東方逢魔幻譚 ~ Never Cross Phantasm.   作:時間ネコ

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A.D. 2005 ~ 2006
それは、語り合う明日の物語。

ぼくたちには、ヒーローがいる



【 鬼のかがやき吉野山 】
第33話 響き逢う鬼


 幻想郷の遥か地の底たる地底世界。そこに広がる旧地獄は、幻想郷に馴染めなかった嫌われ者たちの楽園として広がっていた。

 ここが旧地獄として切り捨てられた際に廃墟となるはずだった街──『旧都(きゅうと)』。それは現在、地上のルールに従わず、旧地獄で生きる荒くれ者や嫌われ者たちを受け入れる、忘れられた都となっている。

 

 幻想郷を去り、鬼の国とは異なる地を目指した一部の鬼は、余った地獄の土地に新しい社会を築き上げた。彼らは地上を追われた妖怪を受け入れ、やがて旧都は勢力を増し──それを危険視した地上の妖怪は、地底都市を認める代わりに条件を出した。

 それは、地底の怨霊を封じること。そうすれば、如何なる妖怪も地底世界に踏み入れさせないという相互不可侵を約束する。

 かつてお燐が意図的に怨霊を解放した間欠泉異変の際に、その関係は形骸化してしまったが──今でもとある一人の鬼を筆頭に、地底の繁華街、旧都は輝き溢れる活気に満ちていた。

 

◆     ◆    ◆

 

 地底と地上を繋ぐ数少ない通り道。渇いた風の吹き抜ける『幻想風穴』と呼ばれる洞穴に、この旧地獄に生きる二人、嫌われ者の妖怪たちがいる。

 一人は暗い茶色の服装に身を包んだ少女。同じく茶色いリボンをもって後部にまとめられた金髪と、衣服に結びつけられた三対の黄色い留め具はさながら蜘蛛の腹と複眼めいており、丸く膨らんだスカートには幾重もの金の帯。

 鬱屈とした暗闇の風穴には似つかわしくない明るい性格ながら、少女―― 黒谷(くろだに) ヤマメ は様々な病気を振り撒く『土蜘蛛(つちぐも)』としての力を地上で(いと)われ、この地底に移り住んだ。

 

 もう一人の少女――暗闇から人を襲う『釣瓶(つるべ)落とし』と恐れられた怪異。白い装束を纏い、緑髪の短いツインテールをふわりと揺らした幼げな少女は、自らの全身がすっぽりと入るほどの大きな釣瓶――木製の井戸桶から小さく顔を覗かせ、闇の果てを見る。

 表情にこそあまり滲ませないものの、この地において キスメ と呼ばれる彼女の心には見た目の可憐さと内気な性格には似つかぬ凶悪さがあった。

 釣瓶落としの本懐に従い人を襲う。地底という環境ゆえに人と遭遇することはあまりないだろうが、もし迷い人を見つければ、彼女は問答無用で首を刈り、桶に入れて持ち帰るだろう。

 

「…………」

 

 虚空に繋がった縄に吊られ、桶に入ったまま宙に浮いているキスメの隣。自ら編んだ蜘蛛の巣に腰掛け、先ほどからこちらを隠れ見ている(・・・・・・)者たちの気配に対し、ヤマメはいい加減不快なものを感じてきたところだった。

 いくら気配を殺したところで妖怪の知覚を誤魔化すことはできない。否、気づいたのは少し前だが、もしかしたら──もっと前から見られていたのだろうか。

 キスメも同様に、すでにその気配には気づいている。肌に突き刺さる視線は明確な敵意を滲ませているが、意識していなければヤマメたちでさえ気づけなかったかもしれない。

 

「私たちに何の用か知らないけどさ。……こそこそ隠れてないで出てきたらどうだい?」

 

 ヤマメは蜘蛛の巣から降り、キスメもその高さに合わせて虚空から伸びる縄をゆっくりと降ろす。さほど声を張り上げたつもりはなかったが、暗闇と静寂の幻想風穴、岩肌に返る音は木霊(こだま)のように反響した。

 ぴちょん――と、微かに雫の落ちる音。未だ姿を見せもせず、周囲から感じるいくつもの気配は不意に消え、そこには束の間、地底らしい渇いた風だけが通り抜ける。

 

 ─―その直後。二人は、先ほどの気配とは比較にならないほど強大な妖気を感じた。

 

「な……っ!?」

 

 薄暗い幻想風穴の彼方の闇、空間などあろうはずもない場所から凄まじい勢いで突っ込んでくる、木でできた『山小屋』――らしきもの。

 それは側面から突き出した漆黒の節足を乱雑に振り乱し、岩肌を打ち砕いて進む。やがて岩壁に大きくぶつかり、その衝撃でバラバラに砕けた山小屋が木片と散った。響く咆哮は不気味に鋭く、幻想風穴におぞましく木霊する。

 

 砕けた山小屋の中から現れたのは、人の身の丈を遥かに超える巨大な蜘蛛の怪物だった。

 漆黒の身体に真紅の四対眼、さながら虎のそれを思わせる黄色い縞模様。鬼が如く剥き出された大顎の牙は、それが如何なる伝承に由来するものか疑う余地もなく理解できるもの。

 

「グォォォォーーーーォォォォオオッ!!」

 

 見た目に違わず、その蜘蛛はやはり虎に似た咆哮を上げる。暗闇の中に爛々と真紅の眼を輝かせ、ぶつかる度に周囲の岩を砕き、微かな落石を全身に受けながら。

 洞窟が湛える静かな風と地底の妖気を薙ぎ払い、怪物は深い地底の奥深くを目指し――ヤマメとキスメはその驀進(ばくしん)に巻き込まれぬよう、咄嗟にそれぞれの方向へ飛んで怪物に道を譲ってやることしかできなかった。

