絶望の世界と天使の時間   作:Tutu-sh

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灰に覆われた都市

灰色の大気の下に広がる世界。かつて栄華を誇った人類の文明社会は、大変動を繰り返した地表の上でかろうじて原形を留めていた。外界と内部を隔絶していた壁は全て埃と泥に塗れ、数百年にも等しい時の中で色褪せていた。地面を覆っていたはずの固いアスファルトは粉末と化し、この粉さえ目を凝らさなくては観察できないほどに草が繁茂している。かろうじて道路のコーティングが塊を維持している場所でも、その塊の間隙を縫って巨木が聳えている。煤けたビル街は各所が崩落し、塗装の剥げた壁の中に割れた窓ガラスが寂しく残されていた。何台もの乗用車が放置され、どれもが草むらの中に黒ずんで沈んでいる。

遥か彼方を鳥の群れが飛んでいる以外に、動く物の姿は見られない。何もかもが死滅した世界のように感じられる。通話をしながら出勤する人の声も、車を警戒して吠える犬の声も、横断可能を知らせる信号機の音もしない。地に倒れた街灯に光が灯ることはなく、茂みに隠れた時計の針が振れることもない。時間の止まった世界には静寂が訪れていた。

 

その静寂を破り、軍靴の音が響く。余裕のあるような歩みの音ではない。何かに追われ、焦燥に駆られた足音。迷彩服に身を包んだ十数人の男が、血相を変えて崩壊したビル街を走り抜ける。この時代に迷い込んだわけではない、現代から計画的に投入されたフル装備の兵士。この時代の調査と物体の回収のために送り込まれたプロの戦力が、今、この時代の何者かにより圧倒的な劣勢に立たされていた。

「追って来ているか!?」

先頭近くを走る男が、隣を走る男に問う。問いかけを受けた男は咄嗟に振り返るが、そのまま走ることをやめはしなかった。

「……来ています!5頭、いえ6頭!」

汗を滴らせて息を切らせる集団の背後数十メートルの距離に、何者かがいた。地面にではない。人類が生活を営んでいた建造物の壁面。姿は人間に似ているが、全く異なる存在であることは誰が見ても一目瞭然だった。人間には決して再現のできない滑らかな動きで、軍服の集団に向かって壁の上を移動している。その速度は圧倒的であり、全速力で走る部隊との距離はみるみるうちに縮まってゆくのが分かる。

「──クソォッ!」

「駄目です!撃たないで──」

部下が静止に動いたときには、男は携えていた自動小銃を既に後方の黒い“影”へ向けていた。火薬の燃焼が起き、連続した銃声が響く。鉛玉は軸回転しながら“影”の脳天に迫るが、 “影”は身をよじって銃弾の軌道を回避した。標的を外した銃弾は建物の壁を削って火花とともに砂煙を立てる。その煙を遥か背後に放逐した“影”は臆することなく、だが前方からの更なる攻撃に対応するかのように、縦横無尽に壁面や屋上を疾風の如く駆け抜ける。少なくともこの距離では最早銃は通用しない。銃口の向きから弾道を予測する、まるで未来を見透かすかのような知性。“影”の集団は人類の持つ対抗策の能力を学習した。

「チッ」

「だから銃は駄目ですって!あいつらは音に敏感なのですから──」

「だが撃たなければさらに距離を詰められていた!それはもう終わりだろうが!」

いち早く無駄を悟り、“影”に背を向けて依然逃走する部隊。かつて自動車が幅を利かせていたであろう交差点を曲がり、逃走経路にせめてもの変更を加える。“影”の集団を撒くことができれば皆諸手を上げて歓喜しようというところだが、“影”は猛スピードで頭上を飛び回り、無情にも彼らの背後数メートルの距離まで迫っていた。

「ああああああ!」

最後尾を走っていた隊員の服が掴まれ、人智を超えた力で後ろへ放り投げられる。部隊の全員が思わず振り向く。地面を跳ねて転げ回り、口に入った砂利を吐き出すと同時に、“影”の一体が踊りかかった。鍛え上げた熟練の兵士の腕力をもってしても全く歯が立たないまま、喉笛を喰い千切られる。溢れる血液に膨大な気泡が混ざる音を立てながら、断末魔とも呼べないようなノイズが発される。

鮮血の飛沫が宙を舞うころには、部隊の後方に居た兵士たちは皆小銃の引き金に指をかけていた。時空の亀裂を越えて遥々この魔境へ足を踏み入れた兵たるもの、致命傷とそうでない負傷の区別など一瞬で見抜ける。“影”の集団に捕らわれた同胞に手の施しようがないことはその場の全員が痛感していた。ではどうするか。絶対防衛ラインは己の命。他の隊員が何人犠牲になろうとも、自らの命だけは守って文明社会へ帰還しなくてはならない。自らの心の中に巣食う恐怖心を押し殺し、同胞の体もろとも“影”を一匹残らず一斉掃射で蜂の巣にする気でいた。

