東方逢魔幻譚 ~ Never Cross Phantasm.   作:時間ネコ

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第12話 深秘的な超能力者

 幻想郷の人里から少し離れた山麓(さんろく)の平野に、鬱蒼とした広がりを持つ不気味な森が存在している。深い魔力と有害な瘴気に満ちたこの森は『魔法の森』と呼ばれ、よほどの物好きでもない限り近づく者はいない。

 そんな森のすぐ近くには、とある小さな古道具屋『香霖堂(こうりんどう)』が建っている。里でも森でもないこの場所は人間の領域と妖怪の領域、それぞれの中間に位置していると言っていい。

 

 そして、それを体現するかのように、この香霖堂を経営する店主もまた人間と妖怪の中間たる存在――『半人半妖』と呼ばれる人妖の混血(ハーフ)であった。

 若く見えても半妖の青年。見た目以上に長く生きている 森近 霖之助(もりちか りんのすけ) は今は店の外におり、従業員不在の香霖堂を背にして青と黒の東洋風(オリエンタル)な装束の裾を熱風に揺らしている。短く整った銀髪の隙間から覗く眼鏡(めがね)越しの双眸(そうぼう)は、どこか好奇心に光っているようだ。

 視線の先にいるのは霖之助(りんのすけ)自身も写真や伝聞以外で姿を見るのは初めての妖怪、旧地獄に住まうとされる霊烏路空だった。普段は地底で働いていると聞いていたが、その様子はどう見ても尋常ではない。()けつくような熱風を全身から発しながら、激しく苦しそうに息を荒げている。

 

「あれは地底の……確か『お空』と呼ばれている地獄鴉だったか。なぜ彼女が地上に……?」

 

 今は春だというのに目の前にいる核熱の地獄鴉が空気を熱し、夏のような暑さだ。霖之助は額に伝う汗の雫を拭いながら、外の世界から仕入れたストーブの熱を思い出す。冬にあれだけ重宝した暖かさなど比較にならないほど、お空の熱は遥かに強い。

 湿度の高い森の水分が蒸発していく。焼き尽くされる空気が渇き、眼球や口の中が乾燥していくのが分かる。

 霖之助の視界が白く染まったのは水蒸気によって眼鏡が曇ってしまったからだ。その隣で同じく白く曇った眼鏡を拭いて掛け直す少女もまた、目の前で燃え盛る地獄鴉に視線を注いでいる。

 

「地底の妖怪なんて珍しいんじゃない? ……でも、なんかヤバそうな雰囲気……」

 

 癖のついた茶髪に被る黒い帽子、近代的な(すみれ)色の制服とスカート。本来ならばこの幻想郷の住人ではない 宇佐見 菫子(うさみ すみれこ) だが、彼女はとある理由から眠っている間だけ()()()()からこの幻想郷に来ることができるという特殊な体質を持っている。

 その本体は外の世界の女子高生として、平日の昼間は学校の教室で、それ以外は自室のベッドで眠っているはずだ。

 

 夢を介して疑似的に幻想入りを果たしている菫子(すみれこ)。その原因は彼女が完成させていた外の世界のパワーストーン『オカルトボール』による都市伝説の具現化により菫子の『ドッペルゲンガー』が生まれてしまったからである。

 菫子が外の世界で眠りに就くと、幻想郷に菫子のドッペルゲンガーが形成される。ドッペルゲンガーの意識は外の世界で寝ている菫子の肉体に宿り、その意識は菫子が見るはずだった夢を見ている状態にある。

 つまり、今この幻想郷に存在している生身の菫子は外の世界の人間ではなく、その意識を宿したドッペルゲンガーというわけだ。とある人物にとって『夢幻病(むげんびょう)』と名付けられたこの症状を抱えたまま、菫子は今もこの幻想郷にドッペルゲンガーの肉体を伴って足を踏み入れている。

 

 かつて宇佐見菫子が幻想郷の存在を突き止め、博麗大結界を破壊しようとした『深秘異変(しんぴいへん)』からしばらく経つ。当初はただ幻想郷の中を調べたかっただけだったようだが、追い詰められた彼女は自らの命さえ散らす覚悟で幻想郷の秘密を暴こうとした。

 幻想郷にばら撒かれたオカルトボールを集めさせ、七つを手にした者を鍵として内側から結界を破壊させる。博麗の巫女や賢者たちの活躍によってこの異変は解決されたのだが──

 菫子は知らなかった。オカルトボールを七つ集めると願いが叶うという噂。それを流布した己が目論見とは別に、オカルトボールの力で噂や都市伝説が具現化する『都市伝説異変』が併発していたことを。

 

 深秘異変の黒幕である菫子は今もこうしてドッペルゲンガーとして幻想郷に現れている。彼女のオカルトボールにはまだ謎があったのだ。

 菫子が用意したものとは別のオカルトボールによる月の都の遷都(せんと)計画、さらに長らく解決されていない都市伝説異変の影響、残存したオカルトボールの力を第三者に利用されてしまったがために起こされたまた別の異変もあったが、そのどちらもすでに解決済みだ。

 菫子の本体は外の世界で眠っているにも関わらず、ドッペルゲンガーの肉体には菫子本体と共有された意識がある。最初のうちは実体を持たぬ精神だけの幻想入りだったのだが、いつの間にやら肉体を備え――気づけば幻想郷(ここ)で負った傷や疲労も現実で眠る本体に反映されてしまっていた。