 

 怪物の進行方向に見えるは果てなき暗闇。一瞬だけ生じた灰色のオーロラに飲み込まれ、巨大な蜘蛛は姿を消し。次の瞬間にはそのオーロラも地底の闇に掻き消えてしまう。

 その虚ろな光の波間に、ヤマメとキスメは二人の人影らしきものを見た──気がした。

 

「あれって……土蜘蛛だよね? ヤマメの知り合い?」

 

「……いやぁ……あんな知り合いにゃ心当たりないねぇ……」

 

 異形の大蜘蛛――まるで幻想郷らしからぬ姿をした『土蜘蛛』らしき怪物。それは紛れもなく黒谷ヤマメと同じ伝承の妖怪だ。ここにいる少女とは似ても似つかぬながら同じ妖気を宿した怪物(それ)について、キスメは思わず本人に問う。

 かの化け物には心当たりなどはない――と。ヤマメの答えは至極当然。あれはツチグモ(・・・・)であって土蜘蛛に非ず。幻想の紡ぎと別の理たる、異なる因果にて歪み育った怪異なのだから。

 

◆     ◆    ◆

 

 幻想風穴を超えた地底の道。暗い岩肌に覆われた天蓋の大地は春だというのに寒く、太陽の光の届かぬ地殻の下には冷たく渇いた風が吹き込んでくる。

 地上と過去を結ぶ道──『地獄の深道』と呼ばれるこの地には、旧地獄で最も栄える旧都へ渡るために、巨大な岩の谷と流れゆく地獄の川に一本の大きな橋が()けられていた。

 

 かつては渡る者の途絶えた橋と呼ばれたものの、相互不可侵の条約が多少緩んだおかげで霊夢や魔理沙を始めとした強者が訪れることもある。地底に用がある者は少ないが、地底から地上へ向かう者や、あるいは何らかの理由で地底に迷い込んでしまった者もここを通っていくのだ。

 

「地上はいつにも増して賑やかそうね。まったく……(ねた)ましいわ」

 

 この古びた地獄の橋、頭上の天蓋を見上げてぽつりと零す金髪の少女。やや高く伸びた耳と同様、地殻の下の嫉妬心に相応しい不健康な白い肌をした彼女は、鈍く淀んだ緑色の瞳を光らせて見えざる地上の空を心に想う。

 橋を守護する『橋姫(はしひめ)』と呼ばれる妖怪、波と揺れる金色のショートボブを風に靡かせた 水橋(みずはし) パルスィ は『嫉妬心を操る程度の能力』を有していた。

 

 茶色い衣に、青く黒く装うスカートは深く湧き上がる嫉妬の如く。特に理由なくあらゆる事象を妬み羨み己の妖力に変換する。故にその精神には陰鬱なものを宿していながら、地底に封じられた彼女自身の性格はさほど暗くはなく。この旧地獄においては友人も少なくないらしい。

 

「そうかい? 旧都だって地上に劣らず賑やかなもんじゃないか」

 

 岩肌に囲まれた橋の前、パルスィの隣に力強く着地しつつ、どこか体操服めいた趣の白い装束と蒼く長いスカートの女性が少女の声に返す。

 ふわりと舞った金色の長髪は剛毅(ごうき)な立ち居振る舞いに反して流れるように美しく、純然たる力を讃える輝きの如く。着地の際にカランと音を立てた下駄に加え、両手両足の首に装った鋼の枷と、そこに結ばれた鎖が重なり鳴る。

 

 慎重さなど欠片も感じさせない粗野な所作で飛び降りたにも関わらず、女性が左手に持つ大きな杯に満ちた酒は一滴たりとも零れていなかった。(たぎ)るような赤の中に五芒の星を黄色く宿すその杯は、女性が額に掲げる立派な一本角(・・・)と同じ意匠のもの。

 雄大なるその象徴が示す通り、彼女―― 星熊 勇儀(ほしぐま ゆうぎ) は紛れもない『鬼』であった。

 

 千年前に語られた『山の四天王』の一人、名を『力の勇儀(ゆうぎ)』。かつての幻想郷において、妖怪の山の支配者として君臨していた力の具現たる彼女も。人間から勇気と誇りが失われたことに失望し、かの地を去った。

 多くの仲間がいる鬼の国ではなく古く寂れた旧地獄を選び、ここに新しい都を拓いたのも自らが否定され忘れられた者であるという自覚を胸に刻み込むためだろうか。鬼の強さは単一の個にして完結しており、人の恐れを必要としないが――勇儀はその力がほんの少しだけ寂しかった。

 

「ただ……そろそろ仲間に入れてもらいたいもんだねぇ。地上(あっち)のお祭りにさ」

 

 勇儀は左手に持った大きな杯、鬼の秘宝である『星熊盃(ほしぐまはい)』を仰ぎ傾け、湛えた波を一息で飲み干す。この杯は注いだ酒の質を一瞬で向上させ、如何なる安酒であろうと最高品質の純米大吟醸酒(じゅんまいだいぎんじょうしゅ)ほどの次元に引き上げてくれるのだ。

 ただ、時間経過によって酒の質は劣化していくため、急いで飲まなければ損をしてしまうことになるのだが――この大盃には一升もの酒が入る。余裕をもって優雅に飲んだとしてもその味を落とすことなく楽しむことができるのは、無双の(きも)を持つ彼女ら鬼くらいのものだろう。

