「……相川、その赤ちゃんホントになんとかならないか?」
「無理…っぽいです」
午後の授業に入り、千冬の顔には精神的な疲れが窺える。理由は言わずもがな相川にしがみつく赤ちゃんの裕くん。さすがに午前中の実技の時は真耶に預けていたが、それ以外の間は全くと言っていいほど相川から離れようとしない。
そして『替えのミルクを買いに行ってくる』と告げ何処へと向かった緑葉だが、まだ帰ってきていない。お昼休み中に連絡を取ったところ
「趣味仲間に捕まってもうしばらくかかりそう」
と返事がきた。
「緑葉はいつ帰ってくるんだ」
「夕方にはと言ってましたが…」
「夕方……」
つまり、あとの授業も赤ちゃん同伴ということになる。
「とにかく、そのままにしておけ、泣かれたら堪らん」
「それは勿論」
「よし…では授業を始める」
渋々と言った様子で千冬は授業を始める。
相川がノートを取っている間、裕は相川の手の動きを見ながら大人しくしていた。しかし授業開始から20分後、突然裕がぐずり出した。
「うっ……うううう……」
「? どうしたの?」
「ううううう……」
相川が頭を撫でるが裕は一向に機嫌が良くならない。授業を進めていた千冬の手が止まる。
「どうした」
「なんかまたぐずり出しちゃって」
「早くなんとかしろ。授業が進まん」
「分かっていますけど…」
相川は裕を抱き抱えて「よしよーし」とあやすが機嫌は治らない。
「お腹空いたのかも」
「授業に飽k…いえなんでもありません」
「うんちとか?」
「遊んで欲しいんじゃないの?」
「緑葉さんが恋しいのかな」
周りの生徒達もザワザワし始める中、裕と相川の様子を見つめていた本音がポンと掌を叩く。
「分かった!おっぱいが欲しいんだ!」
瞬間、教室の空気がとんでもない勢いで凍りついていくのを一夏は確かに感じた。
箒も、セシリアも、シャルロットも、クラスメートも、千冬までもが本音の爆弾発言に凍りつく中、相川は裕にそっと呟く。
「…………………………………そうなの?」
「あきゃ♪」
裕はこれ以上ないくらいの笑顔を見せた。
「いやいやいやいやいやダメだよ!色んな意味でダメだよ!」
「清香それはまずい!まだ16歳なのにそれはまずい!」
「織斑君だっているんだよ!?」
あたふたするクラスメートに相川は顔を真っ赤にさせながら言い返す。
「わ、分かってるよっ!ねぇ裕くんこのおしゃぶりじゃダ———」
哀しいかな。相川が取り出したおしゃぶりは裕が繰り出したビンタによってどこかへすっ飛んでいった。
「…………」
事態を飲み込めず固まっている相川に千冬が溜め息をつく。
「…相川、やはりその子は別のところに預けた方がいい。理事長あたりなら悪いようn」
「うああああああああああああああああああああああああああ!!!!」
今日1日見てきて確信したが、裕は千冬のことを嫌っている。何故なのかは分からないが近寄っただけでこの泣きっぷりは相当だ。
しかし4度目ともなれば慣れたもので千冬の精神にダメージが入ることもない。フン、と笑って裕に近寄る。
「もうそれには屈しないぞ。さ、轡木さんのところに———」
ビチョッ
刹那、千冬には何が起きたのか分からなかった。見ると生徒の顔が青ざめ、相川もオロオロするばかり。
千冬は顔に不愉快な感触を覚え、おでこについた粘り気のある液体を指で掬いとる。それが裕から吐きかけられた唾だと分かったのは0.3秒後。
「まさか…織斑先生もあそこまで嫌われるとは思ってなかったでしょうね…」
鈴が小声で解説する。普段なら制裁を飛ばす千冬だが今日この時に限ってはそんな解説も耳に入らなくなっていた。
フラフラと立ち上がった千冬は窓のサッシ辺りに肘を置くと、そのまま遠くの方を見るような格好で黄昏始めた。
「…その子への対応は相川に全て任せる。私は少し疲れた」
のちに語られた生徒の証言によると、その時の千冬の背中は今後一生見ることはないだろうなぐらいに力なく、哀愁を漂わせていたという。
「清香どうするの…?」
「どうするたって…」
相川はチラッと男子生徒である一夏に目を向ける。視線に気付いた一夏は「俺は何も見てないし聞いてないぞ!」と耳を塞ぎ、眉間にシワができるほど思い切り目を閉じた。
もしかしたら別の可能性も、と淡い希望を抱いたが、しきりに胸をポフポフ叩いたり揉んだりしてくる裕の健気な姿が希望を完膚なきまでに打ち砕く。
相川は覚悟を決めた。ごくりと唾を飲み込んだ。
「……織斑君」
名前を呼ばれた一夏はゆっくりと片目を開く。
