「———で、結局こっちが折れたわけだけどさぁ。……うん、うん……明日の昼?それまでの間ってこっちだって…………荷物?全部あるからそこら辺は心配しないで。…分かったじゃあ切るよ
…とは言っても明日まで預からなきゃいけないのはちょっとなぁ…。今日の朝は藤川と龍驤と打ち合わせあるし…、あ、そうだ
もしもし相川さん?ごめんね大分時間帯逼迫してるとこ、うん……うん、朝ごはん食べて今教室?……そう、でねぇ、今から私の部屋来れない?…………そう、ちょっと頼まれて欲しいんだけど—————」
朝のSHR、いつものように騒がしい教室も一度千冬(と真耶)が入ってくれば一瞬にして静かになる。
「朝から元気なのはいいことだ。では出席をとるぞ」
そう言って出席簿を開き教室の左端へ目を向けた千冬の表情が訝しむ。
「おい、相川はどうした」
クラスメートの目線が一手に注がれた先にある机には、その場にいるべき人物の姿がない。
「そういえばさっき電話に出てたような」
「緑葉さんに呼ばれたとか言ってました」
「全く…………」
生徒達の証言に千冬は頭を抱える。常日頃から緑葉に引っ掻きまわされるこちらの身にもなってほしい。素直に緑葉の呼び出しに向かってしまう相川も大概だが。
「仕方ない」と千冬はSHRを続行。結局SHRの間に相川が来ることはなかったが、そのまま1時間目の授業へ突入していく。よりにもよって千冬が受け持っている授業である。
一夏による号令も終わり、教科書を開いた途端教室の扉が思い切り開いた。
「おく……遅れてすみませんでした!!」
「遅い!!今までどこで油を売ってい……た………?」
突然、千冬の叱責に急ブレーキがかかる。
「あきゃ?」
「…………………………………は??????」
偶然それと目が合った千冬は無意識のうちに間抜けな声を発してしまう。
教室の扉へ目をやれば、そこには急いできたのか肩で息をする相川の姿があった。が、それはもう問題ではない。むしろ問題なのは……
「おま、おま…おま……
なんだその赤ちゃんは!?」
「ばぁ〜〜〜♪」
明らかに取り乱している千冬の膝がガタガタと笑っている。一方の赤ちゃんは満面の笑顔だ。
(あか、あか、赤ちゃんだと!?バカな!そんな様子は何も……ハッ……そういえば相川は……)
普段は凛々しく冷静沈黙な千冬だが、壊れる時は実に呆気なく壊れてしまう。そんな残念で脆い部分を兼ね備えた頭が更におかしな方向へと意識を持っていってしまう。
「返してきなさい」
「え?」
「返してきなさい、と言っている!誘拐は犯罪だぞ!!」
「はっ、はい!?違いますよこの子は——」
「では誰の子だ!?まさかお前…あの時しっかり避妊しろと言ったではないか!!」
「違 い ま す っ て !!」
狼狽している千冬に相川が顔を真っ赤にして反論する。
その時、赤ちゃんの顔が歪み、相川が「あっ」と気付いた時にはもう遅かった。
「うぁ……うあああああああああ!!!!」
耳元で叫んだのがいけなかったのか、赤ちゃんは大声で泣き始めてしまった。あまりの音量に隣の教室で授業を行なっていた先生が「何事!?」ってすっ飛んできた。
「ああああああああああああああああ!!」
「あーごめんね起こしちゃったかなー?おーよしよしよしよし」
泣き叫ぶ赤ちゃんを懸命にあやす相川の傍らで千冬は呆然と立ち尽くす。注がれる視線に気付いてギクリと眉を顰める。
「なんだ、私が悪いのか?私が泣かせたのか?」
普段では絶対にそういう目で見られないであろう冷ややかな視線に千冬はバツの悪そうな顔になる。
「分かった、泣き止ませればいいんだな?赤ん坊をあやすことなどお手のm」
