐怖のどん底へと陥れた。恐慌した人々は私を殺そうと凶器を手にして追いかけてきた。
私は逃げた。
鬼のような顔をした人々が怖くて、私は逃げた。
死ぬのが怖くて、私は逃げた。
街中を逃げ惑い、平原を走り抜け、川を突っ切り、山を駆けずり回った。着ていたボロボロの衣服が更にボロボロになっても、体中に擦り傷や切り傷が出来ようとも、私は逃げ続けた。
でも、それも直ぐに終わってしまった。
無我夢中で逃げたから後先のことを考えていなかった。
だから私は崖まで逃げてきてしまった。
前には切り立った崖。後ろには凶器を構えた人々。
その瞬間、死にたくないと我武者羅に逃げ続けたのが嘘のように、私は酷く凪いだ気持ちになったの。
これが私の運命なのかもしれない。
今思うと、あれは生きることを諦めた瞬間だったのかもしれない。その時の私は、それだけ潔い気持ちでいた。
もうどうなっても構わない。このまま死んでしまった方が、良いのかもしれない。
私は私の後ろで大口を開けている崖に身を投じようか、凶器を構えた人々の手に掛かろうか、どちらが良いのか最後の選択をしようとした。
その時、あの声が私の耳に飛び込んできた。
『助けて』
耳に蛸ができる程、聞き慣れた、あの抑揚のないくぐもった声。
それも一つじゃなかった。
【助けて】《助けて》〈助けて〉〔助けて〕{助けて}
その声はこれまで聞いてきた中で最も多く、最も大きく私の中に響いてきた。
見れば彼らの姿がそこら中に視えた。
空中、足下、木の陰、木々の隙間、人並みの中、視界に映るありとあらゆる所に彼らの姿があった。
彼らは変わらず助けを求め続けていた。
(最後の最期まで彼らは私に救いを求めるのね)
それがとても悲しくもあり、可笑しくもあり、滑稽でもあった。
最期くらい、見捨ててみようかな?
今まで彼らの声に一度たりとも耳を塞いだことなんてなかった。でも、その時初めて彼らの声を無視しようと思った。
体が無意識に彼らの為に舞おうとしている。それを心に生まれた一つの無責任な感情が阻止している。
どうすれば良いのか分からなくて、その時の私は酷く混乱していたわ。
生きることを諦め、潔くなったと思ったら、まだ未練がましく彼らを助けることに縋ろうとしている。
強ち噂も間違いではないのかもしれない。自分の存在理由も曖昧で、他の人には視えない不確かな存在に依存して、生きることを諦めたと思ったら、直ぐにまた生に縋ろうとする。何とも醜悪な存在なのだろうか私は。こんな私が、周りの人たちから魔女だ悪魔だと罵られても、それは至極当然のことでしょうね。
私は私自身を嘲笑した。
でも、それと同時に踏ん切りがついた。
全て受け入れよう。
人々が私を殺すというのなら、殺されよう。彼らが助けを求めるのなら舞いを捧げよう。殺されて死ぬのならそれで良し。殺それても死なないのならそれもまた良し。
諦めの極みか、本当に潔くなったからか、それとも単に壊れてしまったのか、私の心は先程以上に凪ぎ、悟りとでも言える程の静寂に覆われていた。
そう心で結論が出たと同時に人々が私に石礫を投げつけてきた。当然、私は避けない。
飛んできた石が皮膚を裂き、抉る。鈍い音が鳴り、激痛が私を襲った。苦痛で思わず表情が歪む。でも、心は決して揺らがない。
両腕を広げ全てを受け入れるように私は向かい来る石礫を受け止めた。
そんな私の姿を恐ろしく思ったのか、人々は石礫を投げなくなり、恐怖に震えていた。
でも、その中の一人が恐怖でパニックを起こして私の方に向かってくる足音が聞こえた。垂れ下がった髪の隙間から見えたのは、斧を振りかぶって私に向かってくる男の人の姿。
嗚呼、このまま振り下ろされたら確実に死ぬ。男の人が持っている斧を見ながら私は他人事のようにそう思っていた。
後ろから風が吹き上がる。風に靡き私の髪の毛が荒ぶるように乱れた。でも、そのおかげで髪に覆われていた視界が開け、迫りくる男の人の姿がより鮮明に見ることができた。顔の輪郭、髪型、瞳の色、体格、着ている服装、そして今振り下ろそうとしている斧が、私の目に飛び込んできた。
次の瞬間、私目掛けて斧は振り下ろされた。
しかし、私は死ななかった。
男の人が斧を振り下ろした瞬間、その人の目にも私の姿が映ったようで、躊躇してしまったらしい。振り下ろされた斧は私の命を奪わず、眉間を少しと前髪の何本かを斬っただっけだった。
その時の人々の表情はまるで、やってはいけないことをやってしまった子供のように顔が青ざめていた。
それ以降、口罵る人はいても危害を加えようとする人は現れなかった。
どうやら人々から寄せられるものは全て受け入れきったらしい。そう判断した私は視線を村人たちから彼らへと向けた。
『助けて』
彼らは変わらず助けを求めていた。さぁ、舞おう。私はいつものように体を動かそうとして気づいた。
いつもよりも体が重い。
視線だけ動かして体中を見渡した。私の体はあちこちから血が流れ出ていた。視線を足元に落としてみると、薄暗いけど地面には赤い水溜まりが点々とできているのが目に入った。そのことから出血多量であることが容易に想像できた。
チラリと漂う彼らに視線を向ける。十数、いやそれ以上いる。これだけの数いる彼らに舞いを捧げるとなると、今の私の状態じゃ、最後まで舞い続けられるか分からない。
舞えば死が待っていて、舞わなくてもいづれ誰かが私を殺しに来る。それなら私は、舞いに舞って最期を飾りたい。
「これが最後……」
私は最期の舞いを舞い始めた。初めは見様見真似でハチャメチャな舞いだった。でも、あれから十数年の間、舞いに舞い続けたことで猿真似だった私の舞いもどきは、贔屓目に見ても舞いと呼べるものへ昇華するほど洗練されてきた。あの頃見た巫女さんの舞いそのものとは言えなくても、それに勝るとも劣らぬ舞いであると、これまでの十数年舞い続けてきた私はそう自負している。
体が重い。力が思うように入らない。まるで鉛を背負っているみたいだわ。それでも私は舞う力を少しづつ上げていく。
周りが騒がしい。さっきまで怯えていた人たちが何か喚きながら逃げ去っていくのが視界の端に映った。でも、今の私には関係ない。だって、私は逃げていった村人の為ではなく、この場に漂う彼らの為に舞っているのだから。
私が舞う時はいつも自然の音とに乗せて舞っていた。だって私は楽器なんて弾けないし、持ってもないから。そもそも私一人で奏でて舞ってをやるの難しい。
舞い始めの頃は、自然の音の中で舞うことに若干の寂しさを覚えていたけど、舞い続ける内に伴奏がないことに慣れてしまった。慣れもあるけど、自然の音の良さっていうのも、成長するにつれて分かるようになった。
でも、この最後の時だけは違った。
音が聴こえるの。今まで聴いてきた自然の音じゃない、音楽が聴こえるの。
辺りに演奏してる人なんていない。だってさっきまで風の音と葉の擦れる音しか聞こえなかったし、今聴こえるこのこの音楽は、私の直ぐ傍から聴こえてくるの。
今思うと、不思議だと思うけど、あの時の私は気にも留めなくて舞うことに熱中してた。
舞う度に傷口から血が飛び散るのが分かる。罅の入った骨がズキズキと痛んだ。筋肉が悲鳴を上げてる。時折、視界が歪んだりする。心臓がバクバクと早鐘を打って痛い。なのにとても気持ちが昂るの。
気持ちが舞う度に昂っていく。聴こえる音楽がどんどん荘厳に響き渡る。幻聴だろうか? それでも構わない。
私は今とても生を実感しているから。
最期の舞いだからこんな錯覚を感じるのだろうか。だったらとても嬉しい最期を迎えられそうだ。
走馬灯というものが私の頭を駆け抜けていく。生まれてから今まで良い人生を歩んできたとはお世辞にも言えない。それでも全く悪い人生でもなかったと、今なら思える。
彼らのことも今なら何なのかが分かったような気がする。彼らは死んだ人の幽霊なのではなくて、人の“想い”なんじゃないか。
彼らが助けてと救いを求めているのは、成仏したいからじゃなくて、混迷を極めているこの生地獄のような世界の中から救って欲しいと求めていたんじゃないだろうか。
この場にこれだけの数の彼らがいるのも、ここで多くの人が死んだからじゃなくて、私を追いかけてきた彼らの想いが形となったからなんじゃないだろうか。
私の噂に踊らされ、恐怖に苛まれた人々の心は限界寸前で、一刻も早く救われたくて“彼ら”の姿となって私の目に視えるようになったのじゃないだろうか。
そんな彼らを助けたいと思った私の“想い”を込めた舞いが、荒んだ彼らの想いを慰める力になったから、彼らは感謝してくれたのかもしれない。
確証なんてない。これはただ私が思った絵空事。でも、私はそうなんだろうなって、解った気がした。
そう思うと私の心はとても満たされた。今までやってきたことは無駄じゃなかった。私はちゃんと彼らを助けられてたんだということが、曖昧だった私の存在理由を明確にしてくれた。
嗚呼、これが最期になるなら、私は何の悔いもない。
私はどんどん燃え上がっていった。周りから迫害される原因だったこの赤い髪と同じように、私の体が、心が熱く炎のように激しく燃え上がる。
ずっとこの時間が続けばいいのに……。
でも、終わりが近いのが嫌でも分かった。視界がどんどん霞んでいく。燃え上がる心に反して手足に力が入らなくなっていく。
私の体はもう最期と瞬間を迎えようとしている。
とても名残惜しい。名残惜し過ぎて涙が出る。それに体も言うことを聞かなくなってきてる。このままじゃ最期の舞いを終えられないかもしれない。
そんなのは嫌!