「な、なんだ?」
「出てって」
「へ?」
『!!?』
一夏は目を白黒させる。
「できれば廊下、ううん教室から数メートルは離れてほしいな」
「ちょちょちょちょちょっと!清香ほんとにやるの!?」
「ダメだって!色んな意味でダメだって!」
「R-18指定になっちゃうよ!」
相川の覚悟に気付いたクラスメートが慌てて止めに入る。本音を言えば相川もやりたくないが、仕方ないと腹を括った。
「じゃ、じゃあ俺廊下に出てるから…」
一夏は縮こまりながら席を立つ。
「こっち見たり教室入ってきたら殺すから」
「…はい」
マジトーンの相川にぺこりと頭を下げ一夏は教室から出る。
「あーっぶー!」
「あー…、織斑先生も出てもらっていていいですか?」
「な、何故だ」
「裕くんが……ねぇ…」
「…………」
ムスーっとほっぺを膨らませる裕に睨まれながら、千冬も教室から退室する。
「あ、あれ織斑先生?」
「…一夏、たまには話でもしないか?」
学園にいる時、千冬は一夏のことを敢えて苗字で呼び分別をつけている。逆に名前で呼ぶ時は姉として接する時だ。教師という立場とプライベートを使い分けている千冬が授業中に一夏と名前で呼ぶことは基本的にない。
「お、おう…?」
1人の姉として一夏と話そうとする千冬の耳にある意味待ち望んでいた声が届く。
「あー疲れたー。あんなに話し込むとは思わなかった」
ようやく緑葉が到着した。しっかりミルクなどは買ってきたらしく、両手にはこれでもかと荷物をぶら下げている。
「…?なんで一夏君と織斑先生は廊下に?あれ授業は?」
何も知らない緑葉は不自然に廊下で黄昏れる織斑姉弟に不審感を覚える。
「教室に入ればわかる。さっさとあの赤ん坊を引き取ってくれ」
「う、うんまぁそのつもりだけど…」
一歩もそこから動こうとしない織斑姉弟を見ながら首を傾げた緑葉はガラガラと教室の戸を開けた。
「失礼します〜本当にご迷惑をかけてもうしわけな———」
緑葉はそれ以上言葉を紡ぐことができなくなった。
さて、ここで1年1組の席順をチェックしてみよう。
1組に在籍する生徒の数は34人。入学した4月当初は30人で、5月にラウラとシャルロットが転入してきて32人に、さらに体育祭後に2組の鈴、4組の簪がやってきたことで現在の生徒数となった。1年の専用機持ちが全員同じクラスに集まるというまさに異常事態となっている。
肝心の席順だが、基本的にはあかさたなはまやらわの順番である。しかしア行の織斑一夏が3列目の1番前だったりサ行の篠ノ之箒が窓際5列目の1番前と結構いい加減、さらに過去2回ほど席替えもしたこともあり今ではあかさたなもぐっちゃぐちゃの状態だ。
さて、1年1組1番を飾る相川だが、彼女は入学当初から座席は変わらず1列目の1番前である。教室の戸から1番近い場所、1番最初に目につく位置でもある。
故に、制服を上げてISスーツの胸元をずらし、思春期の女子らしい、仄かに膨らんだ乳房を裕に晒している相川と目が合うのも、仕方のないことかもしれない。
「…は?え?は?」
緑葉は視界に写り込んだ光景を理解できなかった。裕が相川に懐いていて、相川も裕のことを可愛がっているのは緑葉がよく知っている。お昼休みの時にツーショット写真が送られてきた時には「自分いなくていいのでは?」と思ったほどだ。
「あ……え……」
緑葉の姿を認めて相川は硬直。そんなことなどお構いなしとばかりに裕は相川の乳首にしゃぶりつき始める。
教室内になんとも言えない空気が立ち込める。そしてそんな空気を破ったのは相川であった。
「で…………」
「で…?」
「出てってください!!」
「イエッサー!!」
緑葉は目にも止まらぬ速さでミルクとオムツが入った袋を床に置いて戸を開けて廊下へ出て閉めた。僅か1秒ほどの出来事である。
「いやなんで出ていかせたの!?」
鈴がツッコミを入れる。彼女達からしたら緑葉は裕の保護者で、何より一夏と違って女性である。相川にも気恥ずかしさはあるだろうが、あそこまで言うほどのことではないだろうと困惑の声が上がる。
「緑葉さんに任せればよかったじゃん!」
「まさに瞬速で出て行ったな」
「いや、あの…その…」
何せこの中で緑葉が実は女体化した男だと知っているのは相川と本音、ラウラとシャルロットだけ。出ていかせた訳を言うわけにもいかずしどろもどろになっている相川に援護射撃を放ったのは秘密を共有する3人だ。
「多分相川さんもびっくりしてたんだと思うよ僕は」
