東方逢魔幻譚 ~ Never Cross Phantasm.   作:時間ネコ

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第17話 夢に向かえ

 広がる視界は闇に染まっている。光などどこにもないはずなのに、見渡す限りに散りばめられた鏡の破片は祈りを反射し、真司の意識へと突き刺さってくる。

 やがて光は白く虚ろな影を人の姿に形成した。もはや存在を証と残すことさえできないのか、その影は10歳の少女と20歳の女性の境界を往ったり来たりして一つの形に留まらない。

 

――くん──お願い──真──くん──

 

 失われたはずの因果に届く、失われたはずの少女の声。真司は自身の名を呼ぶ声に聞き覚えがあった。かつてライダーとして戦っていた際に、いつでも傍にいてくれた。

 それは紛れもなくライダーバトルの最果てに望まれた命の少女。神崎士郎がすべてを捧げてでも、輪廻を越えて救いたかった者の嘆き。

 少女の名は神崎優衣。幼い頃に両親に虐げられ、自衛手段として願い描いた絵の中に鏡像のモンスターを生み出してしまったミラーワールドの法則そのもの。神崎士郎は優衣の力を利用して仮面ライダーのシステムを開発したに過ぎない。その根源は、彼女の方にこそあった。

 

「優衣ちゃん……?」

 

 真司は消えゆく影に問いかける。しかし、優衣と思しき影は答える素振りもない。こちらの声は届いているのか、あるいはそれは因果に刻まれた残滓でしかないのか。闇の果てより舞い散る黒い羽根と共に、その姿は拒絶を受けて塵と消えゆく。

 戦いのある世界においては、彼女は刻限のままに消滅した。そして、戦いのない世界においては、そもそもミラーワールドを開くこともミラーモンスターを生み出すこともなく、幼い頃にこの世を去った。おそらく今の神崎優衣は、その境界に残された微かな残留思念なのだろう。

 

――これは──が──じゃない──

 

 優衣の声さえ、こちらに届かない。真司には彼女が何を言っているのか上手く聞き取ることができなかった。

 視界に満たされた無数の鏡の破片に光を反射しながら、優衣はそのまま消えていく。

 

――もう一度――ワールドを閉じ――って─―

 

――お兄ちゃんも──きっと──願っ──

 

 涙の色、後悔の色、懺悔の色。失われた世界、失われたはずの法則の中、優衣の残影は静かに粒子と消滅しつつ、真司に何かを伝えようとしているのに。その言葉の真意はミラーワールドの法則に掻き消され、消滅寸前の優衣では途切れ途切れの伝達がやっとだった。

 真司はそれを止めようと手を伸ばすが、やがて優衣は完全に消滅を遂げてしまう。その手が届くこともなく、真司の視界から──鏡の破片が揺れる闇の中から、その姿は消えてなくなった。

 

――いつでも──祈ってる──

 

 最後に聞こえた少女の声は、ミラーワールドに残った最後の『祈り』なのかもしれない。

 

◆     ◆     ◆

 

「優衣ちゃんっ!!」

 

 鏡と割れる追憶の夢。真司は上体を起こし、どこか血の匂いの香る真紅色の部屋で目を覚ました。身体を覆う上質な毛布を退け、尋常ならざる柔らかさの赤いソファを立つ。

 

「ここは……」

 

 紅魔館の一室で目を覚ました真司は少し前の出来事を思い出す。幻想郷なる場所に迷い込み、再び現れたミラーモンスターと戦った直後、おそらくは真司の知らない誰かが変身したナイトと交戦し、限界に達した疲労によって意識を失ってしまったこと。

 なんとか意識のあるうちにミラーワールドを脱出できたのは幸いと言えた。誰にも知られず鏡の世界で時間切れを迎えるなど、あまり想像したくなるような結末ではない。

 

 寝覚めには堪える部屋の紅さに思わず目頭を押さえ、真司はそこでようやく自分が微かに涙を流していることに気がついた。

 消えゆく夢の内容を虚ろながらに思い返す。優衣の言葉はうまく聞き取れなかったものの、その意思は伝わったような気がする。きっと、今も変わらず、ミラーワールドを閉じたいと、ライダーバトルを止めたいと願っているはず。

 ただ『お兄ちゃんも──』という言葉だけが少し気がかりだ。幻想郷に来てからも真司の前に現れ、戦いを促していた神崎士郎が、ミラーワールドを閉じたいと願うだろうか? あの男の本当の願いは、戦いの先の『新しい命』ではなかったのか。

 あるいは優衣の最後の祈り、誰一人として傷つかないで済む『愛に満ちた世界』こそを、神崎士郎も望んでいたとしたら。

 妹の蘇生ではなく、消えゆく妹が今際の際に抱いた最期の願いを叶えてやりたいと祈るならば、神崎士郎さえもミラーワールドの呪縛に囚われていただけの被害者なのかもしれない。

 

「憎しみなんて、刻まないほうがいいよな……」

 

 真司は再び龍騎のデッキに誓った。かつての記憶と背負う想い。幾千の祈りを受け止めて、声のない叫びに従う。今という悪夢を変えるのは、ただ進むべき道を決めた自分自身、炎と戦い抜ける城戸真司の覚悟だけなのだと。