私は体に鞭打って手足を動かした。体中が悲鳴を上げた。もう血も飛び出さない程、私の中に血が残っていない。それでも私は舞おうとした。
(あと少しだけ……あと少しだけ……あと少しで舞い終えられるから……)
神様にそう願った。
もう視界も何も映さず、音もよく聞こえなくなった。
でも、あと少しで舞い終わる。
終わらないで欲しいと願いつつ、ちゃんと終わらせたい、と思っている私がいた。
これが最期の舞い。彼らと私の死に捧げる人生最大の舞い。
でも、私はもう舞えてすらいない。本当は立っているだけでやっとだった。今も足を引きずって舞おうとしている。傍から見れば老婆のような動きをしているのだろうか。いや、それよりももっと動けていないに違いない。
でも、その時の私には舞うことだけしか頭になかった。
そして、漸くその時が訪れた。
私の舞いが終演を迎えた。
私は全てを出し切った。
もう二度と、同じ舞いは舞えないと言える位、自分史上で最高の舞いを舞った。
私の体はもうボロボロに崩れる寸前だった。少しのそよ風が吹くだけで倒れてしまいそうな程、今の私は脆くなっている。しかし、それでも私の心は充実感と達成感で満ち溢れていた。
人生最大にして最期の舞いを舞いきったんだから。
もうこの続きなど思いつかない。ここが舞いの終着点。完全で完璧な終わりなのだから。
舞いきった途端、今まで気づかないでいた激痛と疲労が一気に押し寄せてきた。なんとか倒れそうになるのを踏ん張るのが、今の私には精一杯。それも長くは続かない。直ぐに踏ん張る力も切れて私の体は糸の切れた人形のように倒れ伏せる。
私を支える一本の糸。今の私と同じボロボロで頼りないその糸が、少しずつ解れていく。そして遂にその糸はプツンと切れてしまった。
私の体は地面に吸い寄せられるように倒れていった。でも、吸い寄せていたのは地面ではなくて、私の後ろで大口を開けていた崖だった。
舞っている時にも見た走馬灯がまた駆け抜けていった。生まれた瞬間からつい先程のことまで。
未だに白と黒で混濁した視界には何も映らない。それでも頭の中に走馬灯が見せる光景がハッキリと見えた。自分の体が崖へと落ちようとしているのが理解できた。
その瞬間、混濁していた視界がサーッと開けて明瞭に映った。
遠退いていく木々と大地。地に落ちた松明。視界の下から見えてくる自分の足。全てがゆっくりと動いていた。
何とも不思議な光景だった。明瞭になった視界に映るゆっくり進む光景と、頭の中で今も流れている走馬灯の光景。決して混ざらず、それぞれハッキリと私にその光景を見せている。まるで目が4つになったような感じだった。
段々と視界に映る景色が遠のいていって、私は崖下に落ちて行く。
(嗚呼、これが死ぬ瞬間の光景なのね)
私は今まで経験したことのない光景を見ながらそんなことを思った。
段々と瞼が重くなってきた。舞う為に体を酷使した付けが回ってきたらしい。脳裏に流れる走馬灯も滲んでいく。
私がさっきまで立っていた場所も霞んでしまう所まで落下した私の意識は、崖下を覆う闇に見を投じる体同様に闇に飲まれ、私はそこで意識を手放した。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
女は目を覚した。
目覚めた女は辺りを見渡した。視界に映るのは広大な雲一つない青空。目だけを左右に動かしてみるが、景色に変わりわなかった。
女は困惑した。
自分の記憶が正しければ、自分は崖から落ちて死んだ筈……。
女は恐る恐る横たわる自分の体の上体だけを起こしてみた。女の上体は可も不可もなく起き上がった。
女は自分の体を見回した。そして目を見開いた。
女の体には痛々しい傷が刻まれており、体中から出血していた筈だった。
しかし、これはどういうことだろう。女の体には擦り傷一つなかった。それどころか、土埃や泥に塗れていた筈なのに、それすらも一風呂浴びたかのように綺麗になっていた。しかし、体は綺麗になっているが、着ている衣服はボロボロなまま変わっていなかった。
女は益々困惑した。
女は改めて辺りを見渡した。
天には蒼穹、地には青々とした草原が広がっていた。それは果てしなく、女の目に映る彼方まで続いていた。
「ここは何処?」
意図せず女は呟いた。
それもそうだろう。不吉をもたらす者として民衆から迫害され、石礫をぶつけられた女の体は見るも耐えないほどにボロボロだった。おまけに自分を殺そうとする民衆から逃げ続けた女の体は疲労困憊で、満身創痍な状態だった。そして遂には朦朧とした意識の中、追いやられた崖から転落してしまった。
女の記憶が正しければその筈だった。
まともな教養を受けられなかった女とて、底の見えない崖から落ちてしまえばどうなるか、それ位理解している。
女はもう一度辺りを見渡した。景色は変わらず、空と草原が広がっているだけだった。自分が転落した崖の切り立った岩肌などは何処にも見当たらなかった。
「ここは、天国なの?」
いつか何処かで耳にしたお話に死後の世界についてのものがあった。死んだ人は天国か地獄のどちらかに行き、天国には争いも苦しみもない安寧があり、地獄では生きている時よりも苦しい責苦を強いられる、というお話だった。
そのことを思い出した女の目には今、自分がいる場所が地獄には見えず、天国なのではと思った。
つまりは、やっぱり女は死んでいるということだ。それなら女の体に刻まれた痛々しい傷の数々が消えた訳も納得がいった。
自分が死んだという結論に至った女は、酷い位に何も感じていなかった。死の間際、あんなにもこの瞬間が終わって欲しくないと強く願っていたにも関わらず、いざ終わって死んでしまうと何も感じなかった。嗚呼、終わってしまったんだな、と客観的に思うくらいだった。
女は起こした上体をまた倒し、呆然と空を見上げた。
「静か……」
その場所には女の呟き以外何も聞こえてこない。だから女の言葉が嫌にハッキリと聞こえる。
女はとても穏やかな感覚に包まれていた。思えば、女はこんな風にのんびりと過ごしたことが一度もなかった。来る日も来る日も人目を避け、怯え、逃げて生きてきた。だから、今こうして草原で寝転がってのんびりしていることは、女にとって生まれて初めての経験なのだ。
「……ッ!」
暫く呆然と空を眺め続けていた女だったが、突然ガバッと体を起こし身構えた。
「……」
警戒心を研ぎ澄ませ辺りを探る。しかし、女の目が行き届く範囲には何もなかった。
「気のせい……?」
女は首を傾げた。
先程まで呆然としていた女の耳に微かな物音が聞こえた気がした。生前に癖付いた習性、野生の動物が外敵を警戒するのと同じように女も身構えたのだ。
視界に映らないからと言って女は警戒心を解こうとはしなかった。目に映らないなら、耳を研ぎ澄ます。女は目を閉じ耳に神経を集中させた。
自分の呼吸の音だけが聞こえる。しかし、その奥に微かな異音が混じっているのを女はシッカリと捉えた。
「やっぱり気のせいじゃない……!」
女は捉えた異音を聞き取ろうと全神経を集中させた。
段々とハッキリと聞こえてくるその音は、誰かの話し声ではなかった。軽快なリズムが響き、色んな音が聞こえてきた。
それは演奏だった。女が今まで聞いたことのないような、楽しげな音楽が聞こえてきた。
それも女の“すぐ近く”から。
「ッ!?」
女は驚き慌てて目を見開いた。そこには、奇妙な一団がいた。
赤や黄色などの鮮やかな衣に見を包み、楽器を奏でる者、音に合わせ踊る者、まるでサーカスの道化師たちのようだ。
サーカスを間近でちゃんと見たことのない女にとって、その一団の姿はとても印象深く脳裏に刻まれるほどの鮮烈さが感じられた。
一団は女を囲むようにして、女の周りをぐるぐると周っていた。その様を女は、驚いて尻餅をついた状態で呆気に取られていた。
(この人たち、一体何なの? さっきまで周りには誰もいなかったのに……。近づいてくる足音も、気配すら感じなかったのに……!?)