 

「熱っつ……! 能力で防いでなかったら近づいただけで火傷(やけど)しそう……!」

 

 菫子は外の世界では珍しい幻想の力を持つ者、すなわち『超能力者』である。操る異能は念動力やテレパシー、発火や透視など多岐に渡る。生身の人間にしてこの幻想郷で生きていけるのは、彼女が持つその能力にあった。

 外の世界の人間として、外の世界に興味を持つ霖之助の店に度々訪れていた菫子。今回はたまたま運悪くお空の暴走に遭遇してしまった。

 

 精神を集中し、具現化した超能力の波動を目の前に圧縮する。触れずして物体を操るサイコキネシスの応用、霊力とも呼べる超自然的な精神エネルギーの力場を形成してお空が放つ膨大な熱波を防御している。

 彼女が持つ『超能力を操る程度の能力』は現実の物理法則を超越した特殊な概念ではあるが、それは一種の幻想として定義された。厳密に言えば外の世界の能力でありつつ、この幻想郷ではスペルカードルールに従うことのできる――弾幕ごっこを行える『能力』として認められている。

 

「これではさすがに、弾幕勝負どころじゃなさそうだな……」

 

 菫子の隣でお空の熱波から身を守る霖之助もまた、超常の力を宿した存在だ。外の世界の常識的な人間である菫子とは違い、彼は幻想郷の住人たる怪異の血統、先天的に人間と妖怪の血を分けた半人半妖の種族である。

 幻想郷でも特に珍しい人妖の混血。霖之助は少女たちの遊びである弾幕ごっこに興じることはないが、自力で弾幕を放つことぐらいなら造作もない。

 爆発的な熱風を浴びて顔をしかめながら、片腕を上げ顔を守る。見たところ相手にはまともな状況判断ができるだけの理性が残っているようには見えない。まずは一度、多少手荒な真似をしてでも落ち着かせてやらないことには、弾幕勝負(スペルカードバトル)の申し出も聞き届けてくれないだろう。

 

「ぐっ……うっ……」

 

 いざとなれば菫子の超能力で無力化してもらおう――と考えている霖之助の目の前で、熱波を放つお空の身がぐらりと揺れた。

 周囲の気温が微かに低くなったように感じる。白煙を立ち昇らせるお空は熱を鎮め、剥き出しにしていた八咫烏の力を抑え込んで限界を迎えたのか、霖之助たちに直接的な被害を加える前に力尽きたようだ。

 幸い、まだ息はある。その身体は余熱を帯びてかなり高温なものの、先ほどまでの地獄の熱波に比べれば大分落ち着いてきている。灼熱を放つ脅威が去ったと言えば安心できるが、言い換えれば目の前で少女が倒れたのだ。お空を見つめる二人の表情には、別の心配の色が浮かんでいた。

 

「あ、あれ? 倒れちゃった? もしもーし、大丈夫?」

 

「どうやら気を失っているみたいだね。……よほど体力を消耗していたんだろう」

 

 倒れたお空を気遣う菫子に霖之助が言葉を返す。

 ほんの少し前まではあれだけ高温だったこの周辺の気温は、魔法の森が保つ湿度のおかげか元の空気に戻りつつあった。苦しんでいたお空の表情も安らいでいるように見える。どうやら力を使い果たし、眠ってしまったらしい。

 倒れた少女を介抱するべく、近づこうとする二人を仰ぐ一陣の風。森の湿気を乗せた不快な風の中に、霖之助と菫子は見知らぬ光を見る。

 光が消えたその先にはさっきまでマシントルネイダーの姿として空を翔けていた車体――ではなく、外の世界にありふれた見た目の銀色のバイクが着地していた。そこから降りた青年と少女がお空に駆け寄っていき、地底に住む火猫の少女、お燐が親友であるお空に声を掛ける。

 

「お空っ! しっかりしてよ!」

 

 もはやそこに倒れているのは、ただ一人の妖怪の少女だ。お燐は心配そうにお空を抱き抱え、語りかけた。お空の体温は恒常的に高いが、今は平熱と言っていい。暴走の影響はどうやら落ち着いているようだ。

 翔一はマシントルネイダーを着地させた時点でアギトの姿から生身の姿へと戻っている。通常のバイクに戻ったこの車体には、今は飛行能力はない。

 地霊殿で聞いたお燐の言葉を思い返す。彼女はお空が金色の怪物(・・・・・)になったと言った。その変貌を直接見たわけではないが、アギトの力を宿してしまった者が至る金色など言うまでもなく一つしかない。翔一は、お空が自分と同じ、あの姿(アギト)に至ってしまったと確信せざるを得なかった。

 

「……君たちは彼女の知り合いかい? 君は……見たところ外来人のようだけど」

 

 魔法の森、入り口近くの古道具屋──香霖堂。この店の店主たる霖之助は、お空を追って現れたであろう二人の来訪者に訝しみの声を投じる。

 一瞬だけ見えた青年の光は気のせいだっただろうか。霖之助には、外来人らしき服装の青年がさっきまで金色の怪物の姿をしていたような気がしていた。あるいはそれは、怪物と呼ぶには流麗で、戦士のように見えたかもしれない。

