しずかは目の前に広がる一面の花の海に感激していた。四季折々の花が一同に介するその花園は、まさにしずかが夢見た景色だった。
しずかは幾多もの香りを楽しんでいる最中、ふと 髪飾りなどを作りたくなりもしたが、あまりにも素敵なこの花園を傷つけるような行為と感じたため、残念ではあったが思いとどまった。
広大な花園で両手を広げてはしゃぐしずかのその姿は、まさに映画で言うところのお姫様のそれだった。そんなしずかに見惚れたかのように遠目で見つめている一人の男がいた。しゃがんで花に囲まれていたしずかは、その男の存在に気付き振り向いた。しずかと目があったその男は、微笑みながらゆっくりとしずかの傍に歩み寄って来るのだった。
「アポロンさん!?」
「こんにちは。たしかテラの友達の、え……と」
「しずかです」
アポロンは名前を知らなかったことを申し訳なさそうにしながら頭を掻いた。しずかは優しいアポロンと認識するよりも早く、その様を見てクスっと笑った。
「ちゃんと自己紹介してませんでしたね。わたし、しずかといいます。どうぞよろしく」
深々とお辞儀するしずかの気品さを前に、アポロンもつい反射的に儀礼の際の挨拶を行った。
「アポロンと申します。こちらこそよろしくお願いします。しずかさん」
王子という言葉が似つかわしいその美形に、しずかは乙女心をあらわに感動していた。
「ステキ……」
「え?」
「あ、いえ! なんでもないです!」
思わず言葉に出してしまった恥ずかしさと、憧れの男性像を前にしずかの顔は真っ赤になっていた。
「!? 顔が赤いようですが、熱でもおありですか?」
ゆっくりと額に伸びてきたアポロンの手を、しずかは反射的に身を引きかわしてしまった。
「いえ、これはそういうのではなく……その……だ、大丈夫です!」
「そうですか。それならば良いのですが。もし体調が優れないようでしたら遠慮なく言ってください。城の方で手当をさせますので」
「は、はい。ありがとうございます」
「テラを助けてくださった恩人にもしものことがあったら申し訳が立ちませんので」
(あ、あー……そういう……そうよね)
しずかはその言葉に少しがっかりしたが、同時に現実に戻されリラックスもでき落ち着くことができた。向かい合った二人の間には、しばらく沈黙が続いた。
(しかし本当に母上の面影を感じさせる人だ……)
アポロンはしずかを見つめながら、ふと子供の頃のことを思い出していた。王妃、すなわちアポロンの母親が重い病にかかり亡くなったときのことを。
◇
「母上……やだよ……ずっと一緒にいてよ……」
「泣かないで、アポロン……母はこれからもずっとずっとあなたを見ているわ。本当よ」
ベッドで横になっている母の胸元に抱きつき、泣きじゃくった顔を押し付けている幼いアポロン。その傍には国王と、泣いているテラを優しく抱いているミヨイがいた。
「アポロン、手を出してご覧なさい」
「……うん」
王妃は枕元にあったひし形のペンダントを、差し出された小さな手のひらの上に乗せた。そのペンダントは王妃が常日頃愛用していたアクセサリであった。
「なあにこれ?」
「それはね、あなたを救ってくれるお守りよ」
「お守り?」
「そう。あなたはこれから色んなことを経験していくでしょう。楽しいこともあれば辛いこともある でしょう。そしてそのうち、家族以外に大事にしたいと思える人がきっと現れます。そのときにこれを ……あなたが心から大切にしたいと思うその人に渡しなさい」
「どうして……? 母上からのプレゼントなのに? ぼくあげたくない!」
「言ったでしょ? これはお守りなの。きっとあなたを救ってくれるわ」
◇
「……さん? アポロンさん?」
しずかの呼びかけにハッと気付いたアポロンは、薄っすらと涙を浮かべた眼を急いで腕で拭った。
「大丈夫ですか?」
下からアポロンを覗き込むしずかと目が合い、意表を付かれたアポロンは驚きのあまりすばやく身を引いた。が、あまりに慌てて後退りをしたため、かかとが草に引っかかり、バランスを崩しそのまま豪快に尻もちをついた。周囲の草花が勢いよく空中に舞い上がり、王子の身へふわりと舞い降りていった。
「こ、これは失礼……」
しずかは、自分を見上げる姿勢になった王子を見てキョトンとした。そのおどけるアポロンの姿が意外だったのか、しばらく眺めた後にクスクスと笑い始めた。
自分の慌てっぷりを思い出したアポロンは、その無垢な微笑みに誘われてしずかと一緒に笑うのだった。
(こんなに笑ったのはいつ以来だろう……)
アポロンは楽しそうに笑っているしずかを見て小さな幸せを感じていた。
自分の中にもう一人の人格が現れてからは周りが自分を見る目が明らかに変わった。ご機嫌を伺うものは変わらずだったが、親しきものは減り、怯えるもの、忌避するものが増えた。もう一人の自分の攻撃性を考えれば仕方のないことだったが、その現実を受け入れることと寂しいことは別だった。
身内とですら心から笑ったのは、ここしばらくはなかった。身内であるほど気を遣うがゆえ、どうしてもはれもの扱いとなり心に溝ができているのを薄っすらと感じていた。そのせいもあり何とか自分一人で解決しなければ……と、より孤独な選択へと陥っていた。