女は呆気に取られつつ頭の中で小さなパニックを起こしていた。
しかし、そんなパニックも一瞬にして消し飛ぶ音が、女の耳に飛び込んできた。
「〜〜〜♪〜〜♫〜〜――――」
何とも綺麗な歌声だった。これだけの騒音の中、その歌声だけはハッキリと女の耳に届いた。優しさが感じられる歌声だ。女はそう感じた。これまで放浪の最中に幾度か街で歌を聴いたことはあったが、こんな感覚を感じたことはなかった。
(一体何処から?)
声の主を探して女は辺りを見渡した。当然のことながら、蠢く一段の中からたった一人を見つけるのは困難を極めた。だが、聴こえる歌声を頼りに耳を澄まして漸くその声の主の場所を見つけた。
「ッ!?」
その声の主は女のすぐ後ろにいた。
女は再び驚愕した。気配が全く無かったことに加え、後ろに立っていたのが長身の男だったからだ。
その男は全身に闇を纏ったような衣に身を包んでいた。銀の仮面で顔を覆い、髪は老人のように白く、仮面の下から覗く肌には年輪のように皺が刻まれていた。
その男の肩に声の主はいた。
男の肩には一人の少女が座っていた。歌声と同様に綺麗な子だった。まるで人形ではないかと間違いそうな程、整った容姿をしていた。しかし、それよりも目を引かれたのは、その少女が真っ白だったことだ。
男が闇を纏っているようなら、その少女は光を纏っている言えるだろう。一切の色素を感じさせい純白の姿。垂れ下がる長い髪も、シルクのような肌も、その身を包むドレスも、穢れ一つない真白の少女。
同性であるが、女は思わずその少女に見惚れてしまった。
そんな時、唐突に音が止んだ。黒づくめの男が奏でていた笛を止めた途端、少女の歌声も、道化師たちの演奏や踊りも、女を取り巻いていた喧騒が一瞬にして消え去った。
「ッ!?」
先程までの喧騒が一瞬で止んだことに女は驚き辺りを見渡した。時が止まってしまったように音が消え、女の周りをぐるぐると踊り周っていた一団もピタリと動きを止めていた。
一団の視線が女に集中する。
「ッ!」
自分に突き刺さる数多の視線に女はハッと我に返り、再び警戒心を剥き出しにして身構える。
しかし、一団は女に何もしない。ただ静かに女のことを見ているだけだった。それが女には不気味に思えて、一層警戒心が強くなった。
静寂が続く中、漸くその沈黙が破られた。
「ごきげんよう!」
よく通り、よく響く声だった。女の目の前に立つ黒づくめの男が、若干しわがれた声で快活にそう言った。
先程まで優雅に笛を奏でていた姿とは打って変わったその様と、響き渡る男の声に女は面食らった。しかし、男はそんなこと構わず言葉を続けた。
「哀れなお嬢さん。貴女はこの世界という鎖から解き放たれた! 来るものは拒まないが、去る者は決して許さない。“楽園パレード”へ、ようこそ」
そう言って男は女に深々とお辞儀した。すると周りにいた一団も男に続き、女に向けて一斉に深々と頭を下げお辞儀した。
「ッ!?」
男の言葉と一団の突然の行動に女は激しく困惑した。相手の意図の分からない行動に加え、女は今まで誰かに頭を下げられたことがないのだ。それもこれだけの人数から一斉にお辞儀されるなど、普通の人でもそうそうない。故に普通の人生を送って来れなかった女なら尚更、この状況にどうすればいいのか分からず戸惑っていた。
「おや? どうされました?」
戸惑っている女に男が尋ねた。
「え? あぁ……。えっと……」
上手く話すことができなかった。それも仕方がない。女は真面に人と話をしたことがないのだから。言葉は周りの人のを見聞きしたり自分で学んだりして覚えた。でも、誰かと言葉を交わす機会はなかった。だから男の問い掛けにどう返せばいいのか、何を言えばいいのか分からず、女は益々戸惑ってしまった。
「……ふむ。なるほど」
狼狽する女を見て男は何かを察し、女へ手を伸ばした。
「ッ!」
自分の方へ伸びてきた手から、女は思わず逃げようとした。しかし、それよりも先に男の手が女を捉えた。
「は、離して!」
男の手を払おうと女は暴れるが、自分よりも力の強い男の手は易々と払えはしなかった。
それでも男から逃れようと暴れ続ける女を男は優しく包み込むように抱きしめた。
「大丈夫」
とても優しい口調で男はそう囁いた。まるで泣きじゃくる子供をあやすような口調と抱擁で女を包み、愛おしそうに女の頭を撫でた。
「~ッ!?」
撫でられた経験のない女は今まで以上に困惑した。相手が本当に何がしたいのか分からず、女の頭の中は小さなパニックを起こしていた。
しかし、それと同時にとても安らぐ温かな感じがして、女はとても居心地良く感じていた。
幼子が母親や父親に甘えている姿を以前、女は街で見かけたことがあった。そんな我が子のことを両親は優しく抱き上げ、今男がやっているように撫でていたことを女は思い出した。
女に両親の記憶は全く無かった。だから両親に頭を撫でてもらうことも経験したことが無い。しかし、不思議なことに男に頭を撫でられると、経験がないのに両親からの愛情のような温かく優しい気持ちが伝わって来るのを女は感じた。
女は次第に暴れるのを止め、頭から伝わって来る温かさに身を委ねていった。
「落ち着いたかな?」
女が完全に抵抗しなくなったところを見て男はそう尋ねた。
「……」
女は首を縦に振る。言葉で何と言えば良いのか分からない女は、誰にでも分かるであろう身振りで男に応えた。
「何か私に聞きたいことがあるのではないかな?」
確かに女は知りたいことがあった。ここは何処なのか? どうして自分はここに居るのか? 自分はどうなったのか? 貴方は誰なのか?
