IS 〜夢のような旅路〜   作:フレイア

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 緑葉さんとセシリアにとって大事な話になるかもしれない


#48 コヨーテ

 

「もう少しでございます、チェルシー様」

 

 ハンドルを握る老年の男性へ一言「分かりました」と頷いた赤毛の少女は窓ガラスの外に見える草原へと目を戻す。

 

 赤毛の少女、チェルシー・ブランケットはオルコット家に仕える専属メイドの1人。

メイドとしての仕事ぶりも優秀で現当主のセシリアから見て2つ年上の幼馴染という間柄から信頼関係も厚く、セシリアが不在の間はチェルシーがメイド長としてオルコット家を支えている。

 

 そんなチェルシーだが、今日は他のメイドや執事へ家の仕事を任せ、ある場所へと向かっていた。

 事の始まりはセシリアからの1本の電話だった。突然の電話にチェルシーは驚いたものの久しぶりの会話だったこともあり最初のうちは何気ない世間話やお互いの近況などを話し合い花を咲かせた。

 

 そのうち、ふとセシリアが改まるように咳払いをすると、こんなことを言い始めた。

 

『チェルシー、明日は何か予定はありまして?』

「? いえ、ありませんが」

『では、今からわたくしが言うものを見てきてほしいのですわ』

 

 何かと思えば、どうやら仕事の件に関することらしい。自分の主人たるセシリアからの依頼とあれば快諾する他ない。

 

「分かりました。それで、何を見てくれば」

『それはですね、——————』

 

 

 

 

 

 

 

 

 以上がセシリアとの一部始終だ。

 

 率直な感想を述べると、かなり困惑した。

 まさかセシリアの口からその言葉が出てくるとは思いもしていなかったからだ。

 確かにチェルシーもそれについては知ってはいる。だが直接出向いたことは無かったしセシリアもその話をすることはしなかった。

 

 チェルシーが述懐しているうちに車は街中へと入る。往来は活気に満ち溢れ、一見するとイギリスではごくごく普通に見かけるような街だ。

 

「あれは……?」

 

 しかし、この町独自のある物が車窓から見えた時、チェルシーは目を丸くした。

 

「ほっほっほ。チェルシー様はこの街は初めてでしたかな?」

 

 と、運転手の男性が和かに微笑み、右手を指し示す。

 

「あれはウォーレンヒルと呼ばれる坂路コースです。他にもロングヒルコースやアルバハトリコースなどもありますよ」

「は、はぁ…………」

 

 その手の話題に詳しいのか、その後も運転手はあれこそ語ってくるが受け身たるチェルシーには未知の世界で終始ちんぷんかんぷん状態だった。

 

 目的の場所へ向かう途中の一本道からもオルコット邸があるロンドンではまずお目にかかれない建物や施設が其処彼処に建てられており、チェルシーはこの町が話に聞いていた通りの場所なのだと改めて思い知る。

 

 やがて目的地へ着いたのか車は駐車場で停車する。

 車から降りたチェルシーの前には『Clipper Main Stable』という看板が立てかけられた建物が鎮座している。

 車のエンジン音に気付いたのか、建物の玄関口から1人の男性がチェルシーの元へ歩いてきた。歳はおよそ30代後半、体躯が良さそうな男性で、左手には数冊のノートブックを携えている。

 

 チェルシーが恭しくお辞儀をすると、男も帽子をとり、見習うように頭を下げる。お辞儀を終えた男は帽子を被り、チェルシーと握手を交わす。

 

「初めましてチェルシーさん。お話はオーナーとオルコットさんから聞いています。馬の町、ニューマーケットへようこそ」

 

 そう言いながら笑うこの男こそ、今日チェルシーがロンドンから尋ねにきたダグラス・クリッパー調教師本人であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 イギリスの首都ロンドンから北北東へおよそ100キロ。ケンブリッジから車で30分。サフォーク州の端っこに位置する町、それがニューマーケットだ。

 このニューマーケット、実は世界的に見てもかなり有名な町である。一体何で有名なのかといえば、ズバリ競馬である。

 