 微かに抱いた神崎士郎への小さな憎悪も必要ない。かつてと同じように。ただ、ミラーワールドを閉じるために──モンスターから人を守るためだけに戦えばいい。

 

 振り返る窓の向こうには濃紺の夜空と蒼褪めた月が映った。しばらく眠っている間に、すでに日は落ちてしまっていたらしい。カーテンが閉められていないのは紅魔館の住人が持つ西洋人としての文化か、それとも吸血鬼としての矜持か。

 満月と呼ぶには少しだけ歪な月。真司は月齢にはあまり詳しくないが、完全な満月ではないことは一目で分かる。

 霧の湖を越えて朧に染まった月の光が差し込むため、夜を迎えても部屋は暗くない。

 

 ディスパイダー リ・ボーンを倒しに向かった際はとにかく気配を追って上を目指していたためにさほど気にならなかったが、いざ動いてみるとこの屋敷は異常な広さだった。先ほどは迷わずに屋上まで来れたのは奇跡だったかもしれない。

 それが過言ではないと思わせるほど、紅魔館の空間は不可解な接続によって奇妙な広がりを備えている。

 窓から見えたバルコニーはこの部屋が少なくとも二階以上の位置であることを証明していた。ならば真司が最初にいた場所――美鈴と話した客間はこの下だと推測できる。真司はその考えのままに、自分を助けてくれたであろう美鈴に礼を言おうと、そのまま下へ向かった。

 

「……こっちで合ってんのか?」

 

 燭台(しょくだい)が等間隔に並べられた壁を伝い、長い廊下を歩む。道を聞こうにもメイドたちとすれ違うこともない。やはり夜だから眠っているのだろうか。などと考えていると、真司は下の階へ繋がるであろう階段を見つけた。

 階段はどこか薄暗い気配に満ちており、紅く荘厳な廊下からは悪い意味で目立つ。まるで本当に悪魔が住まう場所にでも繋がっていそうな不気味な何かが感じられる。

 一歩、また一歩と階段を下りる度に肌に纏わりつく不快な空気。階段を抜けた先の廊下は上階の優雅な装いとは打って変わって、血の匂いを隠す気のない猟奇的な意匠を持っていた。真司はお化け屋敷にでも入ってしまったかのような恐怖を抑えつつ、紅い雰囲気の廊下を進む。

 

「なんか、こっちに来ちゃいけない気がする……」

 

 背筋に走る空気は冷たいのに、肌に触れる空気はどこか生暖かく血の色を帯びている。それが自分の気のせいであることを願いながら、真司は恐怖を紛らわせようと独りごちた。

 そこへ不意に、自身の足音に重なるもう一つの足音。後ろをついてくるその音に気づきながらも、真司は振り返られず。ただ、その場に足を止めるのが精一杯だった。

 

「ねえ」

 

 背後から聞こえてきたのは少女の声。真司は震える身体を動かし咄嗟に後ろを振り返るが、正面には人の姿はない。ただ一瞬、視界の端に映った宝石めいた輝きに目を惹かれ、そのまま視線を下に落とした。

 そこには妖しい瞳で真司を見上げる幼げな少女が一人。白いナイトキャップを被る金髪は弓張る月の如く、左側だけ束ねたサイドテール状の髪型と整えている。

 紅い瞳で真司と向き合う少女は白いフリルがあしらわれた真紅色のドレスの(すそ)、赤いスカートを揺らしながら、あどけない柔らかさの瞳には似つかない冷たい声色で真司に問いかけた。

 

「あなた、誰? もしかして──人間?」

 

「に、人間……だと思うけど」

 

 滲み溢れる威圧感に微かに後ずさり、真司は見た目こそ10歳ほどの少女に怯む。真司の本能は、明確にこの少女、フランドール・スカーレットに恐怖を抱いていた。

 この年頃の少女に対しては無意識のうちに目線を合わせるのが真司の性格だったが、目の前にしている彼女は見た目以上の底知れなさがある。

 特に気になるのがその背に揺れる翼──のような『何か』だ。紅魔館で見た妖精メイドたちの翼は蝶の羽根に似た形をしていた。だが、この少女のそれは背中から突き出た一対の枝めいた骨格に七色の結晶が並んでいる。それは翼と定義するにはあまりにも不可解な形状だった。

 

 紅魔館は吸血鬼の館だと説明を受けた真司。美鈴から聞いた話が事実なら、この屋敷にはその名の通り本物の吸血鬼が住まうはず。説明のつかない威圧感に包まれ、真司は確信していた。

 この少女こそが紅魔館に満ちる血の匂いの具現──『吸血鬼』そのものであるのだと。

 

「ふーん。地下室(こんなところ)に一人で来るなんて命知らずね。それとも、迷っちゃっただけ?」

 

 紅魔館の空間拡張は物理法則に収まらない。二階から階段を一つ降りただけで、あろうことか地下室に繋がってしまうこともある。495年もの歳月を過ごしたフランドールの部屋は大図書館と同様、静謐に満ちたこの地下空間にあった。

