今となっては、基礎トレーニングは日課である。元々は、課されたメニューを半強制的に行わされていたが、兄上と地獄の日々を生き抜くうちに欠かせないものとなっていた。今日も静寂の訓練場でただ1人、腕立て伏せを行う。
でも、強くなって、その後は一体どうするか。
「いかん、集中集中。」
兄上の領地の自警団をやってもいいし、騎士になってもいい。勉強も鍛錬も将来の選択肢を増やしてくれるのは確かだ。たとえ紋章がなくても、その血は流れているはずだし、成長率は大きいはずだ。努力で実力を示し続けている父上が見ていたからこそ、俺は努力をやめない。
「ここが訓練場なのね。……あら?」
訓練場に入ってきたのは、フェルディナントとは違うようだ。
服装はいつものように軍服であって、訓練だからといって着替えることはしないようだ。その手には木でできた訓練斧があった。女性で、主武器が斧だというのは珍しいことなのではないか。あまり、多くの女性戦士と会ったことはないとはいえ。
「えっと、エーデルガルト、さん、……いや、エーデルガルト様、か?」
「別にいいわよ。貴族らしくしなくても。」
彼女はあまり貴族にいい印象を持っていないことは、ここ数日でわかった。貴族を誇りに思っているフェルディナントの言動が彼女の癇癪を起こす可能性もあったので、ひやひやする時は多い。
従者に諫められる、または理性で必死に抑えていた。
「そっか。俺はカスパル、よろしく!」
「私は、エーデルガルト=フォン=フレスベルグよ。」
貴族らしくない貴族に対して、彼女は余裕のある笑顔を見せた。そういう表情もできるんだな。
アドラステア帝国随一の学校に、皇女であるエーデルガルトは入学してきたのだ。容姿端麗であり学業優秀な彼女の人気は鰻登りである。そして第四皇女でありながら、次期皇帝と言われている彼女に媚びへつらう生徒は多い。そういう風に帝国貴族として教育されてきたのだから、自然なことなのだろう。
でも、やるせない気持ちは確かだ。
エーデルガルトは彼ら彼女らをあしらっているし、付き人であるヒューベルトは近づきがたい雰囲気を醸し出している。そんな彼女も今は柔らかい雰囲気を見せていた。
「これだけ広いのに、貴方しか使っていないの?」
「たまにフェルディナントが槍を振っているな。今日はお茶会に行ったけど。」
「たしか、エーギル伯爵家の嫡男ね。今日だけで3回、決闘を挑まれたわ……」
すでに諦めの境地に至ったようだ。
フェルディナントは悪気があってやっているのではない。
「ははっ、あいつは悪いやつじゃないんだけどな。筋金入りの頑固者だ。」
こっちの気も知らないで……と呟きながら、彼女は木でできた訓練斧を振るう。
空気を裂く音が訓練場に鳴り響いている。その細身の腕のどこにそのような力があるのかはわからないが、力任せに振るっているのは確かだ。その音からは様々な感情が伝わってくる。
「ねぇ、貴方は、何のために鍛えているの?……戦うことは、怖くはないの?」
闇雲に強さを求めていて、今を生きることに必死であって、焦っていて。
「まだ経験はないけど戦場は怖い。この手で誰かの命を奪うってことはもっと怖い。でも、ここぞという時に『力』があれば何とかなるかもしれないからな。」
「そうね。この世界では『力』がなければ、何も成せないわ。」
貧富の差、身分差、人種差別、フォドラ人以外の排斥、紋章の有無による扱いの差、そして傀儡の皇帝。
「俺は次男だからな。領地は兄上が継ぐだろうし、親戚も多い。」
「すべてを継ぐ苦しみもあれば、何も継げぬ者にまた苦しみがあるのね。」
憂いに満ちた瞳は、揺れる。
第四皇女であって、まだ若いのに、次期皇帝なのだ。
「まあ、勉強をがんばれば騎士になれるし、傭兵だっていいと思っている。貴族の次男だといっても、俺の選択肢は多いな。」
大学を出て、就職をして、つまり自分の道を選ぶことのできる世界に、かつて生きていた。元々、継ぐものなんて1つもなかった俺には、彼女や貴族の嫡男の苦しみがわからない。フェルディナントのように貴族としてのプライドはないし、リンハルトのように学問に対して熱意もない。
でも、わからないことはひどく怖いと思う。
「エーデルガルトの立場がどれだけ大事かってことを俺には……おれにはわからない。」
「そう……」
斧を振るう音が止んだ。
わかってくれるかもしれなくて、でもわかってくれなくて。
人と人は、簡単に分かり合えないものなのだろう。