 日本を始め、現在世界中で行われている競馬のルーツを辿っていくと自ずとイギリスに行き着く。そしてそのイギリスの競馬が生まれたのがここニューマーケットだ。

 故にニューマーケットは『競馬発祥の地』と呼ばれている。競馬場は勿論、博物館やショップ、ジョッキークラブと呼ばれるイギリスの競馬を統括する組織の拠点、そしてセリ場など、これでもかと言わんばかりに町中どこを見ても馬で溢れている。まさにサラブレッドの聖地と呼べる町なのだ。

 

 先程チェルシーが見た坂路コースはウォーレンヒルと呼ばれる競走馬を鍛えるための調教場。何千もの馬が日々ここでトレーニングに励んでおり、毎朝厩舎から道路を渡り調教場に向かう光景はニューマーケットの名物でもある。

 

 

 

 

「このニューマーケットに厩舎を構えたのは8年前のことです」

 

 ニューマーケットのことを始めとした簡単な説明を終えたクリッパーはコーヒーが淹れられたマグカップをチェルシーと自分の元へ置く。

 

「私が始めて競馬を見たのは7歳の頃、母さんと喧嘩して腹を立てた父親に連れられて見に行ったのが始まりです。確かドンカスターだったと思いますが、とにかく新鮮で魅了されていったのを覚えています。父さんは馬券が外れて大損していましたが」

 

 当時を振り返るクリッパーは懐かしげに語っていく。

 

「最初、私は騎手になろうと思っていました。体力には自信がありましたし、何より騎手はカッコいいですから。でもダメでした」

「何故ですか?」

 

 チェルシーが率直な疑問をぶつけると、クリッパーは苦笑し、頭のてっぺんに掌を置いた。

 

「身長の関係ですよ。それに減量もキツくて諦めました」

 

 騎手になるための身長の制約はないが、一般的に小柄な体格の方が向いていると言われる。騎手の宿命たる減量において有利に働くからで、身長が低い騎手が多いのはそれが理由だ。

 競馬を知らない人でも言っている名ジョッキー、武豊の弟で現役時代は177センチと騎手の中でも屈指の長身として知られた武幸四郎現調教師が、幼少期に身長が伸びるのを嫌い小さな箱の中に入って寝起きしていた。というエピソードがあるほど騎手にとって長身はハンデになりやすいのだ。

 

「だから私は次なる目標、調教師になるべく調教助手と呼ばれるスタッフになって日々勉強に明け暮れました。元々騎手候補だったので厩舎ではすぐ攻め馬ができる即戦力になれました」

 

 調教助手とはその名の通り追い切りなどの調教を担当するスタッフで、厩舎の屋台骨を支える重要な立ち位置にいる。

 

「最初働いていた調教師がレースに出走させる馬に禁止薬物を投与してドーピングをしてしまいまして、それが元でその先生は調教師を辞めて私は路頭に迷いかけました。そこを助けてくれたのがハーシェル先生でした」

 

 クリッパーが懐かしげに立てかけられた写真を見つめる。そこには1頭の馬をブラッシングするクリッパーと横から微笑みを浮かべる人物が、微笑んでいる人物こそクリッパーの言うハーシェル氏なのだとチェルシーは気付く。

 

 シェーン・ハーシェルは昨シーズンはリーディング2位、今期はリーディング5位と少し転落したがG1レースを25勝し、今年も4勝するなど世界的に有名な名伯楽である。

 

「先生は私のことを信頼してくれて、私もそれに応えていきました。丁度私が厩舎に来始めた頃から勝率も高くなって、気が付いたらリーディングでした。馬の質も上がっていってG1も勝てました」

 

 まさに破竹の勢いで勝ちまくるハーシェル厩舎での日々はクリッパーにとって何物にも変えられない宝となっていた。

 

「そんな時です。先生から「調教師にならないのか?」と言われました。実は内緒で準備は進めていたのですが、先生にはすっかりお見通しでした。その時に妻や先生、スタッフ達が背中を押してくれたお陰で私はここで厩舎を開くことが出来たのです」

 

