碧落のマリーゴールド 作:雨魂
幸せが不幸に、不幸が幸せに転じることがあるので、出来事にたいして一喜一憂しないほうがいいというたとえ。
◇
カラン、とジャスミンティーが入っている白いティーポットの中で氷が音を鳴らす。それ以外の音は何も無い。よほど厚い壁とガラスなのか、部屋の外からは静寂だけが運ばれてくる。そのおかげで自分の心臓が強く鼓動している事がよく感じ取れた。自分の正体が分からなくとも、ボクはたしかに生き物としてこの世界に存在しているらしい。
「…………メイド?」
「イエス。引き受けてくれるのなら、あなたの身はこのホテル・オハラが保証するわ。記憶が戻るまでのあいだ、っていう縛りを付けるけど、どう?」
「保証するって、具体的には?」
「あなたが自分の事を思い出すまで、私の専属メイドとして住み込みで働いてもらうの。そうすればメンドーな事はたいていどうにかなりマース」
「……それは本気で言ってるのかな?」
「ホンキもホンキ。本気と書かなくてもマジよ」
よく分からない事を言う鞠莉さんの顔は言葉通り冗談を言っているようには見えない。それはつまり、彼女は本当にその提案をボクに向けているという事。
「いや、でもそれは」
「別に断ってもいいのよ? その時はオマワリサンにあなたがどんな状態で倒れてたのかを詳しく説明してあげるわ」
この子は一体ボクにどうなってほしいんだ。
「それだけはやめてください。……けど、どうして?」
どうしてそんなチョコレートのように甘い提案を知らないボクに差し出してくるのか。その考えが理解できず、思わず言葉を零す。
鞠莉さんは右手の人差し指を顎に当てて少し何かを考えてから、可愛らしい唇を開く。
「さっきも言ったでしょ。私は私の事しか考えてないの。私にとって都合のいいものが目の前にあるから、こんなお願いをしているのデース」
「道端に捨てられたゴールデンレトリーバーを見つけた子供みたいに?」
「私が拾ったのは可愛いオトコノコだったけどね」
そう言って鞠莉さんはからからと笑う。だが、言葉の真意はまだ理解できない。
「じゃあ、どうして鞠莉さんはこんな見知らぬ男を拾おうと思ったの」
「だから、深い理由なんてないの。誰のモノでも無い都合のいいものを拾ったから、私はそれを自分のモノにしようとしてるだけよ。私が言うことがあなたにとって都合のいい言葉に聞こえても、それは私にはどうでもいーの」
「……つまり、ボクは」
「私にとっては可愛いペットのようなモノデース」
ボクは頭を抱える。そういうことか。ようやく鞠莉さんの考えが腑に落ちた。だが納得はできない。
この金色のお嬢さまはたまたま道端に寝ていた記憶の無い男を見つけて、それを都合のいいものだと思い、家に連れて帰ってきた。そして、その男を自分のメイドとして働かせる事でその幸運を完全に手に入れようとしている。ここまでの一連の行動を文字に起こすとこんな感じになる。
なんて傲慢な思考回路。でも、お嬢さまらしいと言えばらしい考え方かもしれない。
「でもボクは男だよ? たぶん君と歳もあまり変わらない。そんな人間をそばに置いていていいの?」
「その言葉はもう一度鏡を見てきてから言いなさい」
一番の懸念材料が一蹴された。けど、ここで引いてはダメな気がする。
「見た目の話じゃなくて……その、近くにいるのが男だと鞠莉さんも嫌な事があったりするかもしれないし……」
「なーに? もしかしてアオイ、私にえっちな事をしようとしたりしてるのかしら?」
「言いたい事のニュアンスはだいたい合ってるけど、違うよ」
伝わってくれたようで何より。あと、ここで否定しなかったらただの変態に成り下がる気がしたのでいちおう否定してみた次第です。
「それこそあなたが気にする必要はないわ。私はアオイを
「もう一声もらえると分かるかもしれない」
「仕事として働くんだからえっちな事は考えちゃダメ」
「大変よく理解できました」
一言で強制的に彼女の言いたい事を理解できてしまうこのおめでたい頭に感謝をしよう。どうやらボクはこんな見た目をしておきながら男としての本能はしっかり持ち合わせているようだ。ちょっとだけ安心する。
「そーゆ―事で、私はアオイが変な事をしない限りあなたの事は一人のメイドとしてしか見ないわ。それはオーケイ?」
「…………うん、分かったよ」
「飼い主に撫でてもらえないチワワみたいな顔ね。可愛いけど」
そんな顔をしているのかボクは。でも仕方ない。こんな可愛い女の子に『男として見る事は無い』と宣告されたら誰だってチワワになる。わん。