 菫子もそれに気づいたようだが、今はそれよりも目の前に倒れている少女をなんとかするのが先決だ。外来人の青年と、おそらくは地底から来た猫の妖怪に対し、霖之助は再び口を開く。

 

「まぁ、事情は後で聞こう。彼女をこのまま、ここに寝かせておくわけにもいかないからね」

 

 倒れた妖怪に加え、一人の人間と一匹の妖怪を香霖堂の中に招き入れる。香霖堂には売り場の他に霖之助の居住スペースも設けられている。使っていない部屋は倉庫代わりにしているが、道具を端にどければ使えるはずだ。

 霖之助は人間でも妖怪でもあり、そのどちらでもない。妖怪を退治する責任も、人間を襲う義務もない。あるのはただ、一人の男としての優しさと、店主としての知的好奇心だけだ。

 

◆     ◆     ◆

 

 魔法の森と人間の里の中間、森の入り口近くに建てられた異国風の建物。幻想郷で唯一、外の世界の道具を取り扱う香霖堂の奥で、翔一は自己紹介を兼ねた状況の説明をした。

 

 幸い、この店は来客があまり多くはない。人間と妖怪の境界にあればその両方を相手に商売ができると考えたが、実際はそのどちらもあまり近づく者はいないようだ。それでも、一部の常連客はたまに訪れることはある。品物を買っていく者は少ないが。

 お空の身を案じ、お燐は香霖堂の奥で眠っている彼女に付き添っている。熱も下がり、落ち着いた表情で眠るお空はアギトの力を宿す前と変わりない安らかな寝顔を見せていた。胸に輝く八咫烏の眼も、安定した緋色のままだ。これなら、近いうちに目を覚ましてくれるだろう。

 

「……なるほど。アギトの力にアンノウン……か。にわかには信じられないが、菫子くんはどうだい? 君は、外の世界では現役の女子高生なんだろう? そういった話は何か聞いていないか?」

 

「女子高生は関係ないと思うけど……うーん……特に心当たりはないかなぁ」

 

 翔一の話を聞き、訝しみながら思考を巡らせる霖之助。売り場に三人分の椅子を用意して会話をしているが、来客など滅多にないため問題はない。

 慣れ親しんだ外の世界に想いを馳せながら、菫子は翔一から聞いたアギトやアンノウンについてのことを考えてみる。自分のいた外の世界では彼の言うような怪物の存在など見たことも聞いたこともなかった。

 オカルト好きな菫子ならそんな話を聞けば覚えているはずである。古今東西の都市伝説を調べているつもりだが、アギトやアンノウンといったものに関しては記憶にない。

 

「ちょっと待って、ググってみる……って、そうだ。ここ電波通ってないんだった……」

 

 アンノウンは人間の潜在的な特殊能力を発現させた『超能力者』をターゲットとして人を襲う怪物らしい。しかし、本物の超能力者である菫子は翔一の話す事柄についてまったくと言っていいほど何も心当たりがなかった。

 外の世界から幻想郷に持ち込んだ最先端の携帯端末、愛用のスマートフォンを操作し、それらについて検索しようとしたものの、外界から隔絶された幻想郷には外の世界の電波など通っているはずがないのだ。当然、圏外扱いとなり、インターネットへの接続さえままならない。

 

「……な、何よ。他人(ひと)のスマホ、あんまりじろじろ見ないでよ」

 

 物珍しそうにスマホの画面を覗いてくる翔一に驚き、菫子は自身の胸に画面を当てて溢れる電子の光を覆い隠した。別にやましいものを見られているわけではないのだが、他人にスマホの画面を覗かれるのはなんとなく居心地が悪い。

 否、正確には彼はスマホの画面ではなく『スマホそのもの』に興味を持っているようだった。まるで外の道具に執着する霖之助のように、興味深そうにそれを見つめている。

 

 霖之助はその様子に、どこか奇妙な既視感を覚えた。菫子と同様、霖之助自身もその様子に自分と似たところを感じている。この青年は地底で幻想郷の話を聞き、自分が外の世界から来た外来人ということを自覚しているらしい。

 津上翔一と名乗った青年は紛れもなく外の世界から来た外来人で間違いない。しかし、外の世界と言っても幻想郷より遥かに広大な世界。菫子曰く彼女は『都内から遠くない』場所から幻想郷に来ているようだが、彼の場合は別の場所から来ているのだろうか。

 あるいは、彼がただこの『スマートフォン』なる道具を所有していないだけかもしれない。菫子からこの道具を見せてもらった際、この道具が『自身が持つ情報の無償提供』を用途とした道具であることは確認済みだ。

 霖之助は『見ただけで道具の名前と用途が判る程度の能力』を持っている。もっとも、この能力では名前と用途が判っても使い方までは分からないため、度重なる試行錯誤の末にようやく使いこなせるようになるか、諦めて他の道具と同じように商品として店に並べるしかないのだが。

 

 香霖堂に置いてある外の世界の携帯電話はまだ旧式のものばかりらしい。それを知ったのは、外の世界では最先端だという、スマートフォンなる携帯電話が普遍的に使用されていると菫子から聞いたからだ。