 自分をここまで育ててくれた名門ハーシェルの名を汚さないために、クリッパーは並々ならぬ決意で話を締めた。

 

「すみません。つい自分語りを」

「とんでもありません。お陰で良い話を聞くことが出来ました」

 

 話も終えたところで、クリッパーは席を立つ。

 

「そろそろ厩舎の方へ案内します。こちらです」

 

 クリッパーの後をついていくと、寝藁を敷き詰める厩務員や曳き運動を行なう厩務員などの姿が見える。

 

「丁度乗り運動を終えた馬が帰ってきます」

 

 クリッパーが目を向けた先を見ると、10頭ほどの集団が歩きながら帰ってきた。それぞれ厩舎スタッフや厩舎の手伝いに来ている騎手が騎乗しており、馬が呼吸をするたびに息が白い霧になって消えていく。

 

 普段見れない壮観な光景にチェルシーが目を奪われていると、集団の中でも一際馬格が大きな馬が現れる。メンコと呼ばれる黒い覆面をつけており、漆黒とも呼べる黒鹿毛の馬体は素人のチェルシーから見ても凄みというか迫力を感じさせる。まさに彫刻のように完成された馬体の持ち主は、チェルシーの姿を見るなり静かに歩み寄ってきた。

 黒鹿毛の馬がすぐ目の前に立つと、その迫力に思わずチェルシーは圧倒されそうになった。

 

「ブランケットさん。この馬がコヨーテ、我が厩舎期待の2歳牝馬です」

「こ、この馬が、ですか…!?」

 

 チェルシーは目を丸くし、コヨーテと呼ばれた黒鹿毛の馬の顔を見やる。何を隠そうセシリアから見てきてほしいと頼まれたモノこそ、このコヨーテなのだ。

 

「コヨーテの父がナサニエルで母がファシェリテ。今年の4月に入厩して、9月のメイドン戦は惜しくも2着でした。生産牧場は……」

「グレイスフルファーム。我がオルコット家が代々所有する牧場です」

「その通りです」

 

 

 

 

 

 グレイスフルファーム。

 開場からおよそ120年の歴史を持つ名門牧場で、オルコット家が代々運営してきていることで知られている。

 セシリアから遡って4代前のオルコット家当主の時代、50年代が最盛期で、2000ギニーやオークスなどイギリスの大レースを次々と制するなど勢いに乗っていた。英オークスなどを勝利し最盛期を支えたエシールという牝馬の血脈が現在のグレイスフルファームの基礎を作っており、コヨーテもまたエシールの血を引く1頭である。

 

 しかし70〜80年代に入ると次第に勢いは失われていく。そして先代の時代、つまりセシリアの母が当主になった頃にはかつての名門としての栄光は既になかった。

 それでも細々と活躍馬は輩出していたが、その矢先にあの忌まわしい列車事故が起きた。亡くなった先代の跡を継いだのは一人娘のセシリア。

 偉大だった母の跡を継ぐ。それだけでも幼いセシリアには重すぎるのに、こんな落ち目の牧場の経営など出来るのか。出来るだけセシリアの負担を軽くするために手放した方がいいのでは?などの話も持ち上がり、一時期は競走馬生産事業から完全に撤退することも検討されていた。

 実際当時セシリアも牧場経営に目を向ける余裕はなく、ついにはオルコット家の関係者からも「グレイスフルファームは終わりだ」と囁かれるようになった。

 

 しかし1年前、ある転機が起きる。セシリアが経営者としての軌道に乗り、ISの適性検査でAを出したのと同時期、1人の男から1歳馬購買の打診が入った。

 男は日本人で、彼が買いたいと指名した馬は1歳牝馬ながら馬体は同じ時期の牝馬としては破格的に大きく、逆に巨体すぎてバイヤーから敬遠され、セリでも主取りと買い手がついていない馬だった。

 グレイスフルファームの牧場長であるニック・デイヴィスは購買希望価格を日本円にして2000万と掲示した。するとその日本人は目を輝かせながらこう言ってきた。

 

「2000万?安すぎる!この馬は3億出しても買いたい!」

 

