翌31日の朝、またまた眠い目をこすりながら祖父のいれてくれたコーヒーに口を付けた。昨夜の撮影で寝不足と言うと叱られるので口にしない。当たり前だよね。
それに眠気と裏腹に心は浮いていた。今夜の現像が楽しみだからだ。いつものように練習上がりの佐伯さんと談笑し、階段を登った。
「あれ? 今の……遠坂さんだよね?」
「うん。雰囲気が違ったね。何かあるのかな?」
何かを決意した。そんな顔だった。
教室に入り席につく。カバンから教科書を出していると予鈴が鳴ってHRが始まった。そこへ廊下から声が聞こえた。
『だ~! チャイム鳴っちまったぞ、由紀っちが遅いから』
『責めるな、蒔の字。由紀香には由紀香の仕事があるのだ』
『ごめんネ、蒔ちゃん。部室の戸締まりがあったから』
『それはわかってる。責めてんじゃなくてグチだ』
またあの子たちか。
『あなたたち! 本鈴が鳴るから早く教室に入りなさい!』
C組のトラが吠えた。間に挟まったB組は本当にいい迷惑だ。だけどあの三人、というかクチの悪い蒔寺さんも、ああ見えて根はとても素直な人だ。きっと藤村先生に叱られてシュンとしている事だろう。そんなときのあの子の顔は、とてもフォトジェニックだ。
2限目を終えた私は一目散に教室を出た。このティーブレイクで、お手洗いと眠気覚ましのコーヒーゲット、そして食堂の食券を手に入れなければならないからだ。というのも、本日4限目は体育なのだ。先に食券を買っておかないと、定食が売り切れる。それは学生にとって切実な問題だった。
当初の目的を果たし、無事3限目を終えれば、A組の女子がわらわらと入って来た。
「ほらほら、男子! 早くAの教室に行け!」
蒔寺さんに追い立てられ男子が出て行った。彼女は全方位に敵を作っていくタイプだな。そしてカーテンが閉められた教室で、私たち女子が体操服に着替える。
この時私の前で着替えるのは決まって遠坂さんだ。これは春からずっとだ。このB組は珍しく学期ごとの席替えが無かった。なので私が彼女の目印なのかそこは知らないけれど、どうやら遠坂さんは一度決めた場所は替えたくないタイプらしかった。
でもこれは彼女の体臭もあると思う。一番香りのきついパヒュームだと無理があるので、オードパルファンやオードトワレを愛用しているっぽい。そのような香水で誤魔化しているが、彼女からは薬品のような香りが微かにするのだ。暗室のあの香りとも少し違う。私も女の子なので自分の体臭には気を配っている。だからこそ気付いていても言わないし指摘しない。そこはお互い様だ。だけど遠坂さんはそういう薬品を使う何かをしている人なのは間違いない。
そして必ず私の真後ろで着替えるのが沙条綾香さんだ。遠坂さんとはまたタイプが違うが、彼女はメガネ美人だ。そして信じられない大食い。特にお好み焼きが大好きらしく、文化祭では弓道部が出店していたお好み焼きの屋台で、全メニューを制覇したという。
それをずっと焼いていたのが衛宮君だ。退部した人にやらせるのかと呆れたものだ。案の定間桐君がかなり怒っていたと聞いた。これは間桐君が正しい。だけど自分は手伝わない。そこで手伝うどころか、代わって軽々お好み焼きを焼ければイケてるのになぁ。そしてその衛宮君の横でドレスを着て突っ立っていたのが間桐さんだ。
文化祭のミスコンにエントリーしたのだが、蒔寺さんとタイアップした振り袖の遠坂さんに惨敗した。あの子や衛宮君って薄幸な印象がある。写真に撮ると露出は合っているに、アンダーに見えるのだ。
ともあれ、この沙条さんは印象こそ薄いが匂い立つ女性だ。それも青臭いというか青汁臭い。彼女は薬草やハーブに詳しいのでよく山に入ったりする。その移り香が残っているのだろうと話してくれた事がある。遠坂さんほど秘密主義ではないし、無理に自分を演じているのでもない。真剣なときは怖いくらいで、気を抜いているときはドジばっかり。自然体が彼女の持ち味だ。
そんな仲間とグラウンドに出た。冬の体育はランニングが多い。今日もえっちらおっちらトラックを走った。沙条さんと三枝さんは足が遅い。けれど遠坂さんと蒔寺さんは変わらない。私は氷室さんとどっこいだ。
汗もかいたが、ふくらはぎが痛い。運動不足だなぁ。持参した消炎鎮痛スプレーを一吹きして、アトマイザーに少量移したコロンを振り掛けてから制服に着替えた。
『三田村さん、いい香りね?』
『ええ、調香師の叔母に戴いたんですよ。私の名前は『きょうこ』ですけど、このコロンは同じ字で『あんず』という名前らしいです』
『特製なの?』
『はい。叔母が薬品臭い私にって』
『へぇ~』