 先ほどまで纏っていた冷たい空気はどこへやら、真司を人間と認めたフランドールは少女特有の所作で真司の傍から少し離れる。その可憐な振る舞いを見た真司も相手が人ならざる者であるという警戒を解き、一人の少女を相手にするという気持ちで向き合うことができた。

 

「でも、丁度よかった。さっき、大事にしてたお人形さんが壊れちゃったの。お兄さん、代わりに私と遊んでくれる?」

 

 月影のように妖艶な笑顔を見せるフランドール。夜を支配する吸血鬼たる証か、真司を試すように見せた牙は少女らしからぬもの。

 しかし、その表情も言葉の後には退屈そうな叢雲に染まる。彼女の心を表すかのように、張り詰めていた両翼の枝は力なく垂れ、吊られた七色の結晶も輝きを失っていた。

 

「……なんてね。本当は遊びたいけど、今はダメなの。私の身体も、壊れちゃったみたいだから」

 

 そう言って自嘲気味に差し出されたフランドールの右手には、白く柔らかな肌の中に一点の違和感が見られた。少女らしく綺麗な手の平から零れる灰。紅魔館地下廊下の床に滴り、積もっては蒸発するように消えていく。

 彼女が灰の塊を握っていたのではない。彼女の右手そのものが朽ち果て、灰となって微かに崩れ落ちたのだ。

 フランドール本人はそれを見ても怯える様子も驚く様子もなく、ただそれが自然なことであるかのように見つめている。灰化する身体に痛みはないのか、顔を歪めることもない。

 

「えっ……!?」

 

 真司はその変化を見て素直に驚いた。目の前の少女が存在を失いかけていることに。灰と朽ちるという過程自体は異なるが、似た境遇の少女──神崎優衣を知る真司にとってはその現象は無視できない共通点を帯びていると思わざるを得ない。

 フランドールと出会った瞬間こそ、冷たい狂気を帯びた獣の如き威圧に恐怖した。その理性的な不条理は、真司の知る凶悪な殺人鬼さえ思い起こさせたほど。

 張り詰めていた空気は今は感じられない。真司はどこか達観したような、自分の運命を悟ってしまったかのような目で自分の右手を見つめるフランドールに対し、かつての因果で抱いた歯痒さを思い出していた。

 

「お姉様から言われてるんだ。原因が分かるまでは地下(ここ)でじっとしてなさいって」

 

 再生を遂げた右手を閉じては開き、感触を確かめる。見つめる右手がいつも通りであることが分かると、フランドールは困惑に狼狽える真司に背を向けて歩き出した。

 少し歩いた先で振り返り、真司に対して、さっきまで灰を零していた右手を向ける。

 

「ここにいると、お兄さんまで壊れちゃうよ。だから……またね」

 

 優しくも悲しげな声色で呟く。直後、フランドールは右手の指をパチンと弾いた。真司がそれを理解する前に、その足元に現れた真紅色の魔法陣が輝きを増す。フランドールは吸血鬼でありながら、備えた魔力で魔法を使うこともできるのだ。

 真司の困惑の声は一瞬のうちに紅い魔力に包み込まれる。光が失せる頃には、そこに城戸真司の姿はなかった。

 

「……また、ひとりぼっちになっちゃったかな」

 

 再び訪れた静寂はフランドールの心を闇に閉ざす。冷たく静かな孤独の心地良さが、少しだけ胸に刺さるのを感じながら。

 ただ物言わぬ人形と、血の匂いだけが満たされた自らの部屋へと足を運んだ。

 

◆     ◆     ◆

 

 紅魔館のエントランスホール。正門を進んだ先の広間もまた、紅く豪華な装飾の中に設けられている。死に彩られた地下空間とは違い、こちらは当主の意向に従ったエレガントな趣を備え、地下空間ほどの不気味さはない。

 そんな広間の中心、紅いカーペットの上に。突如現れた真司はただ、混乱していた。

 

「……ん? あれ? どうなってんだ?」

 

 さっきまで薄暗い地下空間にいたはずの彼の視界に映るのは、暗闇に慣れた目には些か辛いほどの鮮烈な真紅。高く見上げる階段まで続くカーペットには埃一つなく、真司の頭上で静かに光を灯らせるシャンデリアはアンティークな意匠ながら優雅な高級感を感じさせる。

 

「あら、人間のお客様。お目覚めのようですね」

 

 混乱の拭えない真司の頭上、上階の手すり越しに聞こえてくる女性の声。見上げた先には銀製のトレイに白く可憐なティーセットを乗せ、優雅に運ぶメイド長の十六夜咲夜が客人である真司に笑顔を見せていた。

 なんとなく聞き覚えのある声に疑問を覚えつつ、真司は初対面であろう十代後半ほどの少女に軽く会釈をする。咲夜は人間であるため、その背に羽根は生えていない。

 

「あっ! あんた、その声……!」

 

 少しの思考を経た後、真司はその声の心当たりを思い出した。聞き取れたのはあまりに微かな一言だったが、記憶違いでなければ、その声は先ほどミラーワールドの紅魔館庭園で戦ったナイトの声ではなかったか。