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!」
「」
拒絶、断固とした拒絶。あまりの拒絶っぷりに千冬の心は折れかける。だがこれで折れてはブリュンヒルデの名が廃る。
ごほんと咳払いをした千冬は、サッと生徒達と真耶に目配りする。
「あーー…言っておくがお前達、これは他言無用だぞ。特に緑葉にだけは言うな」
千冬は膝を折って赤ん坊の元へ座り込む。
「ほ…ほ〜らよしよーし、ごめんね〜恐かったね〜いいこいいこ〜〜〜」
『ぶふっ!』
一夏と鈴、他一部生徒は耐えきれずに吹き出した。ラウラと箒は掌で口を押さえながら肩を震わせ堪えている。真耶も真耶で涙目になりながら笑いを堪えている。
後で全員殺す、と心の中で誓いを立てていると赤ん坊はすっかり泣き止んだ。
「お…おぉ……」
泣き止んだところで千冬は改めて相川に抱き抱えられた赤ん坊を見る。こうして見ると、やはり可愛い。
「だっ」
授業中だということを忘れ、ついついホッコリ癒されていた千冬のほっぺに赤ん坊が痛烈なビンタを繰り出したのは、そのすぐ後であった。
「いやぁ授業中すみません。ウチの裕がご迷惑をおかけし……何があったの?」
数分後、用事を終わらせて教室へとやってきた緑葉の目に飛び込んできたのはスヤスヤ寝息を立てる赤ちゃんを抱いている相川に教室の隅っこで体育座りをしてぶつぶつ呟いている千冬、そんな千冬に変わって授業を行なっている真耶の姿だ。
「あー…あんまり織斑先生のことは気にしないであげてください。相川さん、その赤ちゃん返してあげてね」
「???」
相川から赤ちゃんを返してもらった緑葉は首を捻るばかりだった。
「かわいい〜〜!」
「あっ見て!笑った!私見て笑ったよ!」
「違うわよ、私を見て笑ったんだって!」
休み時間、1組教室はいつもより活気に溢れていた。お目当ては緑葉に抱っこされている赤ちゃんだ。
「先日実家に帰ったらお兄さん夫婦と会ったんだけど、今日明日夫が出張で妻が友人との旅行が入ってしまったからその子を緑葉さんが預かることになったと」
「そ」
鈴の言葉に緑葉が頷く。ついでに相川と従姉妹同士だとカミングアウトしたらめっちゃ驚かれた。
「この子の名は何というんだ?」
「裕っていうの。裕福のユウね」
「か…可愛い…」
代表候補生達も間近で見る赤ちゃんに興味深々なのか、皆ほっこりとした表情で眺めている。
「きゃ?」
ラウラがほっぺを指で突っついていると、裕の小さな手がラウラの小指をキュッと掴んだ。
「ふぉ」
「今ラウラからなんか出たわよ」
鈴が茶化していると、ラウラの表情が徐々に赤らめていく。生まれて初めて体験する未知の感覚に頭がパンクしているのだろう。
「ふぉぉぉぉぉぉぉぉぉ…………」
「ラウラしっかり!気を取り直して!」
「う、うむ、名残惜しいがそろそろ放してもらおうかっ…………あれ?」
ラウラが裕の手から離れようとするが、がっしりと小指を掴まれてしまっている。
「あー、赤ちゃんって1回握ったもの中々放してくれないのよねー」
「おっ、おい。放してくれないか?」
無理に引き離すと泣かれるかもしれないため強気になれないラウラだったが、次の瞬間形容しがたい感触が小指を襲った。
「ぴっ」
おしゃぶりだと勘違いしたのか、裕はチュパチュパとラウラの小指をしゃぶり始めた。
それが止めになったラウラの四肢から力がなくしてヘナヘナと座り込んでしまう。
「ばーー♪」
ラウラの小指を放した裕は両手を上げて満面の笑顔。当のラウラは顔から湯気をあげてへたり込んでいる。ご機嫌な裕を抱き抱えた緑葉は次に一夏の方を見る。
「良かったら抱いてみる?」
「え、俺がですか?」
「うん。なんか似合いそうだし」