これがたぶん遠坂さんとの初めての会話だ。1年の時も隣のクラスで体育が一緒だったのだ。この時に確か写真部だと話したと思う。そして私も鼻がよかった。だから遠坂さんの香りにすぐに気付いたのだ。
いつもなら何かないかと校内をウロウロするところだけれど、本日はまっすぐ家に帰った。昨日の現像をしたかったのだ。 私服に着替えたらそそくさとエプロンを掛け、ダークバックにピッカーでベロ出ししたパトローネと、リールやタンクを押し込んだ。
愛用のタンクはL○Lのステンレス製35mm2本タイプだ。120(ブローニー)なら1本となる。暗室には同じメーカーやマ○コというメーカーのステンレス製現像タンクが他にいくつもあって、その内私のが35mm1本用が2個に2本用が4個、そして4本用が2個だ。
私は慣れない頃、撹拌によく失敗したので、この4本用が苦手だ。お父さんやお祖父ちゃんは乳剤面を外にして、フィルム2本を背中合わせでリールに巻くなんて荒業を使う。こうすると4本用で8本も現像できるのだ。タンク2個だと16本だ。これのメリットは現像液の消費量と時間が削減できるところだ。
部長としては覚えたい技術ではあるけれど、失敗したらせっかく撮影した労力がパーだし、今どき誰も自家現像をしなくなった。二人の1年生部員にも教えてあげたけれど、一人はデジカメのKissを買ったし、もう一人もフィルムのKissⅢでのカラー撮影が多い。そこもあって今度の写真展応募に燃えているのだ。勿論狙うは白黒部門の金賞だ。
学園の場合、写真部は新聞部の一部門みたいなものだし、生徒会から依頼される記録撮影も多いので、部員が一人でも廃部にならない。けれど3年になったら新1年生を二人は入れたいところだ。
そんな事を考えながらガチャガチャと現像タンクを振る。私はD-76でなくスーパープロドール派だ。液温は若干低く18度。それを9分で、ISO3200相当に増感現像だ。前浴、現像、停止、定着、予備水洗、迅速洗浄液、本水洗、水切り浴、リール巻きから乾燥まで約2時間。これ以上は早くならないなぁ。
暗室の天井近くにフックがあるので、そこにフイルムを吊って乾燥させる。フィルムチェックは明日だけれど、パッと見た感じは悪くない。星の光跡が綺麗に写っている。
ただし、背景は暗い夜空なのでどのコマも素抜けにしか見えない。慣れない人が見ればギョッとするだろう。
日付も月も代わった2月1日。休み時間に廊下で休憩していると、蒔寺さんたちの会話が耳に入った。
「今日、遠坂休みなんだな?」
「ネ? どうしたんだろう?」
「風邪ではないか?」
ふ~ん、遠坂さんは休みなんだ。正解かも。今朝からどうも学園が『臭い(くさい)』から。佐伯さんは気付かなかったけれど、私にはわかった。
何ていうんだろう。甘い香り。美味しそうなそれでなく、直感的に毒を含むと思ってしまう身体に悪そうな香りだ。だから『匂い(におい)』でなく『臭い(におい)』。イメージとしてはウツボカズラの壺の中の蜜。あんな感じ。
そんな悪い印象だったので、佐伯さんとの会話でも勘違いで済ませたのだ。
休み時間にお手洗いに向かうと、美綴さんと沙条さんがいた。軽くお辞儀をすれば、沙条さんが何かを言いたげな気がした。結局その日、何も話しかけて来なかったから気のせいかも。
何てことのない一日を終えてバスを降りると、遠坂さんが歩いていた。誰もそばに居ないのに、誰かと会話しているかのような独り言を話していた。勿論私は会わないように物陰に隠れた。
熱にうかされて夢遊病みたいに街中を徘徊している? そんな風には見えなかった。明らかに遠坂さんは見えない誰かを案内するかのように、目的を持って歩き会話をしていた。気になったのでポケットからμ-Ⅱを取り出して撮影した。遠いけれど一種のクセだ。
家に帰ると早速乾燥したフィルムを、6コマずつにカットしてネガシートに収めた。ライトボックスの上でフィルムチェックだ。
「あれ? 何これ?」
数コマゴミのようなものが写っているのだ。でもゴミじゃない。現像ムラでも乾燥ムラでもない。
特に気になるコマをキャリアに挟んで電灯を落として焼いてみた。薬品はフタ付きのバットで保管しているので、1~2周間に一回のペースでしか作らない。なのでこうやってすぐに焼き付けできる。ここがお祖父ちゃんの家の便利なところだ。
「杏子、帰っとるのか?」
「は~い、今暗室」
「ああ、昨日の。試し焼きか。どうだ?」
「ちょっと待って。変なのが写っているの。定着に入れたら開けるから」
それで定着液に浸けてから、印画紙を密封して暗室のドアを開けた。
「これ、何だろう?」
それは夜空に流れる光のスジだった。