 

「心配しなくてもよさそうよ。もう地底(こっち)にもその影響が出てるみたい。私たちみたいな日陰者(ひかげもの)にもしっかりと向き合ってくれるその誠実さ、眩しすぎて……地殻(はら)の底から妬ましいけどね」

 

 酒のなくなった星熊盃を手元から消失させた勇儀の言葉に返すパルスィ。隣に立つ鬼と共に見上げた地底の天盤からは、地上と地底の狭間の大地に染み込み純化された気質の具現、薄紫色に輝く小さな石片が舞う。

 地上においては桜が咲く季節、春に見られる光景。地底の天蓋(そら)から静かに降り注ぐ美しい鉱物の欠片は『石桜(いしざくら)』と呼ばれ、桜の木の下に埋められた人間の死体が朽ち、残された魂が徐々に地へ沈み、純化され、罪と欲の色に煌く石として結晶化したものだ。

 

 それ自体は地底では珍しいものではない。春に桜が咲くように、時期が訪れれば人間の死体から零れた魂も石桜となる。見る者によっては禍々しく、あるいは空虚な輝きかもしれないが、地底に住む者にとってはそれは毎年見られるありふれたもの。

 パルスィが注目したのは、その石桜に加えて本来同時に起こり得るはずのない現象が起きていたことだった。

 春の象徴たる石桜と共に清く降り注ぐ──幻想的な細雪(ささめゆき)。はらりはらりと闇に舞う白は、春も半ばだというのに、吹き込む風と共に冬の寒さを肌で思い出させるかのよう。

 

 勇儀はいつかの冬の日、地上の人間がこの地底に踏み入ったことを懐かしんだ。地上に噴き出した間欠泉と、それに伴う怨霊の調査に訪れた巫女か魔法使いか、彼女らは遥か太古の人間たちを思わせる力強さと度胸に満ちていた。

 願わくばもう一度、今度は手加減した上でなく本気で拳を交えてみたい。勇儀の胸に秘めた祈りは、いつか再び地上の強者と戦いたいがために。

 地底の世界は勇儀たちのような荒くれ者にとっては力だけが物を言う楽園のような世界である。故に一度は捨てた地上の世界に、もはや未練も興味もない。が──

 そこに血沸き肉躍るだけの戦いがあるのならば。再びかの地を目指してみたくもなる。

 

「おや? あそこに見えるのは……もしかして地上からのお客さんかな?」

 

 古びた橋の彼方に馴染みのない気配を感じ、勇儀は己が向けた視線の先にどこか自身と似た気を抱き有した人間を見つけた。

 この捨てられた地獄においてなお妖怪を警戒する様子もなく、多少の困惑はあれど悠々と荒れた岩道を歩く姿。それは紛れもなく、この旧地獄の恐ろしさを知らない地上世界(へいわなせかい)の住人だろう。

 否、ここからでは遠くてあまりよく見えないが、あの異質な装いはあるいは──

 

「不思議な場所にー、迷い込んでもー」

 

 抑揚のない声で慣れ親しんだ童謡を口遊(くちずさ)む体格の良い男が一人。今ある状況に合わせ、童謡の歌詞を替えて歌い歩くは、幻想郷らしからぬ現代的な衣服に身を包んだ外来人(・・・)だった。

 

「もー、もー、もー、もー、問題ないさと頑張ろうー、っと」

 

 落ち着いたシャツとボトムスに黒いコート。岩肌を飛び越えて着地し、腰に装ったベルトの左側、銀色に輝く三枚の円盤が重なり揺れる音を聞く。男は慣れた様子で足場の悪い地底の岩場を軽やかに渡り、大きな橋の前に立った。

 幻想郷の外の世界、異なる紡ぎから(いざな)われた男の名は 日高 仁志(ひだか ひとし) 。されど彼には生まれ抱いた本名とは別に、己の名として語り得る『もう一つの名前』が与えられている。

 

 自然と共に鍛え、人の心を清く貫き。鍛錬の末に辿り着いた者だけが至る大自然の力。世界に満ちる妖気と変異の響きを借り、彼らは人ならざる境地へと変わり果てる。古く戦乱の世より続く人守りの組織から授かった『ヒビキ』の名を、彼は大切にしていた。

 それは高鳴る鼓動の如し。鬼の如く峻烈に唸る大地の声、あるいは山林を越えて伝う烈火が如き(つづみ)の音色。遥か古の時代から受け継がれたその名は、今のヒビキにとって何代も継承され続けた灯火を証明するものだ。

 

 如何にその胸に雄大なる炎の音色を宿していようと、暗い洞窟はどうしようもなく冷える。静けさと薄暗さに満ちた地底の洞窟、地獄の深道で。ヒビキは大きく派手なくしゃみを一つ。

 

「……せめて香須実(かすみ)と連絡取れりゃあなぁ」

 

 むずむずとした鼻をこすり、ヒビキは暗闇に白い息を吐きながら。その脳裏に浮かんだのはこの未知の洞窟、地殻の穴に迷い込んでしまう少し前の記憶。

 それはある冬の日。大いなる自然の歪みに(まみ)え、ヒビキたちは荒れ狂う魑魅魍魎(ちみもうりょう)の大群を(しず)めて大地を清めるための儀式を終えて――早くも一年の月日が過ぎ去ったとき。

 

 ヒビキは一人の少年と再会した。共に歩んだ道の中で、少年はヒビキから多くを学び、成長していた。友として弟子として、彼はヒビキからたくさんのことを教わったが――それはヒビキも同じだったのかもしれない。

