「フンフ〜ン」
よく晴れたお昼時。楽しげな鼻歌を口ずさみながら、小さなシスターは選択し終えた衣類を干していた。
まだ十五を越えていないであろう幼さを感じさせるシスターは、その小さな体をせっせと動かし、自分の身の丈よりも高く積み上げられた洗濯物の山をあっという間に干し終えた。
「よし! じゃ、次は―――――」
洗濯物を干し終えたシスターは、いそいそと教会の中へと入っていくと次の仕事に取り掛かった。
次の仕事は掃除だった。用具入れから箒と塵取り、バケツにブラシを担ぎ出し、黙々と教会内の掃除に取り掛かった。
シスターが勤めてるその教会は大きいとは言えない広さではあるが、決して小さく狭い訳ではない。
出入り口。
廊下。
事務室。
応接室。
寝室。
そして、礼拝堂。
シスターはそれらの場所を“一人”で掃除した。その間、教会の中には掃除の音だけが寂しげに響き渡っていた。
全ての掃除を終えたのは、空が茜色に染まった頃だった。
「ふぅ〜、じゃぁ次はーーーーー」
休む間もなく、シスターは次の作業に取り掛かろうとした。
掃除用具を片付け、一度外に出て服に付いた埃を手で一通り払うと、再び教会へと入っていき最後に掃除した礼拝堂へと向かう。
礼拝堂の奥。その中央には教会で信仰している神の像が荘厳な雰囲気を放ち鎮座していた。シスターはそんな像の前に膝をつくと静かに目を閉じ、神への祈りを捧げ始めた。
窓の外から射し込む夕焼けが段々と薄らいでいき、外はあっという間に夜の闇に覆われてしまった。その間、シスターは鼻で行う呼吸以外、微動だにせず黙々と祈りを捧げ続けていた。
「フゥ︙…」
小さく息を吐き漸くシスターは立ち上がる。シスターは数時間にも及んだ祈りを終えると、すっかり暗くなった礼拝度をそそくさと後にした。
礼拝堂を出ていったシスターが向かったのは、教会の中にある就寝用の部屋だった。事務所の隣にあるその部屋は、本来は教会に務める聖職者たちや教会を訪れた来客用に作られた寝室だ。
寝室はガランとしており、窓の近くに置かれている質素な作りのベッドと枕元に置かれている小さな机、そしてベッドの足元に置かれているクローゼットしか物はなかった。
枕元の小さな机の上に置かれた古びたランプに灯された小さく淡い炎の灯りだけが暗い部屋の中を照らす。
しかし、それでも寝室内は薄暗い。五、六人の人が眠れるであろう広さの中、一人用のみ置かれたベッドやクローゼットは、薄暗い部屋と相まってとても寂しげに感じられる。
そんな中、シスターは修道服から寝間着へと着替えていた。シスターが着ていた修道服は、掃除や洗濯で汚れているだけでなく、明らかに着古した解れや傷が所々にあった。
脱いだ修道服を丁寧に畳むとそれをクローゼットの中にしまう。開けられたクローゼットの中にも物は殆ど入っていなかった。中に入っていたのは、一着の寝間着のみで、シスターはその寝間着を取り出して代わりに綺麗に畳まれた修道服をクローゼットの中に入れる。取り出した寝間着も着古した感じが見受けられる。しかし、シスターはそんなことは気にも止めず、慣れた動きで寝間着へと着替え終える。
流石に朝から働き詰めだったこともあり、幼さを感じさせるシスターはうつらうつらとしていた。フラフラになりながらベッドの方まで歩いて行き、そのままベッドへと倒れ込む。
「……ハッ! いけない! いけない! 忘れるところだった」
そのまま夢の世界へと旅立とうとした瞬間、シスターは忘れていたことを思い出し、急速に現実へと戻ってきた。
倒れ込んだベッドの上で慌てながら身嗜みを軽く整えると、闇が密集する天井、その先に広がる天空を見つめ、再び神へと祈りを捧げた。
「神様、今日も私たちを見守って下さり、ありがとうございます。そのおかげで今日も生き延びることができました。お迎えが来られるその日まで、頑張ります! 明日もどうか、お守り下さい。おやすみなさい」
深々と天に頭を垂れ、神へ就寝の挨拶を済ますと、机のランプに灯る火を消し、今度こそベッドへと潜り込んだ。瞼を閉じるシスターは、満足そうな笑みを浮かべたまま夢の世界へと入って行った。
これがシスターの一日である。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
その教会には、嘗ては多くの人が訪れていた。
優しい神父様がいて、数人のシスターが、日々訪れる悩める者たちを救済するべく奔走していた。多忙と言う程、人が押し寄せていた訳ではないが、それなりの充実感が感じられる奔走具合だった。
しかし、時代は混沌を極め、平穏はあっという間に打ち砕かれてしまった。人々は信仰心を捨て去り、神という曖昧な存在を信じ得られる安寧よりも、物資から得られる明確な安寧を求め奪い奪われということを繰り返した。
力の強い者、頭の働く者は、多くの物資を略奪することができる。しかし、そうでない者たちは、ただひたすら奪われ続ける。
多くの人が狂った。
多くの人が殺された。シスターもその中の一人だった。
まだ齢五つも迎えていなかった幼少の頃、シスターの家に賊が押し入った。金目の物や食料を強奪し、家人である両親を殺害。幸い、幼かったシスターを殺める程、賊は狂っておらず、シスターには危害を加えず賊は逃走していった。
その後、シスターは孤児院へと預けられた。時代が時代な為、子供一人を養う余裕を持つ者は、シスターが生まれた村の中には居なかった。
だが、その孤児院でシスターは運命の出会いを果たすこととなる。
それは神父との出会いだった。
教会は、人々救済するべく、村々を廻り神の教えを説くという行いを実施していた。信仰心が薄れつつあるとは言え、略奪される弱者たちにとっては、正に地獄で仏に会うといった心境である。彼らは藁にも縋る思いで教会の説法に耳を傾け、いや、この場合は耳を捧げたと言っても過言ではない。そうすることで心が疲弊しきっていた彼らは、僅かばかりの安寧に浸ることができていた。
その説法は、シスターが預けられた孤児院でも行われた。
純真無垢な子供たちと言えど時代の影響を受け、尚且つ、親を失った子供たちが集まる孤児院には、一般的な家庭で暮らす子供たちよりも明らかに笑みが絶えていた。
そんな中、孤児院を訪れた教会の神父とシスター。彼らの説法は始めこそ子供たちの閉ざされた心を開くことはできなかったが、説法を語り始めて暫くすると、流石は神に仕える信徒と言うだけあって慈悲深さ溢れる彼らの語り口調によって、死んだように静まり返っていた子供たちの顔に笑みが戻り始めていた。神父とシスターが語り終える頃には、子供たちにはすっかり明るい純真溢れる笑みが戻っていた。
後にシスターとなる幼年の少女もまたその中の一人だった。
その時、彼女は思った。「本当に神様は存在するのだ」と。
彼女の家族は熱心な信徒だった。物心がつく頃より彼女は両親から神の偉大さと祈りを欠かしてはならないことを教えられて育った。だから神の存在を疑ったことなどなかった。しかし、件の悲劇を目の当たりにしたことで彼女は一時、神の存在を疑った。
そんな時に現れた神父の存在は、彼女にとって正に失われたと思った神の再臨に等しかった。
最初は、彼女も他の子供たちと同様に期待など抱いてはいなかった。だが、実際に神父の説法を目の当たりにしてみると、視界は百八十度ガラリと変わった。闇が漂っているかのような雰囲気の周りの子供たちが、次第に一人二人と笑みを浮かべだす。そして終いには、あんなに暗い雰囲気が漂っていた孤児院から希望に満ちた笑い声が溢れかえっていた。
自分も気がつけば楽しげに笑っていたことに彼女は内心驚いていた。そして神の身技を刮目したような歓喜を胸に抱きつつ、彼女は強い憧れを覚えていた。
「あたしも、神父様みたいに、みんなを笑顔にしてあげたい……!」
両親の育児の賜物か、彼女の元来の性格によるものなのか、彼女は非常に面倒見が良く、他者に対して慈しむ気持ちが人一倍強い子だった。両親を一夜にして失ったにも関わらず、彼女は自分よりも他人を気遣った。他の子と変わらず、辛さや悲しみに苛まれて激しく泣き叫んでいながらも、彼女は必死に涙を堪らえようとしながら他の泣いている子を宥めようとしていた。彼女が孤児院に来た日、その様を目の当たりにした大人たちはとても驚いていた。
それ程までに博愛に長け、生まれた頃から神の教えを両親から聞かされて育った彼女にとって、その日の神父との出会いは正に天啓とも言えるだろう。
それからの彼女の行動は、周りが目を見張る程に早かった。まず、天啓を得たその日、神父一行が次の場所へと向かおうと孤児院を出た瞬間、彼女は久方ぶりにお腹の底から声を張り上げ神父を呼び止めた。
「待って!!」
その場にいる者が一斉に彼女へ視線を向ける。
「あ、あたしも! 神父様みたいになりたいです!!」
無駄に取り繕うことなく、彼女は自分が望むことをそのまま言葉にした。
顔だけを彼女の方へと向けていた神父は踵を返し、体全体を彼女の方へと向け直した。そして片膝をついて目線を彼女へと合わせる。
「私のようになりたいとは、どういうことかな?」
優しい表情と口調で神父は彼女に尋ねる。
「あたしも! 神父様みたいにみんなを笑顔にしてあげたいんです!」
何も取り繕うことなく彼女は内にある本心をそのまま言葉にして伝えた。
「……」
神父はそんな彼女の目をジッと見つめ返す。彼女の瞳は宝石のようにキラキラと輝きを放っていた。そんな彼女の瞳に神父は吸い込まれそうな感覚を覚えた。
それは神父が感じた天啓だった。
「……いいかい? 私たちのお務めは、とても大変なものなんだよ。この孤児院で暮らすよりも厳しい生活になる」
神父は神妙な面持ちで彼女にそう言う。孤児院での生活はとてもじゃないが裕福とは言えない。だが、そこで暮らす限り子供として最低限の暮らしを送ることができる。しかし、シスターになればいかに子供と言えど神に仕える者として厳しい生活を送らなければならない。
神父自身、その経験がある為、目の前で自分を射抜くように見つめる少女がそれに耐えられるかどうか、神父は訝しんでいた。
「それでも構わないと言うのなら……」
神父はゆっくりと彼女に歩み寄り、スッと右の手を差し伸べる。
「私たちと一緒に来るかい?」
その言葉に彼女の表情が、宝石のような瞳よりも燦然と輝いた。彼女は差し出された手を強く握り返し、返事の言葉を口にする代わりに大きく首を縦に振った。
こうして彼女のシスターへの道が開かれた。
彼女は孤児院から教会へと移り住み、そこでシスターになる為の勉強を行いながら暮らすことになった。彼女の門出にこれまで家族同然に寝食を共にしてきた子供たち、彼女を引き取ってこれまで世話をしてきた大人たちは、その目に薄っすらと涙を浮かべながら笑顔で彼女を見送った。