女の中で知りたいことが湧き水のように溢れてきた。しかし、人との接し方の分からない女には、どう尋ねれば良いのか分からず言葉が喉から出てこなかった。
そんな女の心情を見抜いたかのように男はもう一度、女の頭を優しく撫でて言った。
「慌てなくても構わない。深く考えなくても構わない。ゆっくりと知りたいことを言葉にしてご覧なさい」
男の言葉を聞き女の中で溢れかえっていた言葉が整えられていった。
「こ、ここは何処…?」
恐る恐る女は言葉を口に出す。生まれて初めて他人と面と向かって話す事に女は激しく緊張していた。たった五文字程の言葉を口にするだけなのに、女の心臓は満身創痍で舞い狂っていた時と同様に早鐘を打っていた。
そんな女の心情を知ってか知らずか、男は微笑み女の質問に答えた。
「ここは見ての通りただの草原さ。どこにでも存在する何の変哲もない場所さ」
「そ、うで、すか……」
返ってきた答えは女の求めていたものでは無かった。草原であることは辺りを見渡せば分かることだ。
女が求めていたのは、崖下へと転落した自分が何故、この場所にいるのか? 自分は死んでしまったのか? ここは天国なのか? ということの回答を求めていた。しかし、女がやっとのことで口に出した言葉では、質問の意図があまりにも大雑把過ぎた。それでは女が求めている回答が得られないのも仕方がない。だが、他人とまともに接したことのない女にこれ以上を求めるのは、些か厳しいと言える。
求めた回答が返ってこず、自分から尋ねておきながら返ってきた男の言葉に女は相槌を打つことしかできなかった。
「他に聞きたいことはあるかな?」
男はそう尋ねた。女には聞きたいことがあり、先程の質問でも求めていた回答を得られていない為、男のその質問は正に助け舟と言えた。
しかし、先程した短く大雑把な質問を口にするだけでやっとの状態な女には、続けて男に質問を投げかけるのは至難の業と言えた。
「あっ……! えっと……その……」
何か言わねばと言葉を口にしようとするが、その焦りと緊張とが混ざり合ってまたしてもそこまで来ている質問の言葉が、喉でつっかえて口から出ていかなかった。
必死に言葉を口にしようとする女を男を始め、白い少女と周りの一団は静かに見届けている。集団に囲まれ突き刺さる視線の中、人とまともに会話をしたことのない女に緊張するなという方が無理な話である。
だが、それでも自分の言葉を待ってくれている男がすぐ目の前にいる。そのことが女の頭を過り、自然と女の視線は男へと向いていく。
「……」
男は静かに女の方をジッと見ていた。催促などせず、ただ静かに女から言葉が返ってくるのを待っていた。女よりも遥かに高い長身を折り、膝をついて女に目線を合わせているその顔には銀の仮面。顔の全体は仮面に覆われ見えないが、仮面で覆われていない口元には微笑が浮かんでおり、先程見せた抱擁や愛撫も相まって女の目に映る男は優しさに満ちたオーラが放たれていた。
そのオーラに触れた女は、焦燥と緊張で昂る心がもう一度鎮められていくのを感じた。まるで不思議な魔法にでも掛かってしまったように、先程と同じようにつっかえていた言葉がまたスッと女の口から出ていく。
「ど、どうして、アタシは、ここに……?」
一人で頑張り振り絞られて出た女の質問。それを聞いて男はまるで子供の成長を温かく見守った親のように慈愛に満ちた笑みを浮かべ、再び女の質問に答えた。
「それは私にも分からない。私はただ、“声”に呼ばれてここまでやってきたらお嬢さんを見つけたのさ」
声?
男の言葉に女は首を傾げた。しかし、すぐにそれが何なのか、女の頭にその正体が過った。
「あ、あの……もしかして……」
恐る恐る男に尋ねようとする女。そんな女の様子を見て男は、女の言わんとすることが分かっているかのようにニヤリと笑みを浮かべ、視線を女から離す。女も男の視線を追うように男が視線を向けている方へと顔を向けた。
そこには“彼ら”がいた。
女を取り巻く一団に混じって彼らの姿がチラホラと見受けられた。しかし、そこにいた彼らは、女がよく知る彼らとは異なる姿をしていた。女がよく知る彼らの姿は、ふわふわと漂う人魂のようなものだったが、今、女の目に映る彼らは人魂のような姿ではなく、星のような姿をした者だったり太陽のような姿をした者、将又、月のような姿をした者だったり動物のような姿をした者だったりと、様々な姿形をしていた。
そして極めつけなのが、その彼らには“顔”があることだった。顔と言っても表情だけだが、その場にいる彼らは女が見たことない楽し気な表情で漂っていた。聞こえてくる彼らの声も、女が知る抑揚のないくぐもった声ではなく、陽気に満ちたはしゃぐような声だった。
「貴方にも、見えるんですか……?」
「勿論。私だけじゃない。ここにいる全員、彼らの姿が見えているのだよ?」
「え……!?」
男の言葉に女は耳を疑った。そしてバッと自分の周りを見回した。まるで「ちゃんと見えてるよ」と女に伝えるように周りの道化たちは、自分の近くにいる彼らと戯れる様を見せた。
その光景に女は我が目を疑った。今まで自分以外に彼らの姿が見える人に出会ったことはなかった。しかし今、自分の目の前に彼らの存在が見える人がいる。それも一人や二人ではなく、一団と呼べる人数の見える人たちがいる。
困惑か、感動か、驚愕か、色々な感情が女の頭を埋め尽くし、またもパニックを起こしていた。
自分が知る彼らには表情がない。声も抑揚がなくてくぐもっている。自分が彼らにまいっを捧げても、感謝の言葉は帰ってくるけど、ただそれだけで何も変わらない。
しかしどうだろう? 今、女の目に映る彼らは楽しげに笑っている。声からも抑揚が感じられる程に笑っている。
気が付くと女は涙を流していた。ボロボロと大粒の雫が頬を伝い落ちていく。
女の心には二つの感情が生まれていた。一つは、自分が舞いを捧げても変わらなかった彼らが、目の前の男が率いる一団の手によってああも激変し、楽し気な姿を見たことへの嫉妬。女にとってそれは初めての感情だった。以前は生きていくことと彼らに舞いを捧げることに精一杯で、誰かや何かを羨んだりする暇などなかった。こんな暗い感情を抱いたのは、女が崖に追い詰められた時、底に漂う彼らからの助けの声を見捨てようとした時以来だった。
そしてもう一つの感情は“喜び”だった。
女は不遇な人生を歩んできた。他者を羨むことも恨むことも抱いて仕方のないことだと言える環境を生きてきたにも拘らず、彼女は心優しかった。自分では救えなかった彼らが救われたような姿を見て嫉妬したとて、それ以上に女は彼らが救われたことが嬉しかった。今まで殆どの時間を彼らの為に使ってきた女は、彼らの抑揚のないくぐもった感謝の言葉しか聞けず、本当に彼らが助かっているのか分からなかった。彼らの存在が人の魂ではなく、人の想いなのだということを女は生死の境に立った時、理解した。
だからこそ彼らの想いが楽し気に漂う今この瞬間を見て、女は酷く安堵した。そして涙が流れ出た。嫉妬という大きな暗い感情を人生で初めて抱いた驚きと、彼らが本当に救われたのだと見て取れるその姿と声への歓喜と安堵で、女は泣いた。
そんな女の頭を男はまた優しく撫でる。
「う…うぅ……うぁ……ッ」
嗚咽が零れ出し、堰を切ったように女は声を上げて泣いた。生まれて初めてだろう。女は咽び泣く自分をどこか客観的に見て頭の片隅でそう思った。
暫くの間、女は泣き続けた。それを男と少女、道化たちはただ黙って見守った。女が泣き終えるまで……。
空が暮れだした頃、女は漸く泣き止んだ。茜に染まりつつある空よりも鮮烈な赤い色彩を放っている髪を持つ女だが、今はそんな髪にも負けず劣らず女の顔も朱に染まっていた。
「(恥ずかしい……。人前であんなに泣いちゃうなんて……)」
一通り泣き叫んだことで落ち着きを取り戻した女は、人前で泣き散らしたことで羞恥心に苛まれていた。
「フフッ、落ち着いたかな?」
男は微笑まし気な口調で女にそう尋ねた。女がそう言われるのは早二度目だった。そんな男の優し気な問いかけでさえ、今の女には羞恥心という炎をより燃え盛らせる油でしかなかった。
「~ッ!」
女は恥ずかしさのあまり顔全体が真っ赤に染まり、髪の色と同化してしまっていた。
「さて、そろそろ行くとしよう」
そう言って男は立ち上がる。男の言葉と立ち上がる動きに羞恥に悶えていた女は我に返り、立ち上がった男の顔を見上げた。
「さぁ、お嬢さん。お手を」
「え?」
差し出された男の手に女は驚き声を漏らした。意味が分からない女は、男の手と顔を交互に見比べる。
「えっ、と……。あの…行くって、どこへ……?」
男の優しさと先程の号泣で多少スッキリしたのか、当初よりも思っていることを口に出せるようになった女は、男にそう問いかけた。
「次の場所へ行くのさ」
「次の……場所?」
「そう。この世界という鎖から解き放たれた者がいる場所へ行くのさ」
「世界という鎖……」
それは男が女に最初に言った言葉にもあった。しかし、女にはその言葉の意味が分からなかった。
「この世界に生きる者たちは皆、鎖に縛られて繋ぎ止められているのだよ。しかし、そんな鎖から解放され自由を得る者たちも中には存在するのさ。彼らやお嬢さんのようにね」
そう言って男は視線を周りに向ける。女もその視線を追ってみると、自分たちを囲む道化たちが目に入った。確かに彼らは自由を得たと言える感じがするが、果たして自分は自由を得ているのだろうか?