新都から円蔵山に向かって流れる星のような平行な軌跡でなく、新都から柳洞寺に収斂している感じだ。
「まさか初の心霊写真?」
「増感現像をしたのか?」
「うん。現像ムラかな?」
「いや、何かが写っとるんだ。それは間違いない。肉眼では見えんが、僅かながらフィルムが感じ取れるもの……」
「れ、霊魂?」
「それはないだろう。けどな、杏子。些細な事でもよく観察しなさい。そこには必ず理由がある」
理由か。それはあると思う。問題はそれが何なのかだ。
「そして、いくら興味が湧いても追い掛けてはならんものもある」
追い掛けてはいけないもの?
「そうだ。それでなくともこの冬木は不思議なことが多いからな」
「不思議なことって? 10年前の大火事みたいな?」
「火事はたいがい人災だよ。あれも市民会館の漏電が原因と言われとる。だがな……」
そう言ってお祖父ちゃんは、暗室の作業机の上にある棚からポートフォリオを取り出した。
「お前も高校生だ。そろそろ良いだろう。これなんだが、絶対の秘密だぞ?」
私はうんと頷いた。それは六切の白黒写真だった。その写真には燃える街の空の上に、夜空より真っ黒な丸い穴が空いていて、そこからコールタールのようなものが垂れているのが写っていた。
「何、これ?」
思わず見たお祖父ちゃんの横顔は、怖いくらい真剣な顔だった。
「10年前に起こった大火事の真の原因だ。こんなもの誰も信じやしない。だから息子の恭司にも話していない。あいつは記者だからな。別口である程度の事は調べていたようだ。だけど上から箝口令が敷かれ、記事にストップが掛かった」
「え?」
「その頃色々あったんだよ。つまり何かがあった。そして、それを秘密にしたい者が居たという事だ。それも報道機関や警察に消防などを抑えられる何者かが。そこで私なりにあれこれ調べた。それでわかった。この冬木では約60年ごとにこういう災害が起きている」
60年ごと……?
「どうやって調べたの?」
「最初は新聞の縮刷版を図書館でな。それで70年前の2月にも起きている事に気付いたんだよ。この時は何棟か家屋が倒壊していた。それも線を引いたかのように真っ直ぐに」
「真っ直ぐ?」
「うむ。台風でも突風でもない。被害が真っ直ぐ一直線なんだ。それで変だと気付いた。杏子にわかりやすく言うと、あれだ……亀何とかってあれ。あれを真横に放ったような感じだな」
かめ○め波か。なるほど。
「つまり……そういうわけのわかんない奴らが本当にいて、バトルしている?」
「いや、怪現象イコールバトルとは言えんだろう? それだと、そんなことができる超人が存在する前提になってしまう」
「そっか、そうだよね」
「そう、そうやって冷静な部分を、常に頭に置きながら考えるんだ。その後は神社やお寺で取材した。ああいうところにもそれなりの資料が残っていたりするからね。それで60年ごとという周期に気付いたんだよ」
ああ、なるほど。
「そして200年程前から始まっていて、10年前で4回目だというのもわかった」
「4回目……」
「うむ。それでだ」
お祖父ちゃんはそこで一旦言葉を切った。こちらの呼吸を整えさせるためだと気付いた。
「これを見てごらん」
え? 特撮? そこには信じられないモノが写っていた。それはどう見ても怪獣だったのだ。
「勿論写真は見せておらんが、恭司は苦い顔で集団幻覚と言っとった。そしてこれだ」
今度は西欧の鎧に身を包んだ外国人の女の子だ。そしてその子は、とても大きな白い剣を握っていた。白黒なので本当の色はわからないけど、光っているのだろう。これだと本当に特撮だ。
でも怪獣のスケールはわかる。写っている人影から見てもビルの7~8階分はある。何本もの触手に覆われた不気味な姿。それはとてもリアルで……。
「その黄金の剣から光が出て、怪獣をやっつけたんだ。さっきも言ったように新聞によると集団幻覚だったとされている」
「じゃ、お父さんがお祖父ちゃんに話した箝口令ってこれのこと?」
「だろうな」
「お祖父ちゃん、この女の子が怪獣を倒したんだよね?」
「うむ。撮ったのは新都側の堤防の上からだった。その女の子以外にもっと色白な女性と黒髪の少年、それと2mはありそうな大男と2本の槍を持った男がいた。全員外国人だ。その大男と黒髪の少年は二頭の牛が引く、二輪のローマ風な戦車に乗って空を飛んでいた」
「まさか~」
「な、まさかだろ? けれど写真はこうして残っている」
河川敷に集う、鎧女の子と、色白な女性に少年。そして大男と槍を持った男性。別の写真には、怪獣のそばを本当に牛が引く戦車が飛んでいるのが写っていた。乗っているのは大男と少年、そして槍の男だ。少女は川の水の上を走っている……?