教会での暮らしは神父が言っていた通り、孤児院での暮らしよりも厳しいものだった。起床と就寝の時間は早く、食事もより質素になり、シスターとしての役目についてや神の教えについて学びながら遠方への布教活動にも同行。孤児院とは打って変わって自由な時間は少なかった。
しかし、彼女にとってそれらは対して辛く苦しいものではなかった。一度、心の光を失いかけた彼女の前に現れた人々に笑顔を与える神の姿。その姿に憧れた彼女の行動力もさることながら、元々彼女が持っている勤勉さと純真さが合わさり、彼女に過酷な生活下であっても辛苦を感じさず変わりに満ち足りた気持ちを感じさせた。
教会に来てから彼女は暗い表情を見せることは決してなかった。それは無理をして表情を作っているのではなく、本心から神に仕える者としての生活を楽しく思っているからだ。
そんな彼女の様を見て教会の人たちは微笑ましく思った。混沌としたこの世の中での唯一の安らぎを彼女は周りに与えた。瞬く間に彼女の存在は教会での希望となり、その微かな希望の光は周りにもゆっくりと広がっていった。
彼女は神父に付き添い方々へと布教活動に向かった。その先々で彼女の純真な笑顔によって心が荒んだ人々は癒され、次第に嘗て平穏だった頃と同じように笑みを浮かべられるようになっていった。
それに伴って神父たちの布教活動は以前に比べて格段に広く浸透されていった。
神父たちは喜んだ。
彼女も喜んだ。
彼女は混沌とした世界に舞い降りた小さな天使として教会や村々の人々から愛され慕われた。彼女がその場にいるだけで一時、人々は混沌とした世界から逃れ、安寧を得ることが出来た。
しかし、そんな安寧も長くは続かなかった。
神父たちの布教は確かに広まっていると言えたが、それでも世界は混沌の渦中。姿なき神の救いよりも目に見えて飢えと渇きを満たしてくれる物資の方が、求める者は遥かにいた。
いくら神に仕える者と言えど所詮、神父やシスターも人である。神に仕えているからと言って皆が苦難に耐えうる心を持っているとは限らない。
それは彼女が出会った神父も例外ではなかった。
「クソっ!」
神父は憤っていた。
半年前に訪れた孤児院で天啓を受け、孤児だった彼女を引き取った。その天啓は正しく、彼女を引き取ってから布教活動は以前よりも広まった。
しかし、それでもまだまだ足りなかった。
信仰を取り戻す人々の数よりも信仰を捨て去る人々の数の方が圧倒的に多く、神父たちの布教活動はそれに到底追いついてはいなかった。
「神よ……何故人々は御身のお言葉を聞くことが出来ないのですか……? 何故、我々の行いは報われないのですか……? 何故……? 何故……ッ!?」
神父は自問自答を繰り返した。
生まれてから今の時まで、驕りも怠惰も振り払い自分が信じる神への信仰に神父は全てを捧げてきた。
成長するに連れて混沌を極めていく世で育ちながらも、いつか神が我々を救ってくださる。我々の行いは報われる。そう信じて苦渋に耐え忍んできた。
彼女と出会いは、神父にとって兆しに思えた。彼女によって布教はより広まり、絶望に染まっていた人々に笑顔を取り戻していった。それを見て神父は確信した。これから良い方へと風向きが変わっていくと。
しかし、結果的に風向きは変わらなかった。
この時から神父の心の中に陰りが姿を見せ始めた。齢四十を前にしたこの時まで揺るぐことのなかった信仰心が初めて揺らいだ。神の教えに疑念を抱くようになった。
「いや、違う! 神には我々には思いのつかない崇高なお考えがあるはず……。疑いは捨てろ。これまで通り、神を信じるのだ……!!」
疑念を振り払うように神父は頭を左右に振る。しかし、一度芽を出した疑念の種は、神父の望みとは裏腹にゆっくりとだが大きく育っていった。
成長する疑念の種は根を伸ばし、その根は徐々に神父の体に深く根付いていき、神父の心を蝕んでいった。
どんなに目を逸らそうとも疑念は視界に姿を現す。どれほど頭を振っても疑念は頭から消え去らない。無意識の内に神を蔑ろにする考えが真っ先に念頭に浮かぶ。布教するのが面倒に思えてくる。祈りを捧げるのが疎かになっていく。
神父の心は荒んでいった。
それは一目見て分かる程、神父の容姿に顕著に表れていた。整えられていた頭髪はだらしなくボサボサ、毎日剃られていた髭は手入れされず伸び放題、着ている修道服も目に見えて泓や埃汚れで汚い有様だった。目元には隈が刻まれ、頬はゲッソリと窶れ、まるで餓えているような表情を浮かべていた。
神父の変わり果てた姿に皆、目も当てられなかった。しかし、誰も神父を労わろうとする者はいなかった。いや、正確には労わることが出来なかったと言うべきだろう。上手くいかない布教活動に心を病んでいたのは神父だけではなかったからだ。他の神父たちやシスターたちも信仰心が揺らぎ始めていたのだ。
皆がそんな調子では布教活動など当然、順調にいくわけもない。布教の状態は衰退の一途を加速的に辿っていった。それがより一層に信徒たちを焦燥させ、疑念の芽を育てる要因となってしまった。
だが、そんな中でも彼女の純真な輝きだけは失われなかった。まだ幼いから大人たちのように疑念に苛まれないのか、それとも純真さが疑念の芽を枯らしてしまうのかは分からないが、彼女だけは変わらず神を信じ続け、いつか必ず布教を世界全土に定着して世界は平和になると信じて疑わないでいた。
そんな彼女がいたからこそ、皆の疑念の芽は抑制され直ぐには花を咲かすことはなかった。
しかし、所詮はたった一人の小さな抑止。そう長くは開花を抑えられるものではない。直ぐに限界がきてしまい、誰かの心で疑念の芽が開花してしまう。
そしてその時は呆気なくやってきた。最初に花を咲かせてしまったのは、彼女を引き取った神父だった。
疑念の花が咲いてしまえば、心の奥底に根付いた根を伝って栄養、人の精神力を吸い上げより一層花を開花させていき、最後には枯れ果てる。その時を迎えた時、宿主の心は死んでしまう。信仰などという現実的に役立てられないものを不必要として、物資という現実的に最も役立つものを必要とするようになる。それも自分本位を遵守して他者を殺してでも手に入れようとするようになってしまう。
そう、正に今のこの混沌とした世界で略奪する者たちは、疑念の花に心の栄養を全て奪われ花を枯らしてしまった者たちの成れの果てなのだ。
花が開花してしまった神父はすっかり人が変わってしまった。思いやりに溢れていたのに、口を開けば暴言を吐き散らすようになってしまった。信仰も完全に捨ててしまい、戒律を破り殺生による肉食と酒を飲み心に安寧を与えようとするようになった。
そして一輪の疑念の花の開花に続くように一人、また一人と花を咲かせてしまう者たちが顕われ始めてしまった。小さいながらも粛々と穏やかに布教活動をしながら暮らしてきた修道院は、疑念の花を開花させてしまった者たちによって、瞬く間に見る影もない廃屋同然の荒れ屋敷へとなり果ててしまった。
そんな中でも彼女はたった一人、神を信じ続けた。たった一人戒律を守り続け、たった一人一日も欠かさず祈りを捧げ続け、たった一人で布教活動の為に方々へ赴き続けた。
荒くれた神父たちが教会内を荒らす度、彼女がせっせと掃除して元通りに直す。しかし、直ぐにまた神父たちが荒らしてしまう。そしてまた彼女が直す。
神父たちが信仰を捨ててからこの鼬ごっこは毎日いや、日に何度も繰り返されていた。
時には憤った一人の神父に彼女は殴られたこともあった。あどけない彼女の顔には不似合いな大きい青痣が作られても、彼女は泣かなかった。痛みで目に涙を浮かべることはあっても、決してそれをボロボロと決壊させることはなく、泣き言すら零すことはなかった。
彼女のことを慕い、可愛がっていた近隣の村人たちは、彼女のことを哀れに思っていた。
神父の堕落を風の噂で聞きつけた村人の一人が、彼女のことを心配して教会に様子見をしに行った時があり、その時に想像以上に荒廃した教会と神父たち、そして凄惨な彼女の生活風景を目の当たりにした。
村人は絶句した。慌てて村に駆け戻り、村中に教会の惨状を伝えた。村人たちは希望を広めようとしていた教会の陥落に愕然とするが、それよりも彼らが慕い可愛がっている彼女を保護しなければと思い、村人たちは修道院へと向かった。
しかし、彼女は村人たちの保護を断った。
理由は単純。彼女は“今”彼らに救いを求めていないからだ。彼女は今の状況を憂いてはいるが、それは神が与え賜もうた試練だと考えていた。だからどれだけ修道院が荒らされようと、神父が堕落しようと、自分の身に暴力が降りかかっても、彼女は耐え抜くべき神からの試練であると信じた。
いや、妄信していた。
「あたしは大丈夫です。神様が見守ってくださるから」
彼女はそう言っていつもの純真な笑みを浮かべた。しかし、その瞳の光は鈍く輝いていた。
彼女のその言葉と笑顔に村人たちは何も言えず、ただ黙って彼女を見ることしかできなかった。これまで天使のように愛してきた幼い彼女のその表情を見て、村人たちの心に深い悲しみと憤り、そして哀れみが渦巻いた。村人たちは皆、秘かに誓った。混沌な世界に絶望した奪う意思も力もない非力な弱者である自分たちだが、そんな自分たちであっても目の前にいる幼い彼女を見守ろう。目の前であどけなく笑う彼女の悲痛な姿を忘れまいと、村人たちは決意を胸に抱き自分の両の目に焼き付けた。
この時から村人たちは彼女を見守り続けた。
晴天の日、曇天の日、雨天の日問わず村人たちは彼女の安否を気遣った。弱者故に彼女に降りかかる火の粉を振り払うことも、身を挺して庇うこともできない。村人たちにできることは本の微々たるもので、神父に殴られた彼女を手当てしたりお腹を空かせてはいないかと細やかな差し入れを隠れて持って行ったりと、陰ながらサポートし続けた。
村人たちはこの程度のことしかできない自分の弱さと混沌と化していく世界を恨み、そして彼女の行いが報われることを願った。
神父たちが堕落してから数か月が経ち、彼女の生活リズムもすっかり定着してしまった頃、事件が起きた。
神父たちによる暴徒化、そして殺し合いの末に同士討ち。喧噪も何もなく一見のどかに見える昼下がりの出来事だった。
「それを寄越せ!!」
「五月蠅い! これは俺の物だ!!」
ほんの些細な奪い合いだった。教会内、二人の神父が酒を巡って争いだした。神父たちは身の内で開花した疑念の花にどんどん栄養を与え、貪欲になり果ててしまっていた。どれだけ食べても、どれだけ飲んでも満ち足りなくなった彼らは、遂に他人の物を奪いだした。
一つしかない酒瓶を互いに引っ張り合い、段々とエスカレートしていったそれは殴り合いを経て遂には殺し合いにまで発展してしまった。
「死ねぇ!!」
渇きと空腹、苛立ちでヒートアップした片方の神父は、奪い合っていた酒瓶を振り上げもう一人の神父の頭目掛けて、衝動任せに力一杯酒瓶を振り下ろした。
ガチャン!!
