東方逢魔幻譚 ~ Never Cross Phantasm. 作:時間ネコ
それは、切り拓く運命の物語。
第28話 紫紺の剣
幻想郷の遥か上空──
生者の身では決して辿り着けぬ死後の世界。極楽浄土と呼べる場所ではないが、死した霊魂が転生を待つための輪廻の庭として、幻想郷とは別の紡ぎに広がる天涯の楽園。そこに至るためには、天空に透き通るような太古の結界──『
かつて幻想郷で引き起こされた春雪異変により、幻想郷と冥界の境界は緩やかなものとなっている。あらゆる封印と結界を無視して超える博麗の巫女の存在が、冬の郷に豊かに芽吹く春風と共に死後の世界の扉を叩いたからだろうか。
幽明結界の封印が弱まって以来、もはや冥界は幻想郷の一部と言って差し支えない。純粋な生者であろうが、天空を目指すだけの飛行能力を備えていれば簡単に踏み入れる。
─―もっとも、生者の身でこの地に踏み入ろうとする者は強大な妖怪か、あるいは強大な妖怪を単独で退けるだけの力と勇気を持つ、極めて強大な人間たちに限られてはいるのだが──
冥界に建てられた広大な日本屋敷、
春にも関わらず、不意に訪れた冬の気配は冥界の地に雪化粧を施し。大広間から見える中庭にはさながら波紋めいた雪が美しく刻まれている。
それは五月になっても冬が終わらなかった春雪異変の
当主である西行寺幽々子が持つ気質によるものなのだろう。そのためか、気象に影響を及ぼすような異変が起きた際、この冥界には冬や雪の力が働くことが多いのだ。
「……ここはもう少し短く切ったほうがいいかな」
白い雪に彩られた白玉楼の中庭にて、ボブカットの銀髪に黒いリボンを結んだ少女が一人。白いシャツの上から深い緑色のベストを装い──そのまま流れ揺れるスカートには
まだ幼く見えるほどの少女は、その身に似つかぬ二振りの刀剣を携えていた。
一つは、高枝を斬り落とすために両手でもって振り上げられた長刀、『
もう一つは、未だ腰の背の鞘に収まったままの短刀、『
この白玉楼の庭師を務める
生まれつき『半人半霊』という種族──生者の身と死者の身の
隣に浮き従う大きな人魂は妖夢の半身、自分自身の半分だ。共に分かち合った魂として分断された片割れのもう一方は、幽霊でありながら生身の半分ほどの体温を持つ。常人より体温の低い半人と、幽霊より体温の高い半霊は、さながら人と幽霊を足して2で割った
「最近まで暖かったはずなのに……これも異変の影響ね」
冷たい幽霊と違って自身の半身である半霊はほんのりと暖かい。季節外れの雪の庭では剪定作業にも手がかじかんでしまう。ただでさえ冥界は幽霊が多く気温が下がりやすいのに、冬ともなればその寒さは半人半霊の身にも
人肌程度の熱を有した霊的エネルギーの塊を抱き寄せ、妖夢は震えながら暖を取る。先日までの気温と辺り一面に咲く桜の花の様子を見れば、この冬の寒さが明らかな異変であると判断するのは容易だった。
妖夢とて半分は人間だ。霊夢や魔理沙、そして紅魔館のメイドである咲夜などのように異変解決に奔走することも少なくはない。買い出しに際して赴いた
「幽々子様ー! 私もそろそろ異変の調査に向かいたいのですがー!」
愛用の楼観剣を背中の鞘へと戻し、妖夢は縁側のほうへと声を張り上げる。しかし、生きた小鳥のさえずりや虫の鳴き声一つ聞こえないこの冥界の寒空には、主の返事は響いてこない。
「あれー? いないのかな? いつもならこの時間……」
障子を開いて座敷を見てみるが、そこにも当主である幽々子の姿はなかった。
彼女は気まぐれな蝶のような性格であるため、ふらっとどこかへ出かけることも多い。それ自体は特に気になることではないのだが──此度の異変に際して
妖夢は仕方なく書き置きを残そうとしたが、都合よく座敷の
おそらくは幽々子も同じように書き置きを残して白玉楼を後にしたのだろう。紙の傍に置かれた小さな木箱についても気になるが、まずは桜の花の舞うようなその文字に目を通す。