 品揃えは最新だと思っていた霖之助は軽くショックを受けたが、まだ見ぬ未知の外来品が多いと知って商売熱が再燃したのを覚えている。

 しかし、先の話の通りならば外の世界では今も菫子が使っているようにスマートフォンはありふれた道具のはず。そこまで物珍しがるほどのものではないということは、菫子の反応からも明らかだ。霖之助はそれを疑問に思い、菫子のスマホに興味を示している翔一に問いかける。

 

「僕は幻想郷(こっち)の住人だから興味を惹かれるけど、外来人の君にとっても珍しいものなのかい?」

 

「だってすごくないですか? まだ携帯も普及したばかり(・・・・・・・・・・・・)なのに、こんなに高性能だなんて!」

 

 嬉々として、笑顔で霖之助に語る翔一。その言葉を聞いて、テーブルの上にスマホを置いた菫子は思わず目を丸くした。

 幻想郷と外の世界の時間の流れは共通である。たとえ結界を隔てた別の世界だとしても、外の世界が春であれば幻想郷にも桜が芽吹き、外の世界が冬を迎えれば幻想郷にも雪が積もって季節は巡る。それらは幻想郷も外の世界も同じはず。

 外の世界は今は西暦2020年。幻想郷は一見は明治時代の文化を保ってはいるが、実際はただ精神面で成熟した人間たちが博麗大結界の創設当時、すなわち幻想郷が外の世界と隔絶された当時の様式を続けているだけだ。

 紀年法こそ西暦や和暦ではなく『第135季』と呼ばれているものの、意味としては外と同じ『令和2年』を表している。外の世界と同様、今は『西暦2020年』ということに変わりはない。

 だからこそ、菫子は翔一の発言がおかしいことに、すぐに気づくことができたのだ。

 

「普及したばかりって……いつの時代の話? 2020年じゃスマホなんて珍しくないでしょ?」

 

「に、2020年? またまた、そんな冗談ばっかり! だって、今は2003年じゃ……」

 

 幻想郷に住まうわけでもなく、眠ることで幻想郷に来ている菫子は外の世界について、この幻想郷で誰よりも馴染みがある。何気なく翔一に告げたつもりだったが、翔一はそれを冗談だと受け取ったようだ。

 再び外から持ち込んだ愛用のスマホを手に取る菫子。幻想郷ではインターネットに繋ぐことはできないが、バッテリーさえ残っていれば多くのことができる。

 画面を点け、菫子は翔一にそれを見せた。ロックされた待ち受け画面には菫子が撮影したであろう写真が浮かび、そこに刻まれた日付にはしっかりと『2020年』の表記がされている。

 

「……マジ、ですか?」

 

 どうやら冗談ではないらしいと知って、翔一は笑顔を失った。震える声で問うも、菫子はさも当然のように頷いている。津上翔一は令和などという元号を知らない。彼は紛れもなく平成の人間であるのだ。

 すべての始まりとなったあかつき号事件は、彼にとって西暦2000年の出来事。そこから記憶を失ってとある家族に保護され、2001年から2002年まで、アギトとして、超能力者たちの命を狙うアンノウンと長い戦いを続けてきた。

 ある冬の日、闇の力と呼ばれるアンノウンの盟主を退けてから一年。翔一は2003年において、イタリアンレストラン『ΑGITΩ(アギト)』を経営しながら料理の腕を振るっていた。

 

 そのはずなのに、津上翔一は気づけば旧地獄の灼熱地獄跡に迷い込んでいた。翔一はさとりから幻想郷や妖怪について聞いているが、ここが外の世界と隔絶された空間、幻想郷と呼ばれる場所ということしか把握していない。

 ようやく自分と同じ『外の世界』を知る者と出会えたと思ったら、どうやら彼女は自分とは別の時代、翔一から見て未来の世界から来ているようだ。

 少なくとも翔一はそう考えている。しかし、正確にはその認識は正しくないと言える。なぜなら外の世界は菫子の認識通り西暦2020年の時代であり、この幻想郷もそれに対応した第135季の時代だからだ。

 菫子にとっても幻想郷にとっても西暦2020年は『今』であり、決して未来などではない。

 

「じゃ、じゃあ外の世界……って言うのかな。そっちで昔、未確認生命体事件とか超能力者を狙った不可能犯罪とか、いろいろありませんでした? 結構、大騒ぎされたと思うんですけど」

 

 かつて発生した未確認生命体事件。それが収束してから二年の月日が流れ、今度は未確認生命体を凌ぐ『アンノウン』が現れた。続けて起きたこの凄惨な事件による死傷者は多数に登り、翔一にとっては現在である2003年でもその傷跡は深い。

 ニュースでも新聞でも絶え間なく報道されている出来事。翔一が闇の力を退けて以来、彼の知る世界にアンノウンは出現していないが、それでもあの事件が忘れられてしまうことはきっと永遠にないだろう。

 警察は不可能犯罪の元凶たるアンノウンの存在を公表していないため、それらが認知されていないのは仕方がないかもしれない。

 それでも、怪物としての姿は多くの人が見ているはずだ。普及したばかりの携帯をもって情報を共有すればあっという間に噂は広がる。たとえ警察が情報を秘匿していても、実際に怪物を見た人は存在している。噂話に敏感な女子高生ともなれば、怪物のことは聞き及んでいるだろう。

 

「未確認……生命体? 何それ? UMA(ユーマ)とか? そういう話は好きだけど、本当に実在するの?」

 

「……えっ?」

 