酒瓶が砕け、床に破片と酒が散らばり落ちる。酒に混じり割られた神父の頭から湧き出る血流が床を真っ赤に染めた。
殴打された神父は呻き声を零しながらゆっくりと前のめりに倒れこんだ。頭から赤い血液がドクドクと流れ出し、床に赤い水溜まりを作った。流れ出た血の量と、倒れてからピクリとも動かない所を見るに殴られた神父は既に事切れているであろうことが分かった。
一瞬の出来事で作り上げられた惨状に対して、その場にいる誰も悲鳴一つ上げることはなかった。まるでいつも通りの日常の風景のように誰一人見向きもしないでいた。
しかし数秒後、殴った方の神父が突如として悲鳴を上げた。
「あ、あぁぁぁぁぁぁぁ!!」
信仰を捨てたとはいえ元は神に仕えていた身。流石に人を殺してしまった罪悪感に苛まれたのだろう。
普通ならそう思うだろうが、感性が狂ってしまうこの混沌とした世界で生きている者は普通ではない。
「酒がぁぁぁぁぁぁ……」
神父は先程の罵声の勢いとは打って変わって情けなく泣きじゃくりだした。それも相手から奪おうとして、激情に駆られて自分の手で粉々に割ってしまった酒に対して、神父は泣きじゃくっていた。
絶望したように膝から崩れ落ち、そのまま床に蹲った。その様はまるで幼い子供を彷彿とさせる姿だった。
そしてそれが引き金になったように神父が癇癪を起した。
「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」
突然、雄たけびを上げて立ち上がった神父は、錯乱したように腕を振り回しながら辺りを滅茶苦茶に荒らし始めた。棚を倒し、椅子を投げつけ、窓ガラスを割る。彼女によって掃除され、拙いが修繕されていた室内が、あっという間にボロボロにされてしまった。
しかし、今回は荒らされるだけでは済まなかった。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
「うぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
何が癪に障ったのか、それともこの日は虫の居所が悪かったのか、癇癪を起して暴れ回る神父に同調したかのように周りで先程まで我関せずとしていた者たちまでもが暴れ始めた。
一瞬にして教会内は喧噪に包まれ、その場は殺し合いの現場と化した。散らばったガラス片、折れた木片、転がる家具、凶器と成り得る物を手に神父たちは殺しあった。殴り、刺し、自分の手で首を絞め、我武者羅になって目に映る者を手当たり次第に殺していく。
嘗て神へ祈りを捧げていた神聖な場所であった教会でこの日、多くの神父たちが死に絶えた。そして唯一生き残ったのは、殺戮の発端となった最初に信仰を捨てた神父、その彼が孤児院から引き取った“彼女”ただ一人であった。
「神…父さま…?」
床に倒れ伏せる嘗ての仲間たち。優しかったシスターたち。色々なことを教えてくれた神父たち。そして自分を引き取って再び信仰を与えてくれた神父。皆、変わり果てた姿で血溜まりの中に転がっていた。
まだ齢十も超えていない彼女にとってそれはとても凄惨な光景だった。
しかし、彼女は涙一つ見せず、また亡骸に縋りつくこともせず、小さな体で必死になって死んでしまった嘗ての恩師たちの亡骸を一人一人、教会の裏手に埋葬していった。それは日が沈む時まで掛かり、裏手には小さな墓地が出来上がった。
全員の埋葬を終え、荒れた教会内の片付けと修繕を終えた彼女の呼吸はとても荒く、その小さな手は血豆が潰れて血が滲んで真っ赤に染まっていた。
教会での一件は瞬く間に近隣の村々へと広まっていき、村人たちは一層彼女を哀れんだ。
親を殺され、引き取ってくれた者たちも死に絶え、神からの救いもなく、その小さな体とこの世に生れ落ちてまだ十年も経たない未熟すぎる心に圧し掛かる過酷。
彼女は耐えているのではない。一度信仰を失い、再び信仰を取り戻したその時には、もう彼女の心は壊れてしまっていた。彼女に残っているのは、嘗て彼女が持っていた純真と、他人を思いやる優しさの残滓。故に彼女は自分よりも他者を優先することが出来た。故に年相応に泣きじゃくることがなかった。故に不平不満を漏らすこともなかった。
大層な教養を持ってはいなかった村人たちが彼女を哀れんだのは、彼らの心が告げたからだ。もう彼女の心は役目を全うしていないのだと。故に村人たちは悟った。彼女は哀れなのだと……。
それからも彼女は何も変わらず日々を過ごした。近隣の村々で疫病が蔓延しても、野盗が村々を襲撃しても、天災が辺り一帯を蹂躙しても、彼女は何事もないように教会を掃除し、使う者もいないのに大量の洗濯をし、修繕を繰り返して見る影もなくなった満身創痍な神の像に向かって祈りを捧げ続けた。
「神様、今日も私たちを見守って下さり、ありがとうございます。そのおかげで今日も生き延びることができました。お迎えが来られるその日まで、頑張ります! 明日もどうか、お守り下さい。おやすみなさい」
彼女は今日も神に感謝を告げ、眠りに就くのだった。
閉じた瞼の下から一筋の雫を零し、心の残滓が見せる願望の夢で仮初の救いを得ていることは、彼女自身も知らない。
◆
私が覚えている最も古い記憶は、家族の団欒、お母さんとお父さんの死の瞬間。
あの日、もうすぐ私の誕生日だと食事の際にお母さんとお父さんに話していたのを覚えてる。平和だった昔の時代は、誕生日にはご馳走を囲んで何かプレゼントを貰えていたらしい。でも、私が生まれたあの時代には、そんな余裕を持っている人なんて、略奪者か、富裕層くらいでしょ。
生まれた時からそんな感じだったから、私は誕生日=プレゼントやご馳走なんてイメージを持ってはいなかった。それでも当時の私にはそんなこと関係なかった。その時の私にとって誕生日は両親と一緒に私の誕生を神に感謝し祝う、という認識。だからご馳走やプレゼントが貰えなくても、私は幸せを感じることができた。
小さな我が家の中、両親と家族三人でテーブルを囲み、私が生まれた日を神様に感謝する祈りを捧げてた。
その日の夜に悲劇は起こった。
ベッドで眠ってた私は扉の向こうから聞こえる物音で目を覚ました。眠い目を擦って扉を開けようとした私の耳に母の悲鳴が飛び込んできた。
私は驚きドアノブへと伸ばした手が止まる。恐る恐るドアノブを回し、ゆっくりと扉を僅かだけ開き、その隙間から扉の向こう側を覗き見た。
「チッ! やっぱりシラけてやがる」
「そう言うな。こんな時勢だ。無いよりはましだ」
揺らめくランプの灯りに照らされる薄暗い居間。見慣れたその空間に父ではない見慣れぬ二人の男の姿があった。
そして、男たちの足元には、見知った両親の後ろ姿が横たわっていた。
「(あの人たちは誰? どうしてお父さんとお母さんはあんな所で寝てるの?)」
幼い私は扉の隙間から見えるその光景に首を傾げた。その時、両親は既に冷たくなっていることなど、知る由もなかった。
「ん?」
呆然とも言える感じで倒れ伏せる両親と見知らぬ男たちを覗き見ていると、片方の男がこちらに視線を向けた。そしてゆっくりと私の方へと近寄ってきた。
「どうした?」
「……」
仲間の問いかけにも応えず男は私の目前、寝室の扉の前まで来て立ち止まった。扉の隙間から差し込んでいた居間のランプの灯りが男の体に遮られる。その時の私には恐怖心など全く無くて、只々この人たちは誰なんだろう、と不思議そうに思っていた。
その瞬間、扉が勢い良く開けられた。隙間から差し込んでいたランプの灯りがバッと部屋中に飛び込んできた。でも、私の視界は変わらず薄暗さに覆われていた。私の目の前、寝室の扉を開け放った男の人、私の体の何倍も大きなその体が、ランプの灯りを遮っていた。
「っ!? 子供…?」
男の人は私の姿を見てとても驚いていた。
男の人は私の姿を見てとても驚いていた。多分、微かに開いた寝室の扉の向こうに人の気配を感じたものの、まさかそれが私のような小さな子供とは思わなかったんだと思う。
「おい、どうした?」
扉を開けて固まる男にもう一人の男が歩み寄る。私の視界を覆う男の左肩から歩み寄ってきたもう一人の男の顔がヌゥっとこちらを覗き込んできた。
「っ!? クソッ、ガキが居たのかよ!」
案の定、顔を覗かせた男も私を見るなりとても驚いた顔をして一瞬固まった。そして慌てながらギラリと光る“何か”を取り出した。その時は影に隠れて”それ”が何なのかは分からなかった。
「おい! 子供もやるのか!?」
最初に私を見つけた男が仲間の行動を見て驚いたようにそう言う。
「っ! で、でも、じゃどうするんだよ?」
言われて仲間の男は、自分がしようとしたことをハッと自覚し、戸惑った。
「放っておけ! そんなことよりも今は、物だ!」
「お、おう!」
男たちは急いで家の中を荒らし回った。雀の涙程しか残っていない食糧と財産をかき集め、慌てて外へと出ていった。
私はただ茫然とその様子を眺め、闇の広がる外へと逃げていく二人の男の背中を無心に見続けていた。
夜が明けるまで私はずっとそうしてた。
朝になって村の人たちが私の家にやってきた。村に盗人が来たって言ってた。何人かの村人の家に押し入って食糧と財産を奪っていった。殺されてしまった村人もいたって言ってた。
私の両親も殺されてしまった。
隣の小父さんが教えてくれた。最初はそのことがよく分からなかった。お医者さんの所で両親の遺体と直面した時、初めて両親が死んでしまったことを理解して、私は泣いた。
泣いて、泣いて、ひたすら泣いて、目が真っ赤に腫れるまで泣き尽くした。でも、どんなに泣いても両親は戻らない。
私は全てを失った。
盗人に家にあるもの全部盗られて、両親の命も奪われて、私は独りぼっちになった。今世界は悪い状態だって両親が言ってた。だから、皆お腹を空かせたり、裕福になりたくて人から物を奪うんだって。皆、今は辛い思いをしてるんだって。
だから、私みたいな子供を引き取って養ってくれる人なんて誰一人いなかった。
村の人たちの辛そうな顔をよく覚えてる。私が生まれた頃から付き合いがある隣の小父さんも、実の子供のように可愛がってくれた小母さんも、申し訳なさそうに言うの。
「ごめんね。貴女を引き取れない」
村の大人たちが皆私にそう言う。でも、その時の私にはそんな声なんて全く聞こえていなかった。私は喪失感で一杯だった。周りの音は耳に届かない。まるで世界に私だけがいるみたいな孤独。
両親の葬式は内々で質素に行われた。元々小さな村だったし何より貧しかったから、できる葬式はそれが精一杯だった。
私は茫然としたままその光景を見てた。両親の遺体を棺に入れ、遠くの町から呼んだ牧師さんが何かを言って、私は終始その光景を見聞きしてただけ。
その後、私は牧師さんに連れられて生まれ育った村から遠く離れた別の村にある孤児院へと入れられた。そこには私とよく似た子供たちが沢山いた。皆、私のように茫然としてた。その目には光が灯ってなくて、何もない空中を見ている子や、俯いている子、身動き一つしないで床に力なく座り込んでる子、皆生気が感じられなかった。まるで人形の様。
私もその中の一人になった。お腹も空かない、眠くもならない、何もやる気になれない、ただ無気力に一日を過ごす毎日。
でも、ある日、転機が訪れた。
孤児院に神父様がやってきた。大人たちが言うには、町や村を巡って神の教えを話しているらしい。私がいる孤児院にもその為にやってきたという。
初めは私も他の子供たちも関心なんて無かった。そんな私たちのことなんて気にせず、神父様は話し始めた。
話し始めて数分でその場の雰囲気がガラリと変わった。神父様は特別なことはなにも言ってはいなかった。ただ生まれた時から両親に教えられてきたことと同じ内容だった。でも、その時の私たちはその言葉から生きる力を与えられた。
神父様の言葉には嘘が全くなかった。それは話しをする神父様とその言葉を見聞きしていれば自然と分かった。真っ暗で希望なんて見えなかった私たちの心を照らしてくれた。
あんなに暗く静まり返っていた孤児院の中は、瞬く間に子供たちの活気ある声で溢れかえった。
私は神父様に見入った。言葉一つで絶望した人々を救うその姿に私は嘗ての両親の姿を見た。途端に私の中に光が溢れた。
その時、私は“天啓”を受けた。そして私はすぐさま行動した。話を終えて孤児院を出ていく神父様の所へと駆け出した。そして言った。
“私も神父様のようになたいです”
神父様は私を受け入れてくれた。ただの子供の戯言だと笑って流さないで、真剣な目で聞き入れてくれた。そして私に手を差し伸べてくれた。私は歓喜した。私は一瞬の迷いも躊躇いもなく、その手を取った。
それからの私はとても幸せで、辛いことなんて何一つなかった。節制された一際貧しい教会での生活も、全く教養がない状態から学ぶ多くの勉強も、村から村へ神様の教えを話して回るお務めも、全てが新鮮見えて楽しかった。
私は満たされていた。
でも、ある日、神父様がおかしくなった。お酒を飲んだり物を壊したり、人に暴力を振るったりもした。私も殴られた。
それに続いてどんどん他の皆もおかしくなっていった。禁じられてたことをするようになった。皆で争うようになった。お務めにも行かなくなって、勉強も教えてくれなくなった。