「えーっと……『嘆けとて 月やはものを 思はする』……」
その文字だけで、すでに妖夢は頭に雪の詰まったような思いを覚えていた。常春と謳われた思考をもってしてもその句の内容は氷解せず。妖夢の理解に春は来ない。
「……『お昼までには 帰ってこないわ』……」
生前の西行寺幽々子が名高き歌人の娘だったからだろうか。蝶よ花よと舞い踊る、死霊の姫君が紡ぐ言葉は常人には理解しにくいものがある。聞き覚えのある歌なれど、妖夢にはその意味までは飲み込むことができなかった。
さながら下の句のように付け足された追伸を見る限り、きっとしばらく帰ってこないだろう。上の句の続きが少しだけ気になりながらも、妖夢は小さな溜息を抑えられずにいた。
「幽々子様……」
書き置きになってないです、と心の中で突っ込みを入れる妖夢。自由奔放で天真爛漫な主人の行動に頭を抱えると、隣に浮き従う半霊が自分を慰めてくれるような気になる。
自分自身の分け身として生まれたときから一緒にいる半霊を優しく撫で、妖夢は書き置きの隣にある小さな木箱に視線を落とした。
半霊が器用に開けてくれた木箱の中――妖夢の手の平より少し大きい程度の物体に、彼女は一切の見覚えがない。幽々子の置き手紙を机の上へと戻し、木箱の中から取り出したのは──
「なんだろ、これ……」
─―銀色に染め上げられた長方形の何か、ということしか分からない。機械的な意匠を思わせるそれは、正面に硬質なガラス状の物質が張られているようだ。
複雑な機構を持ってはいるが、その正面のパーツには何やら軸のようなものが設けられており、直感的に『回転』しそうなものだと理解できる。しかし、これが何のための道具なのか、そもそも道具であるのかすらも分からない以上、それを動かすことなど叶うはずもない。
この物体に込められた重さは、物理的なものだけではないと感じられた。まるで歴戦の剣士が使っていた剣を持ち上げたかのような、誇りの重さがこの手にずしりと伝わってくる。あるいは気のせいかもしれないが──
視界の端でふわふわと揺れる半霊に気がつき、妖夢は思考を寸断する。どうやら木箱の中にはまだ何かが入っていると伝えたい様子。
半霊の主張通り、妖夢は木箱の中に十数枚の『カード』らしき硬質の札の束を見つけた。
「カード……? でも、スペルカードとは違うみたい……」
一度、長方形の物体を箱に戻し、今度は取り出したカードを両手に広げる。左上と右下にスペードのマークが描かれ、対応する数字がそれぞれ書かれた13枚の札。だが、それはどれも固有の絵柄と呼べるものを持っておらず、繋ぐ者のない鎖だけがだらんと垂れ下がっている。
幻想郷の弾幕ごっこに用いられるスペルカードではないことは明らかだ。一見それは外の世界から流れたトランプにも似ているが、
じっと見つめていると、まるで自分を失くしそうになる──そんな不気味な空白に、妖夢は底知れない恐れと不安を自覚しながら。カードを再び木箱の中へと戻した。
「…………っ!」
─―そのとき、不意に感じた不気味な気配。肌を貫くような刃の如き悪意。妖夢が覚えたのは、この
半霊と共に白玉楼の座敷を飛び出し、妖夢は枯山水の上の雪を踏みしめて中庭に出る。切り揃えられた立派な松の木を横目に低い塀を飛び越え、屏風が如き桜並木を
「グァァ……ァァル!」
薄く白んだ幽霊たちと雪染めの庭――そこに立つ異形は、白雪の中にひどく目立つ漆黒の怪物だった。
動物の革を思わせる光沢質な皮膚は深い墨染の黒に染まっている。それはさしずめ、この雪景色という紙に一首、呪いの歌を綴ったかの如く。幽霊たちの気配を押し退けて妖夢の肌を切り刻む気配は、
黒い怪物の肩や腕、頭に脚、全身の至るところに配された鋭い刃物状の器官は、怪物の存在そのものに『剣』の意匠を感じさせる。
同時に、妖夢が気づいたのは──それがトカゲの姿にも似ているという点だった。
