東方逢魔幻譚 ~ Never Cross Phantasm.   作:時間ネコ

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第11話 アギトと八咫烏

 地霊殿の一室。この屋敷の当主であるさとりの部屋は、客間ほどの広さはない。それでも十分な広さが設けられており、薄暗さは部屋の主同様、微かな陰鬱さを感じさせる。机を彩る孤独な薔薇が、さとり自身を表しているかのようだ。

 翔一がこの部屋に招かれてからすでにそれなりの時間が経っている。その時間はすべて、互いの疑問を打ち砕くために流れたもの。

 もっとも、翔一が口を開く必要はほとんどない。こちらから投げようとした問いも、向こうから投げられた問いへの答えも、どちらも見透かされてしまっているのだから。

 

「あんまりよく分かってませんけど、つまりさとりさんも、お空ちゃんたちも、みんな妖怪……ってことですよね? なんか、すごいなぁ……! 俺、妖怪の人って初めて会いました!」

 

 幻想郷について。妖怪について。そしてこの地底世界について。さとりは先ほどの戦いで翔一が抱いた疑問に丁寧に答えた。その心を読み、彼が疑問を抱いたことが分かったうちから次々に答えていくため、少ない時間で多くの情報を交換できた。

 アンノウンと呼ばれる二体の怪物に放った弾幕といい、彼の前で妖怪の力を使ったことは失敗だったかもしれない。彼の心を埋め尽くす幻想への疑問が、さとりの知りたい情報を覆い隠し、邪魔をしてくる。それらを解消しないことには、目的の情報は得られそうになかった。

 

「普通、外来人は妖怪を見たら驚くと思うのですが……」

 

「もちろん驚いてますって! ほら、さとりさんなら分かってるんじゃないですか?」

 

 翔一は相変わらず、さとりに笑顔を見せてくる。確かにその心には驚きの感情が感じられるが、妖怪への畏怖というよりはさとりの容姿に向けられているようだ。

 外の世界の伝承では(さとり)は体毛に覆われた猿のような妖怪だと伝わっているようだから、さとりのような少女の姿では驚くのも無理はない。

 彼女が予想していた驚きの感情は、もう少し別の方向性のものだったはずなのだが。

 

「でも、安心しました。さっきこのお屋敷を出たときは上を見上げても空がなくて……本当に地獄に落ちちゃったのかと思いましたけど、ちゃんとこの上にはお日様、あるんですね!」

 

 料理人として、あるいは菜園の持ち主として。翔一は太陽を愛している。地底の果てにおいて、その光が差し込むことはないが、遥かな天盤の彼方に、彼の知る太陽は確かに存在している。

 

「……地の底であることは事実ですけどね。ただ、地底(ここ)にも太陽と呼べるものはあります。お空の八咫烏の力は、停止状態だった灼熱地獄跡に再び火を灯してくれた」

 

 旧地獄の太陽。それはお空が神に与えられた八咫烏の力。核融合を操る能力こそが、この地底における太陽そのものである。

 灼熱地獄跡は地球の核、マントルにまで繋がっている。そこから引き出す膨大なエネルギーを安定させ、この地底世界全体に行き渡らせるのが灼熱地獄跡の役目だった。

 

 かつては地獄として死者の魂を焼く業火だったが、旧地獄として切り捨てられてからはもっぱら生身の死体を燃やし、地底のエネルギー源とするくらいのもの。全盛期に比べればその火力は遥かに弱くなっていた。

 そこで、死んだ灼熱地獄跡に火を灯し直してくれたのが、お空に与えられた神の力。太陽と同じ核融合を司る、八咫烏の力だったのだ。

 地上の神、風雨の象徴たる八坂神奈子がお空に八咫烏の力を与えたのは、灼熱地獄跡のエネルギーを資源として幻想郷の進化に利用しようと考えたからだ。もっとも、地底は妖怪たちの邪魔が多く、地上から遠すぎたため、実際には別のエネルギーが必要になってしまったのだが。

 

「お空ちゃん、太陽! って感じですもんね。明るくて、本当にお日様みたいでしたし!」

 

 翔一はお空の笑顔を思い出して、同じように笑う。高熱にうなされていた彼女のことは心配ではあるが、翔一の知る限りの情報では、彼女にしてやれることは何もない。

 ここが地上の光が差し込まない地の底でも。たとえ旧地獄と呼ばれた最果ての奈落でも。そこに誰かが生きている限り、そこが誰かの居場所である限り光はある。この地底においては、お空の存在こそがその光であったのだろう。

 地底の太陽は、地殻に輝くマントルの火、その輝きとして、この旧地獄を照らしてくれた。地上の光は空から来るものだが、ここでは地面の下にこそ太陽に等しい輝きがある。それは地熱という形で、旧地獄を底から暖めてくれている。

 青空一つ見えない地の底においても、彼女がいてくれるのなら安泰だった。昔は地獄でも、今は妖怪たちの楽園として。

 きっと野菜はおいしく育つ。生まれた命は温もりを知ることができる。太陽の代わりに笑ってくれるお空がいる限り、この地底は地上と同じく誰かの居場所として存在できるはずだ。