 咲夜は笑顔を崩すことなく青い瞳で真司を見据える。その冴えが一瞬、紅く染まったかと思うと、刹那のうちに真司の目の前まで『移動』した。

 普通の人間は止まった時間を認識できない。彼から見れば、咲夜が瞬間移動したように見えたことだろう。

 さっきまで持っていた銀盆(トレイ)は、止まった時間の中でどこかに置いてきたようだ。

 

「十六夜咲夜と申します。先ほどは素敵な戦いぶりをどうも」

 

 メイド服の懐から取り出した黒いカードデッキを真司に見せる。中心に刻まれた金色の紋章は疑いようもなくコウモリの意匠を象っており、真司の推測を確信させるのに十分なものであることを証明している。

 真司は手品のように移動した咲夜に戸惑いながらも、そのデッキから目を離せなかった。息の詰まるような思いの末、ようやく言葉を絞り出す。

 

「ど、どういうことだよ! なんであんたがそのデッキを持ってんだ……!?」

 

「貴方と同じ、仮面ライダーだからですわ。他に理由が必要かしら?」

 

 その手に輝くデッキの紋章は間違いなくナイトのものだ。先ほど戦ったナイトは、咲夜と名乗ったこの少女が変身していたらしい。

 美鈴の持っていたブランクデッキとは違い、すでに契約が交わされている。ダークウイングとの契約を表すコウモリの刻印。真司の記憶と違わぬナイトの紋章。それはこの少女が自らの意思でダークウイングと契約したのか、あるいはすでに契約済みのナイトのデッキを何らかの経緯で手にしたのか。

 

 真司のデッキにはすでにドラグレッダーを表す紋章が入っていた。幻想郷で変身した際に再契約を交わすまでもなく、ドラグレッダーは龍騎のモンスターとして召喚に応じてくれたはず。となれば、やはりナイトの場合も後者に当たるのではないか。

 かつての戦いでナイトだった男は、この戦いには参加していないのだろうか? 真司はその可能性にどこか安堵を覚えるが、同時に無関係の少女がまたしてもライダーの運命に関わってしまっていることに焦燥を覚えてしまう。

 契約前の段階だった美鈴だけならまだ守り切れた。だが、すでにモンスターと契約している咲夜は、仮面ライダー『ナイト』として、後に引くつもりはないらしい。

 

 ガチャリと開かれた紅魔館の玄関が奏でる音に、真司の思考は寸断される。シャンデリアの光が灯るエントランスホールの中、外から差し込んだ月の光は、真司と咲夜の顔を照らした。

 

「咲夜さーん。そろそろご客人の様子を見てきても……」

 

 紅魔館の外で門番の職務を担っていた美鈴。仰々しい玄関のドアを開き、その場に立ち入った瞬間に感じた空気の緊張は、気を使う程度の能力を持つ彼女でなくとも肌で分かる。

 美鈴にとっては上司に当たる咲夜が持っているのは、真司や美鈴も手にしたカードデッキなる外来の道具ではないか。

 真司と咲夜も玄関のドアを開いた美鈴の存在に気づいたようだ。振り返る真司と微かに顔を傾けた咲夜の目線は、変わらず美鈴の方へと向けられている。

 

「……えーっと……どういう状況ですか?」

 

 時が止まっている──と錯覚する刹那の空気。美鈴は思わず、疑問を口に出していた。

 

◆     ◆     ◆

 

 紅魔館の客間に案内された真司は咲夜や美鈴と向かい合うように座り、テーブルの上のティーカップ──ではなく、その横に置いた龍騎のデッキに視線を落とす。

 カーテンの開かれた窓から差し込む月の光が、龍を象った金色のレリーフに反射して光を放ったような気がした。

 向かうテーブルには同じく二つのデッキが置いてある。美鈴の前に置かれたブランクデッキと、咲夜の前にあるナイトのデッキ。コウモリの意匠はやはり龍騎のデッキと同じように月光を返すが、美鈴のブランクデッキには龍やコウモリといった契約モンスターの意匠はない。

 

「やっぱり、あれは咲夜さんだったんですね……」

 

 美鈴はミラーワールド越しに見た騎士(ライダー)の所作からその正体を推測していたが、この場で明かされた説明を受けてもそれは事実であると言えた。

 未だ納得していない様子の真司も咲夜がナイトとなった経緯を聞いて、無為に否定することもできない。

 真司は一度、紅魔館の地下でフランドールと出会っている。そのとき目にした『灰化』の現象は確かに見過ごせぬ変化だった。その症状を食い止めるためとあらば、ミラーモンスターのエネルギーを回収しようとデッキを取るのにも合点がいく。

 フランドールの遊び相手を務めることが多い美鈴はその症状に気がついていたが、咲夜がそのために戦っていることは知らなかった。

 そもそも、咲夜がデッキを手に入れ、仮面ライダーナイトとなったのはつい最近の出来事である。屋敷の外で門番を務める美鈴への伝達が遅れるのも無理はない。

 