でも、少しずつ伝えられる。
「ちょっとだけ、待ってくれ。」
俺は立ち上がって、拳を構える。
「よしっ!」
殴る。
固定した棒が折れて、藁案山子は吹き飛んでいった。
「俺は父上を超えることを目標にしている。だから、安心しな。『力』がなくて、後悔なんてさせない。将来、俺の『力』の使い方はエーデルガルトが決めてくれ。」
「私が……?」
「まっ、目指すは立身出世ってことだな!」
エーデルガルトは目を見開いた。
初めて見る表情に、俺も嬉しさがこみ上げてくる。
「優秀な者が出世し、人の上に立つ世の中……、貴方は手を貸してくれると言うの?」
そういう世界を、彼女は求めているんだな。
紋章の有無も貴族であるかどうかも関係ない、世界。
「いいぞ。」
俺は、確かにそれを知っている。
「エーデルガルトが俺を評価してくれれば、父上のような元帥とか軍務卿とか、えっと、それは言いすぎか。」
俺は、自分の拳で未来を切り開くつもりだ。その果てに多くの屍を築いて果てようとも悔いはない。迷ってばかりの俺に、父親が教えてくれた。
「切り込み隊長だとか!そういう役職に任命してくれるだろうしな!」
「……ふふっ、その可能性はあるわね。」
「だろっ!」
エーデルガルトが正しく『力』を使ってくれるのならば、きっと怖くはない。実は優しくて、自己犠牲も厭わなくて、精一杯背伸びしている少女をなんだか放ってはおけない。
「……なぁ、エーデルガルト。あんたに何が」
訓練場に駆けてくる足音が、俺の言葉を遮った。
「見つけたぞ、エーデルガルト!」
「よう、フェルディナント」
「はぁ……また貴方? なぜ私に決闘を挑むというの?」
困った顔をしているが、フェルディナントを嫌っているわけではないはずだ。たぶん、フェルディナントの父親のことを嫌っていて、全く違う好青年だから動揺している。
「ふっ、そこまで言うなら語るとしよう! アドラステア帝国の建国から数百年、とある2人の人物がいた。1人は、千里を駆けた戦う宰相ディルク=フォン=エーギル!」
「もしかして、時の皇帝と宰相が玉座をかけて争った話のこと?」
「なんだ、それは?」
「まったく、カスパルは忘れっぽいな。この前、一緒に歌劇団を見に行ったではないか。」
「……ああ。それもそうだったな。」
リンハルトも俺も途中で寝ていたなんて、当事者の子孫2人の前では言うことは怒らせるかもしれない。それでも、フェルディナントには正直に言って、謝っておきたい。
「ふわぁ……みんな、ここにいたんだ。」
「俺もリンハルトも、寝てた。ごめん。」
「なんだ……それならこのフェルディナント=フォン=エーギル自身がエーデルガルトとの喜劇を、目の前で見せてやろう!」
「遠慮しておくわ……」
また困った顔を見せる彼女は、年相応だ。
「ククク、楽しそうですな、エーデルガルト様。」
「ヒューベルト、いつから見ていたというの!」
これで5人目、この訓練場がにぎやかになるのは、珍しい。
「さあ? ご想像にお任せしますよ。いやはや、ずいぶんと珍しい表情をしていましたな。」
「……そう、かしら?」
思わず、エーデルガルトは頬に手を当てた。
「……ねぇ。貴方たちはこの学校を出れば、どうする気?」
「どう、とは?」
次期皇帝ならば、その役職を決めてもいい。しかし、俺たちの希望を聞いてきた。
「ガルグ=マク修道院の、士官学校に一緒に来てほしいの。」
「ほう? それはおもしろい提案だな。他国の貴族と言葉を交わすのも悪くはない。」
「いろんな紋章を持っている人が集まるんだろうなぁ……紋章の起源について調べられるなぁ……」
「私はエーデルガルト様に従いますよ。」
これで3人の同意が得られた。みんなが俺の方を向いた。
「エーデルガルトが推薦してくれるなら俺でも行けそうだし、だから行ってみたい、と思う。」
「決まりね。ありがとう、みんな。」
3つの国から選りすぐりの生徒が集まる場所が、ガルグ=マク修道院である。数年後、アドラステア帝国を出て、俺たちは『世界の縮図』へ行く。
各々、教室へ戻っていく途中でエーデルガルトが近づいてきた。
「カスパル、時間があるとき、話をしたいのだけれど」
「いいけどよ……?」
いつしかエーデルガルトとは、友達になっていた。何もかも失って『紋章』を手に入れた彼女が年相応に笑っている姿を、いつも見ていたい。
出会った頃から俺はもう、後戻りができなくなっていた。