だがその目論見は実現しなかった。

理由は既に一人の兵士が口にしていた。

『あいつらは音に敏感』。彼は隊長が後方へ発砲したことに対してこう言ったが、確かにそこに間違いはなかった。あの銃声を聞きつけ、今まさに狂乱の宴へ混ざらんとする“影”もいるだろう。だが彼の見通しは甘かった。逃げ惑う軍靴の音、不安を漏らす兵士の呟き、荒い呼吸音、激増する心拍。これらの全ての音が、“影”には筒抜けだった。あの場で発砲する・しないを問わず、彼らは既に“影”の掌の上で踊らされていたのだ。言わゆる詰みの状況。そして彼らはできるはずもない攪乱を狙って道を曲がり、袋小路──否、自らの墓場へ追い込まれてしまった。

今、彼らの周囲360°を“影”が取り囲んでいた。

銃を構えていた兵士が一人、上へ釣り上げられる。突然の体が勢いよく突き上げられる感覚に、思わず明後日の方向へ銃弾を放つ。薬莢が悲しく飛び散り、音もなく草むらへ吸い込まれる。銃を乱射しながら手足を振るうも、叫び声とともにビル街の闇の中へ引きずり込まれた。それに驚く兵士たちが、同様にろくな抵抗もできないまま次々に餌食になる。軍で培った強靭な精神力に限界が訪れ、留め金の壊れた爆発的な恐怖心が秒速で膨れ上がる。最早兵士たちには屈強なレンジャーとしての尊厳は失われ、絶対的な優位種の前に逃げ惑う様は子羊も同然だった。“影”が上から、横から、後ろから、哀れな獲物を狩り続ける。銃声、叫び声、母親への助けを求める慟哭をバックグラウンドにして。

命を絶たれる寸前、ようやく兵士たちは“影”の姿を拝むことができた。姿は霊長類に似るが、体格は遥かに上回る。直立すれば3メートル近くあるであろうその巨体。一方で肉体は引き締まっており、一般的に猛獣という単語で想像される重量感のある動物たちとは一線を画する。翼手目から進化した生物と聞かされてはいたが、コウモリから一体どのような歴史を辿ればこのような進化が可能なのか。この細い腕で人間を片腕で軽々と持ち上げる力をいかにして発揮するのか。そのような疑問を思考の片隅にでも浮かべた兵士はおそらくいないだろうが。顔は不気味としか形容しようがなく、それが一層兵士の恐怖心を駆り立て、冷静な判断を不能に追い込んでいた。歪に並んだ細かい牙はまさに悪魔を想起させた。地獄と化した文明の残骸を網膜に映しながら、兵士たちは壮絶な苦痛の中で事切れていった。

 

多くの兵士の魂が天へ旅立った地点からそう遠くない場所で、轟音が響いていた。“影”──否、コウモリたちが執拗に扉を殴りつけている。扉は重厚な鋼鉄の塊でできているらしく、人間の体をいともたやすく破壊する捕食者といえど、抉じ開けるのは困難を極めるようだ。扉はコウモリから浴びせられた打撃による無数の傷や凹みを帯びているが、コウモリに由来しない痕跡もわずかに残されていた。指紋、そして泥のついた靴跡。人間がこの扉を通過したことを意味している。そして扉へ繋がる道の上には、コウモリに貪られる兵士の遺体のほか、薬莢が無造作に転がり、飛び散った血が砂に混じって濁りきっていた。部隊の先頭にいた兵士たちが、何名かの命を散らしながらもある建造物の中に身を隠したのだった。

外から殴打する音が腹に響くのを感じながら、中に逃げ込んだ兵士たちは息をついていた。

「フウ……危なかった」

飲料を喉に流し込むと、隊長はボトルのフタを締めて口を開いた。

「隊長……ここに奴らはいないのですか?」

「おそらくは安全だ。油断は禁物だが、外ほど気を張る必要もないだろう」

「しかし我々が外を逃亡しなければならなかったのは、偏に屋内でもあの生物が巣をなしていたからで──」

「ああ。普通の建築なら恰好の巣になるだろうさ。外の車だってそうだった。風雨を凌ぎたいのは人も奴らも同じだな。……だがここだけは違う。この建物だけはな」

部下たちの指摘をさも事前に把握していたかのように、隊長はすらすらと答えてボトルを装備に仕舞い込む。彼にとってよほど想定内の発言だったのだろう。部下たちはその平然とした受け答えと、そして今居るこの建造物への圧倒的信頼を疑問に感じた。数舜のざわめきの末に、一人の隊員が問う。

「それほど自信がおありなのですね」

「自信じゃあない。自分への信頼ではないからな。俺が信じているのはこの建物──いや、この建物を管理していた組織のことだ」

「……軍ではないのですか?内務省?」

隊長は眼を閉じ、黙って首を横へ振る。

「お前達も聞いたことがあるはずだ。この建物の所在地はカナリー・ワーフ。名称はワン・カナダ・スクエア。この時代ではどうか知らないが、我が国で最も高くそびえる高層ビルだ」

「高層ビルだから……なのですか?理由は?」

「いいや違う。この施設を管理・運営していた組織は存在を隠匿されていた。一般市民でこの名を耳にする者はまずいないだろう。警察や軍、政府では多いかもしれないが……それでもこの組織の全容どころか、業務内容の一部でさえも知りえないはずだ」

「一体何という組織なのですか?」

「俺もかつて、1年前まではこの組織に籍を置いていた。組織の名は──『トーチウッド』」

 

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