不自然な人の形を得たトカゲが二本の足で立っている姿。怪人と形容するに相応しい異形の存在。その特徴は噂で聞いた怪物のものと一致する。
右腕に設けられた鋭い剣、左腕に備わった斧状の刃もさることながら、トカゲの如き尻尾に無数に生え揃ったナイフはその切っ先の鋭さだけで妖夢の肌を貫くような悪意を放っている。
「
対峙したトカゲの異形──黒い
腰の背に携えた白楼剣は霊や迷いを断つ儀式的な面が強い。肉を斬ることも不可能ではないが、純粋な切れ味では楼観剣に劣るため、未知の外敵に対しては物理的な殺傷力で勝る楼観剣が適していると判断した。
桜の花が刻まれた愛刀の柄を両手で握りしめ、妖夢はトカゲの怪物に楼観剣を構える。刃と刃の視線が交わり、リザードアンデッドも妖夢の方を見て右腕の剣を振り上げてくる。
一瞬の静寂は両者の心の余裕の無さか。妖夢は感じた時の間に、一陣の刃を斬り込んだ。
「はぁっ!!」
その剣戟の名は【
刃物を纏った装甲は高い強度を持とうとも、それを装わぬ皮革状の組織は霊力を込めた刃が通る程度のものであったらしい。
斬りつけた皮膚の傷から
妖夢は眼前に迫った怪物の振るう刃を寸前で回避する。
半人半霊ゆえの未熟者であるが、こと刀剣の扱いに関しては妖夢とて幻想郷随一のもの。先代の庭師であり、祖父でもある
「どんな異形であれ、それが生物なら……! 心の臓を貫けば、花と散るはず!!」
怪物の僅かな隙を見逃すことなく、妖夢は刀を水平に構えて霊力を高める。師の教えを自らの糧とし、その身に宿した『剣術を扱う程度の能力』でもって、この身体を、この霊魂を。揺るぎなく剣と一体とする。
迷いなく一閃するは──楼観剣の切っ先を垂直に突き立てる【
「グゥ……ア……!」
どろり、と。怪物の胸から血が溢れる。黒い皮革を染めゆくそれは、妖夢の見知った赤色の血ではなく。やはり皮膚を斬ったときと同じ不気味な緑色のもの。
未知の怪物だからって警戒して損したわ──などと、妖夢は自らの剣技に慢心しつつ、役目を終えた楼観剣を怪物から抜こうとした。
――しかし、力を込めて引き抜こうとしても──楼観剣はぴくりとも動かない。
「…………?」
柄から感じるこの感覚。脈動する生命の鼓動。ぎっしりと張り詰めた筋肉は、心臓を穿ち抜いているにも関わらず。その身を貫いた楼観剣の刃を押さえ込んでいたのだ。
「嘘っ……!?」
慢心に満ちていた妖夢の表情が蒼褪める。目の前に怪物の剣が振り下ろされるのを見て、咄嗟の判断でなんとか後退できた。
リザードアンデッドは自らの胸に深々と突き刺さった楼観剣の刃を掴み、何の苦もなくそのまま引き抜いてしまう。とさ、と雪の上に落とされた楼観剣は、疑いようもなくその刀身を緑色の血に染め──流れゆく緑の血液は白玉楼庭園の雪の上に確かに緑色の染みを滲み広げている。
「……信じられない……こいつ……不死身なの……!?」
手応えはあった。間違いなく心臓を貫いたはず。それなのに、怪物はしっかりと二本の足で立ち。雪の大地を踏みしめてゆっくりとこちらに向かってくるではないか。
愛刀の楼観剣は怪物の傍に落ちている。距離を取るために刀を手放してしまった以上、再びそれを手にするには怪物に接近しなくてはならない。
手元にある武器といえば、この腰に携えた白楼剣が一振りだけだ。楼観剣と二刀をもって戦うことはあれど、盾代わりに携行している幽霊用の脇差一つで未知の怪物を相手にするには些か心許ない。弾幕ごっこの延長線として、霊力を込めた光弾をぶつけるという手もあるが──
ただ弾幕を撃ち放つだけでは決定打には成り得まい。業物たる楼観剣でも霊力を込めてようやくその身を切り裂ける程度。おそらく本気の霊力を込めた弾幕を放ったところで、怯ませる程度が限界だろう。
それ以上の威力を持つスペルカードはいずれも楼観剣頼りだ。白楼剣のみで発動したところで、十分な効果は期待できないかもしれない。