 

 さとりは翔一の言葉にどこか奇妙な共感を覚えていた。お空が太陽のようだ、というのもそうだが、何より、それはさとりが翔一に対して思ったこと。さとりの眼をもってしても自分に似ているとは思っていないところが彼らしい。

 似ているのは心だけではない。分解の足は森羅を断つ風の渦か。融合の足は万象を束ねる火の熱か。そしてそれらを安定させる第三の足、制御棒は未来を歩む大地の意思か。

 分解と融合、そして制御。風と火、そして大地。それぞれ三つの力を一つとして輝きを放つその姿は、さとりにアギトと八咫烏の共通点を連想させる。

 思えば、間欠泉地下センターにアンノウンが現れたのも不可解だ。翔一の話によれば、奴らはアギトの力に目覚める兆候を発現させた超能力者、すなわちアギトに至る可能性のある『人間』こそを狙うはず。

 しかし、お空はそもそも人間ではない。アンノウンを初めて観測したあの時点ではアギトに近づいてすらいなかったはずだ。

 最初に間欠泉地下センターに現れたパンテラス・ルテウスの目的は──否、翔一を地霊殿に招いてから現れたパンテラス・トリスティスとパンテラス・アルビュスの目的さえも。もしかしたら、最初からアギトたる津上翔一ではなく、お空が宿す八咫烏の力だったのかもしれない。

 

「それで、本題ですが……いえ、改めて切り出すまでもないでしょうか」

 

「…………」

 

 お空のことについて話そうと、さとりが口を開く。その雰囲気を感じ取ったのか、翔一も柔らかな笑顔を微かに固めながら俯いた。

 聞こうとした答えも、すでに翔一の心の中に浮かんでしまっている。分かってはいたことだが、実際に確信を得てしまうと、どういう気持ちでいればいいのか分からなくなってくる。

 

「……そう、ですか。やはり、お空は……」

 

 結論としては、お空は『アギトの力』を間違いなく宿してしまっているようだ。翔一の中に輝くアギトの力が、お空に近づく度にそれを事実だと共鳴する。そしてその度に、共鳴した力がさらにお空を苦しめてしまう。

 このままアギトの進化が進めば、お空はやがてアギトとして覚醒するだろう。翔一はこれまで多くの超能力者を見てきた。アンノウンに殺されてしまった者たちもいた。アギトに覚醒しても、その力に耐え切れず自らの命を絶つ者もいた。翔一の姉も、恩師の息子もその一人だ。

 

「……すみません。俺が油断したばっかりに、お空ちゃんたちまで巻き込んじゃって……」

 

 自分が自分ではなくなる恐怖と喪失感。記憶を失い、自分が誰かも分からなくなった過去を持つ彼には、アギトとして覚醒してしまうことの恐怖が分かってしまう。

 翔一の世界に住まう人類は皆等しくアギトの光を宿している。それはどこまでもありふれたものであり、力の有無は超能力者としてアギトとなるべき兆候を見せているかいないか、という些細な違いでしかない。

 だが、幻想郷の歴史においては違う。お空もお燐も妖怪であり、人間ではない。生まれ持ったアギトの光などあるはずがない。翔一はパンテラス・ルテウスを撃破した際に溢れた光が、お空たちにアギトの力を宿させてしまったと推測した。

 あの怪物には、翔一の知っている『神』の力が加わっていたように見えた。一度は奪われたアギトの光が解放された際に、翔一に戻ると同時にその場にいたお空までその力を取り入れてしまったのだろう。

 幻想郷の住人ではない外来人である翔一には、人ならざる妖怪がアギトの力を手にしたらどうなるかなど想像もつかない。彼自身、アギトの力を知り尽くしているわけではないのだ。

 

「同じく光を浴びたお燐には、特に変わった様子は見られません。おそらくは、そのアギトの力がお空の八咫烏の力と反応し、良くない影響を及ぼしているのでしょう……彼女も妖怪としてはあまり大きくない存在です。二つも異物を取り込めば、身体への負担は相当なもののはず……」

 

 さとりは翔一の罪悪感を誰よりも共感する。暗い想いは翔一らしからぬ、悲しげな思考となって第三の眼に流れ込んでくる。

 間欠泉地下センターでの戦いにおいて、パンテラス・ルテウスから解放された白い光を浴びたのはお空もお燐も同じだった。監視用の術式と怨霊の報告から得られた映像は、アギトやアンノウンの姿こそノイズがかったように曖昧だったが、あのときの光がアギトの力であるなら、お燐もそれを浴びている。

 そのはずなのに、アギトの力を由来としているであろう異常な高熱にうなされているのはお空だけだった。さとりはその理由として、彼女が内包する『八咫烏の力』こそが原因ではないかと推測する。異教同士の神の力が反発してしまい、お空を苦しめているのではないか、と。

 

「……お空は、強い子です。八咫烏の力だって、自分のものにすることができた」

 