女は怪訝に思った。
今まで女が歩んできた過酷な人生を鑑みると、自由であったと言えなくもないのかもしれない。しかし、その時の女には自由かどうかなど考える余裕も、心のゆとりもなかった為、今の自分が自由を得ているという実感が全くなかった。
でもそんな中、女の頭を過るものが一つあった。
“死”だ。
世界という鎖から解き放たれた、ということは、それはつまり自分が死んでしまったからではないだろうか? 女はそう思った。そう思った途端、ここに来てから抱いていた疑問が次々と解けていった。
崖から落ちたのに全く別の場所にいるのは、自分が死んでしまったから。
あれ程傷だらけだった体が綺麗になっているのは、自分の体が死んで、今ここにいる自分が人魂、つまり霊体だから。
自分が死んでいるのなら今、自分がいるこの場所は死後の世界。そして今、自分の目の前に立つこの男は、先程の言葉から想像するに死神なのだろう。
そこまで自己解決した所で、先程まで起伏が激しかった女の心が、凪いだ海のように鎮まった。
「(嗚呼、やっぱり私は死んでたのね……。でも、何も感じない。目が覚めた時は、死んだかもしれないことに、ちょっと安心感を感じたけど、本当に死んだってわかったら、思いの外、何も感じないのね……)」
先程まであった焦りも、死んでしまったことに対する悲しみも、辛いことから解放された安堵も、女が自身の死を理解した時、何も感情は動かなかった。いざ死に直面してみると、それが当然なのかもしれない。
しかし、それでも感情が動かない自分のことが、女には滑稽に思えて仕方なかった。
「死んだ? それは違うよ。お嬢さんは死んではいない」
「ッ!?」
まるで心を見透かしたような男の言葉に女は吃驚した。
「確かにお嬢さんはこの世界という鎖から解き放たれた。しかし、それはお嬢さんが死んだという意味ではないのだよ」
「じ、じゃ…どういう意味……ですか?」
「大丈夫。すぐに分かりますよ、お嬢さん」
女の問い掛けに答えず、男はそう言って女の頭をまたも撫でた。
「ほら、見つけましたよ」
「……え? ッ!?」
男がそう言った瞬間、女の体が物凄い力で後ろへと引っ張られた。視界が一気に遠退いていく。しかし不思議なことに、遠退いていく女の視界に映るには、遠退いていく男と色彩を放つ茜空の草原。そしてその光景が切り取られたよう広がっていく闇だった。
「待って…! どういうこと……!?」
遠退く程に広がる闇。既に彼方になりつつある男がいる景色に必死に手を伸ばす女だったが、伸ばす手は空を切り、遂に景色は闇に消え、女の意識も再び闇へと沈んで行った。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「ッ!?」
目を覚ますと、女の視界には切り立った岩肌が広がっていた。
「…? 痛っ!?」
体を起こそうとした瞬間、女の体に激痛が走った。体が鉛のように重く、指一本動かすことができない程、女は体に力が入らなかった。
視線だけを動かして自分の体を見てみると、体中には痛々しい傷が刻まれていた。
「(傷がある……)」
民衆から石礫を投げつけられ、崖から転落して無傷な方がおかしい。抉れた肉と滲む赤黒い血を見ながら、女は心なしか落胆したような表情を浮かべた。
「(夢…だったのかな? でも、それにしてはとってもリアルだったけど……)」
動かない手の代わりに女は自分の頭に意識を集中する。微かだが、そこにはあの黒衣の男から撫でられた感触が残っていた。
「(本当に、夢だったのかな? もしかしたら、本当だったのかも……)」
いつもなら夢幻で終わらせる女だが、妙に現実感のある瞼裏の残像と、頭に残る温もりが、女にそう思わせることを許さなかった。
意識はハッキリしているのに体の感覚が殆ど感じられない。それもそうだろう。満身創痍な状態で崖から落ちたのだ。生きていることが奇跡と言える。
しかし、このままここに居続ければ、今度こそ確実に女は黄泉路の川を渡りきる。
そろりそろりと死の手が女に忍び寄っていく。
その時、笛の音色が響き渡った。
「……ッ!」
音もよく聞こえない状態の女だが、その音だけはハッキリと聞き取った。夢か現か分からないが、女にとってはつい先程聞いたばかりの音色だった。
微かに地面から伝わる振動。誰かがこちらに近づいてくる足音が感じられる。それと共に笛の音も次第に大きくハッキリ聞こえてくる。
感覚が殆ど感じられない体に無理やり力を入れ、女はこちらへ近づいてくる者の姿を見ようと首を持ち上げる。
錆び付いた歯車のようにぎこちなくゆっくりとした動きで少しだけ頭を上げられた女は、笛の音が聞こえる方へと視線を向けた。
若干霞む視界に映るのは、明瞭になったり滲んだりする景色と、こちらへ近づいてくる人影の群れ。その群れはまるで大きな蛇のようにゆらりゆらりと蛇行しながら近づいて来ていた。
まだ黒い人影としか判断できないが、女にはそれが誰なのか分かった。
笛の音と共に歌声も聴こえてくる。女の脳裏にその者たちの姿が思い浮かぶ。
「(やっぱり夢じゃなかった……!)」
落胆していた女の心が生気を取り戻していく。死にかけている体に再び鞭打って立ち上がろうとする。激痛を感じてるはずだが、今の女には全く痛みなど気にならなかった。
錆び付いた歯車を無理やり回すように体の節々に力を入れる。ボロボロで動くはずもない女の体。その筈なのに女の体は少しずつ動き出す。
ゆっくりと上体が起き上がり、両手を支えに両足でしっかりと立ち上がる。
不思議なことに笛の音色と歌声が近づく度、女の体は力を取り戻していく。女が力を取り戻し、立ち上がる度に女の体に刻み込まれた痛々しい傷跡が消えていく。
一つ、また一つと女の体から傷が消えていき、遂には両足でシッカリと立ち上がり、近づいてくる人影たちへ向かい合った時には、女の体は傷一つ付いていない綺麗な肌へと回復していた。
「ごきげんよう。赤い髪のお嬢さん」
女の目の前で人影たちは立ち止まる。それと同時に笛の音色と歌声も止んだ。そして人影の先頭にいる男が女の深々と頭を垂れる。
先程まで女と対面していた漆黒を纏った仮面の男。その彼が再び女の目の前に現れる。
「夢じゃ、ない……?」
女は自分の頬を抓る。鈍い痛みがジーンと頬に伝わる。その痛みが女に夢でないことを痛感させた。
「ほら、言っただろう? お嬢さんは死んでいないと」
そう言って男は少し屈んで女に目線を合わると、悪戯が成功して喜ぶ子供のように笑った。
確かにそうだった。女は死んでおらず、目覚める前に男が言っていた通り、女は虫の息ではあったが生きていた。
「え?」
男の言葉に女は無意識に自分の胸、心臓がある部分に手を触れた。鼓動は一定の感覚で脈打っているのが、女の掌に伝わってくる。
しかし、伝わる鼓動を感じてすぐ、女は自身の体の異変に気が付き目を見開いた。目覚めた時に確認した自分の体に刻まれた傷跡が跡形もなく消えていることに女はたった今気が付いた。
ボロボロの衣服は変わらず、生身だけがまるで湯浴みをしたようにきれいになっていた。その姿は正しく夢幻で見た女自身の姿だった。