「……あんたも色々と大変なんだな」

 

 ライダーバトルを止めることを理想として戦いを続けていた真司にとって幸いだったのは、咲夜がその願いを一点に戦っているということだ。フランドールの症状を抑えるためにモンスターのエネルギーを与える。それだけを理由にモンスターを倒しているのなら、彼女にとって他のライダーを倒す必要はないのかもしれない。

 咲夜が変身したナイトから攻撃を受けた理由も、モンスターのエネルギーを勝ち得るためだと考えれば少しは理解できる。真司には共感こそできないが、そういう行いをするライダーも珍しくはなかったからだ。

 

 かつてのナイトのようにライダーバトルに勝ち残ろうとしているわけではない。無論、一部のライダーのように罪のない人々をモンスターの餌にする気もないらしい。

 理由こそ異なるものの、彼女もまた、モンスターと戦うためにライダーになったと言っていい人物なのではないか──などと。真司はどこか、夢と踊るようにティーカップを手に取る。

 深く染み渡る紅茶の暖かさは、かつて前の因果で世話になった喫茶店──『花鶏(あとり)』で味わった安らぎの香りを少しだけ思い出させてくれるような気がした。

 

「このデッキ、空から落ちてきたって言ってたけど」

 

「はい。たぶん霧の湖の妖精が落としたものだと思いますが……」

 

 テーブルに並べられた三つのデッキ。そのうち美鈴が持っていたブランクデッキについて、咲夜は美鈴に確認した。入手の経緯を説明する過程で仕事中に昼寝をしていたことまで余計に明かしてしまったが、咲夜は特に気にしていないようだ。

 咲夜のデッキはレミリアが神崎士郎から渡されたものをそのまま咲夜が受け取ったもの。その時点で、このデッキにはすでにナイトの紋章が刻まれていた。美鈴が感じ取れた気、デッキに込められた想念を見る限りでも、このデッキはかつての因果においてかつてのナイトが使っていたものである可能性は高い。

 

 不可解なのは美鈴が偶発的に手にしたブランクデッキだ。龍騎のデッキも、ナイトのデッキも。等しく契約の紋章が刻まれているのに。美鈴のものにはそれがない。彼女にだけ見て取れる意思の力、気と呼べる想念の波動も特に感じられない。

 真司が抱いた疑問は、このデッキは自分の世界(・・・・・)由来ではないのではないか──という可能性に繋がっていた。

 もし龍騎やナイトのように元の世界の因果からそのまま引き継がれた力であれば、それがどのライダーのものであれ契約が残っていてもおかしくはない。あるいは、ただ未契約のデッキが元の世界、真司の世界から何らかの理由で流れ込んできてしまっただけなのだろうか──

 

 ――などと考えていると、真司の耳が低く鳴る音を聞く。咲夜も同様に聞いたらしく、顔を上げてその音の発生源に視線を向けた。

 緊迫した空気の中には似つかわしくない平和な音。ミラーモンスターの出現を知らせる鏡の世界の金切り音とは聞き違えるはずもない、真司も自身の腹から耳にした覚えのある音だ。

 

「す、すみません……」

 

 美鈴が照れ臭そうに二人に笑う。彼女の意思で発した音でないにしろ、緊張の鏡を打ち砕くには十分な引き金だった。

 生きている限りは空腹は避けられない。それは人も獣も、ミラーモンスターも。幻想郷に生きる妖怪たちにとっても同様だ。命を持たないモンスターがその概念を正しく理解できているかは不明だが、真司もドラグレッダーに空腹を訴えられたことは何度もある。

 その度に願い思った。モンスター(こいつら)も人間と同じものを食って満足してくれたらな、と。

 もしそうあってくれるなら、最高の味を自負している自慢の料理を、毎日振る舞ってやることも吝かではないのだが──残念ながら、彼らは人間かモンスターしか望まない。

 

「そういえば、そろそろお夕飯の時間だったわね」

 

 メイド服から銀色の懐中時計を取り出した咲夜が呟く。紅魔館の客間にもアンティークな時計は備えつけられているものの、時間を操る彼女は自ら携えた時計で時刻を確認するのが癖になっているようだ。

 

「城戸真司さん、でしたっけ。今日はもう遅いですし、紅魔館の客室を使ってください。お嬢様の許可はすでにいただいておりますので、ご心配には及びません」

 

「ああ、それなら助かる……けど……許可なんていつの間に取ったんだ……?」

 

 咲夜がそう言って席を立つのに少し遅れ、美鈴も立つ。その流れを追うように真司も椅子を引き、三人はそれぞれのカードデッキを再び手に取った。

 奇妙な言い回しをする咲夜に少しの疑問を覚えた真司だったが、深く考える必要もないだろうと早々に忘れ去る。

 真司を紅魔館に泊めることについて、美鈴も同じことを提案しようとした。当主の反対だけが懸念として残っていたものの、どうやら彼女と意向を同じくしている。否、気まぐれなお嬢様のことだ。単に仮面ライダーなる存在が興味深いだけかもしれない。

 