(そんなもう一つの人格を抱えている自分に怯えもせず、あまつさえ心配までしてくれるこの人は……ぼくにとってはまさに救いの女神だな……)
いつにない和やかな気持ちになれたアポロンは首にかけたペンダントを外そうと手を首の後ろに回した。
「それ、とても綺麗なペンダントですね」
しずかはアポロンの隣に座りながらペンダントの輝きに目をやった。
「ご覧になりますか?」
そう言ってアポロンは外したペンダントを隣に座っているしずかに手渡した。
「これにも……何か特別な力があったりするのかしら?」
「力……ですか?」
「ええ。テラのペンダントには、天候を変える力があるとのことだったので」
「ああ、そういうことですか」
アポロンは今の晴れた空がテラのペンダントによるものだと知ってか、ふと空を見上げた。
「確かにテラのペンダントにはそういう力がありますね。でも、わたしのはどうもそういった特別な力はないみたいです」
残念ながら、という感情を含むような表情で答えたアポロンは昔の母の言葉を思い出し、そういえば、と続けた。
「……お守り……とのことです」
「え?」
遠い目をしながらアポロンはそうつぶやいた。
「それは母から譲り受けたものなのですが、母が言うには、私を救ってくれるお守りなのだと……」
「そうなんですか。テラのペンダントがあれだけすごい力を持っていたんですもの。このペンダントのお守りの力も、きっとすごいんでしょうね」
「そうかもしれません」
アポロンはふふ、と自然に笑みがこぼれた。と同時にそんな振る舞いができている今の自分に驚いた。たったひと時だとしても、久しぶりに心からの安らぎを与えてくれたしずかに感謝をしながら、ペンダントを覗き込むしずかを優しく見つめた。
「さて、わたしはそろそろ行きます。突然お邪魔して申し訳ありませんでした」
スッと立ち上がり軽く腰を払うアポロンを追うようにしずかも立ち上がった。
「いえそんな! 私の方こそ、アポロンさんの邪魔をしてしまったのではないかと……」
「はは、そんなことはありませんよ。むしろ救われました。ありがとう、しずかさん」
「救われたって……何もしてないのに大げさです」
「いや本当に……」
そう言ってアポロンはしずかを真剣な眼差しで見つめた。その視線にしずかは耐えられず赤面し、つい目をそらしてしまった。
「あ、すみません! ペンダントお返ししますね!」
しずかは照れながらペンダントを差し出した。たが、アポロンはそれを制止するよう手のひらを前に出し軽く首を振った。
「いえ、それはしずかさんが持っていてください」
「え!? だってこれはお母様の形見だって……」
「そうですが、母にはそうするように、とも言われていました」
「そうするように? ですか?」
「はい。自分にとって心から大切な……」
そう言いかけてアポロンは赤面した。つい何の躊躇もなく話そうとしていたが、自分が好意を抱く女性に対して気持ちを告げるということが、とても勇気がいることなのだと、今この瞬間に体感したのだった。
「大切な……?」
「あ! いや、た、大切な……そう! この大切なペンダントは、他の者に譲ることにより更に強い効力を発揮するとも言っておりました」
「そうなんですか!?」
「え、ええ」
(かなり無理があるけれど一応嘘ではないな。まぁ所詮、言い伝え程度の加護だから信憑性がなくとも問題あるまい)
アポロンは視線を大きく横にずらし、照れを隠すように右手で口元を覆いながら、そう思った。
「じゃあ、わたしが持つことでアポロンさんにもっと大きな加護が?」
「はい。煩わしいかもしれませんが、どうか持っていて頂けないでしょうか」
「そんな! 煩わしいだなんて……こんな素敵なペンダント……すごく嬉しいです!!」
思いもよらぬ素敵なプレゼントをもらったしずかは大いに喜んだ。
「でも、本当にいいんですか……? 私ではなく、それこそテラに渡す方が良いような感じもするのですが?」
しずかは手のひらに乗せたペンダントの輝きを見ながら、やや罪悪感を感じアポロンに訊ねた。
「問題ありません。譲渡の対象は身内以外ということでしたので」
「そうなんですか……」
譲渡対象に関しては本当のことだったのでアポロンは動揺することなく伝えることができた。しかしそれでもしずかはあまり納得していない感じの様子だったのでアポロンは少し言葉を添えた。
「何か妙な条件ですよね。でも、言い伝えとはそういうものかと」
アポロンは笑いながらそう答えた。その笑顔を見てしずかも素直にアポロンの好意として受け止めようと決めた。
「わかりました。では、このペンダントは大切に預からせていただきます。ペンダントさん。どうかアポロンさんに大いなるご加護をお願いします」
しずかはそう言って、両手でペンダントを握りしめ祈った。アポロンはしずかに対して片膝を付き、よろしくお願いします、と告げた。それは中世の騎士が王族に対し忠誠心を示すポーズであり、現代ではプロポーズの際に用いられているポーズでもあった。