ポケットモンスター虹 Petit Papillon 作:蝶丸蒾
下のお兄ちゃんは帰ってこない。
あたしがそれに気づくのにはかなり時間を要した。家に来た連絡を受けた母さんがその場で膝から崩れ落ちるのを見ていた。ネイヴュシティを襲った『雪解けの日』で、ナツ兄ーー次兄のナタクは死んだ。数日後、エマ兄がーー長兄のエンマが、悲しそうな笑顔を貼り付けて帰ってきたとき、あたしは動転していた。
ーーなんでナツ兄が死んじゃったの!
ーーなんでエマ兄だけが生きてるの!
ーーナツ兄は一般人で、エマ兄はガーディアンなんでしょ!?
ーー一般人を守るのが、ガーディアンなんじゃないの!?
少なくとも、あの時は本気だった。誰かを守るのがガーディアンだと思っていたし、あたしもそれを目指してた。だからこそあんなことが言えたんだろう。
ーーどうして守ってくれなかったの!
あの時のエマ兄の顔を、あたしは一生忘れない。一生後悔し続ける。エマ兄は笑顔のままなのに、その目からは雫が落ちていた。ごめんね、と言って。傍らのプラスルとマイナンがあたしに向かって、両頬から放電させて威嚇した。
母さんから、お兄ちゃんは小さな兄妹を庇って亡くなったのだと聞いた。現場は本当に酷い有様で、混乱で、その中で一般人ながら救助活動をしていたのだと。
それから、テレビで流れるネイヴュシティの様子が、増大していく悪事が、あたしは恐ろしくて堪らなかった。それだけじゃない……エマ兄への絶叫が、後悔が、自責となって返ってくる。光が、あたしを責めたてる。
異変が起きたのはその翌日。いつも通りアカデミーへと出発したあたしの足が、玄関を出た途端に動かなくなった。道行く人がバラル団で、そのうえあたしを責める人にしか思えなくなった。太陽の光ですら痛いと思った。吐き気がした。目眩がした。あたしはその場で座りこんでしまった。偶然飛び出してきた相棒のキルリアを抱きしめると涙が止まらなくなった。
通行人はただの通行人で、あたしのことなんて見ていない。わかっている。あたしがあたしを許せないのだ。ただの一般人として生きていても、急に殺されてしまうかもしれない恐怖を感じているだけなのだ。ただの日常だった。そんな日常でも、死んだ兄がもう感じられない日常だと思うと、悲しかったのだ。ほんの少し、通行人を通して想像したバラル団への憎悪が、腹に居座ってどうしようもなく、苦しかったのだ。
あたしは泣きじゃくりながらエマ兄を呼んだ。エマ兄は寝巻き姿のままあわてて飛び出してきて、わんわん泣いているあたしを見て驚いた顔をした。泣きながらエマ兄に謝った。ギャンギャン泣いている間、あたしのポケモン達とエマ兄が慰めてくれて、いつの間にかあたしは泣き疲れて眠ってしまった。
その後発覚したのだが、あたしは単独行動ができなくなってしまっていた。自責はいくらかマシになったとはいえ、外が恐ろしくてたまらない。数週間アカデミーを休んだ。こんなにつらいならば、いっそ世界なんて全部消えてしまえとも思った。ある日、見舞いに来た同い年の従姉妹のベロニカが、友人エスの失踪を告げた。
「あんたのとこに来てないの?」
「家から、出てないからわからないよ」
いつも以上にムスッとした顔をしている。いつも通りの銀髪のツインテールが揺れた。
「ナツ兄のことがあって、ツライのはわかるよ。でもね、あんたそのままでいいの? ガーディアンになるんでしょ?」
あたしは横に首を振った。もう諦めていた。自分なりによく考えた結果だった。目に見えないものが怖くなってしまったあたしには、人を守ることは不可能だ。自分さえ、守れないのだから。
「ヘキカ、あのね」
ベロニカの隣、銀髪のポニーテールの女生徒……否、ベロニカの兄キララが、優しい口調で呟いた。
「エスちゃんも、怖かったのかもしれないよ」
……怖かった? 何の被害もなかったのに?