 二人の弟子のうち、一人は師である彼と同じ道を。そしてもう一人は、道こそ異なれど同じ理想に輝く夢を。彼らと共に鍛え続け、自らの明日を歩むということ、強く生きていくということの意味を。ヒビキは師として己が背中をもって、あるいは隣立つ友として語り、伝えた。

 

 彼らの鍛錬に終わりはない。常に自分に負けないために。己の弱さに打ち勝つために。鍛えて鍛えて鍛え抜いて。果てなき道に迷うことなく。

 初めて南の島にて出会ったときと同じ、凍てつく冬の日差しを眺めて。太陽が照らす輝き、明日なる夢を語り合い。ヒビキは再会の喜びを抱き、少年に再び師として向き合った。違えた道に関係のない――人生の師として。

 あれから数日が経ち、変わらず己の戦いに挑もうとしていたとき。またしても発生した怪異から人を助けるべく、仲間たちの伝えた地点に赴き、大自然の力が具現化した怪物を清めようと。

 霧深い山の奥深く。奇妙な気配が漂う岩場へと踏み入ったのが、最後の記憶であった。

 

「ったく、雪まで降ってきちゃってもー……うん?」

 

 昔から機械に疎いヒビキは携帯電話という便利な連絡手段を有してはいない。普段の連絡も仲間の携帯を借りるほどであるが、元よりこの幻想郷においては外界の電波に依存する道具が役に立つことはないだろう。

 妙に冷え込む岩肌の道、はらりと舞った白を手に受け止めて。ヒビキは天蓋の闇より降ってきた雪を見上げ──ここが紛れもなく洞窟の中(・・・・)だという揺るぎない事実を思い出した。

 

「どーなってんだこりゃ……」

 

 依然として降り続ける、雪の結晶たち。空を見上げてもそれなりに高い岩の天盤があるだけ。どこを見渡しても空の見えるような穴などはないし、岩肌のあちらこちらに突き刺さったような薄紫色の仄かな明かりがなければこれから歩む道も見えないほど。

 この雪は岩肌から、あるいはこの洞窟の上方、何もない虚空から降っている――そうとしか考えられない。その奇妙な光景に、ヒビキは思わずその雪を両手に受け止め声を漏らしていた。

 

「外来人たぁ珍しいお客さんだね。よくここまで死ななかったもんだ」

 

旧地獄(こんなところ)まで来てのんきに歌える肝っ玉……なんて妬ましいの」

 

 地底の橋の前、雪降る奈落の暗闇にて、ヒビキは自身に向いた女性らしき声へと振り返る。古びた橋を渡る二人の女性は、ヒビキにとっては見慣れぬ幻想的な服装。されど彼女らにとっては地底らしい妖怪としての姿であった。

 勇儀とパルスィは地上世界の様子には詳しくない。しかし地上の幻想郷が今、未知の大異変に襲われ、博麗の巫女が動き出しているという噂は聞いていた。

 

 この地底にまで影響が及んだ以上、旧地獄の妖怪も無関係ではいられまい。

 数日ほど前に旧地獄の中心――地霊殿から奇妙な気配を感じていたが、あそこは旧地獄においては特異点とも呼べる場所である。地底全体のルールから逸脱しているところがあり、鬼の勇儀でさえ不用意に手を出すことが(はばか)られたのだ。

 だが、この幻想風穴から地獄の深道――旧都に続くこの領域にまでそれが及んだのなら。あるいは地上で騒がれているらしい未知の怪物とやらも。それらと互角以上に戦ってみせるという外来人の戦士なる存在も。もしかしたら、この捨てられた地獄の廃墟で出会えるかもしれない。

 

「おっと。君たちさ……その……悪いけど、もし出口とか知ってたら……」

 

 橋の向こうから現れた二人の女性に向き直るヒビキ。一人は額に立派な角を備えており、一人は深い緑眼と尖った耳。どちらも見慣れぬ奇妙な出で立ちに加え、どこか妖しい特徴が気になったものの、深く詮索しようとはしない。

 情けない話だが、いくら鍛えていようと未知の洞窟においてはどうしようもなく。大自然と共に鍛え、自然との向き合い方はそれなりに身に着いていると思っていたが、ここまで無垢なる幻想を目にしてしまえば、否が応にも自分の無力さをまざまざと理解させられてしまう。

 

「…………っ!」

 

 ヒビキはこの未知の洞窟に慣れ親しんだ様子の少女たちに声をかけた。――そのとき。大地が砕けるような音が耳を打ったと同時、震える岩の足場がヒビキの足を捕らえたのだ。思わず体勢を崩しそうになるが、咄嗟に両足で地を踏みしめる。

 局所的な地震ではない。そう錯覚するほどの衝撃は、目の前の雄大な角を持つ女性が大地を踏みつけたがため。勇儀が一歩踏み出したその右足は、何の妖術も使わずただ物理的な力のみで、周囲の大地を揺るがした。

 それはまさしく怪力乱神(かいりょくらんしん)。説明のつかない荒唐無稽な事象。勇儀が有する『怪力乱神を持つ程度の能力』は、彼女の身体能力を語るものか。天の見えざる地底の洞窟にて雪が降るのも――彼女が持った怪力乱神、理を無視した法則が影響しているのかもしれない。

 

「挨拶代わりだ、持っていきな!!」

 