博打になるが、一か八か──妖夢は腰の背の鞘に携えた白楼剣の柄へと左手を伸ばした。
「ブルルォォオッ!!」
「!?」
――正面の怪物からではない咆哮。妖夢は慌ててその先に視線を向け、迫り来る野獣の如き牙に対して白楼剣を抜く。
逆手の形で引き抜いた白楼剣をその左手に構え、霊力を込めた結界を盾と成して。不意に現れたもう一体の怪物の突進からなんとか身を守ることができたが、直撃こそ免れたものの勢いまでは殺し切れず、妖夢は砕け散った霊力の盾と共に後方へと吹き飛ばされてしまう。
響く苦痛に顔を歪める妖夢。幸い地面には雪が積もっているため、落下のダメージ自体はさほどのものではない。白楼剣を握る左腕にはビリビリとした衝撃が残ってはいるが、魂魄家の家宝たる白楼剣はあれだけの衝撃を受けていながら傷一つなかった。
左手の白楼剣を杖代わりにして立ち上がると、半霊もすぐさまこちらに合流してくる。
現れた怪物はリザードアンデッドと同じく全身に皮革めいた黒い皮膚を持ち、金属状の器官は枷めいた鎖の如く至るところに配されていた。
赤い毛皮と両肩に突き出した刺々しい牙や
人型や腰に象られた蛇の意匠といい、大まかな特徴はリザードアンデッドと共通している。となれば、このイノシシの怪物もトカゲの怪物と同様、心臓を貫いたところで死なない不死性を備えた同種の怪物と見て間違いない。
漆黒の皮革にいくつもの
その名を知る由もない妖夢だが、アンデッド──死なずを意味する呼び名の通り、彼らは生きても死んでもいない完全なる異端の生物として、闘争に特化した力を秘めている。
妖夢は突如として現れたイノシシの異形──『ボアアンデッド』をリザードアンデッドと同時に警戒しつつ、それがどこから現れたのかを探る。半霊と共に視界を広げ、妖夢は二体の怪物に加え、さらに
上空から幕を下ろした灰色のオーロラ。冥界の雪と幽霊に馴染んで気づくのが遅れたが、彼方の空に広がるそれは波紋を広げて一つの黒を産み落とす。
それはやはり全身を皮革で覆い、腰には不死の象徴たる『アンデッドバックル』と呼ばれるベルトを有した異形の存在。
全身に突き出した棘と甲殻質な漆黒の装甲、頭部に一際雄々しく伸びた角はカブトムシの意匠を思わせる。ヘラクレスオオカブトの如く強大な威圧感を放つ怪物、『ビートルアンデッド』を見て、妖夢は無意識のうちに白楼剣の柄を強く握りしめ、身体の震えを誤魔化していた。
「うっ……さすがに不死身の怪物をこれだけ相手にするのは……ちょっと……」
かなり──いや、とてつもなくまずい。ただでさえリザードアンデッド一体に対して何の対策もできておらず、楼観剣を取り戻すことさえままならないのに。同じく不死性を備えているであろう怪物が二体も増えれば、状況は極めて絶望的だ。
幸い、今この冥界にいるのはすでに死した幽霊だけ。いかに怪物といえど、幽霊を殺すことなどできるはずもない。
それを可能とするのが白楼剣なのだ。実体を持たぬ幽霊さえ斬りつけ成仏させる。魂魄家の者にしか扱えぬこの剣なら、ひょっとしたら──
不死の怪物の魂そのものを斬りつけることで、霊的なダメージを与えられるかもしれない。
「幽々子様、この身に代えても白玉楼はお守りします……!」
主兵装となる楼観剣を持たず、副兵装たる白楼剣のみで戦うことは滅多にない。それでも彼女の剣術を扱う程度の能力は、修行の成果を何倍にも引き上げてくれている。
白楼剣の柄を右手に持ち替え順手で構える。不安は残るが、楼観剣を失ったときのために白楼剣だけで戦えるように修行もしてきた。
この身は一人で半人半霊。たとえたった一人でも、自己と呼べる半霊は共にあるのだ。
故に捧げる全身全霊。二刀の片割れを失い、孤独に苛まれたとしても。半分の身体にすべてを込めて。相手がどれだけ強大であろうとも、この真剣に誓った覚悟は折れはしない。