 大切なペットとして。かけがえのない家族として。さとりはお燐や動物たちと同様、お空のことも信頼している。

 神から与えられた八咫烏の力を得て今までの自分を超越したお空は、新しい自分をすぐに受け入れてくれた。ならばきっと、アギトに力にも負けないはず。彼女自身の意識をもって、その力に打ち勝ってくれるはずだ。今のさとりにはただ、それを祈ることしかできない。

 

 そこで不意に、コンコンと扉を叩く音が聞こえた。さとりと翔一は思考をやめてそちらの方に意識を向ける。さとりの言葉を受け、開かれた扉から顔を出すお燐の顔は、どこか懐疑的だ。

 

「さとり様、お空の様子が落ち着きました。今は眠ってるみたいです」

 

「そう。ありがとう、お燐」

 

 お燐は今までずっとお空の傍にいてくれたのだろう。親友があれだけ苦しんでいるのを見て、お燐も心を痛めている。さとりには、そのことが明確な答えとして見えてしまう。

 第三の眼を思わず人に向けてしまうのは、(さとり)という種族が生まれもった(さが)のようなもの。

 

「……津上さんもお疲れでしょう。食事は客室に用意しておきます」

 

 さとりはお燐が部屋を出たのを確認し、翔一に告げる。

 思えば、間欠泉地下センターに現れた怪物から地霊殿の敷地内に現れた二体の怪物まで、彼にはアギトとしての力を行使させ続けてばかりだ。

 すでにアギトである男、津上翔一。そして、やがてアギトに至るであろう少女、霊烏路空。それに加えて、お燐までもがアギトの力の一端を宿してしまった可能性が高い。

 

 古くから知っている者の中に知らない力がある。愛した家族(ペット)、子供たちと言っていい者たちが、自分の知らない存在になっていく。

 アギトになる、ということはどういうことなのだろう。他者との交流を避け、不器用に生きることしかできなかったさとりは、自身が微かな羨望を覚えたことに気づいていなかった。

 

◆     ◆     ◆

 

 地底には昼も夜もない。太陽の光が差し込まぬこの地で、時計もなしに時刻を把握するのは困難を極める。この環境に馴染み、地底の妖怪として地盤の下の変わり映えのない昼と夜を楽しめる者たちを除けば、だが。

 この地底に生きる妖怪たちは、無意識のうちに目を覚ましている。本能に刻まれた時間感覚が正しい規律で妖怪たちの身を突き動かす。

 地底の妖怪である彼らがそこから目にすることはできないが、この天盤の上たる地上には爽やかな朝日が昇る時刻。地上においても地底においても、今は正しく『朝』と言えた。

 

 地底で最も巨大な屋敷である地霊殿の一室に、一匹の妖怪鴉が眠っている。

 八咫烏の力を宿し、今はさらに異なる光を宿してしまった妖怪の少女。さとりのペットの一匹であるお空は、大きな寝台(ベッド)の上で翼を畳み、明滅する胸元の眼に苦しみの声を上げていた。

 

「ぐっ……ううっ……!!」

 

 脈動する心臓のように、ドクンドクンと明滅する八咫烏の眼を左手で押さえる。気休め程度にも休まらない苦痛に身体を震えさせ、汗でびっしょりと濡れた服を纏っているというのに、お空の全身に燃えるような高熱がその身にさらなる苦痛を与える。

 お空が苦痛に悶える度にベッドが軋む。自分の中で暴れる二つの力のどちらを憎めばいいのか分からない。今、爪を立てているのは、慣れ親しんだ方の力ではなかったか。

 

 全身の筋肉が熱く震える。八咫烏の眼の赤い光が激しく明滅する。

 突如、腹に感じた奇妙な感覚。溢れんばかりの白い光がお空の部屋を染めたかと思うと、次の瞬間、お空の腰には神秘的なベルトが現れていた。

 それは翔一がアギトへの変身に用いるものと同じ、オルタリングと呼ばれる真紅の帯。お空の身体に現れたのは、紛れもなく『アギトの力』の象徴とも言える輝きのベルトだった。

 

「お空、起きてる? ……って、うわっ! 何これ、どうなってんのさ!?」

 

 親友のために食事を持ってきたお燐が控えめに扉を開ける。彼女が見たのは、腹部のベルトから部屋を染めるほどの膨大な光を放っているお空の姿。慌てて食事を机に置き、お空が横になっているベッドに近づく。

 その苦しみ様は先日よりも辛そうだ。お燐はせめて水を飲ませてやろうと持ってきたコップを差し出すが、すぐに払い除けられる。

 激しく動いたせいでお空はベッドから転げ落ちてしまった。濡れた黒い翼は、雨に打たれたように艶やかな光沢を反射している。

 床に制御棒を叩きつけ、お空は自らの異常な体温で蒸発する翼の汗と床に零れたコップの水の蒸気を纏いながら、なんとかお燐の前に立ち上がった。ひどく苦しそうに喘ぐお空は胸を押さえ、溢れる力の渦に天を仰ぐ。