 一瞬だけ揺れに足を取られ、硬直したヒビキに向かう勇儀。鍛え抜かれた剛腕を振りかざし、地底の空気を砕きながら、貫き進む拳を放つ。

 対するヒビキもその拳をまともに喰らわぬよう、微かに硬直した足が動かせないゆえに正面から受け止めた。女性らしい細腕にしっかりとついた筋肉、されどその整った身体からは想像もつかないような──まさしく鬼の如き一撃。

 同じく鍛え抜かれたヒビキの両腕はそれを防ぎ切った。本気で殴ろうとしたわけではないが、勇儀はその反射神経と判断の良さ、何より鬼の拳を受け止めるだけの腕力に口角を上げる。

 

「ちょっと、勇儀! そんないきなり……!」

 

 鬼特有の血の気の多さが妬ましいと心に滲ませ、ヒビキと同じく勇儀の地均(じなら)しに足を取られていたパルスィが慌てた。

 勇儀の顔を見れば分かる。地上と地底を結ぶこの橋で、地上から現れた外来人。幻想郷の噂に聞く未知の怪物が地霊殿にも現れたのだとしたら、いっそ自ら地上にでも赴いてしまおうかと思ったほど。きっと彼女は、異変に関わる存在と拳を交えるのが待ち遠しかったのだろう。

 

「よく受け止めた! いいよ! その調子でもっと私を楽しませておくれ!」

 

 勇儀はさらなる喜びを胸に湧き上がらせ、ヒビキの腕を押さえて強引に抉じ開ける。力を込めていなければあわや骨が折れかねんほどの膂力(りょりょく)に、ヒビキは思わず表情を変えた。

 

「女の力じゃない……! まさかお前、童子(どうじ)たちの仲間か……?」

 

「童子? まぁ、いつだかはそう呼ばれたこともあったねぇ」

 

 勇儀はヒビキの問いに訝しげな表情を見せながらも、力を緩めることはない。しかし本気で拳を振るわず、ある程度の手加減をしているのは相手のためではなく。

 地底にまで現れた貴重な外来人、おそらくは未知の怪物か、それと戦う人間か。そこに類するであろう者をみすみす再起不能に陥らせてしまってはもったいないと、勇儀の本能が叫びを上げているからだ。

 互いに後退し、距離を取る。ヒビキは拳を固めるも向かう拳を凌ぐためだけに振るい、勇儀はその腕を試すために。人間であるヒビキの拳は勇儀にまで届く距離にないが、鬼である勇儀の拳は、その三歩先――鬼の三歩、すなわち目に見えるほとんどの範囲に届く。

 勇儀とヒビキが互いに向き合わせたそれぞれの拳が、地底の闇を切り裂き貫き進み――

 

「そこまで!」

 

 嫉妬心に歪んだ声と共に、両者の前におぞましい負の想念が込められた緑色の光が走った。それはまるで二匹の蛇の如く緑眼を光らせ、闇色の空間を滑るように昇っていく。不気味な力の波動を前に、ヒビキは思わず本能的に怯んで後退。勇儀も興を削がれ、パルスィに向き直った。

 

「勇儀とまともにやりあうなんて、あなた……本当に人間なの……?」

 

「ええ……? お前らこそ、その力はいったい……」

 

 パルスィの問いに、ヒビキは困惑の色に満ちた声を漏らした。

 ヒビキの前に振るうは揺るがぬ怪力乱神。そして目の前を走った緑眼の蛇。幻想的と言えば聞こえはいいが、それらはこの薄暗い地底に相応しい――忌み嫌われ失われた力である。

 

 少し拳を交えただけだが、勇儀はヒビキの力に何かを感じたらしい。スペルカードルールが制定されて以来、鬼らしく妖怪らしい力と力のぶつかり合いはほとんど味わえていなかったものの、弾幕ごっこはそれなりに楽しかった。

 しかし、やはり拳を打ちつけ合う力の勝負は、心が躍る。相手を人間の強者と認め、勇儀はヒビキにこの旧地獄と呼ばれる場所がどういうところであるのかを説明した。

 

 世界に忘れ去られ幻想となった者たちが集う場所。さらにそこにさえ居場所のない嫌われ者たちが住み着いた深い地の底。稀にそのどれにも該当しない外の世界の人間が迷い込んでしまうことがあるが、その多くは妖怪に襲われ帰らぬ人となる。

 地上で起こっている異変の影響で幻想郷には未知の怪物が発生しているという。勇儀の説明に加えて現状を説明したパルスィの言葉には、ヒビキに対する微かな期待の色が込められていた。勇儀と拳を交えて無事でいられる人間の強者は少ない。が、パルスィの目が認識した気配は紛れもなく人間のそれであった。

 心身共に鍛えられた力は、力試しとはいえ鬼の目にも適うほどの領域に至っている。地上からの噂に聞く未知の怪異と戦えるらしい超人の存在に、もしこの男が該当するのなら。パルスィは勇儀が認めたこの男が、その超人と呼ばれる者であることを願って、異変についてを話した。

 

「幻想郷に旧地獄……ねえ……」

 

 ヒビキは彼女たちから聞いた説明を頭の中で形にする。忘れられた妖怪や妖精。自然や恐怖といったものが具現化した大いなる怪異、魑魅魍魎。ヒビキはそれらと似た存在を奇しくもよく知っていた。

 勇儀たちが語った幻想郷なる秘境の話は聞いたことがなかったが、自然とヒビキの思考において既知の情報と未知の情報が二重の音となりて共鳴していく。

 跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)する百鬼夜行、(あや)しく語られる化生(けしょう)の類は、彼にとっては『幻想』などではない。

 