「その怪獣退治に自衛隊の戦闘機も来ていたんだが、やられて墜落した。それも新聞に載っていない。私はこういうときのカンが鋭くてな。撮るだけ撮ったら一目散に逃げたんだよ。それもあちこち迂回して。ま、これはヤバイなと気付かせてくれたのはこの男のお陰だ」
それはライフルを構えてこちら側を狙っている男性だった。
「それを撮った瞬間に10mほど横にいた若い男性が撃たれたんだ。それで慌てて堤防の下に逃げたんだよ。けれど怪獣は堤防下からでも撮れた。それくらい大きかった。最初から話すと退職して暇を持て余していた私は、清水の舞台から飛び降りる気持ちでAIニッ○ール400mmのF3.5Sを買ったんだ。それが嬉しくて、日も暮れようというのに堤防へ出向いたんだな。そこに突如怪獣が現れ、その五人が集い、怪獣の周りを牛の戦車が飛んで、水面を少女が走り自衛隊の戦闘機が2機飛んで来た」
話だけなら気が触れたのかと思うような内容だ。だけど写真はここにある。これは本当の事なのだ。
「そして、怪獣がしばらく消えた」
「消えた?」
「うむ。時間としたら10分ほどかな? だから最初は幻覚と私も思った。というか思いたかった。だが怪獣は再び現れた。そのときに同じ堤防の上に居た茶髪の男が撃たれたんだ。最初は腹で、次が頭だった。だから堤防の向こうへ逃げた。けれど水面の上を走っていた少女が気になった。本当に水の上を走っていたんだ。そしてその子は何も武器を持っていなかった。それで恐る恐る堤防に這いながら上り、匍匐しながら河川敷が見えるところまで行った。そこで少女の持っていたそれが黄金の剣だったとわかったんだよ。それにその写真も変だろう?」
黄金の剣……。
「ヘン?」
「露出だよ。夜なんだよ? 幾ら400mmのF3.5でも、ここまで明るくは写らないだろう? けれどそれはその剣が光り輝いていたからなんだ。それで綺麗に写ったんだよ。仕事を退職していて良かったよ。プロから退いたアマチュアの自家現像だ。だから誰も咎めなかったし、誰からも妙な圧力を受けなかった。何より現場から速効で逃げたのが功を奏したんだろうなぁ」
もう、私はパニック寸前だった。本当にこんな特撮みたいなことがあったんだ……?
「だから杏子。お前の撮った写真は、何が写っているのか私にもわからない。けれどそれは誰にも話しちゃいけないよ。気になるなら調べても良いが、危険な香りがする。だから誰にも……。それに私は、その繰り返される何かが今度は早く始まった、その徴候なような気がする」
私もそう思ったのだ。だからパニック……ううん、怖かったんだ。この冬木で何かが起きていた。それも60年ごとに。そしてそれが今回も……?
「杏子、危ないと思ったら、とにかく逃げなさい」
お祖父ちゃんはそう言った。私は川の上で光り輝く剣を高らかに掲げる、少女のプリントをもう一度見た。それは凛々しく荘厳で……。
キャスターのあれが写ったのはフィクションです。
オルソクロマチックとパンクロマチックの違いや、赤外線フィルムなどを考えましたが無理があるのでゴリ押しです。
ですがあの輝く聖剣は、腕に自信があれば撮れます。