 お燐には、両腕と翼を広げるお空の胸の眼が、どこか助けを求めているように見えた。

 

「うわぁああああっ!!」

 

 アギトの力による全身の異常発熱と筋肉組織の痙攣(けいれん)、思考を光に染める頭痛が限界に達し、お空は吼える。胸の八咫烏の眼が真紅の輝きを強く放ち、同じく腰のオルタリングも白い輝きを激しく解き放った。

 その圧倒的な眩さに顔を覆うお燐。光が静まり、目を開けたお燐は、少しづつ異形に変わりゆくお空の姿に息を飲む。

 服を含んだ全身の皮膚は濡鴉(ぬれがらす)の羽めいた漆黒に染まっていく。八咫烏の眼を湛えた豊かな胸は黄金の装甲に覆われていく。肩や手足は金と銀の装甲に。大柄な体格に見合わぬ可憐な少女の顔は、龍の如き黄金の双角と赤い複眼を備えた『アギト』としての顔に変わっていく。

 

「うっ……あ……ああ……」

 

 焼けつくような熱気と蒸気の中に佇む長身の影。そこにいたのは、お燐のよく知るお空の姿ではなかった。

 内なる光の力を発現させた人類の進化種、アギトの基本形態たるグランドフォームの姿に酷似している。――否、人間ならざる『妖怪』の身にして光の力を覚醒させてしまったその姿は、本来の意味でのアギトですらない。

 萎縮した黒い翼は背中の強化皮膚と同化している。溢れる妖怪の力を無理やり押さえつけるかの如く張り詰めた力はいかにも窮屈そうだ。

 右腕の制御棒はアギトの力と溶け合ってしまったのか、黒い皮膚と金の装甲に覆われた右手と化している。おそらくは力と一体化してしまい、五本の指を持つ右手そのものが制御棒として定義されたのだろう。

 お空が至ったアギトの姿の中でも一際目立っているのが胸の中心部。津上翔一が変身したアギトは、その胸部にワイズマン・モノリスという制御器官を設け、超常的なアギトの力をコントロールしていた。――しかし、今のお空にはそれらしきものが見受けられない。

 胸に輝くのは、依然として赤く光る『八咫烏の眼』だ。お空は制御器官の代わりに、太陽の象徴である八咫烏の力を剥き出しにした状態のまま、アギトとなってしまったのだ。

 

 アギトの力。八咫烏の力。本来交わるはずのない二つの世界の神性が、お空という妖怪の肉体を借りて一つの力と捻じ曲がっていく。光と光。太陽と太陽。その性質は似て非なるもの。反発し続けた先に現れたのが、この『八咫烏の眼を持つアギト』だった。

 胸に八咫烏の眼を宿しているため、本来アギトの力を制御するためのワイズマン・モノリスがそこにはない。今、二つの力は完全に無秩序な状態にある。

 不幸中の幸いなのが、お空の──アギトの頭部に輝く二本の角だ。彼女の体内に宿る八咫烏の力によってパワーが阻害されているせいか、そのクロスホーンの輝きは全開していない。

 

「お……お空……その姿は……!?」

 

 ぐらりと猫背気味に立ち尽くす金色の戦士。その姿がさっきまで親友のお空だったことを、お燐は現実だと受け止めきれない。

 それでも、この目で見たことは間違いなく事実であるのだ。お空は今、津上翔一と同じアギトの姿になっている。超越肉体の金を誇る、グランドフォームの形態に覚醒している。

 

「はぁぁああっ……」

 

 八咫烏の眼とはまた違った色の赤い複眼がお燐の姿を正面に捉えた。だが、そこに彼女の意思はない。深く息を吐き、白銀の大顎から吐息を零す。

 お空は自らの部屋の床を勢いよく蹴り上げると同時、目の前のお燐に襲いかかった。

 

「お空……っ! しっかりして……! あたいが分からないの……!?」

 

 左手の黒い指先がお燐の首を締め上げてくる。指のしなやかさは少女特有のものであるが、そのパワーは桁違いだ。お空は元からパワーに自信のある妖怪だったが、アギトとなった今はその力がさらに強化されている。

 お燐がもし妖怪の身でなければ、妖力で身体を保護するのが少し遅れていれば、一撃で首を捩じ切られていたかもしれない。

 そんなことを考えている間もなくお空は右腕を振り上げた。見た目ではさほど筋力のありそうな腕には見えない細いものではあるのだが、その力は物理法則に囚われぬ神の領域。お燐の想像の及ばぬ神性が、アギトの右拳には込められている。

 そんなものをまともに受けてしまえば、どれだけ妖力で肉体を強化していたとしても、ひとたまりもないだろう。

 お燐は薄れる意識の中でお空の身を案じていたが、急に身体が楽になるのを感じた。

 

「ぐっ……ううっ……!」

 