だから私は一人で勉強した。本当はダメだけど、一人でお務めにも行った。一応、神父様に許可を貰おうとしたら、私には見向きもしないでお酒を飲みながら勝手に行けって言われた。一人での勉強も、お務めも大変だったけど、私はとても充実を感じてたから不満なんて思わなかった。
神父様がいつも言っていたから。
「神様はいつも私たちを見てくださっている。だから私たちは信じて信仰を持ち続ける。そうすれば、報われる日は必ずやってくる」
その言葉は両親もよく言っていた。
「いいかい? 神様の教えを守っていれば、私たちを救う船がやってくる。その船に乗れば、私たちは平和な世界へと旅立てるんだよ」
だから私は信じて神様の教えを守り続けた。
神父様たちがおかしくなってから何日か経ったある日、教会で人が殺された。殺されたのは、私と一緒に勉強してたお姉さんだった。お姉さんは物静かな人で、私と同じで人を救えるようになりたくて教会にやってきたと言ってた。優しい人で、私とも仲良くしてくれた。
お姉さんは、神父様たちがおかしくなっていくのを辛そうに見てた。神父様がお酒を飲もうとする時、乱暴しようとする時、お姉さんはいつも止めに入ってた。その度に殴られて、お姉さんの顔はいつも腫れて痣だらけだった。私が神父様に殴られた時は、自分が殴られた時以上に辛そうな顔で、私に謝りながら泣いていた。
「ごめんね……。ごめんね……ッ!」
殴られたのは痛かったけど、私はちっとも辛くなかった。だから、お姉さんが私の為に泣く度、私はお姉さんを慰めようと頭を撫でた。母親が子供を慰めるみたいに。
その日もお姉さんは乱暴する神父様を止めようとしていた。しかし、神父様の矛先はお姉さんに向いてしまい、お姉さんは神父様に殴られてしまった。いつも以上に殴られ、蹴られ、そしてお姉さんは死んでしまった。
私は悲しかった。両親に次いで親しい人が殺されてしまったから。でも、今回は挫けることはなかった。私には信仰があったから。信じ続ければ必ず報われる。神様の船がやってきて、私たちを救ってくれる。だから私は挫けることはなかった。
数日後、また教会で人が死んだ。
死んだのは私とお姉さんに勉強を教えてくれたシスターだった。シスターは年配の人でした。とても厳しい人で、私もお姉さんもよく怒られました。でも、本当は優しい人で、私たちが辛かったり迷って取する時、いつも助けて道を示してくれる。両親を亡くした私にとって、シスターはもう一人のお母さんのような人だった。
シスターは教え子だったお姉さんが死んだことでおかしくなった。お姉さんの死を知ったシスターは、私が今まで見たこともないような表情、とても怒ったような怖い顔になった。それからすぐにシスターと神父様は頻繁に言い争うようになった。
「人殺し!!」
「うるさい!!」
「それでも神に仕える身か!!」
「黙れ!!」
シスターは神父様を激しく叱りつけ、神父様はそんなシスターのお叱りに全く聞く耳を持たなかった。そんなやり取りが何日も続いた。
シスターは私に勉強を教えてくれなくなり、いつも神父様を叱りつけていた。夜になると礼拝堂に籠ってお姉さんの名前を呼んで、泣きながら謝っていた。
まるで私に謝るお姉さんのようだった。
そんな日が続いたある日、シスターは自ら命を絶った。理由は、神父様を殺そうとしたから。シスターは何度も神父様を叱り、お姉さんを殺した罪を償わせようとしていた。でも、神父様は聞く耳を持たず、罪の意識も持っていなかった。
だからシスターは狂気に走ってしまった。
シスターは叱った相手が反省しない時、いつも少し乱暴な手段をとることがあった。頬を叩いたり食事を没収して食べさせなかったり、縄で縛られて物置に閉じ込めるなんてこともしていた。でも、それ等の乱暴は、全て相手のことを思うシスターの優しさから来ること。だから、折檻を受けた人たちが反省すると、シスターは必ず自分がした仕打ちを謝り、叱っていた相手のことを優しく抱きしめてあげた。
でも、その時のシスターはいつもと違った。
談話室で神父様がお酒を飲んでいるとシスターが入ってきて、床に転がる酒瓶を拾って神父様を殴ったの。
神父様はおかしくなってからいつも談話室でお酒を飲むようになった。そんな神父様をシスターが叱って、私は神父様が散らかした酒瓶とかのごみを掃除する。それが最近の当たり前の光景だった。その時も私は神父様とシスターのやり取りを気にしながら掃除を続けてた。だからシスターの凶行を私は横目にただ見ているだけだった。
神父様は死ななかった。ただ頭から血を流して痛みに叫ぶだけだった。シスターの振り下ろした酒瓶は、神父様の頭に命中したけど、命を奪うことはできず頭の皮膚を大きく切っただけだった。
神父様は叫びながら談話室から逃げ出した。
シスターは神父様の後を追いかけなかった。その場に立ち尽くしてプルプルと震えていた。シスターは神父様の叫び声を聞いて我に返り、自分がやってしまったことに気づき絶望の表情を浮かべていた。
「あぁ…あぁぁぁ…! 私はなんてことを……!!」
シスターの手から酒瓶が落ちる。
私はシスターが心配になって恐る恐る声をかけた。そしたらシスターはビックリした表情で私を見た。私が談話室に居たことに気づいていなかったみたい。それが一層シスターに追い打ちをかけることになってしまった。シスターの表情は死人のように血の気が失せて真っ白になって、プルプルとした震えが大きくなってガクガク小刻みに震えだした。
「シスター?」
私は恐る恐るシスターに呼び掛けた。シスターの肩が大きく跳ねた。震えながら後退って、神父様と同じようにシスターは談話室から逃げ出した。
その後直ぐにシスターは礼拝堂で首を吊って自殺した。
シスターはとても熱心な信仰者だった。そんな自分が怒りに任せて人を傷つけたこと、その様を幼い私に目撃されたこと、それらがシスターの罪悪感を一気に駆り立て、シスターは礼拝堂で主が見守る中、懺悔の言葉を述べながら自分で自分のことを裁いた。
私は泣いた。お姉さんが死んだ時と同じで、私は静かに涙を流した。でも、大丈夫。挫けずに頑張れば、報われる時が必ずやってくる。私は涙を拭い、一人お務めに戻った。
シスターは崩れそうだったこの小さな教会の最後の防壁だった。そんなシスターが死んでしまったことで、教会内の秩序は崩壊した。前よりも教会の中は荒れ果てて、床には酒瓶が転がり、食べ物の食べかすやゴミが散乱、中には誰かが嘔吐した後の吐瀉物もあった。日々耐え忍んできた私も流石にその光景に顔を顰めた。
教会を訪れる人は完全にいなくなって、教会で暮らす人たちも私を含めて片手で数えるくらいに減ってしまった。皆ここから出て行ったり、お互いに殺したり殺されたりしてしまったから。
私はまた独りぼっちになってしまった。でも、今回は挫けたりはしない。神父様たちは死んでしまったけど、神父様たちから教えていただいた信仰があるから、私の心は挫けなかった。
私は独りぼっちの教会でひたすらに働いた。皮肉にも荒らす人が居なくなったおかげで、掃除しても直ぐにゴミが散乱することはなくなって、習慣になってた一日数回の掃除もその頻度を減らしていった。でも、ゴミを片付けることはできても、教会の中は相変わらず荒れたままだった。
布教のお務めも私一人で行くのが普通になった。本当はまだ見習いシスターの私が一人で布教のお務めに行くのは駄目なんだけど、神父様もシスターもいなくなった今、布教活動できるのは私しかこの場にはいなかった。私は無許可での布教活動に対して後ろめたい気持ちを感じつつもお務めを全うし続けた。
幼い私一人の布教活動は、全然上手くいかなかった。皆、信仰を捨ててしまっていて、子供の言うことなんて誰も聞いてくれなかった。声をかけても追い返す人、無視をする人、中には暴力を振るってきたりする人もいた。でも、稀に話を最後まで聞いてくれる優しい人もいたから、全く上手くいってない訳でもなかった。
「シスター、またお願いできるかな?」
「はい! 任せてください!」
私にはもう一つのお務めがある。それは代理の牧師として死んだ方の冥福を祈り埋葬するお務め。私はまだ正式なシスターじゃなかいから、本当なら牧師の代理なんてこともしちゃいけないんだけど、教会に務めているのが見習いとはいえ私だけだから、近くの村の人たちにお願いされてやることになった。
神父様たちがおかしくなってからは、村の人たちは教会にお葬式などのお仕事を頼みに来なくなった。だけど、私のことを心配してコッソリと様子を見に来てくれたりしてた。
最初に内緒のお葬式をお願いされたのは、お姉さんが死んだ日から二日後のことだった。私と同じで身寄りのないお姉さんのお葬式をシスターと二人で簡単に済ませて教会の裏に埋葬したのを見ていた村の人から頼まれたのが最初だった。神父様がお務めを全うできない状態だからと言って、初めの頃はシスターが牧師としてお葬式を執り行ってた。
でも、シスターが神父様と言い争うようになってからは、牧師としてのお務めも疎かになってた。この時から私がシスターに代わって牧師としてのお務めをするようになった。
教会が荒れている間、近くの村々も大変だったと村の大人たちが言ってた。盗賊がやってきて村からお金や食べ物を盗み、抵抗した村の人が何人か殺されてしまったり、飢えや貧しさから自殺してしまう人が次々出てしまったり、流行り病で亡くなってしまう人が相次いだりと、周辺の村々で次々と人が死んでしまっているようだった。
だからここ最近は村の人たちからのお葬式のお願いが多く寄せられてくる。人が死ぬと教会の裏にある墓地に埋葬する。私が教会に身を寄せて直ぐの頃、死んだ人は裏の墓地に埋めるんだよと、優しかった頃の神父様に教えてもらった。
教会に来て私が最初に見た埋葬は、寿命で亡くなったお婆さんだった。私はその時、生まれて初めて人の死というものを目の当たりにした。ご家族、といっても旦那さんであるお爺さんだけだったけど、に見守られながら埋葬されるお婆さんの遺体はまるでただ眠っているだけのように見えた。
小さい教会だったから裏の墓地に埋葬されている人は、私がここの来た時はそんなに多くなかったし、お葬式もそんなに頻繁にはなかった。でも、神父様たちがおかしくなってからは、その数と頻度が一気に多くなった。お姉さんやシスター、神父様たちの埋葬を皮切りに、ほんの数週間で教会の裏の墓地は埋葬された遺体で埋め尽くされてしまった。
皆、親しい人たちが亡くなってしまって泣いていた。私もお姉さん、シスター、神父様が死んでしまい悲しくて泣いた。でも、大丈夫。皆生きてる時に主の為に尽くしてきたから、きっと“船”に乗ることが出来る。
神父様が以前仰っていた。
「今、世界は混乱している。飢えに苦しんでいる者、盗みを働く者、命を奪う者。皆、混乱が齎したものです。これは主が私たちに課した試練なのです。この試練に耐えれば、私たちは“船”に乗ることが出来るのです」
「船?」
「そう、“船”です。その船は、主が私たちを迎えに来てくださる天国へと昇る為のものです。ですが、その船には誰でも乗れるわけではありません。信仰と労働、そして苦難に耐え忍ぶことが必要です。信仰を持ち続け、与えたもうた労働に努め、どんな苦難も天から与えられた試練と受け入れ、それらに耐え忍び全うすることが出来た時、我々は船に乗ることが出来るのです」
“船”。私たちを天国へと連れて行ってくれる主が遣わした神様の船。その話を聞いて私は、孤児院で神父様と出会った時と似た感覚を感じた。再び私は天啓を得た。その船に乗ろう、と思ったのではなく、苦しんでる皆をその船に乗せよう、という思いが真っ先に浮かんだ。
だから私は今日まで必死にそれらを守ってきた。信仰心をもっと高めようと思って勉強を頑張った。労働に努める為に神父様のお務めに無理を言ってついて行ったり掃除やお使いも積極的にやった。大好きな人たちが次々よ死んで逝ってしまっても、神父様たちからどんなに殴られようが蹴られようが、耐え忍んできた。
どんな苦痛も、船に乗ることを思えば耐えることが出来た。
船に乗れれば、幸せになれる。
そうすれば! また“お父さんとお母さんとずっと一緒に暮らせる”
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
幼いシスターの心は“歪んでしまっていた”。
年齢にそぐわない苦難に見舞われ、物心も完全に整っていない幼女の心に押し寄せた不幸。家族の死、友人の死、恩師の死、大人たちからの暴力、たった一つの心の拠り所、信仰を取り戻したとしても到底癒しきれるものではなかった。
中途半端な癒しは彼女の心に依存を生み出し、“箱舟の信仰”を盲目的に信仰するようになってしまった。それだけではなく、救済の船に乗れば“死者”が蘇るというそもそもの信仰に存在しない、根も葉もない独自の考えを生み出してしまい、それが本当のことなのだと思い込んでしまっていた。
そんなことはありえない。
彼女がどれ程、信仰心を高め主に尽しても、その身に余る労働に勤しんでも、心と体を襲う暴力に耐え忍んでも、死者が蘇ることは決してない。彼女の行いはとても善良なものであり、一般的に考えられている概念であれば、彼女の死後、その魂は天国へと導かれるだろう。そこで亡くなった両親、神父たちに会えればある意味では彼女の思い描く救済が成就する。