 菫子の答えは、翔一の予想を掠りもしなかった。似たようなもんなら幻想郷にもいそうだけど、と付け加える菫子はアンノウンどころか『未確認生命体』さえ知らない様子だ。その答えに愕然(がくぜん)とし、翔一はより混乱を深める。

 未確認生命体といえば、翔一だけでなく彼の知っている日本では誰しもが知っているような一般的な話だ。アンノウンとは違い、警察による情報の秘匿も一切ない。ニュースでも未確認生命体関連の報道がされ、厳重注意が呼びかけられたほど。

 いくら菫子の言う通り今が本当に2020年だったとしても、たった20年程度で風化されてしまうほど小さな事件ではないはずだ。かつて未確認生命体が存在していたことなど、子供でも知っている常識である。

 アンノウン出現の2年前。1999(・・・・)年に現れた未確認生命体は、その一種である『第4号』によって完全に滅ぼされた。

 第4号も姿を消してはいるが、4号の戦闘データを基に開発されたとある強化外骨格(パワードスーツ)。その装着者が、警視庁の『人間』として共にアンノウンと戦ってくれたことは記憶に新しい。

 

「俺がいたところでは確かに……あったはずなんだけどなぁ……」

 

 どうやら、違うのは『時代』だけではないらしい。翔一が経験したアンノウンの事件だけでなく、おそらくは当時の全国民が経験した未確認生命体の恐怖さえも、菫子は聞いたことすらないのだという。

 あれだけの事件が社会的に消されたとはあまり考えにくい。とすれば、本当に起きてはいないのだろうか。翔一は確かにそれを知っている。一度は記憶を失っているものの、すでにすべての記憶を完全に取り戻している。

 翔一のいた日本では確かに、間違いなくその事件は起きたことだ。未確認生命体もアンノウンも虚構などではない。彼の世界にとっては紛れもない現実として記憶と記録に残っている。

 

「あなた……本当に『外の世界』の人間なの?」

 

 菫子は真剣な顔で翔一に問いかけた。2003年などと与太話だと思っていたが、翔一の反応を見る限り本当のことのようだ。

 この幻想郷では外の世界では考えられないようなことが起こる。

 現に、菫子が今この幻想郷に夢を見るという形で足を踏み入れていることがすでにその怪異の一種。幻想的な法則に、科学的な見地など意味を成さない。

 菫子にとっては幻想郷の存在が。翔一にとってはアギトとアンノウンの存在こそが。現実の常識を超えた『有り得べからざるもの』として定義されている。如何なるオカルトもオーパーツも、観測されてしまえばそれは現実に起こり得る可能性として認められてしまう。

 

 勘の良い菫子は気づいていた。外の世界と言っても、おそらくは一つではない。最初はただ結界に生じた何らかの不具合により『過去の人間』が幻想入りしてきてしまったのだと考えたが、彼の知る歴史と自分の知る歴史には乖離(かいり)がありすぎる。

 それが何を意味するのか。考え得る答えに辿り着いた菫子は一瞬だけ戦慄したような表情を見せたが、すぐに好奇心に満ちた顔で翔一を見た。

 この男は『西暦2003年』の世界から幻想郷に来ている。それもただ過去というわけではない。菫子の知る外の世界とは別の歴史を歩んだ、いわば『並行世界(パラレルワールド)』と呼べる場所から来ているのではないだろうか。

 そう考えればすべての理屈が一つの座標で交わる。アギトやアンノウンについても、未確認生命体についても、それらが存在した別の世界が存在すると言うのなら、菫子にとっての幻想郷、あるいは一度は足を踏み入れた夢の世界などにも通ずる異世界と呼べる場所の肯定ができる。

 

「……どうやら、彼も君と同様、真っ当な外来人ではないようだね」

 

 答えに辿り着いたのは菫子だけではなかった。霖之助もまた、同じく翔一と共にその仮説に至っている。

 外の世界の人間にしてドッペルゲンガーの肉体を伴い、この幻想郷に存在している菫子と同じく、並行世界からの来訪者と考えられる翔一も同様に、正規の手段で結界を超えていない。

 

 そのような外来人が確認されれば、影響は薄いとはいえ異変として定義されるだろう。霖之助もよく知る博麗の巫女、異変解決の専門家である博麗霊夢はすでに行動を始めているだろうか。いや、彼女のことだから異常に気づいていながら放置している可能性もある。

 この青年――津上翔一を博麗神社まで連れていくべきか迷ったが、彼の話によるとその『アンノウン』なる怪物は地底に姿を現したらしい。

 アギトの力を宿してしまった霊烏路空や火焔猫燐といい、アンノウンが地上にまで姿を現すかもしれない。

 霖之助も菫子も話こそ聞いてはいるものの、アンノウンを見たわけではないのだ。仮にそういった存在が地上に現れたとして、霖之助たちでは対処にも限界がある。まずはこの異変――並行世界から現れた外来人の状況について、もう少し情報を集めたほうがいいと判断した。

 

 そこまで考えて、香霖堂の奥の部屋から小さく光が漏れていることに気づく。霖之助は黄金の中に青白さを備えた光に何かを察し、慌ててその扉を開けた。

 埃っぽいが丁寧に片づけられた部屋。お空と呼ばれている地獄鴉の少女は変わらず横になっており、落ち着いていた様子の先ほどとは打って変わって、元の苦しそうな表情に戻って胸の()を押さえている。

