ポケットモンスター虹 Petit Papillon 作:蝶丸蒾
息を切らして走った。
凍てついた空気が肺を傷つけても、どうでもよかった。長年堪えた想いを口元で凍らせてくれたから。
(ふざけないで……ふざけないで!)
この有様は何だ。
護れたと思った。もう仲間に任せても大丈夫だと。だから戦線離脱できたのだ。だのに。
まさか己の全力を出し切った後の壊滅だなんて。
(なんて失態だ)
「うっ」
ふいに地面に倒れ込む。足が雪に取られたのだ。立ち上がる気力がわかない。けれど、この地は容易く自身の体温を奪っていく。
「ラプラス」
相棒をモンスターボールから放つ。蒼い首長竜は主を気遣ってひとつ鳴いた。
「らぷらすぅ」
膝立ちになって、相棒にしがみつく。
今こうしている間にも、惨劇の跡地には雪が覆い隠すように優しく積もる。理解はしている。現実から逃げてしまうほど、彼女はーーアルマは、悔しかった。
自らを戒めるために練り上げた鉄仮面でさえ崩れてしまうほど、感情を留めることができなかった。
療養の期間を終えて戻ってきた街は爆撃で面影がなかった。未だ家族を探す人の声がした。傷の痛みで泣く子供の声がした。無事だったのに窃盗にあったと言う人がいた。自暴自棄で喚く人もいた。復讐してやると叫ぶ声もあった。同僚が、一般人の弟を救助活動の最中に亡くしたのだと、いつもよりもくたびれた顔で、自身の異動報告と共に教えてくれた。
一番つらかったのは、市民に弾劾されている姉のような彼女を見つけた時だ。彼女ーークルミは、元はバラル団だったが、現在は服役を終えてボランティア活動をしている。それを、市民だって知っていたはずだったのに。疑われるような人でもないのに。なのに、彼女は弾劾されていた。ーーお前が呼んだのだろう、だなんて。
そんなはずがないと、伝えても聞かない。行き場のない怒りを吐き出されていることはわかっていた。クルミは悲しそうにいいよ、とだけ言った。いいよ、全部覚悟してたよ、と。クルミは、優しいのだ。怒りの矛先はアルマへも向かった。
曰く、
「あのシンカはバラル団の技じゃないのか」
曰く、
「もっと早く追い払ってくれればよかったのに」
曰く、
「巻き込まれた一般人が」
何も、言えなかった。
おもむろに、クルミがアルマを抱きしめた。……否、抱きしめたように、耳を塞いでいた。そうして、何かを叫んだ。何かは聞き取れなかったけれど、クルミが怒ったのだけはわかった。
悲しかった。
するりとクルミの腕を抜けた時、彼女の顔は怒りと涙でごちゃ混ぜになっていた。
とてもかなしかった。
アルマは市民に向き直って、ごめんなさい、とだけ呟いた。それ以上は言えなかった。それから走ってーー走って、走り続けて、つい先程足を止めたのだった。
気づけばアルマはラプラスにしがみついたまま、大粒の涙をぼろぼろと落としていた。
アルマがルカリオとともに起こした現象には、『キセキシンカ』という名が付けられたらしい。ネイヴュシティの被害を目にした今、奇跡だなんて喜ぶ気持ちは吹き飛んだ。所詮、運良く最悪を免れただけのこの地を知らぬ、外の人々の声だろうに。
アルマの病的な程に白かった頬は、雪に熱を奪われて赤く染っていた。ラプラスがアルマを気遣ってか、己の顔でアルマの涙をはらう。
アルマはラプラスから顔を背けた。自分が不甲斐ないと思った。ーー視線の先に、壁があった。
ネイヴュシティの東側、他の市街から離れ、海に面した東側の一部の海岸は、透明な素材でできた壁になっている。それは、防衛の為だが、内から見るとーーさながら監獄の中の窓のような。
アルマの、数少ない、お気に入りの場所だった。
◇
雪解けの日から半年以上が経過した、ある日。アルマはまた外を見つめていた。目を逸らさせたのはひとつの足音。
「……ここにいたんすか。支部長が」
呼んでいるのか、それともアルマがいる場所を彼に提案したのか、濁して。
「……監獄の中の監獄」
アルマが呟くと、彼は顔をしかめた。彼は嫌悪感を隠さずにアルマを見ていた。
「ネイヴュシティはもはや娑婆ではない、だなんて」
気にせずに続けてみる。彼は鼻で笑って、お似合いじゃないですか、などと言ってみせた。
「そう思う? ここが、私に、相応しいと」
アルマの声に感情はない。怒っているのでも、悲しんでいるのでもなく、ただ聞いただけだった。彼はきわめて抑えた声で答えた。
「バラル団なら」
アルマは彼に体を向けた。彼の向こうに、ネイヴュ支部の堅牢な建物が聳えている。
「そう。それなら私の居場所じゃない。私はネイヴュ支部のガーディアンだから」
「……チ」
「……護る場所なのは、確かだけれど」
「貴方もそうでしょう、フライツ」
フライツはアルマを睨みつけた。
「俺は、アンタとは違う」
「互いにガーディアンだということは、忘れないで欲しい」
「俺は! あんなクズ達とは違う! ……バラル団なんかッ……俺が全員ぶちのめしてやるッ!」
フライツが叫んだ。拳を握りしめ、身体を震わせて、憎悪をあらわにした。アルマは目をつむり、首を横に振った。
(普通の人間も、あの組織にはいるんだよ。本当にポケモンの為に生きたいヒトが、バラル団にはいたんだよ)
決して口には出さない。アルマとて、バラル団のすべての所業を許せない。
そういうヒトもいるのだと、知っているからこそ、アルマはバラル団に立ち向かうのだし、許せないでいるのだ。ただの優しかったヒトが、他人の命を排してまで、ポケモンの為に悪事を働くのが、どうにも許せないでいる。ーークルミがいい例で。アルマの亡き母もそうで。
「私たちは、ガーディアンだから。獄卒でもなく、戦士でもなく、市民の生活を守る守護者だから」
すう、と息を吸って。
「それさえも忘れて復讐に走ったら、バラル団を抑えるよりも早く、貴方を沈める」
ラプラスをリリース。
「……やる気かよ」
フライツがモンスターボールを構えたのを見て、アルマが首を傾げた。
「帰るからだけど。……貴方を沈めるのにポケモンが必要だと思うの?」
アルマがコートの上からぽんぽんと自分の脚を叩くと、忍ばせたナイフと拳銃が音を立てる。フライツはそれを認知して、信じられないものを見るような目付きに変わった。
「……ねえ、味方に向けるわけないでしょ。こんなので怖気付くようじゃ、復讐なんてまだまだだね。……お先に」
そうして、呆気に取られたフライツが、雪原に残された。先程までアルマが眺めていた壁の向こうを見て、理解ができずにため息を吐いた。ーーこれっぽっちの、切り取られた景色が、なんだというのか。たいしたものは見えず、雪の色と荒れた海が見えるだけだ。ぷかぷかとういているのはタマザラシ……いや、プルリルの群れだろうか。眺め続けるほどの価値はなかった。
興を削がれた。踵を返して、ふと思い返す。
ーーどうしてアルマの目は、少し赤かったのだろうか。まるで泣いたかのようだった。
ーーああでも、
「鉄仮面が泣くわけねぇか」