 ニックは耳を疑った。他の馬主から目もつけられずセリで主取りになった馬に3億という額を突きつけるとは、ニックは思わず「アンタ頭大丈夫か?」と聞き返してしまったと言う。

 すると日本人は馬の背中を撫でながらニックに向かって笑いながらこう言った。

 

「私は至って平常だよ。平常だからこそこの馬に3億の価値があると言ってるんだ」

「でも、他の馬主には見向きもされなかったんですよ?」

「それはその馬主の相馬眼が無いだけ」

 

 日本人の熱意に押され、さすがに3億で購買成立とはならず7000万でその牝馬は購買された。

 この時7000万で買われた1歳牝馬こそ、今チェルシーの眼前にいるコヨーテで、コヨーテを買った日本人こそ鶴屋竜司の代理人としてイギリスに足を運んでいた緑葉ナツだったのだ。

 

 のちにこのことを知ったセシリアは感激より先に驚きが優った。そしてこの秋、コヨーテを買った日本人と同名の女性がIS学園に来訪し、セシリアがこのことを問うとその女性はあっさりその時の男と同一人物だと白状したという。

 緑葉がクワルスキーの実験に付き合わされ女体化したという事情をセシリアが図らずとも知ってしまったきっかけが回り回ってコヨーテに行き着くのだから、縁というのは不思議なものである。

 

「コヨーテを私のところへ預けるようオーナーへ具申したのも緑葉さんです。彼は私とスタッフ達の働きを痛く気に入り、ここなら愛馬を任せられると豪語してくれたのです。その証拠にオーナーの馬はコヨーテの他に3頭預けてくれましたが、どの馬も並外れた素質を持っています」

 

 改めてクリッパーの熱視線がコヨーテに注がれる。

 

「そして、こちらがルイス・リデル騎手。土曜のレースで手綱を取ってくれるよう頼んでいます」

「始めまして」

 

 ルイスと呼ばれた青年は馬上から降り、チェルシーへお辞儀をする。

 ルイス・リデルはデビュー4年の若手騎手で、ここまでの勝ち鞍は僅か50と他の同世代の騎手と比べてあまり奮っていない。重賞勝利はなく大レースでの騎乗経験もゼロ、現在はクリッパー厩舎を中心に他厩舎の手伝いに励んでいる。

 今度のレースでルイスを起用するよう言ったのも緑葉だ。元々コヨーテが入厩してきた時から調教を任されており、デビュー戦こそルイスに他場の先約があったため別の騎手が乗っていたが、今回はレースでも手綱を執ることになった。

 

「鶴屋さんやお嬢様から、コヨーテをよろしくと言伝を預かっています」

 

 チェルシーが微笑むと、ルイスは若者らしいはにかんだ笑顔を見せる。

 ルイスが馬上から降りたところへ1人の女性が駆け寄り、コヨーテのハミに手綱を引っ掛ける。ブロンドの髪が似合う若い女性だ。

 

「あっオーナーの関係者ですか?あの、私アンナ・ペールと言います!縁あってコーちゃんの担当厩務員に……ってコーちゃん!挨拶まだ終わってないのに引っ張らないで!」

 

 天覧爛漫な挨拶をするアンナを引きずるようにしながらコヨーテは歩き出す。アンナもアンナで手綱を引っ張って留まらせよう努力しているが馬力が違いすぎる以上コヨーテには無意味だ。

 

「厩務員さん、大変ですね…」

「あぁ見えてコヨーテはアンナとルイスに絶対の信頼を置いているんです」

「分かるのですか?」

「勿論です。それにコヨーテは非常に頭が良いんですよ、洗い場に餌が置いてある場所まで多分厩舎の作りは全部頭の中に入っていると思いますよ」

 

 この話はグレイスフルファームの人も言っていた。コヨーテはとにかく頭が良く、更にカリスマ的な存在だと。

 

「頭が良い、というのは理解できますが馬にもカリスマ性というのはあるのでしょうか」

「どうでしょう。ただコヨーテは入厩してきた時からオーラが違いました、今では年上馬でさえコヨーテには頭が上がってません」

 