 彼女が香霖堂の前に現れた当初とは違い、高熱の波動は放っていない。霖之助が部屋に入った時点で光はすでに消えていた。部屋から溢れていた光は今は見えないが、胸に輝く八咫烏の眼の中に二つの光芒(こうぼう)が渦巻いているのが見える。

 お空の力に感応(かんのう)してしまったのか、傍でお空の世話をしていたお燐も苦しそうに頭を押さえていた。間もなくして、お空の身体に覆いかぶさるように彼女も倒れてしまう。確か、お空と同様、お燐にもアギトの力が宿っているのではなかったか、と。霖之助は翔一の話を思い出した。

 

「これは……いったい……」

 

 霖之助に続き、翔一と菫子も部屋に入る。そこには高熱も光もなく、ただ二人の少女が意識を失って倒れているだけだ。少なくとも霖之助と菫子には、そうあるように見えた。ただ、それしか分からなかった。

 しかし、翔一には分かる。ここには膨大なまでのオルタフォースの波が溢れている。アギトの力そのものではないため、菫子たちにアギトの力が芽生えることはないだろう。

 

「お……くう……」

 

 なんとか目を開けたお燐が身を起こして小さく声を上げた。自身も苦しそうなのに、彼女は何より親友のことを心配しているようだ。

 翔一は一瞬、お燐の額に小さな黄色の石、結晶状の何かが浮かび上がったように見えた。

 この力の波動、歪んだオルタフォースには覚えがある。翔一と同様にアギトの力を宿してしまった者の末路。

 歪んだ形で覚醒してしまった『アギト』の(まが)い物。アギトならざるアギト。されど、翔一の知る男はその『歪んだアギトの力』を受け入れ、戦士として立ち上がった。

 愛する者を失い、居場所を失い、自分自身さえも失い続け、それでもなおアンノウンと戦う道を選んだ強き男がいた。翔一と同じく『アギトの力』を宿しながら、翔一のように完全な形でアギトに至らず、不完全な覚醒を遂げてしまった男。お燐は今、彼と似た力の波を持っている。

 

「何か……近づいてくる……」

 

 苦しみながら、うわ言のように口を開くお燐。お空は未だに目を覚ましていない。脳髄を走る光に顔を歪め、お燐はどこか、香霖堂の外に意識を向けていた。

 本人以外にそれを知る術はないが、この場で眠っているお空も同じようにその光を見た。魂の奥深く、意識の根底に、この世ならざる『何か』の気配が突き刺さるような感覚。

 

「……何か? 何か、とはなんだい?」

 

 霖之助はその言葉の意味を問おうとお燐の顔を見たが、彼女はすでに限界を迎えていたようで、再びお空の隣に倒れてしまった。

 しかし、彼女らと同じくアギトの力を宿す者。お空やお燐よりも遥かに長くその力と付き合ってきた翔一には、光の正体が分かっている。いつもなら光は『使徒』の出現地点を導いてくれた。アギトとなるべき四肢を伝い、神の使いたるアンノウンの居場所を教えてくれるはずだった。

 

「…………!」

 

 翔一の本能に告げられる光の啓示。アンノウンの出現を感知する第六感は、これまでにない反応を見せている。幾度もアンノウンを葬ってきた翔一でさえ、この感覚は今までとはどこか違うとすぐに理解することができた。

 本能のままに香霖堂を飛び出し、店の前に出る翔一。アンノウン出現の感覚に気づいているのはお空とお燐も同様だが、二人は慣れないアギトの力に適応し切れず、身体を苛む苦痛の症状によって動けない。

 この光が示すアンノウンの出現地点はすでに把握している。それでも、それを認識するのに遅れが生じた。なぜなら、この光は、アンノウンが『今この場所』に出現すると、翔一の本能に伝えてきているからだ。

 アンノウンの気配は、この頭上にある。いったいどうやって、この何もない空間座標に現れるのか。翔一が知らないだけで、奴らは無を超越して現れる神の如き御業を備えているのか。

 

「ど、どうしたの? 急に飛び出して――」

 

 翔一の行動に驚いた菫子も彼を追い、香霖堂の外に出る。霖之助も同じく、奥の部屋でうなされるお空とお燐のことも気がかりではあるが、翔一の反応が気になって外に出てきた。

 

 目の前に佇む翔一の背中は、何もない空間に対して強く警戒している。

 空を見上げ、鋭く天空を睨む翔一の目線。その先に、菫子と霖之助は超常の『光』を見た。

 

「あれは──」

 

 空を歪める灰色の裂け目。境界を揺るがす極光の膜壁(まくへき)。ただ、そう形容するしかないもの。されど、翔一にだけは分かる。この光は、その奥からアンノウンの気配を強く放っている。

 

 ――『灰色のオーロラ』はついぞ初めて、『アギト』の前に姿を現していた。

 

◆     ◆     ◆

 

 この幻想郷を楽園たらしめる博麗大結界の境界。最東端には結界の要となる博麗神社が存在するが、その(うしとら)の方角――すなわち北東の座標には幻想郷の『賢者』とも称される大妖怪の屋敷が建てられているとされる。

 しかし、その屋敷を見たことがある者は誰一人としておらず、そこが真に幻想郷であるのかさえ定かではない。あるいは、それは外の世界ですらない空間なのかもしれない。

 