三体の怪物の中央に立つビートルアンデッドが右腕を上げる。それを合図に、左右に控えていたリザードアンデッドとボアアンデッドが妖夢へと向かった。
トカゲの刃は鋭く振りかざされ、大地を蹴ったイノシシの牙は真っ直ぐ妖夢の身を突き飛ばそうと迫ってくる。
なんとか攻撃を逸らすべく、妖夢は弾幕を撃ち放とうと左手に霊力を込めたが──
「グゥ……」
「ブルゥオ……」
二体の怪物は不意に動きを止め、後方に控えるビートルアンデッドと共に『何か』の気配に怯むように白玉楼庭園の奥を見た。その反応を訝しんだ妖夢も一瞬遅れ、魂が震えるような悪寒を感じ、無意識のうちにその気配の先へ視線を向ける。
冥界と顕界の境界を無視して雪の道から姿を見せた怪物は、これまでの怪物とは比較にならないほど不気味な気配と──狂気さえ覚える、恐ろしいまでの闘争心を放っていた。
漆黒の皮革に、残虐的なまでに突き出した刃の如き棘。ヘラクレスオオカブトを禍々しく歪めて産み落としたかのような暗く半透明な装甲に、頭部に突き出た角状の器官、兜の側面に長く垂れ下がった銀色の鎖。
だが、怪物が身に装うベルト状の装飾品はビートルアンデッドたちとは違う。二匹の蛇が喰らい合う意匠ではなく、
破壊剣『オールオーバー』の名を持つ大剣はその身に宿す始祖たる力の具現だろうか。瞳に映るすべてを破壊し尽さんばかりの衝動が、その紫紺の怪物――
「そんな……また新手……!?」
この場に現れたさらなる異形の怪物の気迫に、妖夢は本能的な恐怖を覚えさせられた。トカゲもイノシシもカブトムシも、半人半霊たるヒトでさえも例外なく。すべての生物を等しく貫く原初の恐怖。その一端を、あの怪物は有している。妖夢は、それを本能で悟ったのだ。
「…………」
紫紺の怪物は黄金の仮面の下から真紅の瞳を輝かせ、三体のアンデッドに向かっていく。振り上げたオールオーバーをもって、なぜか妖夢の方へは見向きもせず。真っ先にリザードアンデッドの身体を斬りつけた。
怪物の傷口から飛び散った緑色の血液は再び白玉楼庭園の雪を染め上げる。
背後から迫ったボアアンデッドの突進にも怯むことなく、紫紺の怪物は左手でその頭を掴み、持ち上げることで雪の地面に叩きつける。
そのまま首を持ち上げ、紫紺の怪物はボアアンデッドの身体を勢いよく蹴り飛ばした。
「えっ……?」
怪物同士が戦っている──その奇妙な光景に、妖夢は思わず声を漏らす。このベルトの形状が異なる唯一の怪物は、怪物にとっても敵と考えていいのだろうか。
ビートルアンデッドが出現する際、妖夢は灰色のオーロラから現れるのを確かに見ている。現れる瞬間こそ見ていないが、おそらくはリザードアンデッドとボアアンデッドも同じようにオーロラから出現したのだと考えられた。
しかし、どことなくヘラクレスオオカブトらしき意匠を感じさせるが、地球上のいかなる生物とも明らかに異なる、この紫紺の怪物だけははっきりと、雪深き道の彼方から現れた。冴え渡った冬空の冷気を切り裂くように、まるで死者がこの黄泉の地へと踏み入るように。
「なんだかよく分からないけど……今なら……!」
三体の怪物が紫紺の怪物に気を取られている隙を見て、妖夢は雪の上を走る。白楼剣を再び鞘へと戻し、リザードアンデッドの攻撃から身を退く際に手放してしまった楼観剣をもう一度その手に握りしめた。
やはり白楼剣と同様、こちらも傷一つない。せっかく刀が業物でも、使用者がそれを手放してしまっては意味がないと自分を叱責し、妖夢は怪物に向き直る。
怪物たちは例外なくその身から緑色の血を流している。雪の地面を染めゆく淀んだ緑色は、もはやどの怪物のものかも分からない。
これだけの傷を負いながらも死ぬことのないこの存在は本当に不死身なのだ、と。妖夢は決して殺すことのできない永遠の存在、主である幽々子が苦手とする幻想郷の蓬莱人たちを思い出していた。死なないということは、生きてもいない。だが、それは生者と死者の性質を併せ持つ半人半霊とて同じではないか?