 外来人である真司には幻想郷で行く宛などない。早々に帰せればよかったのだが、幻想郷の結界の異常により外の世界との接続に狂いが生じているらしい。少なくとも異変が収束するまでは紅魔館で世話になることになるだろう。

 咲夜はレミリアの意思を仰せつかっている。彼女が言った『運命を変える赤い騎士』の存在、龍騎のデッキを持つ真司を、みすみす妖怪の餌にしてしまうわけにはいくまい。

 紅魔館には妖精メイドたちに与えてなお有り余るほどの部屋がある。重ねて咲夜の空間操作をもってすれば、自由に部屋を増設することすら造作もない。

 最初に真司と接触した美鈴に耳打ちし、咲夜はこっそりレミリアの意思を伝えた。

 

「(見張り……ですか?)」

 

「(そう。お嬢様が言ってたわ。こいつの監視はあなたに任せるって)」

 

 美鈴にはその言葉の真意は分からなかったが、紅魔館の当主であるレミリアの意思なら従うだけの意味があるのだろう。その圧倒的なカリスマと気まぐれな性格ゆえに紅魔館を振り回すことも多い彼女も、考えこそ定かではないものの優れた見識を持っている。

 城戸真司が紅魔館を訪れる運命さえ見通していてもおかしくはない。美鈴にはその鎖を見ることは叶わないが、誇るべき当主の能力は確かなものだ。

 

 平時においては紅魔館の料理は咲夜が担当している。紅魔館で開かれるパーティでも、他の場所での宴会でも重宝される咲夜の料理の腕前は当主のお墨付きである。

 今は幻想郷に起きている奇妙な異変、それに付随するミラーモンスターの発生やフランドールの灰化現象などの対処に追われ普段以上に忙しい。拡張された屋敷の掃除や咲夜自身も異変解決の一端を担う幻想郷の『人間』として行動しているため、いくら時間を止めても一人の人間にできる労働量を大幅に超過していた。

 その負担を少しでも軽減するため、このところは咲夜の仕事を分割して妖精メイドや門番の美鈴にも配分している。無論、咲夜ほどの働きは期待できないものの、紅魔館唯一の人間である咲夜が異変の解決に向き合えるよう、せめて料理担当くらいはと美鈴が志願したのだ。

 

「それじゃあ、咲夜さん。あとは私に任せてください!」

 

 幻想郷の異変を解決するのは幻想郷の人間でなくてはならない。とは思いつつも、美鈴も咲夜も、すでにどこかで気づいていた。この異変は、幻想郷だけで収まるほどの事態ではないと。かつて咲夜が永夜異変の折、主人のレミリアと共に偽りの満月を目指したときのように、人間と妖怪が共に動く必要があるかもしれない──ということに。

 レミリアも同じことを考えているだろう。咲夜と同じく異変解決を志す人間、霊夢や魔理沙も、やはり永夜異変の際と同様に、人と妖怪の共同戦線を視野に入れるはずだ。

 

「あまり無理はしないでね……って、城戸さんは何をしてるのかしら」

 

「何って、夕飯作るんだろ? 俺、こう見えて料理は得意だからさ! 手伝わせてよ!」

 

 爽やかな笑顔で咲夜の訝しみに答える真司。自身も空腹であったからか、この場の誰よりも料理に対する姿勢が強い。その表情は、客人という自分の立場を分かっていないようだった。

 

◆     ◆     ◆

 

 紅魔館、当主の間。青白く冴える月の光は緋色の屋敷を妖しく染め、陽の光を知らぬ吸血鬼の肌をより白く目立たせている。

 湖の霧は夜間にはあまり生じない。今宵は満月には及ばない欠けた月だが、霧に遮られぬ夜空の光はレミリアにとって愛しい彩りだった。紅霧異変のときのようにレミリア自身が放った魔力の霧が満ちていれば、その月はより美しい真紅に染まっていただろう。

 

 この場にいるのはレミリアと咲夜の二人だけ。フランドールは地下室からあまり出たがらない性格もあり、普段から一人の食事が多い。パチュリーは種族的な魔法使いであるため、そもそも食事自体が不要だ。

 大図書館の司書を務める小悪魔に関しては言わずもがな、召喚者のパチュリーから供給される魔力のエネルギーで事足りる。

 美鈴と真司はまだ厨房に残っているのか、あるいは一階の食堂だろうか。

 

 レミリアにとってナイフとフォークを用いた食事は儀式に等しい。妖怪である以上は人間を襲うことを糧とする。妖怪が人間を襲う、妖怪にとって当たり前の行為が制限されている以上、賢者から供給される人間の血液が含まれない食事など、人間の真似事でしかないのだから。

 

「……咲夜。何この匂い」

 

「お客様がどうしてもと言うので、厨房をお貸ししました」

 

 テーブルの上に並んだ料理は豪華なものだが、どれも量が少ない。生まれつき小食のレミリアが眉を(ひそ)めたのは、大きなテーブルをぽつんと彩る料理の少なさに対してではなく。準備の段階からすでに気になっていた──鼻を衝くような『あの』独特の香りだ。