 境界を操る能力を持つ妖怪の賢者、八雲紫はこの最果ての屋敷に人知れず住まい、博麗大結界の隙間(スキマ)から幻想郷を見守っている。見上げる虹霓(こうげい)の彼方には歪んだ光がオーロラのように揺らめき、どこかこの世ならざる不気味な美しさを思わせた。

 バラバラだった法則はやがて一つの座標に束ねられていく。今ここに輝く光はすでに二つ。そこに、また別の光が(いざな)われようとしている。

 晴れ渡る笑顔。帰るべき居場所。その二つの法則の中に飛び込もうとしているのは、どこまでも無鉄砲な青臭さ――有体(ありてい)に『バカ』と言い切ってしまってもいいような、三番目(・・・)の光だ。

 

「……このまま順調に進んでくれるといいのだけど」

 

 一つ目の光はクワガタムシに似た双角の紋章となって輝いている。二つ目の光はその隣に、六枚の角を左右に広げた龍の顎を模して輝いている。浮かび上がった三つ目の光はまたしても世界と一つになり、緩やかに幻想郷に取り込まれていくようだ。

 紫はその光景を満足げに眺めながら、未だ境界の向こう側に揺れる『残り六つの世界』に想いを馳せていた。

 幻想郷はあらゆる『幻想』を受け入れる『器』として定義されている。

 だが、幻想ならざる現実を引き入れようとしてしまえば、その負荷は物理的な情報として、幻想郷の概念を根幹から揺るがすことになるだろう。

 招く意思は守護のために。されど悪意はその隙間を知っている。それでも紫は深く愛したこの世界を、自らの子も同然な幻想郷を危険に晒してまで、この道を選ぶしかなかった。

 

「…………」

 

 自嘲気味に微笑み、扇子で口元を覆う紫の意思を汲み取るかのように、屋敷の奥から静かに現れたのは、彼女の忠実な(しもべ)として仕えている一人の女性だった。

 金髪のショートボブに被る白い帽子は、頭頂部から突き伸びた獣耳を受け入れる双角じみた膨らみを持つ。身を包む白い道士服には藍色(あいいろ)の前掛けを装い、ゆったりとした法衣の(すそ)を揺らしながら、主人である紫の傍に寄り添う高位の妖怪。

 腰からは金色の尻尾が九つ、扇状に伸びている。高潔さと妖艶さを併せ持つ九本の尻尾は、この妖怪が中国に伝わる最強の妖獣たる『九尾の狐』としての風格を証明している。

 

 策士の九尾、 八雲 藍(やくも らん) は主人の顔色を(うかが)うように隣に控え立った。

 深く余った白い袖を正面で合わせ、拱手(きょうしゅ)の振る舞いをもって佇みながら、主と同じく最果ての虹霓(こうげい)を神妙な顔で見つめている。

 冴える金色の瞳は溶け合う境界を憐れんでいるのか、あるいは主の心境を想ってしまっているのか、ここまで彼女らの狙い通りに事が進んでいるにも関わらず、その表情は浮かない。

 

「次の世界は少し奇妙な痕跡(・・・・・)が見られるようですが……本当によろしいのですか?」

 

 拱手を崩さず、落ち着いた様子で(らん)が憂う。彼女は紫に仕える従順な『式神(しきがみ)』として、その意思のままに行動しているだけだ。ある程度のことは聞かされているものの、紫は道具たる式に自身のすべてを話すことはない。

 式神とはいわば一種のソフトウェアのようなもの。既存の妖獣などに式という術を被せ、術者の駒として必要な情報をインストールして使役する妖術の一種。いかに古今東西に名を馳せる大妖だろうと、八雲紫の手にかかれば式神(どうぐ)の身に甘んじるほどの存在でしかないのだ。

 

 その上で、紫に疑問を投じてまで藍が危惧しているのは、これから『法則の統合』が始まろうとしている世界の不可解さだった。

 これまで接続した二つの世界は異なる過去を持つ単純な並行世界として定義できた。しかし、三つ目の世界――次に接続される世界は、同じ座標の物語を『作為的に』円環(ループ)させ続けてきたような形跡が残っている。

 まるで幾度にも渡って時間の逆行(・・・・・)を繰り返したような。異なる過程をもって別の結末を望み、何度も何度も同じ時間をやり直してきたような。

 その結果として再編された確定世界、といった表現が当てはまる。うっすらと見える筆跡じみた世界の影は、さながら別の時間軸で起こった因果律の鏡像とも言うべきものだろうか。

 

「他に方法はないもの。それに、この程度の『歪み』さえ取り込めないようなら、もとより私たちの計画に光が差すことはない。……(らん)、あなたは手筈(てはず)通り、『彼ら』を導いてちょうだい」

 

「……かしこまりました。(ゆかり)様」

 

 高度な計算式を操る藍は人智を超えた演算処理能力を備えている。数学に長けた彼女だからこそ、その世界の違和感に気づいたのだろう。そして、それほどの知能を持つ藍を式神として組んだのは他ならぬ紫自身だ。彼女とて、このことに気づいていないはずはない。