「おや、意外と動じないもんだね。外来人ってのはもっと大騒ぎするもんだと」

 

 視線を伏せて思案するヒビキの表情に、勇儀は彼の中に力だけでない清らかさを見た気がした。妖怪や地獄と聞いて恐怖したり混乱したり──取り乱すようなことは決してなく。微かにひそめた眉と逸らした視線の中に、何かしらの響き(・・)を感じて。

 

 パルスィもただ驚くだけではないその様子に何かを感じたようだ。本来ならば外来人という存在は結界に近い地上の領域にこそ現れるはずだが――外の世界とは縁のないこんな場所に現れたのはやはり、異変の影響か。

 そう考えても、この男は地上で起きている怪物騒ぎに関係している可能性がある。地底にまで影響が及んだこの状況で現れた外来人など、怪しんで然るべき者。

 きっと勇儀もパルスィと同じ思考に至っていたのだろう。もしくは単に力強い人間であったからか。パルスィもまた、勇儀と同じくこの男を妖怪の餌にしてしまうのが惜しくなった。

 

「異変の影響かもしれないけど、旧地獄(こんなところ)に外来人が現れるなんて前代未聞よ。妖怪だらけで危ないことに変わりはないけど、まずはせめて旧都に――」

 

 パルスィは相変わらず周囲から感じる妖怪の気配に意識を割きつつ、安全のためにこの男を旧都まで案内することを提案する。旧都も荒くれ者の妖怪が日夜を問わず騒ぐ百鬼夜行そのものと呼べる場所だが、理性なき獣同然な妖怪の多いここよりかはマシなはずだ。

 

 地獄の深道を繋ぐ太鼓橋の上で、旧都側の岸から視線を返し。勇儀とヒビキの方へ振り返ったパルスィは、二人が先ほどまでの様子とは打って変わって、神妙な表情で何かの気配を警戒していることに気づく。

 最初は外来人を狙う地底の妖怪を警戒しているのだと思った。突き刺さるような露骨な妖気はパルスィにも分かる。されどそれらは鬼である勇儀を恐れ動くことができないはず。

 

「二人とも……どうかしたの?」

 

 外来人である彼に対してはどの程度の力量か分からない。しかし旧地獄において紛れもなく最強の存在である勇儀でさえ、気配の相手を掴みかね反応できない様子。

 旧地獄に移り住んだ太古の鬼、勇儀。彼女が知らない相手ということは、まさか――

 

「「走れ!!」」

 

 パルスィの思考を寸断する怒号。尖った耳先に走る声はヒビキと勇儀の双方から発せられ、地底の空気を打ち震わせた。

 その言葉の意味が分からず、一瞬反応が遅れる。が、直後に感じた未知の気配、パルスィの五感に突き刺さる悪意が彼女の知覚に『何か』の襲来を伝達した。

 

 暗闇を切り裂いて走る一条の白――それは刃の如く張り詰めた蜘蛛の糸(・・・・)。弾丸じみた速度で飛来し、たかが一瞬、されど一瞬の隙を見逃すことなく、一直線にパルスィへと飛び迫る。

 

「はぁっ!!」

 

 ありったけの妖気を込めた勇儀の拳が、正面からそれを殴り散らした。続けて固めた拳を開き、伸ばした右腕の手の平から妖力の光弾を飛ばし。天盤の一部を砕き割ったそれは、岩肌に隠れていた『女』らしき人影を地に落とす。

 そちらは不意の攻撃に受け身を取り損なった様子だが、油断はできない。たった今、糸が飛んできた方向の真逆。自らの身をもって蜘蛛の糸を繰り、振り子の要領で飛び迫ってくるもう一人の人影――『男』らしきそれは、パルスィの背中に刃の如き爪を振りかざしていた。

 

「たぁっ!!」

 

 咄嗟の判断でその身を蹴り上げるヒビキ。蜘蛛の糸を伝って飛んできた人影は女の人影と同様に幻想風穴側の岸に叩きつけられ、隣合った女の人影と共に立ち上がる。

 

「っ……! 妖怪……? いや……違う……!」

 

 ゆらりと立った二つの人影。石桜が放つ薄明かりに照らされ、ぼうっと紫色に染まるは、それぞれ人間に近い男と女の姿。黒い和装を纏う長身痩躯の男と、白い和装を纏う虚ろげな女の二人はどこまでも不気味な視線でパルスィたちと向き合った。

 パルスィの知覚は相手の妖気からではなく、かの人影から感じた奇妙な嫉妬心に依る。あれらは人でも妖怪でもない。否、どちらかと言えば妖怪に近いのであろうが、幻想郷の妖怪としてあるべき『幻想』を一切帯びていないのだ。

 

 人が見れば人に見えよう。(あやかし)が見れば、あるいは妖と見紛おう。

 しかしてそれらはいずれにもあらず。人と妖、どちらの気配も等しくありて、どちらともつかぬ不浄の骸。おびただしき自然の邪気を孕んだ──単なる土塊(つちくれ)の人形と呼ぶべきモノ。

 

「なるほどねぇ……こいつらが地上で噂の怪物って奴かい?」

 

 怪物と言うには貧相な見て()れだけど、と。勇儀は等しく黒髪を湛えた二つの人影を見る。

 見た目のほどは如何にも貧弱そうな人間のそれ。勇儀にとって奇妙だったのは、それらが自分のよく知る妖怪――『土蜘蛛』の妖気を宿していたこと。

 勇儀やパルスィの知る土蜘蛛、黒谷ヤマメと目の前の男女とでは特徴が合致していない。だが、先ほど放たれた蜘蛛の糸が彼奴らの力によるものであれば、あるいは一種の同族なのか。