 吸血鬼に致命傷を与えるにはあまりに程遠いものの、広い意味では弱点の一つとして差し支えないネギ属植物の一種たる野菜。

 妖精メイドたちが運んできた料理の中にたった一つだけ感じられたその匂いは、開け放たれた銀製のクロッシュの中──白い皿の上からその存在を何より強く主張していた。

 

吸血鬼(わたし)の屋敷で餃子(ぎょうざ)を焼くなんて、大した度胸ね……」

 

 肉と野菜の調和を包み込んだ、白い蘭に似た皮を持つ餃子たちが皿に並べられている。薄く焼けついた焦げ跡と月明かりに冴え光る油の雫。美鈴も中華料理を得意としているが、彼女が作ったものはここまで露骨な匂いを発してはいなかった。

 客人に厨房を貸したという咲夜の言葉にこめかみを押さえるレミリア。外来の人間を吸血鬼の食事に携わらせる咲夜についてもだが、あろうことかニンニク料理を出してくるとは──

 

「ご安心ください。お嬢様のはニンニク少なめだそうです」

 

「それは皮肉のつもりかしら?」

 

「皮肉……そうですね。餃子に骨はございません」

 

 レミリアの傍らに立ち控え、笑顔で答える瀟洒な従者。普段は優秀で完璧な働きをするメイドであるだけに、時折発せられるとぼけた言動はレミリアの感覚をもってしても掴みづらい。

 

 丁寧に並べられた銀製のナイフとフォークで、どうやって餃子をいただこうか──と考えている折、食器を手に取ろうとしていたレミリアが微かに動きを止めた。

 理由はただ一つ。咲夜と同じく、感じ取った鏡像の気配に気がついたためである。

 

「咲夜、この料理の時間を止めておいて。冷めちゃったらもったいないから」

 

「……かしこまりました」

 

 精一杯背伸びをしながら白いレースカーテンに覆われた深窓を開き、欠けた月の光を一身に受けるレミリアが小さく笑う。食事の時間を邪魔されたのは不快ではあるものの、夜空に見通した紅い運命の鎖は、確実にレミリアの望んだ色を見せている。

 レミリアの身体は白い手の指先から、羽毛を持たぬ翼の群れに。霧と崩れる吸血鬼の肉体は、黒く羽ばたく無数のコウモリの姿で散っていく。

 

 窓の外へと消えていった無数のコウモリたちを見送り、咲夜は言われた通り目の前の料理に自身の能力を施した。――その前に、外来人の青年が焼いた餃子を一つだけ。必要以上に冷ましたそれを、密かに味わいながら。

 猫舌の身をもって食する背徳の味覚。咲夜が目を見開いたのは、微かに残っていた熱さによるものではない。自身や美鈴が作るいつもの餃子より──遥かに美味しかったからだ。

 

◆     ◆     ◆

 

 時計台を備えた屋上に、招かれざる妖怪が一人。白い法衣に身を包んだ金毛九尾の妖狐、八雲藍は袖に両手を入れ、神妙な面持ちでただ静かに佇んでいる。

 そこへ騒がしくバサバサと羽ばたくコウモリの群れが舞い降りた。赤い鉄柵の上に集まるように翼を畳み、やがて無数のコウモリは元の形──吸血鬼の少女の姿を象っていく。

 

「あんたが紅魔館(うち)に来るなんて、いつ以来かしら?」

 

 赤い鉄柵の上に腰掛けたレミリアが小さく翼をはためかせる。藍は紅魔館の大時計を背に、レミリアは夜空に輝く月を背に、互いの姿と向き合いながら。

 春の夜風に妖しく(なび)く金髪と尻尾。月の祈りに気高く揺れる銀髪と黒翼。レミリアの赤い視線は揺るぎなく、眼前の妖怪──九尾の狐の金色の瞳に合わせられている。

 

「ライダー同士の戦いはもう必要なくなった。そのことを伝えに来ただけよ。もっとも、お前たち吸血鬼は最初からモンスターだけを倒すつもりだっただろうけど」

 

 藍はただ要件だけを告げる。願いを叶えるためにライダー同士が最後の生き残りを決める戦いはもはや意味を成さない。並行世界にあったはずのミラーワールドの『法則』は、すでに幻想郷の因果――その境界を侵食し始めている。

 鉄柵から下に降りれば窓ガラスがある。部屋に入れば光を反射するものはいくらでも置いてある。しかし、レミリアが今いる紅魔館の時計台にはそれがない。

 ミラーワールドに直接繋がる鏡面はこの場に存在しないにも関わらず、ミラーワールドからの気配は絶えず夜風に感じられた。

 

 直後、藍の背後に金色の羽根が舞い落ちるのを目にする。レミリアの視界を明るく照らす黄金の光を伴いながら、藍の傍らにゆっくりと降りる『仮面ライダー』らしき存在。

 その姿は一言で言えば、神々しささえ感じさせた。

 龍騎やナイトとは異なる漆黒の強化スーツ。各部に纏う装甲は落ち着いた茶色を装い、頭部や肩、全身に配された装飾とジペット・スレッドは不死鳥や鳳凰(ほうおう)といった超常的な神の使いを思わせる神秘的な黄金の輝きに染まっている。