「ありがとうございます! あなたに主のご加護がありますように!」
小さなシスターはそう言って純真な笑顔をおじさんに向けた。
この日もシスターは一人で布教活動を行っていた。まだ幼いから遠方への布教活動が困難である為、シスターの布教活動は基本的に近隣の村々で行われる。シスターの来訪が馴染みとなった村では、小さなシスターを村人全員が可愛がっていた。村も貧窮しているにも拘らず、村人はいつもシスターに食べ物を恵む。この日もシスターは両手一杯の食べ物を村人全員から貰い、感謝と祈りの言葉を村人たちに送りながら帰路へと就いた。
遠ざかっていくシスターの小さな背中を村人たちは物悲し気な眼差しで見送った。
「まだ、あんなに小さいのに……」
「時代が時代だから仕方ないけど、それにしたってねぇ……」
遣り切れない、村人たちは皆そう言いたげな表情を浮かべる。
教会で起きた騒ぎのことを村人たちは知っている。村人たちもシスター同様に狂った神父から暴行を受けたこともあった。実際に暴行を受けたからこそ、そんな神父の下で暮らすシスターの身を皆案じていた。
皆の不安は的中した。村に来るシスターは日に日に痛々しくなっていた。顔の青痣、ボロボロの修道服、傷だらけの手足、少し前までの質素ながらも聖職者らしい整った見た目だったが、今ではその面影も消えつつあった。
シスターの身を案じる村人たちだが、所詮は奪われる側の人間。心配はすれど助けようと身を乗り出すことはできなかった。
可哀そうと哀れみ、村を訪れた時に目一杯優しく労わることしか村人たちにはできなかった。
そんな村人たちの心情など露知らず、シスターは船が訪れる日を夢見ながら幸せの錯覚に浸り、日々労働と信仰に勤め続けた
しかし、シスターが信じる主は非情にも、そんな彼女に更なる残酷な試練を与えた。
「え……?」
いつものように近隣の村へと訪れたシスターは愕然とした。自分が訪れるといつも朗らかに笑って歓迎してくれる村人たちが、地に倒れ伏していた。一人だけではなく、あちらこちらに見知った村人たちの姿が見受けられた。皆、微動だにせず倒れたままでいた。
シスターの脳裏に過去の情景がフラッシュバックする。
両親の姿、お姉さんの姿、神父の姿。死んでしまった愛しい人たちの最期の瞬間が幼いシスターの視界を一瞬覆った。
「ハッ…!」
シスターは一瞬の硬直から解放されると同時に村の中へと走り出した。生きている人を探して一人一人、倒れている村人に近づく。しかし、やっぱり皆息をしていなかった。
全滅していたのだ。
「うぅ……うぁぁ……っ!」
死者で溢れる村にシスターの泣き声が響き渡る。いつもなら彼女の泣くと直ぐに駆けつけてくれた村人たちだが、彼女に駆けよれる村人は、もう誰一人としてこの村の中には生きてはいなかった。
シスターは泣き続けた。もう涙も枯れ果てたと言えるくらいに泣き尽くした。彼女が泣き終えた頃には、辺りには暗闇が広がり空には星が瞬き始めていた。
これ程泣いたのは、彼女の両親が死んでしまった日以来だろう。先生だったシスターや同じシスター見習いのお姉さんが死んだ時、彼女は勿論泣いたが、長時間に渡って泣いたのは彼女の人生においてこれが二回目だった。
両親が健在だった頃、彼女には両親が心身の拠り所だった。しかし、両親が二人同時に死んでしまったことで、その拠り所を彼女は一気に失ってしまった。だが、そこから神父との出会いを経て彼女は再び拠り所を得た。神父、シスター、お姉さん、村の人たちと、拠り所は沢山増えた。だから彼女はシスターやお姉さん、神父が死んでしまっても別の心の拠り所があったから、両親が死んでしまった時の二の舞にはならなかった。
しかし、自分に好くしてくれた村人たちが一度に皆居なくなってしまった衝撃が、彼女の心を激しく揺さぶった。村人一人一人との思い出が走馬灯のように彼女の頭の中を駆け巡り、その思い出一つ一つを想いながら彼女は泣いた。
涙を流し終えた彼女の心は早くに気持ちが切り替わった。
「……よし! 皆を埋めてあげなきゃ!」
そう言ってシスターは村人たちの埋葬を始めた。
一人一人、ただ埋葬するだけではなく、簡易的であり正式なものとはとても言えないが、一人一人の葬式をシッカリとシスターは行った。
当たり前のことだが、死んだ村人は一人二人ではない。また、埋葬と葬儀を同時に行っているのは、まだ年端もいかない見習いシスター。自分の身の丈よりも大きい体格の死体を力一杯引き摺り、教会まで運んだ。たった一人で、決して少なくはない十数人の村人たちを遠くないとは言え、村から離れた教会まで運び、埋葬する。
過酷な環境と過酷な労働によってシスターの手はボロボロだった。まるで農夫のように肉刺だらけの掌。その掌の肉刺は既に潰れ、幼少のシスターの小さな手は血に塗れていた。
肉刺の潰れたその手で大人たちの巨体を運び、身の丈ほどもある重いスコップを使い、土を掘り、遺体を入れ、土を被せ埋める。肉刺の潰れた手でそれらの作業を数十回繰り返すのは、大の大人であっても痛みに悶えるものである。
しかし、シスターは悶えることはなかった。苦痛に顔を歪めることもなかった。ただ額に汗を滲ませることはあっても、彼女は生き生きとしていた。身の丈を大いに超える労働に勤しんでいるにも拘らず、まるで遊戯に興じているようにシスターは瞳を輝かせていた。
「はぁ…はぁ…終わった…」
シスターは息も絶え絶えんになりながら達成感に満ちた笑みを浮かべる。
「もうちょっと待っててください……。時が来たら、また皆と会える。船が私たちを迎えに来てくれる!」
シスターの曲解した神父からの教え。人々を救う船。彼女が最初に神父から聞いた話は、単純に勤勉な労働と信仰を続ければ、この世で行ったあらゆる罪や穢れを主がお許しになり、信者は死後に天国へと導かれる。そう言ったありふれた宗教だった。
だが、その身に降りかかった数多の不幸が彼女の信仰を狂わせた。ありふれたものだった宗教は、彼女の望みを含み形を変えていき、勤勉な労働と信仰の原型だけを残し、死者の復活という盛大な尾ひれが生えてしまい、今や原型の宗教に成り代わり曲解した宗教こそが信仰すべき本物であると、シスターは妄信するようになってしまった。
まだ幼いシスターは目を背けたのだ。両親を失ったことで心身の安寧を失いかけたが、神父との出会いで一命を取り留めることが出来た。しかし、暫しの安寧も束の間に教会は狂乱へと堕ちたことで、彼女の心身の安寧は再び脅かされることとなった。
だから彼女、いや、彼女の“心”は、安寧が脅かされている現実から目を背け、曲解した独自の宗教観念を作り出し、安寧は維持されていると虚偽を着飾った。無意識に作動した精神の防衛機能である。
故にシスターは哀れなのだ。どれだけ勤勉な労働と信仰を貫こうとも、救われるのは生きている彼女ただ一人だけ。死んでしまった者たちの救済は、現世の与り知らぬこと。救われたのかもしれないし、ただ消えて無になってしまったのかもしれない。どちらにせよ、シスターが望む皆幸せなハッピーエンドは起こりえない事実だけは変わらない。
この先、シスターは独りぼっちだ。勉強を教えてくれる先生も、苦楽を共にする仲間も、身を案じてくれる大人たちも、無条件の愛をくれる家族も、もう彼女には誰一人として残されてはいないのだから……。
それから幾星霜の月日が流れた。
少しだけ背丈が伸びた彼女だが、あの頃と変わらず勤勉な労働と信仰を繰り返していた。
夜明けと共に起きて教会内の掃除、洗濯、礼拝を丸一日、毎日繰り返して夜の訪れと共に眠りに就く。荒らす者がいない為、毎日の掃除で教会内はただ古く朽ちていることを除けば、綺麗だ。洗濯も特に汚れてもいない物を毎日毎日、洗っては干すを繰り返し、洗濯物は真っ白に色褪せてしまっていた。やることが無くなれば、日がな一日礼拝堂に籠って主に祈りを捧げ続ける日々。そんな健全な生活リズムを繰り返す彼女は、一見すると敬虔な信徒そのものである。
一方で食生活だけは以前に増して困窮していた。元々、教会では簡易的な畑を保有しており、そこで育てた作物を主食としていた。その他にも近隣の村々を周り食糧を分けてもらうなどして食糧を調達していた。
しかし、不幸にも食糧を分けてもらってた近隣の村が廃村となってしまった。原因は、世情を騒がせている流行病によって村人が死滅してしまったからだった。その被害は甚大で、周辺の村々や大きな町一つが壊滅状態となったほどだった。僅か数日足らずでその地域に住む住人、数百人余が死滅してしまった。
この一件で教会は孤立無援状態に瀕した。そして食糧も簡易の畑で細々と作られている作物だけとなってしまった。唯一の救いと言えるのは、食い扶持がシスターただ一人だということである。敬虔な信徒である彼女は、日々節制を心掛けている為、一度の食事で一気に消費することなどは先ずない。しかし、あくまでも細々と作られている作物である為、それほど量は多くないのだ。加えて簡易とはいえ畑であるから、一連の農作業をシスター一人で行わなければならない。
結果として畑から得られる恵みも将来的には底つく未来がそう遠くないのである。
今現在、畑から齎された恵は残り僅か。種植えをしてもそれが育つまでの耐え忍ぶ備蓄もありはしない。
彼女に残された時間は少ない。それでも彼女は待ち続けている。いつか必ず船が迎えにやってくることを―――ー。
常人であればとうに諦め希望を捨て去るが、常人とは異なるシスターは絶望することはなかった。しかし、どれほど狂信的な彼女であってもいつ訪れるかも分からない救済の日を待ち続ける現状に対し、心の深淵に並々ならぬ不安と不満を着々と募らせていた。
本人は自分の心の奥底にそんな思いが蓄積されているなど夢にも思っていない。未だ盲目的に救済の日が訪れることを信じて疑わない。意図も不意もなく、彼女の行動原理は救済の日に向けての労働と信仰。今、表面意識での彼女は労働と信仰を繰り返す日々に充実感を覚えている。だが、潜在意識での彼女は常人らしい不平不満を抱いていた。
「主よ、今日も生きることができ、感謝いたします」
(いつになったら救われる?)
「労働と信仰に身を捧げられることを感謝いたします」
(救われる日は本当に来るの?)
「日々の糧を授けて頂き、今日も私は生きることが出来ました」
(お腹が空いた)
「今日も労働に身を捧げることができ、嬉しく思います」
(手が痛い、足が痛い)
「船がやってくるその日まで、私一人でもしっかりお務めを果たします」
(何で私だけ?)
「これからも私たちをお守りください」
(寂しい……お父さんに会いたい、お母さんに会いたい)
口から語られる言葉。心の内に燻る言葉。敬虔な信徒としての思いと年相応の少女らしい我儘。どちらも彼女にとって偽りない本心。相反する二つの思いをどちらも本心として持ってしまっているのは、不遇な彼女の境遇によって心が歪んでしまったことは言うまでもないだろう。
長らく耐え忍んできた彼女だが、更に追い打ちをかけるような非情な現実が突き付けられることになる。
害虫によって教会の作物が死滅してしまった。
突然のことだった。どこからともなく虫たちが湧き出てきて、一夜にして教会の小さな畑の作物を食い荒らした。これによって彼女は残されていた唯一の食糧源を失った。
それでも彼女は耐え忍ぼうとした。残された食糧を節約しながら、極力空腹を感じれば水を飲んで紛らわせるようにしていた。しかし、そんな誤魔化しも食糧が尽き、数日と経てば直ぐに限界は訪れた。
視界がぼやける。全身に力が入らなくなる。呂律が回らなくなる。
水しか飲んでいない人間は、本来の機能を発揮することが出来ず、いづれ死に到達してしまう。まだ成熟していない彼女なら猶更である。
霞に覆われたような視界の中、住み慣れた教会内で彼女は道に迷った。最早彼女は死の一歩手前まで来ていた。
それでも彼女は日々の御勤めを全うしようとする。
「あっ…!」
足が縺れ彼女は転んでしまった。しかし、今の彼女には起き上がる力も残っていなかった。
「ぅっ…!」
痛みに呻き声を上げる。しかし、渇いた喉から出る声は掠れていて、声というよりただの空気の漏れ出る音に聞こえた。
立ち上がろうと四肢に力を込める。飢えと渇きに苛まれる彼女の四肢はすっかり衰えてしまっていて、まるで彼女のか細い骨の上から皮膚をそのまま張り付けただけの様に弱弱しかった。そんな四肢で立ち上がれる訳もなく、幼いシスターはぷるぷるとまるで生まれたての小鹿の様に震えるしかできなかった。
「(行か、なきゃ……。御勤め、しな、くちゃ…。皆の、為に……)」
朦朧とする意識の中、彼女は立ち上がることを諦め、這うようにして御勤めを全うしようとする。
しかし、度重なる不幸と孤独によって揺らぐ彼女の信仰心に、極限の精神状態が追い打ちを掛け、これまで積み重ねて来た彼女の心に聳える強固だった信仰の塔が、遂に瓦解した。
塔の崩壊と共に彼女の心に感情の嵐が吹き荒ぶ。これまで彼女が無視して来た年相応の我儘、理不尽なまでの身に余る不幸に対する不平不満が、ここぞとばかりに彼女の体全体を埋め尽くして行った。
“何で私がこんな目に遭わないといけないの?”