妖夢は自分の胸に左手を当て、この胸の心臓が確かに動いていることを確認する。続けて触れる自分自身、半霊には命の鼓動と呼べるものはない。
不意に耳に届いたパキン、という音。何かが割れたようなその音は、リザードアンデッドのベルトから聞こえた。
次の瞬間にはボアアンデッドのベルトから再び同じ音を聞く。彼らが等しく腰に装うベルト状の装飾品、アンデッドバックルの双蛇の円環が左右に分かたれた音だった。開いたバックルの中にはそれぞれ『♠2』『♠4』の意匠が刻まれ、二体の怪物は目に見えて
「グゥ……アッ!!」
「ブルゥ……ブォア!!」
紫紺の怪物はとどめとばかりにオールオーバーを激しく薙ぎ払う。リザードアンデッドとボアアンデッド、二体の怪物をまとめて斬り裂くと、それらは緑色の光に包まれた。
「倒した……? いや、カードに変えた……の……?」
妖夢は不死身だと思っていた存在が光と共に消失したことに驚いたが、次の瞬間には、はらりと舞い落ちた二枚のカードに気がついた。
カードは紫紺の怪物の右腰に装われたカードホルダー状の
なぜ貴様がここにいる?
「Uriinokokagamasikezan?」
最後に残ったビートルアンデッドは紫紺の怪物に問いかける。その言葉は妖夢には理解できないが、怪物はゆっくりとビートルアンデッドに振り返り、その瞳を睨んだ。
黄金の角と漆黒の角。二体の怪物は互いにヘラクレスオオカブトの意匠を思わせる。体色やベルトなどは大きく異なっているが、その姿はよく似ていた。故に得物も共通の法則を持っているのだろう。ビートルアンデッドはその右手に長大な剣、紫紺の怪物が持つものと同じオールオーバーを具現する。
打ち合う二振りの破壊剣オールオーバー。鋭く振り下ろされた紫紺の怪物の剣は、ビートルアンデッドが左腕に具現した堅牢な大盾によって防がれてしまう。
圧倒的な防御を誇るビートルアンデッドの『ソリッドシールド』は、その剣を受け止めた。確かにその衝撃を受け止めた、はずだった。
次の瞬間、ソリッドシールドには深い亀裂が入り、紫紺の怪物が振るうオールオーバーの一撃に耐えかねて粉々に砕け散る。
たとえ祖たる象徴が異なれども、紫紺の怪物は一度その盾を破壊しているのだ。オールオーバーの重さと威力、彼自身の覚悟の輝きをもって。異なる種にして同じ名を持つその鉄壁を、紫紺の怪物は記憶に残る
ビートルアンデッドは最硬の盾を破壊されてなお怯むことなくオールオーバーを振り上げる。今度は紫紺の怪物が左手に具現したソリッドシールドがそれを受け止め、盾は主たる紫紺の怪物を守り抜く。
同じ剣、同じ盾であろうと、込めた覚悟の違いだろうか。紫紺の怪物が持つソリッドシールドは揺らぐことなく、向かうオールオーバーの刃を重厚に防ぎ切っている。
怪物は盾を消失させ、横薙ぎに振り払ったオールオーバーでビートルアンデッドが持つオールオーバーを弾き飛ばした。
白玉楼の庭、雪積もる冥界の白き園に、漆黒の刀剣が深々と突き刺さる。そのまま袈裟懸けに斬り裂かれたビートルアンデッドは胸から緑色の血液を吹き上げ、苦痛の呻き声を上げて数歩、後退。流れる緑血の伝う先、腰に装うアンデッドバックルが、乾いた音を立てて開いた。
この感覚……その黄金の角……貴様は……
「Ahamasik……Onustonnoguoonos……Ukaknakonok……」
ビートルアンデッドは静かに口を開く。紡がれる言葉は彼らが有する太古の言語。あらゆる生物に通ずる身でありながら、それは彼らにしか理解できない固有の言葉だ。
開いたバックルの中には『♠A』の意匠が刻まれている。紫紺の怪物は破壊剣オールオーバーを水平に構え、ビートルアンデッドの胸に突き立てた。
緑色の光と共に消えゆく漆黒の怪物。やがて最後に残ったのは一枚のカード。
