東方逢魔幻譚 ~ Never Cross Phantasm.   作:時間ネコ

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 私、水橋パルスィは、石桜と雪が舞う地の底で不思議な男の人に出会った。
 その外来人(ひと)の名は――ヒビキ。
 そのヒビキさんに幻想郷のことを語った私たちは、そこで大変なものを見てしまう。

 今、私たちの目の前には、勇儀でさえ知らない『鬼』がいる――


第34話 誘う奈落

 季節通りの石桜と、季節外れの細雪。二つの季節が混じり合う旧地獄の橋の前で、艶やかな紫色が鬼火と灯る。はらり舞った妖しげな火の粉が散る暗闇の中で、『響鬼』――鬼の姿に変わり果てたヒビキは身体を慣らすように右腕を回し、紅く染まった鬼の拳を握りしめた。

 

「っし……行くか……」

 

 さながら仮面とも言うべき異形の相貌に変わりはなく。ヒビキは紫色の無貌の口に当たる部分から静かに息を吐きつつ、対する二つの異形に向かう。

 ツチグモの怪童子と妖姫は放たれる鬼の気配に一度は怯んだものの、すぐに湧き上がる殺意を形とした蜘蛛の脚の如き爪に力を込めた。

 たとえ相手が鬼であろうと、自分たちの成すべきことは決まっている。愛する『我が子』のために必要な餌は、今や人の肉よりも高純度な力。この秘境の地に在る幻想の妖怪たち、それらが持つ妖気と邪気のエネルギーは彼らの『子』を育てるための最上の糧だ。

 

 鋭く吐きつけられた蜘蛛の糸を避けながら、ヒビキは自然の祈りを込めた赤い拳を振り上げる。この力をもって成すは『破壊』ではなく『浄化』――その意味を胸に燃やし抱き、燃え上がる炎の鼓動に(こころ)を震わせて。

 荒れ狂う自然の歪みに対して人知れず戦う鬼たち。別名『音撃戦士(おんげきせんし)』と呼ばれる存在には、今もなお長く紡がれ続ける歴史がある。

 同じ自然の力を纏いて異形の姿となる鬼、化け物だと恐れ拒まれながらも人々と共に戦う彼らを支えるべく、吉野の土地にて人守りの組織は生まれた。とある鬼の弟子であった青年の名を由来とする『猛士(たけし)』の集いは、鬼も鬼ならざる者も、共に苦難を分かち合い人々を守るために。

 

「勇儀、あの外来人……間違いないわ」

 

「そうだねぇ。どうやら、力を試す必要もなかったみたいだ」

 

 人の身から鬼の姿へ至った外来人の男を見て、パルスィと勇儀が言葉を交わす。

 目の前にいるのは間違いなく『鬼』――それも幻想郷の者ではない。外の世界にだって、人でありながら鬼である存在などいるはずがない。少なくとも、紛れもない鬼である勇儀自身でさえ、そんな話は聞いたことがなかった。

 呪詛や怨念によって鬼と化す人間の伝承もあるにはあるが、勇儀の前で焔と揺れる鬼にはそういった邪気がない。この瞬間に鬼と堕ちたのではなく、今なお人としての心を残したまま肉体だけを鬼に変じた。まるで、鬼の力を人の身で我が物としているかのよう。

 

 パルスィが聞いた地上の噂、幻想郷と接続された並行世界の存在が事実だとすれば、そこにいるのは幻想郷や外の世界とは異なる歴史を持つ異界の鬼。

 否、あるいは人であるのか妖怪であるのか。気配を感じる限りではまさしく勇儀と同等の鬼のそれだが、この姿に至る前までは疑いようもなく人間の気配を放っていたはず。

 

 思えば勇儀の驚きは先ほどこの男を見つけた瞬間からだっただろうか。もしかしたら、勇儀には彼が姿を変える前から鬼の気配が感じられていたのかもしれない。

 いくら喧嘩っ早い勇儀でも、弾幕もなしに生身の人間にいきなり殴りかかるような真似はしないだろう。思わず拳が出てしまったのは、彼が勇儀と同じ鬼の力を宿していたからなのか。

 

「……はぁぁあっ……」

 

 身体に鬼の力を込めていくヒビキ。赤い拳に滾る力を表出させ、手の甲から真紅の爪を突き出してみせる。全身に巡らせた気を練り上げ、深く息を吐くと同時に鋭く生え揃う左右の拳で対の爪。響鬼の持つ【 鬼闘術(きとうじゅつ)鬼爪(おにづめ) 】は、童子や姫と戦うために鍛えられた彼の技である。

 

「はぁっ!」

 