“こんなに信仰してるのに何で救われないの?”
“神様なんていないじゃない!”
“私は何の為に御勤めをしてきたの?”
“御勤めなんて意味ないじゃない!”
“何で誰も生き返らないの?”
“何で私は独りぼっちなの?”
“何で皆は死ななくちゃいけなかったの?”
“他の人が死ねばよかったのに!”
“私はまだ、死にたくない!”
“どうして思い通りにいかないの?”
「こんな世界大嫌い」
朦朧とする意識。掠れ出る声。霞んだ視界。力の入らない四肢。満身創痍な状態にも係わらず、彼女の眼は血走り負の感情を放っていた。ボロボロの指先に力を籠め、床板に爪を立てる。爪は割れ、指先の皮膚も裂け、痛々しい傷口から赤黒い血肉が顕わになっていた。
声にならない声で呪詛の様に恨み言と不平不満を唱えながら、傷だらけの指を使って彼女は床を這う。傷口から流れる血で真っ赤になった手で床を這う度、彼女の通った後に赤黒い手形が点々と付いていく。
朦朧とする意識の所為で、住み慣れたはずの教会の中だというのに迷っていた彼女。しかし、幸か不幸か、それとも負の念による執念か、彼女は当初祈りを捧げに向かおうとしていた礼拝堂へと這って到着した。
残念ながら到着した彼女の目的は、神様に祈りを捧げることから、神様に鬱憤をぶつける為になってしまったが―――。
視界の霞む彼女には、もう礼拝堂の主の姿をその目に捉えることは出来ない。その筈なのだが、血走った彼女の鋭い眼光は真っ直ぐに主の姿を射抜いていた。
呻き声に聞こえる怨嗟の言葉を主にぶつける。生まれながらの信徒だった為、その内に秘めていた欲望。
年相応の我儘。
恵まれた者への羨望と嫉妬。
飢えと渇きを満たしたいという生物的欲求。
居なくなってしまった愛する人たちに会いたいという寂寥感。
何故自分が理不尽に晒されなけばならないのかという憤り。
声にならぬ声、掠れ出る枯れた空気音、今の彼女に出来る最大級の咆哮を、自分を裏切った無機物の主にぶつけた。
しかし、どれだけ射抜くように睨もうと、どれだけ恨み言を叫ぼうと、どれだけ怨嗟の念を送ろうと、思考の無い物言わぬ象は何のリアクションも起こすことは無い。
幼いシスターは床に突っ伏した。もう体力も気力も限界だったのだ。
彼女は自分が今起きているのか、寝ているのか、生きているのか、それとも死んでいるのか。それすらも分からない程、彼女の意識は混濁し、命の灯は正に風前の灯火だった。
両親を奪われ、神父とシスターを壊され、姉の様に慕っていた友も、可愛がってくれた村人たちも殺され、それでも決して折れなかった信仰心も、無情な時の流れによって打ち砕かれてしまった。
負の感情を体全体から放ち尽くし、彼女に残されたのは、全てを失い死へと向かって行く、絶望だけだった。
「(お父さん……お母さん……)」
消え入る意識の最中、幼いシスターは両親に想いを馳せる。嘗て貧しくも幸せだった日々を彼女は夢に見る。
鳥の囀り。風の吹く音。人気のないボロボロの建物。裏には荒れ果てた小さな畑、その隣には沢山の簡易のお墓。嫌になるほど天気が良い。
そんないつもと変わらない日常の中。幼いシスターは誰にも知られない孤独と絶望の中、その風前の灯を消した。
■□■□■□■□
「これはこれは―――。ごきげんよう、お嬢さん」
「ッ!?」
その声で私の意識は急浮上させられた。
(何で私は生きてるの?)
私は確か、礼拝堂で主に恨み言をぶつけて、そのまま意識が遠退いて行って、死んだはず。その瞬間は朦朧とする意識の中でもしっかりと分かった。
―――嗚呼、これが“死”なんだ。
そんなことを思いながら私の意識は暗い闇の中に溶けて行ったはずなのに、私は今“ここ”にいる。
私は自分の体を見た。ボロボロの修道服に荒れた手足。見慣れた自分の体だった。
「スゥゥゥゥ……ハァァァァ……」
私は深く息を吸い込み、ゆっくりとその息を吐き出した。若干混乱してた頭が、深呼吸のお陰で少しは落ち着くことができた。
「……私、生きてる……」
私は自分が生きていることを実感した。
多少は落ち着くことができたけど、それでも困惑は晴れていない。
私は周囲を見渡した。
私が今いるのは、真っ暗な場所。さっきまでいた礼拝堂じゃなかった。
見慣れた灰色の壁と木板貼りの床、罅割れがあるステンドグラス、そして私を見下ろしていた偽りの神様も、私の周りには無く、あるのは空間を黒く塗り潰したような漆黒だった。
周囲を見渡した私は、その空間で私を見つめる“顔”を見つけた。
私は一瞬、目を見開いた。
漆黒の中でその顔はとても“浮いていた”。言葉通り、その人には体が無くて、顔だけが生首みたいに宙に浮いていた。それに加えて、その人の顔は黒しかないこの場所で唯一の異色を放っていた。黒色の反対の白色の長い髪と皺のある肌、顔につけてるキラリと光る銀色の仮面。
(嗚呼、この人がさっきの声の主なんだ)
一瞬驚きはしたけど、私は自分の意識を呼び起こした声を思い出した。そして目の前にいるこの顔の人が、声の主なんだなと分かった。
「ごきげんよう、お嬢さん」
その顔の人はそう言ってお辞儀をした。
動いて初めて分かった。その人は全身に真黒な服を着ていた。それが漆黒の景色に同化して首から上しか見えなかったようだ。
「あの……貴方は?」
私は仮面の人にそう尋ねた。自分が生きていることを実感したけど、闇に包まれてる空間と、そんな闇を纏った様な格好をした仮面の人を見て、その実感は揺らいだ。
ここはもしかしたら“地獄”かもしれない。
私は死の間際、信仰を捧げて来た主に罵詈雑言の限りを吐き捨ててしまった。それに対して後悔している訳ではないけど、その行いは不道徳だろうことに違いない。
信仰を捨てた私は天に召される事を拒まれて地獄に落ちたのかもしれない。
それを証明するように、私は今暗い空間にいる。そして目の前には、地獄の使者と思える格好をした人がいる。
私は生前、地獄の話を両親と神父様たちから何度も話して聞かされた。
私の知る地獄は、子供の躾の為に聞かせるおどろおどろしい、幼い子どもたちが震え上がって怖がるような稚拙に解釈された地獄の話。
もう一つが、私が教会で神父様から聞かせてもらった宗教における地獄の話。子供に聞かせる稚拙なものとは全く異なり、大の大人であっても身震いし、死後の不安を増大させるほどに、生々しく悍ましい情け容赦のない罰刑の数々。
その話で度々出てくるのが、暗い闇と燃え盛る業火。そして闇を纏ったような黒々とした“悪魔”の存在。
今、その内の闇と悪魔に酷似した存在が、私の目の前にいる。
私はこれから聞かされてきた罰刑を我が身で体験するんだろうと思った。後悔はないと言っても、体感するだろう痛みと恐怖で身震いが止まらなかった。
「怖がらなくても大丈夫だよ」
鈴が鳴る様な声が聞こえた。
その声は一瞬にして私の中に溢れていた不安を消し去ってしまった。
私は地獄には不釣り合いな可憐な声に驚いて、一瞬頭が真っ白になって固まった。
辛うじて動く視線だけを動かして、私は声が聞こえた方へと視線を向けた。
視線の先には仮面の人がいる。その傍らから女の子がひょっこりと顔を覗かせていた。
仮面の人とは対照的で、その女の子は全身が真っ白だった。白い肌、白い髪、白い洋服。まるで天使様みたいな子で、私は思わず見惚れてしまった。
「ね?」
そう言って白い少女は可愛らしく微笑んだ。
「え、えぇ……」
彼女の微笑みにつられて私も微笑んだ。無邪気な彼女の微笑みを見ると、私の中に溢れていた地獄のイメージが消え去っていった。
「驚かせてしまい申し訳ないお嬢さん」
仮面の人が私に謝罪した。確かに仮面の人の容姿に不信感を抱いた。けど、改めて仮面の人の言動を見ると、とても礼儀正しく物腰の柔らかい優しい人なのだと私は思った。そんな人を地獄の使者扱いした事を私は申し訳なく思い、慌てて私も仮面の人に謝った。
「い、いえ! こちらこそ勝手に怯えてしまってごめんなさい」
「いえいえ、お気になさらずに」
謝罪する私を仮面の人は優しい口調で受け入れてくれた。謝罪を受け取って貰えたことで私は少しホッとした。
少し気持ちが落ち着いたことで、私は自分が今置かれている状況を思い出した。
「あの、ここって一体……?」
私は恐る恐る尋ねた。冷静になって周りを見渡しても、そこはやっぱり私の見知らぬ光景が広がっている。思い返して覚えているのは、霞んだ景色と嗅ぎなれた教会の匂い。そして、自分の命の火が消えた瞬間。私は確かに死んだ。
では、今自分がいるこの場所は一体どこなのか?
「ここはどこでもない場所さ」
「どこでもない場所?」
「そう。迷う者が来る場所。それがどこでもない場所さ」
「迷う…者……?」
鸚鵡返しした瞬間、その言葉の意味を私は理解した。ここは迷う者、つまり“死者”が訪れる場所なのだ。
「……やっぱり、私は死んじゃったですね」
改めてその事実を実感した。死んだ事実に愕然とすることはなかったけど、やっぱり後悔の念を抱かずにはいられなかった。
私の脳裏を駆け巡ったのは、私が愛した沢山の人の顔。私が教会の裏に埋葬した、箱舟の到来と共に蘇るはずだった人たちのこと。
結局、私が生きてる間に箱舟はやってこなかった。自分だけが生き残ってしまい、沢山良くしてくれた優しい人たちだけが、冷たい土の中に永遠に放置されている。
あの人たちを箱舟に乗せてあげられない事が、私の心に深い後悔の念を抱かせる。
「フッ、大丈夫。心配はいらないよ」
仮面の人は、そんな私の心情を見抜いたのか、優しい口調でそう言った。
「え?」
「おめでとう!! お嬢さん」
突然、仮面の人が声を張り上げる。突拍子もない仮面の人の豹変と、いきなりの賛辞に私は面食らい困惑した。
「箱舟を信じ続けた哀れな信徒たちよ。君は、いや。“君たち”はこの世界という鎖から解き放たれた。来る者は拒まないが、去る者は決して許さない。“楽園パレード”へようこそ……」
仮面の人が仰々しい動作で首を垂れた。それに続いて白い少女も首を垂れ、二人揃って私に頭を下げた。
私は益々困惑した。
そんな私を余所に二人は頭を上げた。すると仮面の人は隣に立つ白い少女を抱え上げ、自分の肩に少女を乗せた。そして仮面の人は懐から何かを取り出した。それは“笛”だった。顔を覆っている仮面同様、銀色の綺麗な笛だった。
仮面の人はその笛を口元へと運び、愉快な音色を奏で始めた。
すると周囲の闇に変化が現れ始めた。まるで霧が晴れるように闇が霧散していく。黒だけだった空間に徐々に色味が加わっていく。
土の色、草の色、花の色、木々の色、そして空の色。まるで絵でも描いているような光景に見えた。
遂に闇が完全に消え去り、見慣れた外の景色が世界に広がった時、仮面の人の方に座る白い少女が歌を歌い出した。
「♪~」
とても綺麗な歌声だった。
前に神父様のお供をした時、どこかの街で聖歌隊が歌うのを見たことがある。彼女の歌声はそれにとてもよく似ていた。
愉快な歌だった。聖歌隊の様に綺麗な歌声だけど、その歌と音楽は聴いていてとても心が弾んだ。
私は無意識に体を小刻みに揺らしていた。二人の音楽に身を委ねようとしていた。
そんな時、私の耳に新しい音が聞こえてきた。
(…? 何の音?)