リザードアンデッド、ボアアンデッドと同様、ビートルアンデッドもその法則に従い、自らの身をカードに封じ込められる。
そのカードも、同じく怪物の右腰のケースへと吸い込まれていった。
「…………」
この場に現れた三体の怪物をカードに『封印』し、紫紺の怪物は天を仰ぐ。額から流れた緑色の血が、どこか涙のように頬を伝って落ちていく。
ゆっくりと振り向き、怪物は妖夢を見た。先ほどまでの闘争心はいくらか和らいでいるようだが、溢れんばかりの気迫に本能が震え、妖夢は咄嗟にその手の楼観剣を強く構える。
紫紺の怪物は右手のオールオーバーを消失させ、小さく唸りを上げた。まるで妖夢に大した怪我がないことを安心するかの如く。
全身から流れる緑の血は絶えず白玉楼の雪を染めている。その身の損傷が大きいのか、あるいは精神的な影響か。紫紺の怪物はその場に膝を着くと、力なく倒れ伏してしまう。
「えっ……ちょっ……!」
妖夢が驚いたのは、怪物が倒れたからではない。傷だらけの怪物の身が歪み、紫紺と黄金の装甲から姿を変え──
ボロボロの現代衣服を身に纏った、外来人らしき人間の青年が姿を現したからだった。
「あなた、人間だったんですか……!?」
背の高い成人男性らしき姿。整った茶髪に、どこかの組織の職員制服にも見えるボロボロの黒いジャケット、濃紺のジーンズと首元や指に装う数々の装飾品。
しかし、その傷から流れる血は明らかに人間のものではなかった。先ほどの不死の怪物と同様、青年の身体からは緑色の血が流れている。それなのに、外見は人間と変わらない。
「……
青年――
友と世界。大切なものを失わないために、大切なものを犠牲にしろと、運命が告げるのなら。この身を剣と振りかざせばいい。運命にだって屈さず戦い、そして勝ってみせる。
幻想郷の外に繋がるいくつもの世界。そのうちの一つ。かつて53体の
未だ秋の風情を残す冬空の下、人の気配のない研究所の一室にて、青年――
剣崎はスペードを除くダイヤ、ハート、クラブそれぞれのカードを見つめ、腕を組んで小さく息を吐く。トランプのスートと同じ紋章を持つ数十枚のカード群は、いずれも絵柄に空虚な鎖が描かれているだけだ。
本来ならば、これらのカードは全て厳重に保管されているはずである。彼がこのカードを手にすることができたのは、カードの保管を担う男からの強い信頼を得ているからに他ならない。
「…………」
広げたカードを再び束ねて、剣崎はそれを懐にしまう。自分のしたことは、正しい。そう信じているはずなのに、どうしても心のどこかで引っかかりを覚える。
ラウズカードの管理を担っていた男は剣崎の先輩であり仲間でもあった。当初は別の人物に管理されていたのだが、男はカードに封印された不死の法則を研究し、大切な友を苦しみから救う方法を探すため、カードの管理を名乗り出たのだ。
男も早々に察知したのだろう。終わったはずの戦いが再び始まってしまったことを。不死の法則が失われ、
剣崎の姿を見た彼は、ひどく驚いた様子だった。
当然だ。世界と友を守るために
戦いが再び始まったのならきっとあの男も戦いを拒まないだろう。彼が守ったこの世界を、再び不死なる争いに巻き込むなど──見過ごしていい話ではない。
そのために受け取ったのだ。あの男の手から、封印の解かれた
――だが、あの男を共に戦わせるわけにはいかなかった。剣崎という男は故意に人を騙せるような性格ではない。あれ以上あの男と共に居続けたら、自分が
「仕方がないとはいえ、心苦しいのう……」
剣崎一真の姿が
背の高い成人男性だったその姿はすでに幻の果てへ消えてしまった。今ここに立っているのは、若いようにも、老けているようにも見える幻想的な女性の姿。タヌキめいた茶色の装いに、身の丈ほどの豊かな尻尾を湛えている。