 吐き出され続ける蜘蛛の糸を鬼爪をもって切り裂き、童子たちと距離を詰めていく。闇の中に白く走る糸は、赤く振り乱された鬼の腕に阻まれ響鬼の身まで届かない。

 鬼の走力をもって瞬く間に接近したヒビキは振るう鬼爪を刃の如く突き上げ、同じく蜘蛛の爪を振り上げようとしていたツチグモの怪童子の腹を刺し貫く。

 腹の傷から白い体液を溢れ流し、童子はくぐもった声を漏らす。すぐさまそれを蹴りつけ、岩肌に叩きつけると、爪の返しが怪物の腹を抉ってさらに多くの体液が溢れた。それを見たツチグモの妖姫は微かに後退りながらも、黒い長髪を震えさせ、鬼に対する怒りを見せている様子。

 

「グゥ……ウ……」

 

「おお?」

 

 腹を押さえながら立ち上がり、怪童子はヒビキを睨む。普段ならこの程度のダメージだけで奴らは逃走を図るはずだが――身体の芯まで深く貫いた傷さえ苦しみつつも妖気を込めては癒してしまう。これほどの再生能力は、ヒビキの知るツチグモの童子にはない。

 違和感を覚えたが、彼らは自然の妖気から生まれた邪気の塊。いかようにも性質を変え得る可能性があると判断し、過去の戦いとの相違を訝しみつつ、さらなる追撃に備えた。

 

 ツチグモの怪童子が地面に手を触れる。その動作にヒビキは両爪を構えた。力を込めた鬼爪をもって、己の属する鬼の組織、猛士(たけし)の記録にもないツチグモの怪童子の新たなる性質を見極めるべく、意識を集中させて。

 不気味な妖気が地を伝う――それを肌で感じ取ったそのとき。ヒビキの動きを許すことなく、怪童子の手の平から大地に張り巡らされた蜘蛛の糸が、響鬼の足を捕らえた。

 視線を落としてそれを見る。足に力強く粘りつく白い糸は強靭に絡まり、しっかりと大地に結びつけられていた。鬼の力をもってしても簡単には千切れず、顔を上げては微かに焦る。

 

「おっと……」

 

 予期せぬ行動に反応が鈍っていた。続けて吐きつけられた蜘蛛の糸はヒビキの両腕を縛りつけてしまい、力を込めてそれを引き千切ろうとするも、やはり従来以上の力が加わったツチグモの怪童子の糸は幾度も戦ってきたこれまで通りとは行かせてくれそうにない。

 

「……鬼さんこちら……手の鳴る方へ……」

 

 たん、たん、と。軽やかに打ち鳴らされる拍子と共に、妖しく粘り気のある声が歌う。全身に纏わりつく強靭な蜘蛛の糸に全身を拘束され、上手く動けない。ツチグモの怪童子の不気味な歌声のままに、ヒビキは彼らのもとへ引きずり込まれていく。

 童子たちの力はここまで強いものではなかった。やはり過去の文献や記録、ヒビキの経験以上の力が今の彼らには備わっている。この幻想郷なる土地の影響か、それとも再び『あの災い』が起きようとしているのか。

 この戦いは単なる仕事に収まるものではない――ヒビキの直観は己の拳に力を込めさせる。本来ならこの程度の糸、何ら気に留めることもなく容易に引き裂けるはずだが――

 

 足元の蜘蛛の巣によってじりじりと相手の領域へ引きずり込まれる。されどヒビキの焦りは自身が傷つくことではなく、見ず知らずの少女たちに危険が及びかねないため。

 手品じみた術を目の当たりにしたものの、ヒビキは彼女らにツチグモの怪童子たちを近づけさせないよう、深く大きく息を吸い込んだ。

 ヒビキがおもむろに口を開くと、紫色の無貌を示す響鬼の形相に鬼が如き大口が現れる。強靭な牙を有した大顎を穿ち、肺に燃え滾る妖気を紫色の炎に変えて怪童子へと吐きつけた。

 

「グギャァァ……ァァア……!!」

 

 蜘蛛の糸ごと紫色の炎に焼き尽くされ、ツチグモの怪童子はその身を飛び散らせる。歪み変じた自然の邪気と共に激しく砕け散るは木の葉や土塊。ただ妖気によって歪んでいただけの傀儡(くぐつ)でしかない童子たちに、自然にありふれた生物らしい要素はない。

 響鬼の有する術の一つ――内なる妖気を炎と成して吐き出す【 鬼幻術(きげんじゅつ)鬼火(おにび) 】の威力は、これまでも幾度となく童子たちを撃破してきた、ヒビキの鍛錬の成果である。

 

 己が身を拘束する蜘蛛の糸が紫炎に焼け落ちたことで自由の身を取り戻したヒビキ。未知の行動を取るツチグモの怪童子に思考を乱していたせいか、もう一体いるはずの怪物――ツチグモの妖姫の気配を見失ってしまった。