今一度、鞠莉さんの提案を頭の中で反芻する。
彼女は記憶の無いボクを専属メイドとして雇ってくれる。そうすれば記憶が戻るまでの間、このホテルで暮らす事ができる。たぶんだけど、人として最低限の暮らしは与えてもらえるだろう。少なくとも警察に頼るよりはマシな生活ができると思う。
それを思えば断る理由なんてない。でも。
「本当に、いいの?」
確かめるために問う。何度だって訊いてもいいだろう。しつこいと言われるくらいじゃなきゃ意味がない。そうしなければ優しい彼女に失礼な気がするから。
鞠莉さんは柔らかな笑みを浮かべる。月色の瞳で向かいに座るボクを見て、彼女は答えてくれた。
「イエス。っていうか、お願いしてるのは私デース。あなたがそれでいいのなら、この契約は成立するわ」
その言葉を聞いて決心がつく。いや、そもそも拾われたボクに悩む権利なんてない。
ボクには最初から、拾ってくれたこの子に借りを返す生き方しか許されていなかったんだ。
「……こんなボクでよければ、お願いします」
だから、そう返事をする。
「決まりね。じゃあ、早速あなたに名前をあげないと」
「? 名前?」
「そう、ファーストネームの漢字とラストネーム。それが無くちゃ不便でしょ?」
鞠莉さんはそう言いながら立ち上がり、部屋の壁の方にある戸棚へと歩いていく。それから一枚の白い紙とペン、それと何か四角いパスポートのようなものを持って戻ってきた。
「あんまり漢字は得意じゃないけど、この字は好きなの。ちょうどあなたに会う字を知っていてよかったわ」
彼女は紙にスラスラと何かを書いていく。
そしてしばらくしてからペンをテーブルに置き、そこに書かれた文字をボクに見せてきた。
「
「そう、仕事中はこの名前を使いなさい。私との関係は……遠い親戚とかでいいかしら?」
すごく重要そうな事を喫茶店で飲み物を選ぶくらいの気軽さで決めていく鞠莉さん。だが、ボクには何も言えない。これからは彼女が言う事がボクのすべてになってしまうのだから。
「鞠莉さん、その」
「ノンノン。碧、その呼び方だとメイドと主らしくないわ。もっとそれらしく言ってみなさい」
「え、えぇ。急にそう言われても……」
鞠莉さんは真面目な顔で見つめてくる。でもたしかに従者が主人をさん付けで呼ぶのはどこかおかしい気がする。仕事としてボクと接する事になるからこそ、彼女はそういう事を気にするんだろう。
数秒間、頭を悩ませて考える。そうしたらすぐにその言葉は浮かんで来た。どうやらやっぱり、ボクの記憶喪失になった頭にはしっかりとした常識が備えられているようだ。同い年くらいの女の子をこう呼ぶのは少し恥ずかしい気がするけれど、そうしなければ彼女のそばで働く事ができないのだから仕方がない。
だから、腹を決めてこれから彼女の事はこう呼ぼう。そして、言葉遣いも改める事にする。
「……か、かしこまりました、鞠莉さま」
「オーゥ……碧、ファンタスティックデスネー」
どうやら鞠莉さん、改め鞠莉さまはその名前の呼び方と言葉遣いに満足していただけたようだ。むっふぅ、とご満悦な顔を浮かべていらっしゃるのでそれがよーく理解できた。これからはこれがスタンダードなやり取りになるのだろうから、意識して慣れていかなきゃ。やっぱりうっかり変な口のきき方とかしたらお仕置きとかもらうんだろうか。あんまりハードなやつを受けるのは嫌なので注意していかなければ。
「それで、鞠莉さま。ボク……いや、わたしはどのようなこれから業務をすればよいのでしょうか」
「ンフ? ンー、その辺は後々決めて行きましょ。まずは私のそばにいてくれればそれでいいわ」
「え、それでは」
「私の言うお願いをクリアしてもらえればそれでいいわ。ホテルの方の仕事は他のメイドたちに聞きなさい」
しれっと大事な事を言われたけど、本当にそれでいいのかと思ってしまう。ていうか他のメイドもいたんだな。予想はしてたけど。
「かしこまりました。……それと、鞠莉さま」
「うん?」
「その、わたしはこれからどの服を着て仕事をすればいいのでしょうか?」
さっきからずっと気になってはいた。鞠莉さまのお願いとボクに渡された服。その二つに明らかな共通点があるという事に。
まさか、とは思うけれど、その考えは一旦捨てよう。ボクは男なんだしいつまでもこの服を着ているわけにはいかない。こんな女装をしてる輩が隣にいたら鞠莉さまも困ってしまうだろう。
「どの服って、今着てるじゃない。それとも、もっとミニスカートのメイド服の方が碧はよかった?」