「さぁ、お嬢さん。お嬢さんはこの世界という鎖から解き放たれた。我々は来る者は拒まない。しかし、去る者は決して許さない。楽園パレードへ、ようこそ」
傷の消えた体に驚く女を待たず、男は夢幻で女に言った言葉をもう一度言い、これまた夢幻と同じように女に頭を垂れた。男の後ろに続いていた道化の一団もまた、一斉に女に頭を垂れた。
立ち位置は違えど女がこの光景を見るのは二度目だった。しかし、それでもやはり女は困惑してしまう。
「……何で、私なんですか?」
多少の躊躇を残しつつも夢幻の世界とは打って変わり、女は言葉を詰まらせずに男にそう尋ねた。
「何故、とは?」
男は女の質問に質問でそう返した。
「私は……私には、何もない……。生まれてすぐ親に捨てられて、育ててくれた人も、嫌嫌育ててたみたいで、愛情なんてこれっぽっちも与えられたことがない……。碌な教養も受けられなかったけど、独学で色んなことを学んで、身に付けてきたけど、だからって私が秀でていたわけじゃない……。“彼ら”の姿が見えるから、私は世界の鎖から解き放たれたの……?」
「いいや、お嬢さんの言う“彼ら”の姿が見えるかどうかは関係ないよ。事実、私の後ろを御覧なさい。彼らも元々はお嬢さんと同じだった。ただ一つ、お嬢さんと明確な違いがあるとするなら、“彼ら”という存在が見えていないことです」
「え……!?」
女は男の返答に驚きを隠せなかった。男の口振りからして彼の後ろにいる一団も、自分と同じく世界の鎖から解き放たれた者たちであると女は予想していた。女のその予想は当たりだった。
しかし、一つ違うところがあった。
それが“彼ら”の存在が見えるか見えないかだ。
女は世界の鎖から解き放たれる共通点は、“彼ら”の存在が見えることだと思っていた。女は死の淵に立ったことで、今まで謎だった“彼ら”の正体が、人の魂なる存在ではなく、人の強い“想い”であると理解した。そう言った稀少な能力を持つものが世界の鎖から解き放たれると予想していた女だったが、男から帰ってきた回答はNOだった。
女の考え通り、“彼ら”の姿が見える稀少な能力を持っていることで選ばれたのだとしたら、女は落胆していた。
今までの女の人生は、他者とは違うその赤髪が原因で迫害され続けてきた。何処へ行こうとも不吉と言われる赤い髪が、周りの人々を怯えさせる。当然のことながら、女は周りの人々を怖がらせようと思ったことは一度もない。
しかし、女の意志とは関係なく周りの人たちは女を恐れていく。そんな経験を経てきた女は、自身の赤い髪を疎ましく思った。
そしてその思いは歪み、赤い髪に限らず、他者とは異なる“特別”というものを女は疎ましく思うようになった。
故に女は、“彼ら”の存在が見える、という“特別”な能力を持っていることで、世界という鎖から解き放たれたという事実に落胆しそうになったのだ。
黒衣の男の話を聞き、彼も今までの人たち同様に自分を特別と判断するのか、と女はうんざりした。
だが、現実はそうではなかった。
「……じゃ、どうして私は、選ばれたの……?」
困惑する女は男に尋ねた。
「残念だが、それは私にも分かりかねるよ」
男はそう言って手を上げて軽く首を傾げた。
またも予想外の返答に女は唖然とした。
黒衣の男が率いる一団は皆、女と同じく世界という鎖から解き放たれた者たちであると、黒衣の男は言っていた。男の口振りから見て、一団の彼らは男の手によって見つけられ、一団に加えられたことが予想される。そこから黒衣の男には、解放された者の居場所を特定できる力があり、どういった基準で世界という鎖から解放されるのかを知っているはず、と女は考えていた。
しかし、男から帰ってきたのは、男自身もその基準を知らないというものだった。
では、何が基準となっているのか?
何故、自分は解放されたのか?
女は益々混乱していった。
「それはそんなに重要なことなの?」
「え……?」
混乱でぐるぐると回る女の頭に、鈴が鳴るような声が凛と響き渡った。その声を聞いた瞬間、女の頭の中から一瞬だけ混乱が消え去った。
女が声のした方へ視線を向けると、そこには夢幻の世界で黒衣の男の肩に座っていた白い少女がいた。少女は、夢幻の世界とは違って男の肩から降りており、女を不思議そうな面持ちで見つめていた。
「特別だから選ばれた。それは、貴女にとってそれほど重要なことなの?」
そう言って少女は首を傾げて女に尋ねた。客観的に見ればそれほど重要なことではないが、女にとっては重要なことだった。しかし、重要と言っても、所詮は女の我儘と言っても過言ではないだろう。
だが、我儘であったとしても、これまで不遇な人生を歩んできた女にとって、特別という言葉は良い意味ではなく悪い意味としての印象が強く、どうしても特別というものが関わってくる事柄を喜ばしく思えなかった。
「……」
少女はジッと女の瞳を見つめる。雪のように真白な少女の瞳。その穢れのない瞳に見つめられた女の心は揺れた。
女にとって重要な特別という言葉への疎み。その客観視すると単なる我儘とも言える執着が、目の前にいる少女の純白の瞳に見つめられていると、十数年の間に形成された他者には決して理解されないであろう特別という言葉への疎みが、まるで些細なことのように思えてくるのを、女は感じた。
「…ッ! わ、私のこの髪が特別だから! 他の人たちと違う色だから…! 貴女のように綺麗じゃなくて、不吉で呪われた悍ましい色だから……」
心を揺さぶる雑念を振り払うように女は自分の髪を鷲摑みにして叫んだ。その叫びには、これまで女の心の奥底に燻っていた不遇な人生への嫌悪が込められているようで、悲痛な叫びにも憎悪の怒号にも聞こえた。
「この髪の所為で、私は捨てられた……。この髪の所為で、皆から恐れられてきた……! この髪の所為で私は……ッ! ずっと独りぼっちだったっ!!」
谷底に女の叫びが木霊する。
これまで感情を露にして来なかった反動からか、一度口から出始めた女の吐露は、収まるどころか益々加速していった。
「そんなに重要なこと? 私にとっては重要なことなのよ!! 他人とは違う、その特別に今まで苦しめられてきた! 疎むのは当たり前でしょ!? ずっと彼らを助けることで誤魔化してきた。今まで最下層に立たされてきた私が、彼らを救うことでその最下層から脱することができた! あの時の私にとって唯一の楽しみであり、唯一の生き甲斐! 彼らを助けることで私は愉悦に浸れた。それしか私が生き続ける糧はなかったから……っ!」
女の吐露によって心の深淵に潜んでいた暗い感情が姿を現した。幼少の頃より続けてきた“彼ら”への救済。女にとってそれは正に唯一の生き甲斐だった。救済の切っ掛けとなった放浪の巫女が見せた舞いに影響され、その巫女のように誰かを救いたいという強い思いが、彼女を突き動かしていたの確かだった。
しかし、その裏で女の心には、女自身も知らない内に優越感が生まれていた。出自は異なれど、女も人の子。故にその心には光もあれば、闇も存在する。女の中で秘かに生まれたその闇は、心の深淵に潜み、女の成長と共に大きく育っていった。