 紫の答えは当初と変わらず。藍の不安は拭い去られないが、それを表に出せば主への信頼と忠誠に傷をつけてしまう。

 藍はあらゆる妖怪の中でもトップクラスの実力を誇る九尾の狐でありながら、式神(どうぐ)としての自分に疑いを持つことは決してない。

 無論、紫がそう教育(プログラム)したからではない。八雲の名を与えられる以前からの意思が、己を遥かに超える力を持つ大妖怪、主人たる『八雲紫』という存在を、心から尊敬しているからだ。

 

「にゃあっ!」

 

 そのとき、静謐(せいひつ)な空間の中に突如響いた猫の鳴き声。数匹の野良猫たちを伴い、結界を超えてこの場に現れたのは、幼げな少女の姿をした一匹の妖獣であった。

 歪んだ光を飛び越え、紫と藍の前に軽やかに着地する。赤と白に彩られた長袖のワンピースにはいくつものフリルがあしらわれており、胸元を飾る白いリボンも含め、洋服でありながらその出で立ちはどこか中華風の装いだ。

 短い茶髪に被る緑色の帽子からは左耳に金色のピアスを着けた黒猫の耳が突き出している。腰から伸びる二本の黒い尻尾も同様、彼女が長い時を生きた猫の化生、すなわち『化け猫』であることの証である。しかして、その身には藍と同じく『式神』が()けられていた。

 

 凶兆の黒猫、 (チェン) は妖怪としては未熟だが、彼女は八雲紫の式神である八雲藍の式神として、二重の契約が結ばれている。橙の主である藍は自らも式神の身でありながら、高度な術式を組むことができる『式神を使う程度の能力』を備えているのだ。

 従来の妖獣であった頃の橙なら、おそらくはこの結界の隙間を見つけることさえできなかっただろう。だが、今は藍が構築した鬼神の式神を憑依させているため、高位の妖怪に並ぶほどの妖力を持ち合わせている。八雲の屋敷にいる主人への報告を行う程度のことなら造作もない。

 

「そちらの仕事も無事に終わったようね。……橙」

 

 藍の言葉に表情を引き締め、橙は黒猫の耳をぴくりと反応させる。

 丁寧に(ひざまず)いた状態から顔を上げると、橙の視界には共に信頼する二人の強大な妖怪の姿が映し出された。

 小さな背丈で見上げる紫色と藍色。幻想郷の管理者、その直属に当たる最強の妖獣。生まれも育ちも一般的な妖獣に過ぎないはずの橙が、これほどの存在と同じ星を見ることができているのは、ひとえに彼女が八雲藍という大妖の式として定義されているからに他ならなかった。

 

「はい、藍様。すでに三番目(・・・)の世界との繋がりが進行してるみたいです。それに伴い、その世界に閉ざされていたはずの『鏡の世界』が幻想郷の法則として取り込まれ始めました」

 

 橙の報告を聞き、狐色の九尾を揺らした藍が複雑な表情を見せる。それに反して、藍の隣で静かに扇子を畳む紫は嬉しそうに微笑んでいた。

 格調高い紫色の扇子を懐にしまい、三つの光が揺蕩(たゆた)う灰色の空を見上げる紫。光そのものは三つであるのに、揺らめく結界は万華鏡のように光を映し出し、無数の『影』を形作っている。

 

「……そろそろ頃合いね」

 

 紫はそれだけ小さく呟き、微かに目を細めた。

 先ほど扇子をしまった左手ではなく、今度は反対の右手でもって、美しく纏う神秘的なドレスの内側を探る。白く細い紫の右手が取り出したのは、氷のように青く研ぎ澄まされた長方形の物体だった。

 ある程度の厚みを持つ青い板状の物体には複雑な模様が刻まれている。中央で金色に輝く精巧な紋章(レリーフ)は、静かに獲物を狙う冷徹な(トラ)、あるいは『白虎(びゃっこ)』の顔を模しているようだ。

 

 それを見て、藍と橙もそれぞれ自身の懐からまったく同じもの(・・・・・・・・)を取り出した。藍は紫の傍に控えながら神妙な顔でそれ(・・)を見つめ、橙は敬愛する藍の傍へと駆け寄っていき、右手に持ったそれ(・・)を大切そうに握りしめる。

 この場に存在するそれ(・・)は全部で三つ。白虎が象られた板状の箱、数枚のカードを収納した『カードデッキ』と思しきもの。この道具もまた、幻想郷に――この世界の理にあるべきものではない。材質としては既知のものだが、その技術は本来この世界には存在するはずのないものだ。

 

「見届けましょうか。世界の接続、実像と鏡像の境界が交わる(さま)を──」

 

 三人の妖怪は青いカードデッキを手にしたまま、八雲の屋敷で最果ての虹霓(こうげい)を仰ぎ見る。接続された境界は偽りに満ちたもう一つの世界。さながらそれは合わせ鏡のように、どこまでも絶え間なく広がっている。

 不意に、風が紫の金髪を撫でた。願わくば戦いの果てに、()が見つけた答えをもう一度だけ問うことができるのなら。

 再び開いた因果を利用し、愛する幻想郷(せかい)に刃を向ける。それだけの覚悟を、とうの昔に決めている。紫の目的は、その願いはたった一つ。来たる崩壊(おわり)に抗うため。ただ――それだけだ。




なんか正義の系譜みたいな話になってしまいましたが、本当はもっとシンプルです。

次回、第13話 話31第『鏡像秘話』

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