「………………そうではなく、そもそもわたしは男なのですが?」
「そんなの知ってるわ」
「では、男用の服でなくてはおかしいと思うのですが……」
ボクがそう言うと、鞠莉さまは何かを思い出したような顔を浮かべる。よかった。ようやく言いたい事が伝わってくれた。
そう思って安堵したのは一瞬だけ。
「そういえばまだ言ってなかったわね。このホテルには女性の従業員とメイドしかいないのデース」
「………………………………え」
「パパの方針なの。オハラ・ホテルのグループで働いてるのはみーんな女性」
「それは、つまり」
「お客様以外は男子禁制よ」
そんな超重要な事を言い忘れていた鞠莉さまは、特に悪びれる様子もなくそう言ってくる。だが、どう考えてもそれはおかしいだろう。言葉と提案に判りやすすぎる矛盾があることに気づいていないのだろうか。それは無いだろう。だって彼女は、裸のボクを見たんだから。
嫌な予感がする。ていうか嫌な予感しかしない。
「そ、それではわたしはここで働けないではありませんか」
「? どーして?」
「わたしは、男なのですよ?」
ボクの言葉を聞いて、鞠莉さまはようやくその矛盾に気づいてくれる。
「知ってるわよ? ちゃーんとこの目でチェックしましたー」
はずだったのに、彼女は気づいていない。どういうことだ。ボクは何かを試されているのか。
「そ、そういうことではなく。男子が禁制のこのホテルで、男のわたしが鞠莉さまのメイドをするのはおかしいと言っているのですっ」
何とか理解してもらうために訴える。すると鞠莉さまは不思議そうな顔でボクを見つめ返して来た。
「だったら、女の子として働けばいいじゃない」
「………………………………今、なんとおっしゃいました?」
「だから、ボーイじゃなくガールとして働けば何も問題ないでしょ? そんな見た目と声をしてるんだから、あなたが男だって気づく人は誰もいないわ」
「頼むから冗談だと言ってください…………っ!」
先ほどから感じていた嫌な予感が的中した。このお嬢さまは本気でそんなとんでもない事を考えていらっしゃるらしい。
「冗談なんかじゃないわ。私は最初からそれでイケると思ったから、あなたをここに連れてきたのデース」
「……このメイド服を持って来させたのは?」
「あなたを私のメイドにするためよ」
なんと。つまりはボクは彼女に見つけられた段階から、ここでメイドになる運命を決められていたとでもいうのか?
嘘でしょ。
「女として、働く…………?」
「イエース。じゃないとあなたの事は雇えまセーン」
テヘペロ、と舌を出して笑う鞠莉さま。もしかしなくても、彼女は最初からこうなる事を予測して一番大事な話の順番を後ろに持ってきたんじゃないのか。じゃなかったらあんな誘い方はしない。悪魔かこの人は。
「あ、そうそう。もうひとつ言い忘れてた事がありましたー」
鞠莉さまはそう言って、項垂れるボクの顔を見つめてくる。またヤバい事を言うのか。いや、これ以上にヤバい事なんて今は想像する事もできない。
しかし、その富士山級のハードルはいともたやすく越えられる事になる。
「碧。あなた、私が通う学校に編入しなさい」
「が、っこう?」
「そうよ。学校、ハイ・スクール。手続きの心配はノープロブレム。そこの理事長は私なんだから」
「…………」
「専属メイドにはできるだけ近くにいてほしいの。だから、私と同じクラスに編入させるから、そこはよろしくネ?」
話が光の速さで進んでいく。あまりの速さに思考回路がついていってない。だけど結局、ボクは彼女に従うしかない。まぁ、学校に編入するくらい、男である事を偽って働くよりはどうってことな───
「……待てよ」
自分が死ぬほど大きいフラグを立てている事に気づき、思考を一旦停止させる。
そう言えば鞠莉さまと出会った時、彼女は自己紹介の最後に重要な事を言っていたような気がする。
たしか、それは。
「ちなみに、私が通う学校の名前はね」
鞠莉さまはついさっき棚から持ってきた四角い小さなパスポートのようなものを掴み、こちらに見せてくる。そういえばそれはなんだったんだ。
そして、そこに書いてある字を見て絶句した。
彼女が見せてきているのは、学生証。そこには制服姿の鞠莉さまの写真と、彼女が通う高校の名前が書いてある。
ボクが何も言えずにいると、鞠莉さまは高い声でそこに書いてある学校名を代わりに読んでくれた。
それは。
「
神さま。ボクの数奇な運命はいったいどこへと向かうのでしょうか。