「貴女のようにその美しく神々しい姿であれば! でも、それは敵わないこと。ほら、御覧なさい。この禍々しい血のように赤い髪を……!」
忌々し気に両手でその赤い髪の毛を鷲掴みにして、女はその場に崩れ落ちた。地面に涙の雫がポタポタと滴り落ちる。
少女たちはその様をただ静かに見つめていた。少女たちの目の前にいるのは、白い少女よりも年を重ねた赤い髪の女。しかし、癇癪を起しているように泣き叫ぶ女の姿は、まるで白い少女よりも幼く見えた。
「皆のように友達が欲しかった……。皆のように働いてみたかった……。皆のように町の人と世間話をしてみたかった……。皆のように恋をしてみたかった……。皆のように結婚してみたかった……。皆のように……普通の生活を送ってみたかった……っ! 皆のように! 家族に愛されたかった……っ!!」
それは女が欲したものであり、女が得られなかったものだった。普通の生活。誰もが当たり前のように送っている日常生活を女は渇望していた。そして最も女が求めていたものは“愛情”。女は誰かから愛されたかったのだ。逃亡の道中、女は数多くの愛情を目の当たりにしてきた。手を繋ぐ恋人、寄り添いあう老夫婦、慕いあう兄弟、そして夫と妻と子供の仲睦まじい家族。終末が近づいていると言われるこの世界で微かな希望に縋り愛する者と生きている彼らの姿が、女にはとても眩しく見えて、思わず手を伸ばしてしまう程だった。
「うぅ……っ! うぅぁ……あぁぁっ……」
溢れ出る感情を吐き出し続けた女は、もう嗚咽を零すしか内のものはなくなっていた。女の吐露が終わり谷底には、女のすすり泣く声だけが木霊する。
そんな女に少女はそっと近寄る。そしてゆっくりとそのか細く白い手を差し出すと、黒衣の男がやったように赤髪の女を撫でた。
「っ!」
「頑張ったんだね。偉いね」
鈴が鳴るように綺麗な声。男の声とは似ても似つかないが、少女のその声は男と同じでとても優しさに満ち溢れていた。
自分よりも年下の少女に頭を撫でられ、初めて労いの言葉をかけられた女は、一瞬困惑した。しかし、直ぐに涙が更に溢れ出てきた。初めてだからこそ、女はとても嬉しかった。
女を撫でる少女の手は、頭の天辺から滑り、女が疎んでいる赤い髪を今度は優しく撫で始めた。
「貴女は、この髪を嫌っている。貴女は、私の白い髪が綺麗だって言ってくれたけど、私は貴女のこの髪も綺麗だと思うわ」
「は……?」
本日何度目かの驚愕だった。少女から発せられた言葉に思わず女は素っ頓狂な声を漏らしてしまった。
今、眼前の少女は何と言った? 女は我が耳を疑った。先程まで女は自身の赤い髪への疎みを吐露した。これまで誰一人として女の赤い髪を好意的に見た者はいなかった。
しかし、少女は違った。女の人生で初めて、女は疎み続けてきたその赤い髪を綺麗だと褒められたのだ。
「え……? な、んで……?」
少女の誉め言葉に女の頭は理解が追いついておらず、上手く言葉を作ることが出来ないでいた。
「皆、貴女の髪を悪く言うけど、私は綺麗だと思うわ。血みたいに赤黒い色じゃなくて、夕日みたいに暖かくて輝いてる光のような赤。だから全然怖くないわ。寧ろ、とっても綺麗な髪をしていて、私も羨ましいと思うわ」
そう言って少女は女の髪を撫で続けた。何度も何度も、優しい手つきで髪を解かすように撫で続けた。
「うら、やまし、い……?」
もう女には訳が分からなくなっていた。濃密すぎる展開が短時間で女に押し寄せすぎ、女のキャパシティーはもう既に限界突破してしまっていた。
「私は髪も肌も真っ白だから、色鮮やかな赤い髪をしてる貴女が、羨ましいわ」
片手で女の髪を持ち、もう片方の手で少女は自分の白い髪を持ち、お互いの髪を比べるように交互に見比べた。左手に持った自身の白い髪は、色素が全くなく汚れを一切感じさせないほど透き通るような真白だった。右手に持った女の赤い髪は、少女の白い髪とは相対して、目を惹かれる鮮やかな夕焼けのような燃える赤い色。少女は愛おしむように女のその赤い髪に頬擦りをした。
「~っ!?」
少女の誉め殺すような言葉と、忌み嫌われてきた自身の赤髪を愛おし気に頬擦りする少女の行為に女は赤面する。気恥ずかしさからくる照れと、嬉しさからくる喜びが入り混じった感情が女の中で渦巻く。
「で、でも……。私……」
女は何かを言おうとするが、何を言っていいのか分からなかった。少女からの言葉は女にとって素直に嬉しいものだった。しかし、これまで忌み嫌われ続けてきた故、女は少女の言葉に裏があるのではないか、と勘繰ってしまい咄嗟に少女の言葉を否定しようとした。だが、女はその少女の言葉を否定する言葉を見つけられず、口籠ってしまった。
「大丈夫」
口籠ってしまう女に黒衣の男はそう語りかける。
「え……?」
何が大丈夫なのか、男に尋ねようとした瞬間、男が先に口を開き二の句を継ぎ始めた。
「ここには、そんなつまらないことでお嬢さんを否定する者などいないよ。これまでお嬢さんが歩んできた道のりは、確かに苦渋に満ちていた。しかし、今やお嬢さんはそんな苦渋に満ちた世界から解放されたのだよ! どんな理由であれ、お嬢さんが解放されたことに変わりはない。拒む気持ちがあるのならそれで構わない。我らはそれでもお嬢さんを喜んで迎え入れよう」
そう言って黒衣の男は赤髪の女の頭をまた撫でた。白い少女もそれに続き、女の頭を撫でた。涙が流れ続け、照れと喜びで赤面した女の感情がグチャグチャになったその顔から、今以上に涙が溢れ出した。
「うぅ…あぁぁ……っ!!」
不思議な雰囲気を纏う黒衣の男と白い少女。突然女の目の前に現れた素性の分らない怪しげな一団。そんな者たちの言葉は、普通ならとても聞き入れられるものではないのだが、何故か赤い髪の女はその二人からの言葉を素直に受け取ってしまう。怪しいと疑う考えや受け取ってはいけないと否定する考えはあるにも関わらず、女の心がそれらを振り払って二人からの言葉を受け入れたがった。
「こちらのお嬢さんの白い髪も美しいが、こちらのお嬢さんの赤い髪もまた美しい。それぞれに違った美しさがある。とても素晴らしい魅力だね」
黒衣の男は左手で白い少女の頭を撫でながらその白髪に触れ、右手で赤い髪の女の髪に触れた。撫でられた少女は擽ったそうに微笑む。それに釣られて泣きじゃくる女も、涙を流しつつ少し照れ臭そうに微笑した。
「さぁ、もう泣くのはお止しなさい。お嬢さんは、笑った方が素敵ですよ」
男はそう言って女の涙を指で拭った。女は赤く腫れ上がらせた目元に涙を貯めながらも、男の言う通り泣き止んだ。
泣き止んだ女を見て男と少女は満足そうに笑った。そして、立ち上がりもう一度女に手を差し伸べ、こう言った。
「さぁ、お嬢さん! 貴女はこの世界という鎖から解き放たれた! 我々は来る者は拒まないが、去る者は決して許さない。楽園パレードへようこそ」
夢幻の世界の時、現へと戻った時、そして今この時。
三度聞く男からの言葉。最初は何にことか分からず首を傾げた。二度目に聞いた時は、未体験の感覚に戸惑いそれどころではなかった。そして今回、多少の感情の混乱はあるが、女は男の言葉をシッカリと聞き理解した。戸惑いや疑念が全くなくなったわけではないが、それでも先程まで女の中に根付いていた特別への疎みは、明らかに小さくなっていた。