私は微かに聞こえてきた異音が気になって、意識を二人から逸らした。どうやら異音は二人の遥か後方から聞こえてきてるみたいだった。
音の正体を確かめようと私は目を凝らした。すると二人の遥か彼方に小さな黒いものが見えた。
(あれは何?)
遠くてその黒いものが何なのか分からなかったけど、その黒いものは段々と私たちの方へと近づいているようで、段々とその姿がハッキリとしていった。
その黒いものは一つ、いや、一人じゃなかった。何人もいた。ただ歩いてこっちに近づいてるんじゃなく、何やら体をくねくねと揺らしているように見えた。
その姿がハッキリ見えてくるのと同時に、聞えていた異音もハッキリと聞こえてくる。近づいてきているのは変な格好をした大人たちで、異音はその人たちが鳴らしてる楽器の音だった。
私はその人たちの可笑しな格好に目を奪われた。仮面の人の真黒な格好と、白い少女の真っ白な格好にも驚いたけど、それとは異彩を放つ格好だった。
赤色、青色、黄色に橙色、緑色に紫色まで。極彩色が私の視界に広がって来る。
「ピエロ……」
私はそう呟いていた。
思い出した。昔、まだ孤児院に居た頃、彼らによく似た格好をした人が出てくる絵本を見た。当時は気に留めることすらできていなかったけど、どうやら私の頭の中にはその絵本のことがシッカリと残っていたみたい。
道化師の集団がもう間近までやってくると、タイミングを見計らったように笛を吹く仮面の人が動き出した。白い少女もそれにそれに続いた。
私は一人ポツンとその場に残り、黒と白そして極彩色が混じり合う様を呆然と見つめた。
黒は笛を奏でながら、白は歌いながら、ゆるりとした歩みで進み、極彩色はそれぞれ楽器を奏で、踊り騒ぎながら進んで行く。
色が混じり合う。
黒と白と極彩色が交わう時、極彩色の集団は障害物を避ける人波のように二人の避けた。そしてそのまま二人を覆うように極彩色が周囲を囲って行った。
私の目から黒と白が消え、極彩色一色に覆われた。でも、聴こえてくる音に変わりはない。透き通るような笛の音色、凛と響く美声、それらを引き立てる祭囃子。
私の脳裏に仮面の人の言葉が蘇る。
「楽園パレードへようこそ」
楽園。私が思い描く楽園は、皆が笑って過ごせる飢えも苦しみもない幸せな世界。人生の殆どを教会で過ごしてきた私には、パレードというものがどういったものなのか分からない。
でも、きっと今私の目の前に広がっている光景が、まさに楽園でのパレードと言えるのかもしれない。私はそう思った。
呆然とし続けている私を余所にパレードの渦中にいる人たちは、変わらず楽しそうに騒いでいる。その光景を眺めていると、私の後ろからスッと誰かが姿を現した。
私は突然のことにビクッと体を震わせて驚いた。まだあのパレードに人が加わるのか。私はそう思った。
一人二人と私の後ろから次々と人が現れる。ただ、彼方から来た彼らと違い、後ろから出て来た人たちは極彩色の格好をしていなかった。その人たちの格好は、生前、私がよく見ていた洋服だった。
「……え?」
パレードの方へと向かう人たちの中に私は神父とシスターの格好をした人を見つけた。それを機に私は改めて後ろから出てきた人たちの姿を見渡した。
私からは後姿しか見えない。でも、私にはそれが誰なのか分かった。
「あぁ……あぁ……!」
涙が溢れ私の頬を伝っていく。
私の宿願、死んでしまった皆と箱舟に乗って、幸せな世界へで永遠に暮らすこと。
でも、生前に箱舟はやってこなかった。だから私は絶望して信仰を捨てた。全てまやかしだった。
死んでから思うと、生前の私は狂信していた。箱舟のことだって、私の中で私が勝手に作り出したお伽噺の集合体みたいなものだった。そんなものを死ぬ間際まで信じ続けて来た自分が愚かで自嘲が零れてくる。
そう思っていた―――――。
「神父様……!!」
「久しぶりだね」
神父様は、出会った頃の優しい笑みを私に向けてくれた。
「大きくなったね」
「お姉さん……!」
「今までよく頑張りましたね」
「シスター……!」
お姉さんにシスター。あの時と変わらない姿だった。一緒に学び信仰して、本当の姉妹のように接してくれたお姉さん。時に厳しく時に優しく、私たちを見守り導いてくれたシスター。
箱舟を信じていたから一時の別れと思っていたけど、本当は二人が死んでしまったことがとても悲しくて辛かった。
「君に重荷を背負わせてしまって、本当にすまない」
そう言って神父様は悲しそうな表情を浮かべて、私に頭を下げてきた。
私は戸惑った。
神父様が私に謝る理由が分からなかったからだ。でも、少し考えると、多分神父様が謝っているのは、自分が信仰を捨てて堕落してしまったこと、信仰や労働など一切合切に私に押し付けてしまったことを言ってるんだと気づいた。
「……神父様。謝らないでください。私は、神父様に感謝こそすれど、恨んだ事なんて一度もありません」
そう、私は神父様のことも、誰のことも恨んだ事なんてない。最期の時だけは、主を盛大に恨んでしまったけど、今の私には、恨みの念なんて欠片もない。
「神父様が私を引き取ってくださったお陰で、神父様が私に主のことを教えてくださったお陰で、私は今まで生きることができました。大恩はあっても、恨む気持ちなんてこれっぽちもありません」
「ッ! 嗚呼、本当にすまなかった…! 私はあの時、信仰を捨ててしまった! どれだけ信仰しようとも、どれだけ労働に励もうとも、主は私たちの努力を報おうとはなされなかった! だから、私は、禁を破り堕落してしまった……。君にも、沢山酷い事をしてしまった……」
神父様は私の頬を優しく撫でる。ザラザラとした感触が頬から伝わってくる。孤児院から連れ帰って貰った時、神父様に手を引かれ教会へとやって来たことを思い出した。あの時の手の感触もこんな感じだった。
そして神父様が堕落した時、私はこの手に幾度も殴られた。その時の感覚は今でも覚えてる。
過ちを語る神父様はとても辛そうだった。その気持ちが私には痛いほど分かる。神父様の苦悩と絶望は、最期の時に私も味わった。
だからこそ、神父様が私にした行いなど、苦でもなんでもなかった。
「神父様だけの罪ではありません。私もまた同罪です」
神父様同様に悲痛な面持ちのシスターが言う。
「神父様が過ちを犯した頃から、あの場所で信仰を守るのは私の役目でした。未熟な貴女たちを守り、導くことが天から与えられた私の使命。それなのに私は、欲に負けて使命を放棄してしまい、貴女に重い枷を付けてしまった……」
「いえ、シスター。私は貴女からちゃんと教えて頂きました。信仰と労働。そして主を信じ仕え続けること。私こそ、最期にそれを破ってしまって……」
思い通りにいかない憤りを怨念として主にぶつけたことに後悔はない。でも、こうして神父様たちに面と向かうと、私の心に罪悪感が生まれてしまう。
そんな私の心情を悟ったのか、神父様とシスターの面持ちが一層悲痛なものに変わった。罪の意識に苛まれてるんだってことがすぐにわかった。
「ごめんね…。独りぼっちにしてごめんね……」
大粒の涙を流しながらお姉さんが私を強く抱きしめてくれた。そして何度も私に謝った。
(謝って欲しい訳じゃない。こうしてまた皆に会えたのだから……)
そう謝罪は不要。だけど、こうやって愛しい人たちから謝罪され、罪の意識と後悔の念に染まった悲痛な面持ちを目の当たりにすると、私の心の中で“何か”が解けていくのを感じた。
「……ッ」
私の頬を涙が伝う。
陽気な音楽の中、私の周りだけ皆泣いていた。それを見ると、私は益々涙を流した。そして一度堰を切って流れ出した涙は、洪水のように私の目から溢れ出していった。
「ぁぁっ……ああああ……っ!!」
私は久々に幼子のように泣き叫んだ。
両親の死以降、私の涙は枯れ果てたと思っていた。信仰と労働に心血を注いでいた頃も泣きたいとは思わなかった。まぁ、あの頃は両親に変わる新しい心の支えを得て、充実していて泣く暇もなかった。
きっと信仰に依存していた所為で、私は本心を押し殺してしまっていたんだと思う。そして教会で過ごして来た日々が、結界となって私の本心を封じてしまった。
でも、最期の時、十数年支え続けて来た信仰心を捨て去ったあの瞬間、私の心を封じていた結界に亀裂が入った。
「今までよく頑張ったね」
「助けられなくてごめんね」
「一人で偉かったわね」
「私たちを想ってくれてありがとう」
村の小父さん小母さんたちが私に感謝してくる。その言葉一つ一つが亀裂を広げていく。
私は益々泣き叫んだ。
「もう独りぼっちにしない。ずっと傍に居るからね」
そう言ってお姉さんが強く抱きしめてくれた。それがとても嬉しかった。とても心地よかった。だから私もお姉さんに抱き着いた。
「もう我慢しなくていいのですよ。私たちの努力は漸く報われるのです」
抱き合う私たちをシスターが覆うように抱きしめてくれた。暖かかった。お姉さんとシスターの暖かさで心が温まるのを感じた。
「君のお陰で、私たちはここにいることができる。君が頑張ったから、主が君の願いを叶えてくださったのさ。本当にありがとう」
お姉さんに抱かれ、シスターに覆われ、そして最後に神父様が私たち三人を包み込むように抱きしめた。心がもっと温かくなった。
嗚呼、今、私は満たされてる。
信仰し続けてた頃、箱舟が訪れた後にこの光景を望んでた。最期に信仰を捨ててしまったからもう叶わないと思ってた。でも、今私の目の前にその光景が広がっている。
我儘を言うなら、お父さんとお母さんもこの光景に加えたかった。
私は嘗ての一家団欒を思い浮かべた。今でも鮮明に思い出せる。私の中にある最古の幸せな思い出。今こうしてると、あの頃に戻ったような感じがして、心が凄くポカポカと暖かくなる。
でも、両親のいない現実を見ると、やっぱり物足りない感じがして寂しく思う。
咽び泣く私が心の片隅でそんなことを思っていると、私の背後で気配がした。でも、心を封印して来た結界が壊れかけている今の私には泣くのに必死でそんなこと気に留める余裕はなかった。
「あっ。フフ、二人とも……」
神父様が私の後ろを見て何かに気づいたような表情を浮かべた。そして直ぐに微笑みながら私から離れた。
神父様の呼びかけで名残惜しそうにシスターとお姉さんも私から離れていく。
一気に温かさが去って行った。名残惜しく思った私は離れた三人に手を伸ばした。そんな私の肩に誰かの手が置かれる。三人に向いていた意識が肩に置かれた手に向かい、私は条件反射で振り向いた。
その瞬間、私の世界が停止した。
流れ出ていた涙が一瞬で枯れ果てた様に止まり、頭が真っ白になって視界に映るもの全てが止まって見えた。遠くでパレードの喧騒が聴こえている筈なのに、音という音が全て消え去ったように何も聞えなくなった。
例えるなら“無”。
何も見えなくなって、何も感じなくなって、何も聞えなくなった。死の間際と同じ状態だった。唯、その時と違うのは、私の中に何かが込み上げて来ていた事だった。
私にはその無の世界が酷く長く続いたように感じられた。でも、この無の世界で感じている時間など、現実では刹那の出来事なのかもしれない。
「……ッ!」
雷に打たれたような衝撃が私を襲った。その衝撃によって私は無の世界から解放され、止まっていた景色、聞こえなくなっていた音、感じなくなっていた感覚が、一斉に動きを再開し始めた。