 洗い場でアンナにブラッシングされるコヨーテを眺めながらクリッパーが笑う。

 

「それでも彼女は決して偉ぶったりせずドッシリと構えている。2歳の牝馬であんな落ち着き払った馬などそうはいません」

 

 馬の2歳は人間で言うと丁度中学生か高校生の辺り。馬も人もはしゃぎたい年頃、そう置き換えてみるとコヨーテの堂々とした佇まいは同世代の馬と比べてみてもかなり異質。

 

「クリッパー先生から見て、コヨーテはどれくらいやれると思っているのでしょうか」

 

 チェルシーの質問に、クリッパーは苦笑する。

 

「どれくらい、ですか…。そうですね、あえてコメントするとしたら【どこまでも】やれると確信しています」

 

 クリッパーは確固たる自信を持って言い切ってみせた。

 コヨーテならどんなレースでも勝てる。そのために必要なのがルイスの手綱捌きとクリッパーを始めとした厩舎の力なのだ。

 

「ありがとうございます。お嬢様にも良い返事ができそうです」

 

 クリッパーの言葉に深い感慨を感じながら、チェルシーは由緒正しきオルコット家のメイドらしく、恭しくこうべを垂れた。

 

 

 

 

 ブリティッシュ・チャンピオンズデー。

 2011年から毎年10月の中旬から下旬にイギリスのアスコット競馬場で行なわれる競馬の一大イベント。当日はメインレースのチャンピオンステークスを始め5つの重賞が施行され、うち4つがG1の格付けがなされている。

 

 ヨーロッパの競馬は平地競走と障害競走とシーズンが分けられており、大体4月から10月末までが平地、11月から4月半ばまでが障害競馬のシーズンとなっている。

 このブリティッシュチャンピオンズデーは欧州競馬平地シーズンのトリを担っており、名馬フランケルのラストランなどの名勝負が生まれ、毎年豪華なメンバーが集うことで知られている。

 

 調教師になって8年になるダグラス・クリッパーも、己の師であるシェーン・ハーシェルが手掛けた馬がこの大舞台を勝つ姿を何度も見てきた。いつかは自分もあそこへと静かに闘志を燃やす。

 だが今はその時ではない。まずは目の前のレースに集中しなくては。彼の眼は、漆黒の馬体を揺らす2歳牝馬を見据えていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ブリティッシュチャンピオンズデーの前日、クリッパーはヘイドックパーク競馬場に足を運んでいた。理由は勿論、今日ここでコヨーテが走るからだ。

 ヘイドックパークはイングランド北西部マージーサイド州に所在する競馬場で、短距離路線を担う重要競走G1スプリントカップや障害G1ベットフェアチェイスが施行されることなどで知られている。

 

 今日コヨーテが出走するのは芝1マイルのメイドン戦。先程ブックメーカーが掲示するオッズを見たら圧倒的な1番人気に支持されていた。

 パドックでの周回を終え、ルイスを乗せたコヨーテは馬場へと駆け出していく。

 

「クリッパーさん」

 

 コヨーテを見送ったクリッパーの元に、厚手のコートを羽織ったチェルシーが歩み寄る。

 

「チェルシーさん。今日はお忙しい中ありがとうございます」

「いえ、お気になさらず。それよりコヨーテは……」

「万全です。10頭立てと頭数も少ない。特に気をつけるべき馬もいないでしょうし、ここは勝ってもらわなくては」

 

 前走のデビュー戦は伏兵の逃げ切りを許す不覚をとった。しかし今日は油断も慢心も捨て去り、勝利だけを目指してキッチリ仕上げてきた。

 コヨーテにとってここは通過点。目指すべき頂きはもっと先にある。

 

「リデル騎手はなんと?」

 

 今日チェルシーはまだルイスには会っていない。聞くところによると今日の騎乗はコヨーテだけだという。

 

「僕が下手に乗らなければ勝てる、と言ってましたよ。正真正銘の一鞍入魂ですから少し緊張してましたから、一言だけ気負いすぎるなと伝えておきました」

 