 お空はお燐から手を離し、再び苦しそうに頭を押さえ始める。胸の八咫烏の眼は赤く明滅し、アギトの力を阻んでいるかのようだ。

 どちらかの力が強まればどちらかの力が苦しむ。そしてどちらが強くなろうとも、結果的にそのフィードバックは本体であるお空への苦痛となってしまっている。

 その場に倒れ込れこんだお燐は背後の壁に寄り掛かる形で、首を絞められ呼吸を制限された苦しみを忘れようと肺に酸素を取り込んだ。脳に染み渡る酸素のおかげで、少しづつ頭の中がクリアになっていく。

 妖怪の身であるが故か、強い力で首を絞められていたものの跡は残っていない。今は肉体的な苦痛より、親友に殺されかけたという意識の方がお燐の精神を苦しめていた。

 

 激しい頭痛にふらつき、頭を押さえながら窓際まで後退するお空。窓と言っても日光を差し入れるためのものではない。ただ単に、地霊殿の一室から等しく広がる地底の景観を見ることができる程度のもの。

 緩やかにアギトの変身が解けたのは、お空の意思か。それとも、八咫烏の力か。アギトの身体に圧縮されていた黒い翼が解放され、周囲に羽根を撒き散らす。

 生身の姿に戻ってもお空の意識は未だ安定していないようだ。右腕に戻った制御棒を一瞥(いちべつ)したかと思うと、お空は翼を広げ、窓を突き破って外に出る。羽ばたく黒い翼が地底の天盤を飛んでいき、やがて中庭から灼熱地獄跡へ向かった。

 付き合いの長いお燐には分かる。たとえ理性を失っていたとしても、お空が行きそうな場所は見当がつく。

 きっと彼女は灼熱地獄跡から間欠泉地下センターを経由し、『地上』へ向かおうとしているのだろう。かつて八咫烏の力を手に入れたばかりのとき、お空はその強大な力に増長して地上を灼熱地獄に変えてやると言っていた。彼女の本心は、再び活気に満ちた地獄の炎を見たいのだ。

 

「……っぐ、う……げほっ……! さ……さとり様に知らせなきゃ……!!」

 

 ようやくまともに呼吸ができるようになったお燐が小さく声を絞り出す。力の抜けてしまった身体をなんとか奮い立たせ、お空の部屋を後にした。

 少しでも体力の消耗を抑えるため、お燐は黒猫の姿に戻って地霊殿の廊下を駆け抜ける。生まれ持った動物の姿は、妖怪としての人に似た姿より動きやすい。こちらのほうが、生来の妖獣であるお燐にとっては楽に過ごせる。

 慣れ親しんだ主人の妖気を追い、素早く人間の姿に戻ったお燐は客室の扉を開け放った。猫の姿はお燐にとって楽だが、人の言葉を話すことができないという欠点があったためだ。

 

「さとり様っ!! 大変です! お空が金色の怪物になって、地上に……!!」

 

 部屋の中にいた翔一とさとりは互いの顔を見合わせ、真剣な表情で頷く。お燐の言葉を聞き、二人の疑念は確証に変わっていた。

 お燐の言葉からさとりが見つけた結論は一つ。間違いない。お空はアギトとして覚醒した。そこまでは推測できるが、まさかこれほど早い段階でアギトになってしまうとは。想定していたよりも遥かに進化が早い。

 八咫烏の力と反発し合い、進化が阻害される可能性もあったが、あるいはむしろ促進されてしまったのか。否、今は考えている余裕はない。一刻も早く、お空を連れ戻す必要がある。

 

「あたい、お空を探してきます! まだそんなに遠くには行ってないはず……!」

 

「待ちなさい、お燐!」

 

 お空の変貌と暴走に焦っている様子のお燐は、さとりの静止も聞かず、再び猫の姿になって部屋を飛び出す。すでに階段を飛び越えていってしまったのか、さとりは視界の端に二本の黒い尻尾の先が消えていくのを見ただけだった。

 さとりはお空を信じている。たとえ未知の力を取り込んでしまったとしても、自分を失わずにいてくれるはず。そう思ってはいるが、その過程で誰かを傷つけてしまうかもしれないという思いも拭い去ることはできない。

 さとりは本当は自分で彼女らを連れ戻したいと思っている。だが、本気の戦闘などほとんどしたことがないのだ。アギトと化したお空を救うことも、おそらくは彼女を狙うアンノウンへの対抗も難しい。自分が行っても、二人の役に立つことはできないだろう。

 少し逡巡したが、翔一を見る。彼の思考は、お空とお燐への心配に一切の葛藤さえも抱いていないようだ。

 自分には無関係だと思っていないのは、自分のせいで二人がアギトの力を宿してしまった、という罪悪感からだろうか。ともあれ、今のさとりにはアギトである彼を頼るしかなかった。

 

「……申し訳ありませんが、津上さん。二人のこと、よろしくお願いします」

 

 翔一はさとりの言葉に強く頷き、その部屋を後にする。間欠泉地下センターから灼熱地獄跡を経由し、この地霊殿に来たときのルートはすでに記憶している。中庭に停めてあるバイクを使い、もう一度あそこへ向かおう。