私の目の前に二人の人が立って私の事を見ている。
「…っ!……ぁっ……」
声が上手く出せない。頭がくらくらする。全身が麻痺したように痙攣して、指一本上手く動かせない。
私の時間が再び動き出したのに、私の体は激しく混乱していた。
あり得ないと思っていたことが、今目の前で起きている。幻覚かもしれないと何度も瞬きを繰り返すけど、目の前の人たちは消えたりはしなかった。
爪先からゆっくりと頭の天辺まで凝視したけど、どんなに視線を上下させても瞳に映る姿は変わらない。
頭が徐々に現状を理解していく。
すると途端に私の中に込み上げていたものが、勢いを増して込み上がって来た。
「ッ!!」
込み上げて来た衝動は止められず、私は駆け出した。
「お父さんっ!! お母さんっ!!」
叶わないと思っていた望み。両親が死んだのは、私が信仰する以前のこと。私は、敬虔に信仰と労働をし続ければ、箱舟が訪れて死者を蘇らせ、私たちを救済してくれるって信じてた。でも、蘇るのは信仰をし始めて以降の人だけで、それ以前の人は蘇らず、救済されない。
そう思っていた。でも、そうじゃなかった。お父さんとお母さんも蘇った。今、私の目の前で微笑んでくれてる。
最も会いたかった人に会えた。望みが叶った。今、この瞬間、私の心を封じ込めていた結界は、完全に崩壊した。
「お父さんお母さん! お父さんお母さんっ!!」
私は両親にしがみ付き、さっき以上に泣き叫んだ。そんな私を両親は優しく抱きしめてくれた。
「会いたかった。一人で寂しかったよ。私、頑張ったんだよ? 泣きそうになっても我慢したんだよ。だからいっぱい褒めて! もう何処にも行かないでね。ずっと一緒だよ。お父さん、お母さん」
ボロボロと私の口から甘えが零れ出て行く。私の中にあった負の感情は、既に吐き出されていてもう私の中には塵一つすら残っていない。だから、私の中にあるのは、願いや望みといった純然な想いだけ。結界が崩壊した今、その想いを堰き止めるものはない。私は溢れ出る想いのままに両親に甘えつくした。
昔、両親と過ごしたことを再現しようと強請った。一緒にご飯を食べよう。一緒のベッドで三人で寝よう。一緒に神様に御祈りをしよう。
昔は出来なかったことをしようと強請った。テーブルに溢れんばかりのご馳走を食べよう。綺麗な洋服で着飾ろう。一緒に街へ遊びに行こう。三人で贅沢をしよう。
私は一方的に想いを告げた。想いのままに告げた容量を得ない、ちぐはぐな私の話を両親はずっと優しい表情で聞いていてくれた。
嗚呼、今、私は両親の温もりに包まれている。とても幸せを享受している。両親がいて、神父様がいて、シスターがいて、お姉さんがいて、村の皆がいて。愛しい人たちに囲まれている私は今、“満たされた”。
「さぁ、諸君!!」
仮面の男の声が轟く。気がつくと、パレードが奏でる喧騒は止んでおり、皆が私たちの方に視線を送っていた。
「諸君はこの世界という鎖から解き放たれた! 来る者は拒まないが、去る者は決して許さない! 楽園パレードへようこそ」
先程、私に言ったセリフをもう一度言って仮面の男は深々とお辞儀をした。それに続いて白い少女、ピエロたちも深々とお辞儀をする。
泣き腫らした目で私はその光景を見ていた。
青かった空が赤く染まっていた。かなり長い時間、私は泣いていたらしい。
太陽が彼方に沈んで行っている。私たちに首を垂れるパレードの後方に沈む夕日の光が、彼らを照らしている。その姿は、後光が射していることもあって、とても神々しく見えた。
この時、私はまた天啓を得た。
生きている間に私が信仰し続けて来たのは、この時の為だったんだ。彼らこそが“箱舟”なのだ。
神父様たちも私と同じ天啓を受けたらしく、ゆっくりとした動作で両膝をつき「嗚呼、主よ」と呟き、彼ら以上に深々と首を垂れた。そして今度はこちら側が全員で彼らに首を垂れた。ただ、向こうがお辞儀なのに対して、こちらは土下座に近い形で彼らを拝んだ。
神父様が、シスターが、お姉さんが、村の人たちが、そしてお父さんとお母さんが伏し拝む中、私だけは天啓を得た感動に震え、呆然と仮面の人、明確になった“主”の姿を見つめていた。
「……嗚呼。主よ! やはり箱舟は来てくださったのですね! 私の妄言だった死んだ人たちを生き返らせることも為して頂けるなんて!! 死の間際、私は主の御心を疑い、酷い言葉を吐いてしまいました……」
その時のことを思い出して私の表情が歪んだ。あの時と先程までは一片の後悔なんてなかったのに、今は後悔と罪悪感が沸々と湧き上がってくる。
当然か。だって私の目の前にいるのは、私が十数年に渡って信仰し続け、待ち侘びた“存在”。そして、私の周りには、私が蘇りを願った人々が居る。私の悲願は成就した。
悲願が成就していなければ、私は未だ信仰を捨て去ったことに後悔も罪悪も感じていなかったはず。
一度、信仰を捨て心を荒ませてしまったから分かる。奇跡が起きた途端、捨てた信仰をもう一度信じるなんて、なんとも掌返しが過ぎる。周りには私がとても単純で軽薄な人間に見えたに違いない。
でも、例え実際に周囲からそんな目で見られていたとしても、今の私には関係ない。
「……ですが、もう惑わされません! 私たちは今ここに再び、貴方様に不滅の信仰を捧げます!!」
聞かなくても分かる。皆も私と同じ興奮を覚え、同じ気持ちであることが、手に取るように分かった。
私は周りの皆に漸く続き、地に両膝をついた。手を組み祈りの姿勢を見せ、深々と首を垂れた。
これは私にできる最大の謝罪の形で在り、最大の感謝の形でもあり、そして二度と貴方様を裏切らない、信仰心を貫く永遠の従僕になるという意思表示だった。
視界の端で神父様たちが一度顔を上げて私の方を見たのが見えた。でも、私が深々と首を垂れると、皆私と同じ様に祈りの姿勢をとって深々と首を垂れた。
「フム、これは何とも可笑しな話ですね。諸君は世界から解き放たれ自由を得たというのに、自ら鎖に縛られようというのですか?」
面を下げた今の状態じゃ黒衣の仮面、改め、主の様子を伺い知ることは出来ない。でも、その声色からとても不思議そうに感じている事だけは伝わって来た。
「私たちは縛られているのではありません。自ら望んで主に仕える決めたのです。それは義務であり責任でもあり、そして私たちが心からやりたいと思える至福の行為でもあるのです。だから私たちは、例えこの行為が縛られているというものであったとしても、それは私たちが望んだ事。本望なのです」
私は嘘偽りなく心からの言葉を述べた。
それは私だけじゃなく神父様やシスター、皆の本心。それは私がそう思っている訳じゃなくて、一度は信仰を持った人ならではの感覚。信仰に身を捧げた者、奇跡を目の当たりにした者、そんな私たちだからこそ以心伝心することができる。
「なるほど。しかし、やはり珍妙ですね。私はただの笛吹き。諸君が崇め奉るような神様などではありません」
「それでも、私たちにとって御身は崇め奉る主に相違ありません」
主様は困ったと言う様な雰囲気を醸し出した。
私は何を言われようとも気持ちを変えることは無い。それを理解した主は、これ以上は押し問答にしかならないと悟り、言葉を飲み込んだらしい。
確かに今、私の前に立っている主のお姿は、私が当時思い描いていたお姿とは全く正反対だった。生前の私なら、今目の前に立ってる御方を決して主であるとは思わなかっただろう。
だがしかし、私の目の前には間違いなく主がおられる。人知を超えた御業を持ち、その御業で奇跡を顕現して見せた。例え事実が違っていたとしても、今の私たちにとっては御前に居られる御方こそ、崇め奉るべき主神なのだ。
何とも自分勝手な考えかもしれないが、私たちがそうだと心に決めてしまった以上、仮面の人がどれだけ否定しようとも私たちには関係ない。
「……フゥ~。まぁ、諸君がそうしたいというのなら、私に止める権利はない。諸君の好きなようにしたまえ」
諦めた、いや、私たちの熱意に根負けした主は、仕方ないと言う様な、それでいて愉快と言いたげな笑みを浮かべ、私たちの信仰心を受け入れてくださった。
「~っ! はいっ!!」
私たちは歓喜した。主が私たちの信仰を受け入れてくださったことが、まるで私たちの行いが主にお褒め頂いたみたいで、まだ何も成し遂げていないけど、もう主に認められた感じがして、私たちは喜びに打ち震えた。
「だが、私は全知全能たる主ではありません。私は“アビス”。唯の笛吹き、唯の諸君を導く道化師ですよ。さぁ、行こう!!」
主神、アビス様は黒衣を翻し、私たちに背を向けると笛の音を再開した。それに続いて純白の少女がアビス様の肩で歌を歌う。周りの極彩色の道化たちが楽器を鳴らし踊る。
そして一行は彼方へと向かって行く。
遠ざかっていく背を呆然と見つめる私たち。そんな私たちの目に、光彩を放つ極彩色とそれを覆う血の様な夕日が映る。夕焼けの中に入っていくパレードは、まるで血に染まった太陽に飲み込まれて行くようだった。
なんとも妖しい光景に魅入って呆けるしかなかった私たちだったが、頭に先程のアビス様の言葉が響いた。
“行こう!!”
私たちはその瞬間、一斉に駆け出した。
これは旅だ。布教の旅だ。
私は今一度、天啓を得た。アビス様と共に、人々を世界の鎖から解放する。それが私たちの使命。
夕日が私たちを包み込む。視界が茜一色になり、極彩色のパレードはもう見えなくなっていた。でも、パレードに演奏だけはシッカリと聴こえていた。
光で全てが真っ白に見える中、私たちは走り続けた。見えないはずなのに、音がするからだろうか、私たちはパレードがどこに居るのかハッキリと分かった。
そして遂に視界が開けていく。
「ッ!?」
夕焼けを抜け、夕日を背負った私たちは、その身に茜を“纏っていた”。
ボロボロだった皆の衣服が、極彩色に引けを取らない光彩を放つ物に変わっていた。奇抜だけど、全員共通のその格好は、まさに新たな信仰宗教を崇拝する一団であると言える。
即ち、この茜の修道服を纏う私たちは、アビス様が率いる教団として生まれ変わったのだ。
(嗚呼……アビス様…!)
また私は歓喜に震えた。私たちの信仰を受け入れて頂いただけでなく、こんなにも素敵で勿体ない贈り物まで頂き、私たちのアビス様への信頼と忠誠心が絶対にして不動のものへ変わったのが分かった。
遠くに感じていたパレードが、もう手を伸ばせば触れられる位に近くに居る。
私たちはこれからの宗教活動に胸を高鳴らせ、祈りの行進をしながらパレードに続いた。神父様とシスターが私たちを率い、アビス様がパレードと私たちを導く。道化師たちが踊り、騒ぎ、歌いながら先導を行く。そして私たち教団の行進は、パレードと同化する。
純白の少女の歌に続き、信者たちも歌う。祈りを込めた聖歌を、パレードの陽気な心地で、これからの救済と解放を願い、歌う。
私は辺りを見渡した。
神父様がいる。シスターがいる。お姉さんがいる。村の皆がいる。お父さんとお母さんがいる。道化師さんたちがいる。純白の少女がいる。そして、アビス様がいる。
これから私は、アビス様と共に御勤めをしていく。沢山の人を救済することができる。
嘗て思い描いていた理想の中に今、私は居る。そして、その中にこれから皆を招く為、私は御勤めをする。
嗚呼、私は今、とても充実している。
夕日を背に私たちは、地平線の彼方を目指し行く。
to be continued