 通常、騎手は調教師からの指示に従ってレースを組み立てることが多い。だがクリッパーはルイスに対し何の指示も出していない。

 

「彼がコヨーテを信じているように、コヨーテも彼を信じています。一歩コースに入れば後は彼と彼女の世界、そこに私やオーナーが口出しする資格は無いんです」

 

 コースに目を移せば、すでにゲート入りは始まっていた。クリッパーとチェルシーはスタンドに上がり双眼鏡を覗いてゲートがある方向を見る。560キロもある馬体はすぐに見つけることができた。

 ルイスが着ている鶴屋の馬主服は黒地に緑のクロス、袖にも緑色の一本線が入っているのが特徴だ。このデザインも緑葉が決めたらしい。

 

 コヨーテはルイスに促されてゲートに収まる。そして最後の1頭が収まり、スターターが旗を振り下ろした。

 

 前扉が開く。ガコン、という音と共にコヨーテ始め10頭の若駒がスタートを切った。出遅れた馬はいない、コヨーテも良いスタートを切っている。

 

「あっ!?」

 

 次の瞬間、双眼鏡で馬群を追っていたチェルシーが悲鳴を上げる。

 見れば好スタートを切ったはずのコヨーテの手綱をルイスが慌てて引っ張っている。手綱を抑えられたことによりスピードに乗れなかったコヨーテは馬群から5馬身ほど離される最後方まで後退してしまった。

 圧倒的人気馬に起きたアクシデントに場内からは溜め息まじりの悲鳴が起こる。

 スタートには何の問題も無かった。では一体何が起きたのか?

 

 実はスタート直後、コヨーテの右隣のゲートにいた馬が突然左側へ斜行。進路を塞がれたコヨーテは激突の危険を回避するために一瞬減速、それと同時にルイスも手綱を引いたため5馬身というロスに響いたのだ。

 

「だ、大丈夫なんですか?」

「多分大丈夫だとは思いますが…うーむ…」

 

 コヨーテがこのアクシデントで闘争心が萎える馬ではないことはクリッパーも知っている。むしろ更にやる気を引き出すのがコヨーテという馬だ。しかしまだ2歳牝馬、肝が座っているとはいえこの不利は痛い。

 

 レースが始まって200メートル付近。ルイスは馬群に取り付くのを諦め、シンガリでジッと脚を溜める作戦に切り替える。

 

 

 

 

(危なかった…)

 

 コヨーテの馬上にて、ルイスはホッと胸を撫で下ろした。

 レースに臨むにあたり、1番恐れていた事態が自身の落馬だった。隣の馬が斜行してきた時、ルイスは反応できていなかった。しかしルイスが反応するより先にコヨーテが回避行動を起こしてくれたお陰で、ルイスは落馬せずにロスも5馬身程度で済んだ。

 

(やっぱり君はすごいな)

 

 前方へ目を向ければ9頭ひと塊の状態でレースを進めている。レースもそろそろ中盤、マイル戦は1分30数秒の世界だ、このままうだうだしていたら前には届かない。普通の馬ならの話だが。

 

 大丈夫だ、だから自分を信じて乗れ。

 

 背中越しにコヨーテからこう激励を貰った気がしたルイスは人知れず馬上で微笑んだ。

 

 残り600。まだ動かない、然れども前をゆく馬群との差はきっちり5馬身を保つ。スタンドからはチェルシーとクリッパーが固唾を飲んで見守る。

 

 残り400。まだ動かない、馬群との差は変わらず5馬身。1頭、また1頭とスパートを合図するムチが入り騎手が激しく手綱をしごく。

 

 残り300。まだ動かない、バテて余力が無くなった馬が先頭集団から落伍していく。未だに手綱を持ったままのルイスに対し場内からは悲鳴交じりの野次が飛ぶ。

 

 残り260。ルイスが笑った。スパート開始を意味するムチが1発コヨーテに入れられる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その瞬間、コヨーテは飛んだ。

 

 

 

 

「えっ………」

 

 残り200。ルイスからの合図を機に豪脚を爆発させたコヨーテは一瞬にして馬群との差を縮め、2頭抜き去る。

 