一夏は緑葉から細かい説明を聞きながら裕をあやしていく。
「こうですか?」
「そう。あと出来たらこんな風にリズミカルに動いてみて、振動が気持ちいいのかすぐ寝るから」
まさしく主夫という言葉がぴったりな一夏の姿に教室中から「おぉ〜」という唸り声が沸き起こる。
「似合いますわ…」
「も、もし一夏と…」
「こっ子供作って…」
「こんな日常を歩めたら…」
『はあああ〜〜〜……』
セシリア、鈴、シャルロット、箒が頭の中で思い浮かべる妄想に惚気ていると、不意に裕の表情が強張る。
「あれ、どうしたんだ?」
一夏が訝しむと、脇からひょっこりと本音が顔を出す。
「もしかしてうんちじゃないの?」
『え?』
緑葉が裕に鼻を近づける。結果は——
「あー、うんちだわ」
赤ちゃんあるある、突然のうんち。避けようがない過酷な試練。
緑葉は紙オムツを取り出し、服を脱がしていく。が、ある懸念材料があった。
「…あ、1つ聞くけど、大丈夫?」
「何がですか?」
「いや一夏君にじゃなくて女子生徒の方」
その言葉に一夏以外の生徒は頭の上にはてなマークを浮かべる。
「あっ、あたし分かっちゃった」
鈴を始め、一部生徒は緑葉の言いたいことが分かったのか、若干顔を赤らめる。
「大丈夫だと思いますけどね」
「かなぁ、セシリア辺りとか危ないからさ」
「一体どういう意味ですの?」
自身の名を出して何やら意味深なことを呟く相川と緑葉にセシリアは少しムッと頬を膨らませる。
「どういう意味って…」
緑葉は紙オムツを外す。
「……こういう意味だけど」
ポロン
「ぴっ」
セシリアが変な声を上げて固まる。
「セシリア…………」プクククク…
「裕は男の子なんだって」
鈴が口元を抑えて笑いを堪える。緑葉と相川はハァ、と溜め息をつく。そこには何とも可愛らしい裕の象さんがパオーンしていた。
『お……』
女子生徒達のリアクションは様々で正直見ていて楽しい。見入る者も入れば顔を紅潮させ掌で覆い隠す者もいる。
そんなギャラリーのことなど露知らず緑葉は慣れた手付きでお尻を拭きオムツを取り替えていく。
「手慣れてますね」
あっという間にオムツを取り替え服を着せた緑葉に一夏は感心の念を抱く。
「7つ8つ下の妹がいてさ、だから自然と覚えちゃってるのよ」
「これで良しっと」すっかり元通りの格好に戻り、お尻の不快感もなくなった裕はニコニコ緑葉に両手を上げている。すると丁度予鈴が鳴り、教科書を携えた千冬が入ってきた。
「さっさと席につけ。それとなんだこの臭いは」
「すいませんさっき裕がうんちしちゃったもので」
「……………」
千冬は頭を抱えながら教科書を教壇に置く。
「…さっさとそれを捨ててこい馬鹿者。それと窓を開けろ、臭いが充満する」
「ごめんなさい。ほら裕行くよ」
「う〜〜〜〜」
緑葉が裕を抱き抱えて教室から出て行こうとするが、よほど懐いているのか裕は相川の袖を掴んで一向に離れようとしない。
「裕。ダメ、相川さんこれから授業あるから」
「ゔゔ〜〜」
「裕!いい加減にして、怒るよ!」
「ゔゔ〜〜!」
愚図る裕に厳しく接する緑葉。まさに子と親が織りなす光景である。結局折れたのは緑葉の方で、仕方ないと溜め息をついた。
「分かった分かった、仕方ないなぁ〜。相川さん裕のこと頼める?」
「は?おいちょっと待」
「わ、分かりました」
「分かりましたではない待て赤ち」
「ではこれ捨ててくるついでに替えのミルクとかも買ってくるので!」
「ばーばー♪」
「赤ちゃんを連れていけぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇえ!!!!」
千冬の木霊と共に、授業は幕を開けた。