 通常は銀色であるはずのベルト、Vバックルでさえ金色のもの。そこに装填されている深い褐色のカードデッキには、死と再生を司る不死鳥の如き紋章が象られている。

 

「それにしては、ずいぶん殺気立った奴がいたもんね。そいつもあんたの式神(どうぐ)なの?」

 

 幻なのか実体なのか。夢幻にして泡影の月。レミリアは対する藍の傍に控える黄金の騎士を見ながら言った。袖に両手を隠して佇む藍と同じように、隣立つライダーもまた、金色と茶色の装甲に覆われた両腕を組んでいる。

 実体のない神崎士郎の意思を代行する13人目の仮面ライダー。最強にして最後のライダーとして生み出された『オーディン』はただ静かに立っているだけ。

 そこには彼自身の意思など存在しない。ただ神崎士郎の代わりとなるだけの従順な駒。仮面ライダーの開発者である神崎士郎が都合の良いアバターとして用意した仮初めの契約者。

 

 かつての戦いにおいては、そのカードデッキは神崎士郎が無作為に選んだ人間を憑代とすることで、13人目という舞台装置として操っていた。

 それは誰でもいい。オーディンになるべき者にはライダーの願いさえ必要ない。ただ生きた人間という身体さえ持っていれば誰でもオーディンとして動かせる。故に、何度倒されようともオーディンは蘇る。ただカードデッキだけを残して。変身者という犠牲を代償にして。

 

「お前もすでに気づいているはず。この幻想郷を苛む悪意はミラーモンスターだけじゃない」

 

「関係ないわ。あんたたちが何を考えていようと、私の祈りは一つだけ」

 

 不敵な微笑は静かに失せ、レミリアは冷たい声色で呟く。向かう言葉を突っぱねるようにして、赤い瞳をもって鋭く藍を睨みつけた。

 静かに目を閉じ、鉄柵の上に立ち上がる。槍のように尖った柵の上、赤く小さな靴で器用に振り返るレミリアは自身の正面に月明かりを捉えたまま。

 藍に背中と翼を向け、首だけを微かに動かして背後に立つ藍に顔を向けた。

 

「大事な妹を、救いたいだけよ」

 

 紅く秘めた覚悟を零す一言。その言葉が相手に届くことさえ確認せず、レミリアは再び無数のコウモリとなって霧散する。

 月を陰らせ、闇に羽ばたく小さな群れが去っていくのを見届け、藍は夜の静けさに満たされた紅魔館の時計台で月の光を反射する黄金のライダーを見た。

 隣立つオーディンは自我こそ持たないものの、神崎士郎によって構築されたプログラムを持っている。それは幻想郷ではレミリアの言葉通り『式神』と定義できる存在だろう。

 

 オーディンの本体であるべき神崎士郎はもういない。残滓として微かに繋ぎ留められていた残留思念さえもすでに消滅してしまった。

 今ここに存在しているオーディンは藍が選んだ『名もなき妖怪』が変身している。すでに存在を失い、妖怪としては終焉を迎えた哀れな個体。死にゆくだけの肉体にオーディンのデッキを与え、藍の意思のままに動く駒とする。

 プログラムされた人格はそのまま。神崎士郎とはまた異なる意識を持ち、オーディンという存在はそのカードデッキに宿り、何度消滅を遂げようとも、変身者を支配して復活する。それはさながら、憑代が死んでも式がある限り何度でも代替可能な式神と同じだ。

 

「……皮肉なものね。あの男は消えても、操り人形はこうして願いに従い続けるなんて」

 

 まるで──役割を失ってしまった式神のよう。同じく式神の身である藍はその姿にどこか憐れみを覚えずにはいられなかった。

 もし仮に自分が同じ境遇に落ちたとき、いったい何を想うのだろう。主人である八雲紫が消えたとしたら、式神と定義された自分はどう動くのだろうか。

 

 金色の羽根が舞い散る夜の時計台。月の光を返して輝くオーディンと藍の瞳。荘厳な音を立てて大時計の針が動くとき、一人の騎士と一人の妖怪はその場から消失した。瞬くうちに消えた羽根もまた、藍とオーディンの姿を微塵も残さない。

 

 時は少しづつ、刻まれていく。その度に境界が近づいていく。すでに幻想郷は複数の世界の法則を取り込んでしまっている状態にある。そこに潜む悪意は、太古の文明を持つ異民族か、あるいは神の使命を帯びた天使か。

 脅威はそれだけではなかった。本来ならばまだ接続する予定のない法則の影響が、この幻想郷においてすでに確認されてしまっているのだ。

 紫が藍に伝えず独断で計画を早めただけならいい。藍は自分でそれを認識し、行動を修正できるだけの演算能力を備えている。だが、藍が確認した影響は、どう考えても紫の意思に反していると思わざるを得ない。式神である彼女にとっての不安は──ただその一点だけであった。




恵理さんと蓮の立ち位置のつもりが北岡先生と吾郎ちゃんっぽさもある、お嬢様と咲夜さん。

次回、EPISODE 18『異変』

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