三度目になる頭を垂れお辞儀する男と少女、そして一団の姿を目の当たりにする赤髪の女。
女は目元に溜まった涙を拭う。
足に力を入れ再び立ち上がる。
改めて赤髪の女は、黒衣の男たちに向き直った。それに応じるかのように黒衣の男たちも頭を上げ、女に向き直った。
女の視線と男の視線が交差する。女は男の仮面に覆われ闇に包まれている目を見つめる。その瞳には力強い光が灯っていた。
「……私を、連れて行って…!」
「……勿論」
男はニヤリと笑った。
黒衣を翻し、男は懐から笛を取り出し、それを合図に少女は男の肩へと飛び乗り、一団は楽器を構えだす。
そして笛の音が響き始める。
深く切り立った崖の底。誰も訪れないであろうその場所で、音楽が奏でられている。壮大な大演奏が響き渡っている。
「ねぇ、お姉さん。踊って?」
「え? でも……」
少女は女にそう頼んだ。しかし、女は少し渋る。女の中にある小さくなった不安と戸惑いが、最後の抵抗でもするように女を渋らせる。
「大丈夫。お姉さんの思うままに舞い踊って」
しかし、その女の中に燻ぶる最後の抵抗も空しく、少女の純真無垢な微笑みに照らされ、女の中に燻ぶる疑念や不安が、まるで日の光を浴びた魔性の者のごとく消え失せていく。
「……わかったわ」
女は目を閉じ、心を静める。耳を澄まし、音を聞く。その所作に淀みはない。これまで何十何百と繰り返し続けてきた舞う為の心構え。
「……」
女の頭に走馬灯が駆け抜けていく。今日で二度目になる女自身の半生。捨てられた光景、虐げられた光景、巫女の舞いを見ている光景、それを真似て舞う自分の光景、彼らを助ける為に行脚する光景、民衆に追い立てられる光景、崖の先端で満身創痍になりながらも舞う自分の光景。死の淵に立ったあの時、女の脳内を駆け巡った半生の記憶。これから死ぬわけでもないのに、何故かその記憶が走馬灯となって女の脳内を駆け抜けていった。
いや、これはある種の死であるともいえるだろう。
崖の先端で死の淵に立ったあの時、女は本心からあそこで死ぬつもりだった。命を燃やし、女は誰もが辿り着く肉体の死へと向かっていた。故にあの時、女の脳裏に走馬灯が走った。
しかし、今は違う。女の肉体は死へと向かっているどころか、活性していた。今、女の脳内を駆け抜けているのは、肉体の死という滅びに対する走馬灯ではなく、この世界という鎖から解き放たれたことで理から逸脱した。普通の者たちとは異なる存在になろうとしているそれは、通常の人間としての“死”といえる。
女は舞い始めた。
腕を振るう。痛々しい思い出が一つ消えた。足が弧を描き回る。悲しい思い出が一つ消えた。両手を広げ、天に掲げる。辛い思い出が一つ消える。女の中に燻る影が、燃えていく。それを糧に女の舞いは加速していく。
「フフッ……すぅ、♪~~♫~」
舞い始める女の姿を見て、少女は嬉しそうに微笑む。そして少女は歌い始めた。凛とした歌声が、数十数百ある楽器の演奏にも負けず崖の底に響き渡った。
黒衣の男の笛の音。白い少女の歌声。一団が奏でる演奏。それらに包まれ赤髪の女が舞い踊る。
音色が、歌が、演奏が、女が舞い踊る度に光の糸となって女に巻き付いていく。一本の光の糸は、幾重にも重なっていき女のボロボロの服を転化させていく。土埃や血に汚れた服が、幾重にも重なった光の糸の輝きに覆われていく。そして舞い踊る度に輝きを纏っていき、舞い踊る度に輝きから美しい絹を纏った女の体が顕わになっていく。
輝きが辺りに舞い散り、その中から朱色の衣を纏い、赤色の長い髪を靡かせ、緋色の瞳を輝かせながら舞い踊る、赤い髪の女、いや赤い髪の舞姫が姿を現した。
その身は、日の光も届かない地の底に天から差し込んだ茜色の一筋の光に照らされ、まるで炎を纏っているようであった。
燃え盛る炎を纏ったような今の女には、もう迷いも疑念もなくなっていた。女の心に燻っていた微かな影は、たった今、完全に燃え尽きたのだ。
差し込んできた一筋の夕日の光を切っ掛けに、天から茜の輝きが降り注ぎ崖の底を赤く照らしていく。闇に覆われていた崖の底は、一瞬にして炎に包まれたように茜に染まっていった。
「さぁ、諸君。行こう!」
笛の音を一瞬止め、男は高らかにそう言った。そして一団は動き始めた。
「舞姫よ、我らを先導してはくれないか?」
「え……!?」
唐突に思いもよらぬことを言い出した黒衣の男に赤い女は驚愕する。ついさっき一団に加わったばかりなのにも関わらず、一団を導けと言われて直ぐに了承する者はそうはいないだろう。
「大丈夫。考える必要はない。ただ舞い続けていればいいのだよ。そうすれば、自ずと道は開けていくものさ」
戸惑う女に男は安心させる為にそう言った。俄かには信じられない言葉であるが、心の影が完全に焼き尽くした女には、男のそれだけの言葉があれば十分だった。
「……分かったわ。やってみる…!」
表情から戸惑いの色が消えた女は、再び舞いを再開する。言われた通り、女は何も考えず舞いに集中し始める。ただ感じるままに舞い踊る。彼らへ祈りを捧げていた時のように。
すると不思議なことに、女の体は自然と何処かに吸い寄せられるのを感じた。まるでこっちにおいでと誘われているようだった。
「(凄い……。でも、何処へ向かっているんだろう?)」
舞い踊りながら女は不思議にそう思った。すると女の頭の中に男の声が木霊した。
「(目的地など無いのだよ。我々はただ、世界という鎖から解き放たれた者たちを見つけ、我がパレードに加える。それだけさ)」
「(っ!? そう、なのね)」
脳内で交わす会話に女は驚くが、ここまでもっと驚愕することがあった為、また、不思議な雰囲気を纏う黒衣の男ならできるだろう、と女は納得しそれ以上気に留めなかった。
不図、女はあることを思い出した。それは男について尋ねることだった。夢幻の世界で男から質問はないか、と尋ねられた時、女の中に溢れていた疑問の一つとして、男が何者なのかというものがあった。しかし、結果としてその質問をすることはなかった。
心に燻っていた影が消えた今、女は何気なくそんなことを思い出した。そして言葉にはせず、頭の中で男に語り掛けてみた。
「(貴方は、何者なの?)」
返事が返ってくるか、ちゃんと相手に伝わっているのか、少し不安を感じた女だったが、それは杞憂に終わった。
「(フフッ、私かい? 私は“アビス”。世界という鎖から解き放たれた者を率いる、この楽園パレードの先導者さ)」
黒衣の男、アビスは女の頭でそう返答した。
「アビス……」
女はその名を呟き舞いの最中、背後にいる男をチラリと盗み見た。そんな女の考えを見通していたかのように、一瞬の中でアビスは女の目を見つめ返し、笛を奏でながら微笑んで見せた。
やがて道は開け、一団は崖の底から抜け出した。
彼らは開けた道の先、夕焼けの光が広がる白の世界へと入っていく。彼らは光の中へと消えていき、後には彼らの演奏だけが彼方へと響き渡る。
次は一体、何処へと行くのだろうか?
to be continue