赤みがかった茶髪に木の葉を一枚乗せて。眼鏡の先から覗く瞳は
「
女性の名は
彼女はその種族ゆえに、妖術をもって万物を『化けさせる程度の能力』を持つ。自らを別の人物に化けさせ、その姿を騙ることが可能であるがために、幻想郷の管理者たる八雲紫は彼女を『この世界』へ派遣したのだろう。
この世界の法則に由来する怪物はトランプの枚数と同じ、53体。そこにあり得ざる54体目が生まれた際、この世界には束の間の安寧がもたらされた。
だが、53番目と54番目。そのうち、幻想郷にこの世界の法則を繋ぎ止める54番目の存在だけを招き寄せれば──
世界は54番目の存在、53番目の存在を『最後の切り札』と定義。その定義に従い、双方の世界には
それを避けるためにマミゾウが残る52枚のラウズカードを手に入れる手筈だったのだが、やはり封印されているはずの怪物はすべて解放されてしまっているようだ。これもやはり、八雲紫が言っていた水面下の悪意──世界の接続を勝手に進めている何者かの手によるものだろうか。
「それにしても……」
マミゾウは懐から先ほどしまった51枚のラウズカードとは別の、一枚のラウズカードを取り出す。それは本来ならばこの場にあってはならないカード。剣崎一真が自らを犠牲に守った友が、生涯持っていなければならないカードだ。
そのカードには『ハートの2』の
53番目の存在に人の心と姿を与えていたそのカードは、今は何も封じられてはいない。カードを管理していた男から剣崎一真の姿でこれを受け取ったマミゾウは、その男から『あの喫茶店の前に落ちていた』――と聞いている。
もしも、他の世界で死んでいった数々の怪物が蘇り、幻想郷で暴れているなら。あるいは死からの再生ではなく、
「……不穏じゃな。このまま何事もなければいいんじゃが……」
ハートの2のラウズカードを懐へとしまう。あまり悠長にしていれば、妖術で眠らせたあの男が異変に気づいてここまで追って来てしまいかねない。
全てのラウズカードを失った53番目の存在の恐ろしさは、この世界の法則を垣間見た八雲紫から聞いている。
ただでさえ今の幻想郷は混沌とした異変に見舞われているのだ。あのような闘争心の怪物を受け入れる余裕などはない。――54番目の存在と化した剣崎一真だけなら、まだいいが。
「――剣崎ッ!!」
研究室の扉を開き、黒髪の男が声を張り上げる。かつての戦いで破損して以来、自らの手によって修復したばかりのベルトを手に持って。
しかし、すでにマミゾウは幻想の境界を超えて元の世界へと戻っていた。はらりと舞った木の葉を一枚だけ残して、もはやそこには幻想的な力の残り香一つない。
「まさか……トライアル……いや……ティターン……カテゴリー10か……!?」
剣崎一真が自分を裏切るなんてありえない。その信頼が、彼の思考を掻き乱している。これまでも仲間の姿を騙る敵が現れているために、その可能性が彼の脳内を染め上げてしまっているのだ。当然、真面目で融通の利かない性格である彼には、異世界から現れた化け狸などという荒唐無稽な存在が思いつくはずもない。
自分とて仲間を裏切る気などない。剣崎には『本当に裏切ったんですか』と問い詰められたこともあったが、それも謎を解くために必要なことだった。
それなのに──自分がカードを管理するなどと言っておきながら、この失態だ。彼は後輩にその純粋さを利用されるなと忠告した。その痛みが、自分自身の心に突き刺さる。行き場のない怒りと無力さ、仲間の信頼を裏切る結果になってしまったことを悔やみ、拳を壁に叩きつけた。
剣崎の怪人態の色は生前の韮沢靖氏が描いたイラストを参考にしています。
橘さんには申し訳ないけど、ベルトとカードを持ってくる方法はこれしか思いつかなかった。