 

「……立派な妖気を湛えた妖怪……うちの子の餌になってもらいます……」

 

「……震えるような強くたくましい気配……さぞかし美味なことでしょう……」

 

 痩せこけた頬を震わせ、黒装の男――『ツチグモの童子』が告げる。その声は男の姿に似つかぬ可憐な女のもの。続いて紡がれるは白い太腿を晒した白装の女――『ツチグモの姫』の口から。されど、その声は男のように低い。

 童子と同様に頬に刻まれた蜘蛛の糸を思わせる意匠の如く、どこか粘り気を含ませた(いや)な口調で。ツチグモの『童子と姫』――(つが)いの怪異は、静かに息を吐き洩らす。

 

 するり――それぞれが装う黒と白の装束は首へと束ねり、裸身を晒した二人の身体は一瞬にして漆黒の外殻に覆われた。

 頭部と四肢は歪み変じた虎縞模様の甲殻へ。溢れる妖力が形を成し、それらは人とはつかぬ異形の姿に変わる。首元に結わえた衣をひらりと流し、童子は蜘蛛を思わせる怪人――『怪童子(かいどうじ)』の姿となった。

 同じく隣に立つ姫もまた同様の異形へと変わり果て、こちらはその長い黒髪をおぞましく歪ませた不気味な蜘蛛の化生として人の形を成す『妖姫(ようひめ)』の姿に至る。

 ツチグモの怪童子と妖姫。それら二つの異形は己の変異を終えるや否やと口を開き、再び先ほどと同じように、暗闇に白く輝く蜘蛛の糸を吐きつけ──目の前の勇儀とパルスィを狙った。

 

「少しはそれらしい姿になったじゃないか。遊びがいがあるってもんだ!」

 

 蜘蛛の糸を手刀で弾き、勇儀は不敵な笑みを零す。パルスィは咄嗟に己が緑眼を光らせ、自身に飛んだ蜘蛛の糸を緑色の炎と燃え尽きさせるが、今はこれら未知の怪物を相手にするよりこの外来人を安全な場所まで送るべきだ。

 見知らぬ怪物に背を向けるのは愚行。しかしそれは彼女が一人だった場合の話。今、この場所には、地底において今も古くも(なら)ぶもの()き『鬼』がいる。

 山の四天王の一人、力の勇儀。パルスィは怪物を彼女に任せ、外来人に向き直った。

 

「今のうちにこっちへ――」

 

 パルスィがヒビキに声をかけるが――ヒビキは悠然と歩み出し。あろうことか勇儀と怪物が睨みを利かす場へと踏み込もうとしているではないか。

 いくら腕に自信があろうと、あれだけ異質な妖気を持つ怪物を相手にしようなどと思うまい。無謀な試みを叱責すべく口を開きかけたパルスィだったが、揺るぎない足取りで歩を進めるヒビキの闘志を見て声を失う。

 微かな恐れをも深く呑み殺し、ただ己の心を信じて。ヒビキは一切の迷いなく、瞳の奥に熱き炎を込めながら。ツチグモの怪童子とツチグモの妖姫に向かい合う勇儀の眼前へと躍り出た。

 

「お前たちの方から出てきてくれるなら、こっちとしてもありがたいな」

 

 歪む怪異、うごめく邪気。二つの異形に向かい合い、ヒビキは腰に装ったベルトの右側、小さく折り畳まれた音叉(おんさ)を右手に取る。

 黒塗りの柄に輝く金色(こんじき)は炎の如く雄々しく。手首を振るって開かれた内側にはやはり黄金色(こがねいろ)に施された鬼の形相。その先に延びる白銀(しろがね)の双角は清く美しく焦げくすみ、どこか歴戦の鼓動を伝える勇ましき音色を──研ぎ澄まされた響きを宿しているかのよう。

 

 古き戦乱の時代より受け継がれ、現世の技術をもって伝承された力。紡ぐ妖術と歩む叡智。そして鍛え抜かれた肉体に、すべての意志を伝えるため。

 ヒビキは手にした『変身音叉(へんしんおんさ)音角(おんかく)』が掲げる二股の白銀、音叉としての機能を果たす鬼の双角を、地獄の深道に架かる太鼓橋、その両脇を彩る(あか)欄干(らんかん)へと軽やかに打ちつける。

 

「…………」

 

 不意に、この古き地獄の底には似つかぬ清らかな音色が響き渡った。

 それは鈴の音のような甲高い囁きのようにも、鐘の音めいた重厚な響きにも聞こえる、神秘的な純音。音叉という道具が存在する遥か以前の記憶を呼び覚ます始まりの波動。まるで透明になったみたいに──清く透き通った太古の()を奏でて。

 

 右手に震える音角(おんかく)をゆっくりと自らの額へ近づけるヒビキ。その身は音と共鳴し、ヒビキの額に鬼の形相を浮かび上がらせる。落ち着いた金色に鈍い輝きを放つそれは、音叉の柄に輝ける金色のそれと同じ『鬼面(きめん)』と呼ばれるもの。

 額に灼熱を感じ、ヒビキが音角を下ろすと、それは再び折り畳まれて右腰へ。

 

 妖気は紅く、闘志は熱く。滾る炎を(こころ)に抱き、燃ゆる鼓動、奏でる鬼道は誰がためか。高まり唸る自然の気配はこの荒涼たる地底においてなお強く。ヒビキの身に共鳴する音叉の音色は、人の限界を極めて鍛え抜かれた彼の身体に――妖しくも力強い『紫色の炎』を燃え上がらせた。