 否、理由はそれだけではない。この未知の場所たる暗闇の洞窟。ここには童子たちを遥かに超えるだけの、高濃度の妖気が満ち溢れているのだ。

 その思考も一瞬。次の瞬間には背後に迫った気配なきツチグモの妖姫――正確にはヒビキ自身の内なる妖気にも匹敵するほどの強大な力が満ちるこの領域で、自然が歪んだだけの異物である妖姫の妖気が紛れてしまっている。故に、その気配に反応するのがほんの僅か、遅れただけ。

 

「…………!」

 

 ――降り迫るはツチグモの妖姫が掲げる蜘蛛の爪。だが、その一撃は鬼の怪腕に阻まれた。

 

「こいつらとは()り慣れてるようだけど……やっぱり旧地獄(ここ)じゃ戦いづらいかな?」

 

 女性らしくしなやかながらある程度の筋肉をつけている――とはいえ、ヒビキや怪物のものに比べたら美しい細腕。勇儀は、己が腕を遥かに凌駕する大きさの剛腕と剛爪をいとも容易く受け止めてみせた。

 ツチグモの妖姫は見た目以上の力を誇る鬼を前に後退することさえ適わず、微かに血を流しただけの勇儀によって腕を掴まれ、地面に激しく叩きつけられる。

 あまりの衝撃に旧地獄の大地が砕き割れ、微かに地盤が沈むほど。それでも妖姫は自身の肉体に妖力を巡らせ、損傷した身を少しづつ再生していく。勇儀の力に驚いたヒビキはそれを察するのが遅れたが、地底世界の濃密な妖気に慣れ親しんだ勇儀はそんな猶予を見逃さない。

 

「パルスィ! 用意はいいね!」

 

 掴んだままの妖姫を地面に引き摺り、橋にて待つパルスィに向けてそれを放り投げる。妖姫と橋姫、共に姫の名を関した者ながら、どちらも秘める妖気は暗く淀んだもの。

 勇儀の問いにこくりと頷いたパルスィは瞬く間に目の前まで迫ったツチグモの妖姫を恐れることもなく、その場を動かず。湧き上がる嫉妬心に濁った緑眼を淡く光らせ、旧地獄の大地から緑色に輝く蛇が如き弾幕を這わせ上げた。

 どこまでも他者を見上げては妬み渇くことしかできないその緑眼の怪物は、パルスィの意思のままに理由なき嫉妬の対象である万物を喰らう、誰しもが持ち得る醜き感情の矛先として。

 

「妬み尽くせ……! グリーンアイドモンスター!!」

 

 歪んだ想いに似つかぬ明るい笑顔で、パルスィは心の中に掲げた札の名を叫んだ。

 本来ならば弾幕ごっこという遊びのために用いるスペルカード。だが、それは今は地底に害成す悪しき異形を滅ぼし得るだけの殺意を込めた、本気の弾幕。

 ツチグモの妖姫の身に喰いついた緑色の大蛇は泡立つかのように嫉妬心を膨らませ、醜く歪んだパルスィの弾幕――【 妬符(ねたみふ)「グリーンアイドモンスター」 】と化しては地底を嫉妬の光をもって淡く緑色に染め上げる。

 手から伸ばした白い糸を伝い、なんとかそれを振り切ろうとするツチグモの妖姫をどこまでも追い続け。緑色の目をした見えない怪物、嫉妬(・・)は決して相手を逃がすことなく。

 

「グゥゥ……ゴォォァアアッ!!」

 

 蛇の形をした緑色の光弾の群れに次々と襲いかかられ、ツチグモの妖姫は全身に突き刺さる嫉妬という妖気の波動に耐え切れず、木の葉と土塊を散らして弾け飛んだ。

 

「嫉妬する価値もないその空虚さ……返って妬ましいわ……」

 

 はらはらと舞い散る木の葉に包まれ、パルスィは自らが放った妖気の残り香に呟く。ツチグモの妖姫が砕けた残滓、乱れる不浄の邪気が地底の妖気に掻き消え、その不快な気配を感じながら眉をひそめた。

 おぞましき嫉妬の輝きが消えたことで旧地獄の闇には再び石桜の煌きが戻る。ぼうっと薄く、淡い紫色に染め上げられた太鼓橋の前。鬼と橋姫の二人は、異形の外来人に向き直った。

 

「さて、いろいろと訊かせてもらえるかい?」

 

「最初は保護するつもりだったけど……その姿を見て事情が変わったわ」

 