 残り180。ルイスが手綱を目一杯前に押し込めばコヨーテは首を沈め、まるで地を這うようなフォームへ移行。瞬く間に5頭追い抜き、後は半馬身前の2頭を捉えるだけ。

 

「うわ…」

「なんて馬だ…」

 

 残り140。ついに先頭へ躍り出たコヨーテは後続を置き去りにする勢いでターフを疾駆する。

 

 残り100。十数秒前までは5馬身差のシンガリにいた馬がいつの間にか後続に8馬身もの大差をつけていた。

 ルイスは軽く追うだけだがコヨーテは更に末脚を伸ばす。場内からは歓声が上がり、チェルシーとクリッパーはそのあまりの強さに呆然とするばかりだった。

 

 ゴールイン。最終的に12馬身もの大差をつけたコヨーテは無事に初勝利を手にすることができた。想像を遥かに超える衝撃的な競馬に場内からはどよめきが上がる。

 

「お、おめでとうございます…」

「あ、ありがとうございます…。本当に大した馬ですよ…」

 

 お互い喜びよりも衝撃の方が感情のベクトルが上回っていたチェルシーとクリッパーの声は震えていた。

 コヨーテとルイスを迎えるためスタンドを降りる。先に引き上げてきた馬に乗っていた騎手は皆コヨーテに脱帽といった様子だ。

 

「やったーー!!先生、チェルシーさん!やりましたよー!!」

 

 クリッパーとチェルシーだけでなく道行く人に喜びを爆発させるアンナにクリッパーは無理もないと苦笑する。何せアンナにとってこの勝利が厩務員になってからの初勝利になのだ。

 

「おめでとうございます。アンナさん」

「はいっ!馬が頑張ってくれました!」

 

 3人で喜びを分かち合っているところにコヨーテが悠々と引き上げてきた。あれだけのパフォーマンスを発揮しながらすぐに息が整っているところが恐ろしい。

 

「ルイス、よくやったな!」

「すごいレースでしたね!」

 

 馬から降りて鞍を取り外すルイスにクリッパーとアンナが声をかける。

 

「今日勝てたのはコヨーテが不利に動じず走ってくれたおかげですよ。僕は何もしてません」

 

 高揚感で身を昂らせる2人と対照的にルイスは淡々とレースを振り返る。しかし表情は笑顔そのもの。

 

「いえ、あの状況で腹を括ったリデルさんのおかげです。その心意気にコヨーテが応えたように私は感じました」

 

 チェルシーからの心からの賛辞にルイスは謙虚な姿勢を崩さず、「ありがとうございます」と微笑んだ。

 鞍を外したリデルはクリッパーを伴って足早に検量室へ向かう。チェルシーは2人の背中から目を外しコヨーテを見上げる。レースを走った疲れを感じさせず、四肢を踏み込み堂々と歩く姿は超大物の貫禄に他ならない。

 

「あ、チェルシーさん。チェルシーさんも口取り入りますよね?」

「口取り?」

「記念写真のことですよ。よろしければ一緒に入りませんか?」

「でも私は馬主ではありませんが…」

「オーナー代理ということで話は通っているのでご心配なくっ」

 

 杞憂な心配をするチェルシーにアンナは親指を立ててサムズアップをしてみせる。そういうことなら断る理由はない。

 ウィナーズサークルにて、コヨーテを挟んで左側にチェルシーとアンナ、右側にルイスとクリッパーが収まる。4人が笑顔を浮かべたところで、シャッターが切られた。

 

 

 

 

 翌日朝、場所は変わって日本のIS学園。

 今日も食堂では生徒達が朝ご飯を食べながら朝の団欒とした時間を過ごしている。

 その中でも一際上機嫌な笑顔を浮かべている人物がいた。誰あろう、緑葉である。

 なんで朝っぱらからあんなに機嫌が良いのか周囲が不思議がっている時、朝食をトレーに乗せたセシリアが緑葉に近づいてきた。

 

「おはようございます緑葉さん。昨日はおめでとうございます」

「あぁセシリアさん!いやぁありがとう!」

 