「災害のニュースっていうのはね、本人じゃなくても……それがポケモンであっても、ダメージを受けるものだから」
ベロニカのチュリネがうんうんと頷く。彼女のチュリネはたしか、ものすごく臆病だった。
「恐怖とか怒りとか、そういう強い気持ちは何かの原動力になる。良くも悪くもね。特に危機察知能力が強いと、安全な場所に身を置きたがる……要は逃げるってことなんだけど」
「ヘキカが家を出られないってことは、ヘキカにとって家がいちばん安全だってことなんだと思うの」
ふたりのはなしを、あたしはぼうっと聞いていた。今や他人ですら怖いあたしからすれば、たしかに家は安全だ。
「でもさ、ネイヴュはその家すらも壊された。墜落したゴルーグによってね」
ああ……そうだ。だから倒壊した建物が多かったんだ。
「じゃあ……どこにも安全なところなんて」
「ひとつだけあるよ……これは結果だけど」
嫌な予感がした。あたしは無意識に耳を塞ごうとしていたけれど、なんとかあたしのコダックを抱き抱えて我慢した。
「あの子は……エスちゃんは今、バラル団の構成員だ」
頭が痛い。気持ちが悪い。お腹も痛いし、視界がぐらぐらする。呼吸だって適当だけど、足を止めたら二度と動かないかもしれない。……だけど。
どこをどう走ったかなんて覚えていない。ただ走った。走って、走って、エスを探した。鼻のきくテールナーに先導させることすら思いつかなかった。無我夢中で走った。昔から走るのは苦手ではなかった。むしろ得意な方だった。けれどーー限界がある。
息を吐ききってしまえば、肺が大量に空気を求める。思い切りむせて、そのまま倒れ込んだ。地面に倒れ込んで、視界に誰かの靴が目に入る。見た事のある靴だった。何かがにゃあと鳴いた。誰だったっけ、でも女生徒なのは間違いない。
「ミスティ、せんぱい?」
たぶん違うと思う。そうだったらあたしを見つけてすぐ声をかけるのだ。誰だろう。でもすごく見慣れたーー。
もう一度、何かがにゃあ、と鳴いて。
そして、気を失った。
ねえエス、バラル団にいるなんて嘘だよね。奴らはあたしのお兄ちゃんを殺したんだ。きっとだれも人の心なんてきっと持ってない。あたしは一生許せない。
あたしはガーディアンになるのを諦めました。でもエスに会うには、ならなきゃいけないのかな。でもエスの敵になるのはいやだ。エスと戦いたくないな。だってあんたとのバトル、やりづらいんだもん。
ねえエス。どうしていなくなっちゃったの。もし……もしキララが言ったように怖かったなら、あたしと一緒だったなら、あたし達はきっと、頑張れると思うんだ。あんたが帰ってくるなら、ふたり一緒なら、あたし達はもっと強くなれないかな。ねえ。
ーー置いていかないでよ。
「ごめんねヘキカ。でも無理はしないでね」
「この……バカ者ッ!! 自分の身体も考えずッ! リリィがいなけりゃどうなってたか」
「まあまあまあまあ、落ち着きなさいよエマちゃん。無事なんだから」
「ほんとに……ほんッとに心配したんだからな……!」
エマ兄はあたしを見て泣きそうな顔で笑顔を浮かべながらあたしを怒った。あたしは笑うのをやめたらいいのにと独りごちた。
どうやら、あたしが走った先はリザイナトレーナーズアカデミーだった。あの満身創痍で、あたしは30分も走っていたことになる。たまたま学内にいた従姉、ベロニカ達の姉でありアカデミーの歴史教員、マチルダがあたしを発見し、教師特権で保健室に運び込んでくれたらしい。
「でも本当に運が良かったねヘキカちゃん。今日保健の先生お休みだったんだよ」
「マティ先生のおかげですね〜」
様子を見に来てくれた同級生のケイティと、あたしの頭をうりゃりゃと言いながら撫で続けるミスティ先輩は、あたしが目覚めた時にエマ兄を呼んでくれたのだった。一応お礼は言った。こっそりと目を伏せて確信する。ーーやはり、違う。
少しすると、ケイティとミスティ先輩は帰って行った。エマ兄も、帰る準備をすると言って保健室を出た。
「ねえ……リリィがあたしを見つけたんじゃないよね? ……あの場にいたのは、エスだった」
そうだ。ミスティ先輩はあたしが倒れたときあの場にはいなかった。ケイティでもない。当たり前だがベロニカでもないし、そもそも彼女は小さいので見たらすぐに分かる。小さいので。
鳴いていたのはエスのニャビーだった。あの靴は、エスのものだった。
「……さあ」
マチルダは人差し指を唇に当てて、イタズラっぽく笑う。
「なぁいしょ」
ねえエス。あんたがもしどれだけ探されたくなくても、あたしはエスを探すことにしました。勘違いしないで欲しいのは、あんたのためじゃないこと。あたしのため。ナツ兄だけじゃなくエスまで奪われるのは本当に癪で、それだけであたしは狂ってしまいそう。でも顔を合わせれば何かの言いたいこともあるかもしれないし。特に話したい話も見つからないけれど。あたしたち、いつも理由があって一緒にいたわけじゃなかったから。ほら、いつも通り。
またいつだって、いつも通りの、とりとめのない話ができるように。
あたしは友人を探します。
ひとりで生きていけるなんて、思えない。生きるのが苦しくてつらくておかしくなりそうなんだ。だからこそ絶対見つけるから、覚悟しててよね。
ーーあたし優しくないから。