「そ、それに緑葉さん、ああ見えてその、ピュアなところあるから!!」
「そ、それに緑葉さん、ああ見えてその、ピュアなところあるから!!」
「あっはっはっはっはっはっは!」
笑いながら廊下の壁に背中をつける緑葉を織斑姉弟が冷めた目で見つめている。
「…なんでお前追い出されているんだ」
「なんでだろうねー()」
白々しく目をそらす緑葉とガックリと項垂れる千冬。
「緑葉さーん」
「なに?」
教室の中から谷本の声が聞こえる。
「今ですね、裕くん満足そうに笑ってます」
「はーい、そうですかー」
「あいつら実況する気なのか?」
千冬が呟くと、教室から箒達の声が聞こえてくる。
箒「こ、こんなことを聞くのもあれだと思うのだが…その、痛くはないのか?」
相「うーん、最初は痛かったけどどっちかっていうとくすぐったいかな…」
鈴「あー吸ってる吸ってる」
か「一心不乱にもう…」
相「ちょっ…噛まないでったらぁ…」
ラ「所謂甘噛みだなそれは」
相「もー……んぅっ」
教室内から赤裸々にリアルタイム実況を聞かされている緑葉と織斑姉弟の気まずさはピークに達していた。
千冬はスマホにイヤホンを取り付け一夏に渡す。
「一夏、これで音楽でも聴いてろ」
「くっくっくっくっ…」
緑葉がたまらず吹き出す。
ここから暫く、テレビ的に言えば全く映像が変わらない静止画状態が続くので、一時的に台本形式とさせていただくこと、そして緑葉と織斑姉弟の世間話と1組クラスメートの実況で場を持たせることをお許しください。
ケース①織斑家の生活事情(千冬は生徒に配る書類を取りに行っており不在)
緑「一夏君って、両親いなくて姉と2人暮らしって聞いたけど」
一「はい、そうですけど」
緑「織斑先生ってさぁ、学校ではあんなだけど家とかプライベートだとどうなの?やっぱプライベートでもビシッとこう決めてたりしてる?それとも案外ガサツ?」
一「後で俺と一緒にアレ食らう覚悟があるなら話してもいいですけど」
緑「んーーふふふふふふふふ…………
貴方あれだなぁ、後者だな?」
ケース②緑葉の電話
緑「あ、もしもし緑葉ですハイ。どうも先生お世話になっております
ハイ…ハイ…クレイングッドの……明日栗東に戻すと……えぇ、それで……来月の阪神か中京……乗り役の方はこれから決めてくと、分かりました。それでバブルズの方は予定通り東京で、ありがとうございます。ハイその日は私も東京に…えぇ…その後はまた後々ということで……ハイ今日はありがとうございました。いえ、ハイ」
千「……前から気になっていたのだが、お前何の仕事をしているんだ?」
緑「あっはっはっはっはっはっはっは」
ケース③未知なる世界
裕「きゃーぷー♪」
鈴「あぁあぁあぁ引っ張ってる引っ張っちゃってるよ」
相「裕くん!」
裕「あぱぁ〜」
ナ「1つ思ったんだけどさぁ、清香って意外とあるよね」
谷「あ、私もそれ思った」
岸「ひょっとして彼氏クンに揉まれて…」
『あぁ〜〜〜』
相「みんなで納得するのやめて!」
緑「…楽しそうですねぇ」
千「あの馬鹿ども……」
〜5分後〜
谷「緑葉さーん」
緑「なんでしょうか?」
谷「私ですねー、気が付いたんですけど…
清香これ、何も教室でやらずに保健室とかでやってもよかったんじゃないですか?」
『……………………………………あ』
「では、授業を再開する」
何事もなかったように授業を再開しようとする千冬に生徒&緑葉は苦笑を浮かべる。
「すごいよね。誰一人としてあの案を提案しない上に思いつかなかったんだから」
緑葉がボヤく先には『案』を言った谷本がいる。相川と裕は谷本が提案した案に乗り保健室へと向かったため不在である。
谷本がさらりと言った「何も教室でやらずに保健室とかでやってもよかったんじゃないですか?」の台詞。緑葉と千冬を含めて30人以上はいるこの空間で誰もそれを思いつかず言わなかったのはある意味奇跡である。
「織斑先生も何事もなかったように授業やってるけど、ボソッと「思いつけなかった…」って言ってましたからね」
まさに痛恨、というべき顔を見せた千冬の姿はどこか痛快だった。
その後は次の時間も同じ内容を行うということもあって休み時間返上で授業を進行。相川もやっと裕のおねだりから解放されたのか保健室から戻ってきた。心なしか仄かに顔を赤らめていた。
翌日の昼にハルが裕を引き取りに学園に来た時の千冬を始めとした1組の面々の安堵感は鮮明に思い出せる。結果的にほぼずっと裕と一緒にいた相川は別れを惜しんで涙ぐみ、谷本と鷹月に慰められていた。
「あー♪」