 さとりから地底の詳しい構造を教えてもらい、間欠泉地下センターから地上へ出られることを知った翔一。お空は、そこから地上へ出たのだと言う。

 お燐を追ってほしいと頼まれ、翔一は再び高熱の空気が満ち溢れる灼熱地獄跡へと戻っていく。常人ならば過酷すぎる環境かもしれないが、アギトとしての力を宿している翔一にとっては大した脅威ではない。

 地霊殿を訪れる少し前にも翔一は灼熱地獄跡に倒れていたのだ。今更、この程度の熱で死を予見することもない。彼の身には地獄の炎よりも遥かに強い、天の火が輝いているのだから。

 

「それにしても……津上さんの記憶にあったあれは……」

 

 一人、自分の部屋に残されたさとり。翔一の記憶に見られたアンノウンとの戦いの中に、さとりは見覚えのあるものを見つけていたことを思い出した。

 青い装甲。機械仕掛けの武装。人類の叡智を結集して開発されたであろう、おそらくはアンノウンと戦うための強化外骨格(パワードスーツ)らしき戦士の姿。

 動物たちが集めてきた残骸の中に、それらしきものがあったような、なかったような。さとりの記憶に走る青。その名も知らぬ鋼の鎧を、さとりは確かにその目で見た記憶がある。

 

 気づけば、さとりは考えるよりも先に地霊殿の地下倉庫へと向かっていた。

 

◆     ◆     ◆

 

 地霊殿の中庭に停めておいた銀色のバイクに乗り、翔一は同じく銀色のヘルメット越しに灼熱地獄跡を繋ぐ通路の先と向き合う。薄暗い地底通路の先に輝くのは、先日もアンノウンと拳を交わした間欠泉地下センターの最深部だ。

 エンジン音を響かせ、暗い洞窟の隙間を走っていく一機の大型バイク。それそのものは翔一が普段から使用している一般的な自動二輪車(オートバイ)でしかない。――今、この状態においては。

 

 バイクを走らせる翔一の腰に光が走る。赤い帯に黒いバックルを装うオルタリングは、バイクのシートに腰かけた状態の翔一の身体に現れ、ベルトとして定着した。

 オルタリングの鳴動、大地の鼓動を思わせる心音めいた駆動音と共に、翔一は思考を光へと導く。オルタリングの覚醒に必要なサイドバックルへの衝撃は不要。大地と、光と、火と風と。進む未来と一つになったような感覚。

 翔一は両手でバイクのハンドルを握ったまま、腰に巻くオルタリングに意思を届けた。

 

「変身!!」

 

 その一声をもって、翔一の身体は金色の光に包まれる。アギトとしての姿。グランドフォームの装甲に覆われ、翔一は赤い複眼で未来を捉えた。

 全身から放たれる超常の光、輝く『オルタフォース』の波動によって、翔一の身はアギトへ至る。溢れ出た光の力は彼のみならず、彼が乗っていたバイクにも変化を与えていた。

 

 翔一が生きる世界ではありふれた見た目をしていた銀色のバイクは、オルタリングから溢れ出るオルタフォースを浴びて、光の力に相応しい形へと姿を変える。

 銀の車体は赤と金色に彩られた神秘の装甲に。車体の前面を覆うフルカウルは黄金に創り変えられ、中心には六枚の角を広げた龍の紋章が刻まれていた。

 光の本能に従い、翔一が操る超常の機体。『マシントルネイダー』の名を持つこのバイクは、先ほどよりもさらに速度を上げて灼熱地獄跡と間欠泉地下センターを繋ぐ通路を疾走する。

 

「はっ!」

 

 マシントルネイダーを走らせる翔一は一度、その速度を緩めることなくシートを蹴って飛び上がった。アギトの身のまま、眼下で走るマシントルネイダーと同じ速度で素早く空中前転。それを引き金として、彼の意思は光に届いた。

 前後に大きく引き伸ばされるマシントルネイダーの車体。さながら空を飛ぶ龍の如く、赤と金の装甲は縦に長い身体に変わる。地を駆ける前輪と後輪は水平を向き、その回転を止めて車体を空中浮遊させた。

 シートの上に着地したアギトは両脚を前後に広げ、右手を正面に伸ばしながら左手を腰に添える。サーフボードめいた形状となったマシントルネイダーの上に乗り、翔一(アギト)は額のマスターズ・オーヴの輝きをもって、その機体に手を触れることなく超速の飛翔を遂げていた。

 

 この姿はもはや、常識におけるバイクという次元を超えている。天使の力を受けてアギトのための翼となったマシントルネイダー、その『スライダーモード』と呼ばれる形態は、翔一にとって頼れる手足の一つだった。

 かつて翔一がサソリに似た超越生命体、猛毒の針を持つアンノウンに殺されかけた際、突如として発現したマシントルネイダーの飛行形態。これは、闇の力の慈悲によって翔一に与えられた加護である。

 彼自身はその経緯を知る由もないが、その恩恵は本来の津上翔一の説得によるものだ。

 

「……! お燐ちゃん!」

 