 

「はぁぁぁぁぁあああっ……」

 

 湧き上がる妖気に打ち震えながら、童子と姫が微かに後退る。紫炎の中に立つ影、ヒビキは直立不動のままだらりと両腕を下に落としたまま、静かにゆっくりと息を吐く。

 燃える紫色が自身の衣服を焼き散らしていくことさえ気にせずに。額に鬼面を残しつつ、生まれ持った己が肉体が、大自然と共にある『異形』のそれに変じていく感覚に身を委ね──

 

「――たぁっ!!」

 

 響く一声。おもむろに上げた右腕で、身体に纏う紫炎を払い退ける。晴れた妖気の中に佇んでいたのは、先ほどまでの『人間』としての姿ではなかった。

 見慣れぬ姿に相容れぬ、この旧地獄においてはあまりに馴染み深きその気配。外の世界から現れたであろう外来人が持ち得るはずのない古の妖気に、パルスィと勇儀は思わず目を見開く。

 

「そんな……嘘でしょ……?」

 

「……驚いたねぇ。まさか、こんな時代に同胞(・・)と巡り逢えるとは」

 

 勇儀たちの視界に映るは艶やかな光沢を返す紫色の戦士。胸に架かる銀の装いと真紅に滾る両腕の拳。頭部は眼も口も鼻もない無貌となり、代わりに歌舞伎めいた隈取りを紅くあしらい、額に浮かべた金色の鬼面をその象徴と掲げる。

 鬼面の双角から伸びる二つの白銀は戦士の頭頂部から後頭部をぐるりと巡り、やがてこめかみを抜けて前方に。勇儀の一本角と等しいそれは、立派な『二本角』と突き出していた。

 

「…………」

 

 天蓋に輝く石桜の紫光と舞い散る雪。地底の暗闇に、微かに降りかかる紫の火の粉を受け。深い革色の(ふんどし)を腰帯と装い、その正面に三つ巴の鬼火(おにび)を描いた円盤を備えた異形の存在。頭に伸びる角もそうだが、何よりその気配こそが疑いようもなかった。

 幻想郷とも外の世界のそれとも異なる紡ぎ。勇儀たちが感じた気配は、この地に伝承される幻想的なものではない。

 されど、それは紛れもなく。『鬼』と恐れられる者の妖気に他ならないのだ。

 

 どうして人が鬼に――パルスィの思考を染める疑問。鬼は人に非ず。人は鬼に非ず。決して交わることのないそれらは、遥か古の時代に信頼関係を断ったはず。地上においては異変の影響で異なる紡ぎとの接続が成されていると噂に聞くが――

 まさか件の怪物や外来人たちが別世界から現れているという話は本当なのか。人でもあり鬼でもある、そんな存在が実在するなら。荒唐無稽な別世界とやらの存在も現実味を帯びてくる。

 

「……危ないから下がってな」

 

 鍛え抜かれた鬼の姿へと至ったヒビキ─―その名の所以(ゆえん)たる『響鬼(ひびき)』の姿。紫色に輝く強化皮膚は石桜の煌きを反射し、妖しくも清く美しい光を差し照らしていた。

 ヒビキは赤い拳を開いて太鼓橋の上に立つパルスィとその正面に立つ勇儀を制す。無貌の面で睨みつけるは、本来ならばこのような場所にいるはずのないツチグモの童子と姫(・・・・・・・・・)の怪人態。

 

「……鬼か……」

 

 ツチグモの怪童子が女の声で呟く。古来より続く鬼と妖の戦いは、彼が生きた『響鬼の世界』の法則。此度の異変に際して接続された多くの世界と同様、語り継がれる魑魅魍魎たちの妖気は、幻想となることなく幻想郷に受け入れられた。

 怪童子と妖姫はそれぞれ己が右腕を蜘蛛の足めいた強靭な爪へと変じさせる。岩をも貫き穿ち得る鋭さを秘めた刃、それは鍛えられた鬼の皮膚さえ引き裂かんほどのもの。

 

 ゆっくりと歩を進めていたヒビキは不意に姿勢を低くし、おもむろに大地を蹴る。山野を駆けるが如く軽やかに、それでいて一歩一歩を踏みしめる脚の力は和太鼓を打ち鳴らすかのように力強く確実に。歩みと拳の動きに合わせ、涼やかに冴え鳴る鈴の音色(おと)

 爪を振り上げて襲いかかってきたツチグモの怪童子の腹を蹴り上げ、地底の岩場に叩きつける。それを目で追い振り返った妖姫の表情は異形ながら怒りに歪んでいるようにも見えた。

 

 この身体は受け継がれた鬼として。されど鍛えた心は鬼に非ず。ヒビキは鍛錬の末に鬼の力に至ったが、鬼であるということは『鬼であってはいけない』ということ。それを弁え、ただ鍛え抜いた力を振るい破壊を成すのではなく。

 拳に込めるは祈りの音。悪意と邪気に歪んだ怪異を、自然の想いに代わって清めるため。ヒビキは鬼の音色を広く届けるための太鼓として、その名に掲げた『響き』を奏でるのだ。

 

 大地と語る明日の夢、空と木々が紡ぐ鼓動。受け継がれゆく幻想は、勇ましく鳴り響いた。




誰もが思いつく鬼と土蜘蛛の地底。洞窟いいね。
せっかく旧地獄にヤマメがいるのに尺の都合であんまり関わらせられないのが寂しいぜ……

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