 緑葉は席から立ち上がり、満面の笑顔でセシリアと握手を交わす。緑葉は昨晩コヨーテのレースをネット中継で観戦しており、勝った時には防音設備が万全なはずなのに隣の部屋まで緑葉の狂喜乱舞する声が聞こえたほどである。

 

「わたくしもつい先程チェルシーから電話を頂きました。いつもは冷静なチェルシーがいつになく興奮しながら話してきたので驚きましたわ」

 

 電話口でのチェルシーはあくまで平静を装った落ち着いた口調で話しつつも、ところどころで声が弾んでいた。普段から姉のように慕っているセシリアでさえ、そんな様子のチェルシーは記憶になかった。

 レース映像は観れていないが、とにかく凄かったというのはチェルシーや緑葉の様子からすぐに分かった。

 コヨーテの話も一通り区切ったタイミングで緑葉は次の話題を切り出す。

 

「それで、どう?共有馬主の話、考えてくれた?」

 

 緑葉が学園に来てから暫く経ったある日、セシリアは緑葉から鶴屋とイギリスで共有馬主にならないか、という誘いを受けた。

 共有馬主というのはその名の通り1頭の馬を複数人の馬主で所有すること。緑葉は学園に来た当初からセシリアへ目にかけており、所有権を半分ずつ持つ【半持ち】での形で交渉を持ちかけていた。

 その際共同で所有する予定で名が挙がったのは鶴屋がクリッパー厩舎に預託している現2歳世代の4頭。その中には昨日勝ち上がったコヨーテの名前も記載されている。

 コヨーテを始め、他の3頭も決して悪い馬ではない。しかしセシリアとも申し訳無さそうに首を振った。

 

「すみません。もう少し考える時間を頂いてもよろしいでしょうか」

 

 緑葉は残念そうに肩をすくめる。

 

「そっかぁ、コヨーテ勝ったし今ならオーケー出ると思ったなぁ」

「必ず良い返事を返すつもりですので、その時まで楽しみにしていてくださいな」

「伸ばすねえ。でも確かに今から持ってもただ金落とすだけだもんね」

 

 この後すぐにヨーロッパの平地競走はオフシーズンに入る。そうなるとコヨーテが出るレースは無くなり自ずと休養に入ることになるため、今このタイミングで所有してもメリットはない。

 それにこのぶんなら来年にはセシリアが言う『良い返事』は貰えそうだ。遅くても来年の春まで気長に待つとしよう。

 

「コヨーテはこの後どうするのですか?」

「まずは先生と相談してからになるけど、寒いイギリスよりは暖かいドバイで越冬させようって話が持ち上がってる。そうなったら恐らくゴドルフィンの馬と一緒にドバイへ移動になるかな。もうあっちの陣営とは馬房を1つ借りれないか交渉してるのよ。交渉成立したらドバイで越冬、出来なかったらそのままイギリスに留まることになるかなー」

 

 ゴドルフィン。ドバイ首長であるシェイク・モハメド殿下が代表を務める世界トップクラスの大馬主で、ロイヤルブルーの勝負服は世界中の競馬ファンを虜にしていると言っていい。

 イギリスを拠点に走るゴドルフィンの馬は冬季にはドバイで育成・調教を行うことになっており、今回はコヨーテも彼らと共にドバイへ渡る手筈になっている。

 

 緑葉の話は止まりそうにないが、まだ朝食を食べていないセシリアはこの辺りでお暇させてもらうことにした。

 セシリアと別れた後、席に座った緑葉は自身の携帯に送られてきた口取り写真を眺めながら微笑みを浮かべる。

 

(コヨーテ、どんな馬になるかなぁ)

 

 この勝利を受けて、来春に行なわれる英1000ギニーとオークスの前売りオッズにてコヨーテの評価が急上昇。あるブックメーカーではオークスでの前売りオッズが4/1の1番人気になったという。

 コヨーテの旅路はまだ始まったばかり。これからどんな競走馬生活を辿っていくのか、緑葉は静かに思いを馳せた。

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