 スライダーモードに変形したマシントルネイダーに乗り、翔一は視界に双尾を揺らして走る黒猫の姿を捉える。間欠泉地下センターを目指すその黒猫は赤い模様とリボンを装っており、翔一が知る妖怪の特徴を備えていた。

 翔一はその黒猫の背を優しく掴み、マシントルネイダーの後部に乗せる。座席などは存在しないが、車体を覆うオルタフォースの結界『オルタバリアフィールド』によって守られているため、彼女が疾走による風圧を受けることはない。

 お燐は急な浮遊感と視界に満ちる未知の輝きに困惑した。すぐに目の前に立っているのがアギトであることが分かり、慌てて人間の姿に変化する。人の身となったお燐の体重が急に加わっても、マシントルネイダー スライダーモードはバランスを崩すことなくお燐を受け入れた。

 

「お、お空……!?」

 

 アギトの背を見たお燐は一瞬、先ほど目にした、親友が変わり果てた異形の姿を想起する。しかし、その体格はお空とは似つかない。背中に押し込められた翼の意匠もなく、同じアギトながら特徴は別人のものだ。

 そこでお燐は混乱していた思考をようやく整え、津上翔一の笑顔を思い出した。最初に見たアギトは、翔一が変身した姿だった。となれば、この『アギト』も翔一が変身したものだろう。

 

「お燐ちゃん! しっかり掴まってて!」

 

 自らの背後を振り向かず、翔一は空を見上げながら車体後部に座るお燐に言う。間欠泉地下センターに辿り着き、眩い人工施設の光に目を閉じながらも、お燐は咄嗟にマシントルネイダーにしがみついた。

 直後、ふわりと感じる不思議な浮遊感。妖怪として空を飛んだときにも似ているが、不意に感じるとここまで奇妙なものなのだろうか。

 お燐は浮遊感と背中を引っ張られるように感じる重力、前方から瞼の裏を赤く焼く光の中、ゆっくりと目を開けた。

 ――お燐が最初に見たのは、晴れ渡る青空に高く輝く『本物の太陽』だった。その眩しさに目を背け、続いて目にしたのは見慣れた施設の壁。それが物凄い速さで下へと流れていく。

 

「うわっ……! な、なにこれ……っ!?」

 

 驚きに手を離しそうになったが、精一杯の力を込めて再び車体にしがみついた。

 お燐が乗せられ、アギトとなった翔一が繰る超常の機体、マシントルネイダー スライダーモードは、その車体を真っ直ぐ垂直に立たせ、深い縦穴として設計された間欠泉地下センターを昇っていたのだ。

 オルタフォースによって固定されたアギトはマシントルネイダーから落ちることなく、それを大地とするかのようにしっかりと両足で踏みしめる。

 数瞬の後、マシントルネイダーは車体の向きを水平に変えた。背中を引っ張られるような感覚はなくなり、お燐は車体から感じる下向きの引力、いつも通りの重力に安心して座り込んだ。

 

「すごい……!」

 

 慣れ親しんだ地底を抜け、今飛んでいるのは青空の下。有史以前よりこの星を暖めてくれた原初の太陽が輝く『地上』の(そら)である。これまで何度も地底を出て、死体を探すために地上を出歩いたことはあるが、ここまでの速度を体験したのは、お燐とて初めてのことだった。

 

「……あっ! お(くう)っ!!」

 

 マシントルネイダーの後部から地上を見渡すお燐の言葉で、翔一は速度を緩める。空中で旋回し、お燐の指す場所――翔一も感じられたお空の気配、自身と同じオルタフォースの波動を目指しながら、マシントルネイダーを地上へ向けた。

 巨大な山の近くに広がる広大な森。鬱蒼と生い茂る木々の傍に立つ小さな道具屋の近くで、お空らしき少女がエネルギーを圧縮しているのが見える。

 お空の近くには二人の人物がいるようだ。今のお空の状態では、二人は暴走に巻き込まれてしまう危険性がある。翔一はお燐にそれを伝えられ、急いでその場所へと向かっていった。

 

◆     ◆     ◆

 

 ひんやりと満ちる冷たい空気。それは、幻想郷ならざる外の世界。

 しかし、ここは幻想郷の住人たちが知る『外の世界』とは別の因果にある世界である。

 

 旧地獄でも地上でもない、どこかの場所。幻想の気配も感じられないほど、暗くひっそりと静まり返った森の中。ぼんやりと輝く光の球の前に佇むのは、神々しいまでに荘厳な装飾を纏った異形の怪物だった。

 この異形もまた、神たる闇の力によって創られた天使の一人。同じく神が創った人間たちから恐れられ、『アンノウン』と呼ばれている怪物である。

 頭部は鋭く獲物を喰らう猛禽の鳥獣、天空の王者たるタカを思わせる。全身に配された美しい羽毛は、この世のものではない。

 神に仕える天使の長、最も神に近い七大天使の一人に数えられる神の世界の神官。高位のアンノウンである彼は『エルロード』として、神の眠る『聖地』の守護を司っている。

 

 動物たちの君主たる天使(マラーク)を統べる大天使(エルロード)の存在。それらは、かつて人類にアギトの力を与えた大天使と同格の使徒。神を裏切り、人類から光の力と呼ばれた者は、今やエルたちの中では忌まわしきアギトの象徴とも言えた。

 人類に与えられた文明は火という知恵だ。それを司っていたのは『火のエル』というエルロードの一人。龍に似た姿を持っていたこのエルロードは、もはや神の世界にすら存在しない。

 

(テオス)よ……やはり肉体を失っているか……」

 

 タカによく似た姿を持つ高位の超越生命体、エルロードの一人である『風のエル』は、猛禽の爪めいた右手を伸ばし、虚ろに漂う神秘の光球に触れる。誰にともなく呟かれる声は男性とも女性ともつかない、(かすみ)のような色をしていた。

 神たる『闇の力』の肉体と同じく、風のエルも一度は肉体を破壊されている。神の愛した人間は、アギトの力をもって創造主に牙を剥いたのだ。

 それだけではない。闇の力にとって許せなかったのは、彼が人間からアギトの力を奪ったにも関わらず、力を失って『ただの人間』となったはずの人間からも、裏切られたことである。

 

 アギトならざる人間の攻撃で深く悲しんだ(テオス)は、愛する子供たちを、人類そのものを滅ぼそうと決めた。全人類をリセットし、もう一度、人類への愛を最初からやり直そうと、人智を超えた神の力を行使した。

 一人、また一人と自分と同じ顔を持つ人間と遭遇し、ドッペルゲンガー現象によって次々に命を絶っていく人間たち。やがて人類は自らの手で死滅を迎える。それを阻止すべく、光の力に選ばれたアギトは神の肉体を破壊。闇の力が現世に降臨するための身を蹴り砕いた。

 

 神はアギトを受け入れることができなかった。しかし、神が『アギトを滅ぼす者』として蘇らせた人間は曰く「人はアギトを受け入れるだろう」と答えを出した。人間の無限の可能性として、アギトはやがて人類に認められるという。

 それが人類の未来への答え。神は人類への愛を忘れることができず、その言葉を信じた。人類の歩む道を見届け、アギトさえ受け入れられるように。

 あの男が放った言葉が正しいのかどうか。自らが創造し、何よりも愛した人間という存在が何なのか。もう一度、その目で見守るために。神は人間の肉体を再び得ようとはせず、何の力も持たない霊体のまま神の世界へと消えた。

 人類の行く末を見守ると宣言した今の神には人類への悲しみはないだろう。そのはずであるのに、神は今、超常的なエネルギーの光球としてこの聖地で復活の瞬間を待っている。

 

「…………」

 

 ふと、風のエルは自らが守護する神の領域、聖地と呼ばれるこの場所に踏み入ろうとする愚か者の気配を感じ取る。

 この世すべてのタカという動物は、エルロードたる彼を模して創造された命だ。タカを遥かに凌ぐ眼を与えられた彼の視力は、森羅万象の一切を貫き、あらゆるものを見通すほど鋭い。

 

「ひっ……! ば、化け物……っ!!」

 

 風のエルの姿を見てしまった青年は蒼褪めた様子で腰を抜かし、慌てて逃げ去ろうと必死に立ち上がる。足がもつれてしまっているのか、上手く逃げ出すことができないようだ。

 

「……見たな。ここは聖地。人間の来るべきところではない」

 

 振り返った青年が見たのは神の造形を誇る神秘の長弓。風のエルが光の渦より取り出した白い弓は、聖地へ踏み入った者への神罰を執行するための『憐憫(れんびん)のカマサ』と呼ばれるもの。風のエルはそれを右手の指で引き絞り、憐れみを込めた光の一矢を放った。

 矢に射抜かれた青年は苦痛の声も上げず、自らが射抜かれたことにすら気づかず、その身をこの世から消失させる。

 声も、身体も、魂すらもそこには残りはしない。存在そのものが、矢による天使の干渉を受け、この世から消え去ったのだ。ただ、纏っていた衣服(・・)という証だけを儚くその場に残して。

 

「忌まわしきプロメスの火……人間(ヒト)の分際を超えてその先へ燃え移ったか……」

 

 風のエルの眼が見通しているのは物質的な地平だけではない。遥かな空を見上げ、その瞳に映るのは異なる空の並行世界。

 アギトの光。闇の力の子供たち。その神話は、風のエルやその他のアンノウンたちが降り立った世界にのみ。闇の力が人類を創造したという歴史すらも、今、風のエルが存在する『この世界』だけの過去である。

 無論、この世界を基準とする別の並行世界にも同じ歴史は存在している。ただ、大きく分けられた物語の尺度として、選ばれた『九つの物語』のうち、光と闇の神話を持つのがこの世界だけということ。

 笑顔と青空の世界にも、あるいは幻想郷の外の世界にも。可能性の道は繋がっていない。




超能力者でドッペルゲンガーといえば、やっぱりあの人。

次回、第12話『深秘的な超能力者』

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