 不敵な笑みを見せてヒビキに問う勇儀に、訝しげな緑眼を光らせたパルスィが言葉を続ける。張り詰めた地底の空気に等しい二人の視線に貫かれたヒビキは、童子の白い体液がついた鬼爪を静かに収め。深い紫色に彩られた響鬼の姿のまま――堅牢なる頬の皮膚を指で掻いた。

 

「ははっ……幻想郷……ね。よく言ったもんだ……」

 

 妖怪――ヒビキの知る怪異とは異なる幻想の概念はここに現実として在る。彼の世界にて語られた魑魅魍魎もまた幻想ならざる怪異として存在していたが、ここではそれは幻想でありながら実在しているのだ。

 話で聞いてまとめていた思考が、肌を貫く妖気と目の前で起きた事象に搔き消される。ここは自分の知っている世界ではない。その事実は、話ではなく実感としてヒビキの胸に打ち響いた。

 

◆     ◆     ◆

 

 地底世界、旧地獄。地獄の深道と呼ばれる岩肌の洞窟、古びた大きな太鼓橋の上。勇儀とパルスィは紫色の鬼――響鬼を前にして、此度の異変に関わる存在と認めた。

 滲み溢れる気配は幻想郷の者でなく。それでいて外の世界には在り得ざる紛れもない怪異の象徴。放つ気配は疑う余地もなく鬼のそれであるのに、見た目と気配、持ち得る妖気以外に関しては典型的な外来人であるのだ。

 

 この地底に現れたという点が不可解であるが――おそらくそれは異変の影響。だとしても気なるのは、この存在が鬼であるのか、はたまた人間であるのか。

 鬼の特徴も人の特徴も備えている。地上に噂される怪物としても、それらと戦う超人としても見ることができる。この場に現れた蜘蛛の怪異を打ち倒したところを見ると後者のようだが、放つ気配は清らかなれど奴らと同じ自然の妖気そのもの。

 未知の怪物と同じ妖気を纏いて、未知の怪物となって戦う姿を見てしまえば、そう簡単には信用できまい。まして外の世界とも異なる別の紡ぎから現れた、異界の外来人ともなれば――

 

「…………」

 

 ヒビキは異形の相貌であった己の顔面から力を抜く。妖気を纏い紫色の無貌と化していたそれは淡く白い光に包まれ、首から上のみがヒビキ本来の生身へと戻った。

 されど首から下は依然として紫色の鬼、響鬼としての強靭な肉体のまま。パルスィたちが感じる気配は首から上のみが人間のそれで、それ以外は鬼のものという極めて奇妙なものであったことだろう。ヒビキは人間としての朗らかな表情を湛えつつ、パルスィたちへ笑いかける。

 

「いやぁ、ごめんね。驚かせちゃったみたいだな」

 

 愛想の良い笑顔で語る男の雰囲気に、敵意らしいものは一切感じられない。それでいて周囲の妖気に対する警戒を怠らず――己が背後につけ入らせる隙もなく。

 パルスィは本能的にこの男が只者ではないと理解した。戦いに慣れているわけではない彼女ですらそう感じたのだから、力の何たるかを知る勇儀はとうに悟っているはず。

 

「まだ名前を聞いてなかったね。私は星熊勇儀。こっちの辛気臭いのは水橋パルスィだ」

 

 勇儀も変わらず笑顔を見せながら返した。己の名に続いて親指で差した友の名を告げると、ヒビキは相手の警戒が微かに和らいだのを感じ取ったのか、自身も未知の妖気に包まれたこの領域で少しだけ緊張を解く。

 パルスィは未だにヒビキに対する不信感がある様子。されど勇儀とヒビキはその身に宿す等しき鬼の気配によってどこかしら通ずるところがあるようで──互いに響き逢っているような。

 

「ヒビキです。結構、鍛えてます!」

 

 名乗るや否や赤く染まった右手を振り上げ、己が顔の右前で小さく振るう。小指と薬指を曲げた手の平で眼前を切り示してみせ、シュッ──と声に出して。

 

「ああ。そいつは十分、身に染みたよ。外にはまだここまで鍛えてる奴がいたんだねぇ」

 

 人を超えた力に至りながらも人の心を忘れていないヒビキという男。勇儀はすでに地上の幻想郷から失われて久しい『強き人間』を見て喜びを抱いた。彼にあるのは力だけでなく、かつての鬼たちが人に求めていた誇りと勇気という強さ。

 彼が鬼の国に現れればさぞかし盛大な歓迎を受けただろうに。忘れ去られた幻想郷との深い繋がりを持つ旧地獄にて出会えたのは、なんとも皮肉めいた巡り合わせだった。

 

「……たぶん、こいつはかなり特別な方だと思うけど」

 

 呆れた様子で肩を竦めるパルスィを横目に、勇儀は地底の天蓋を満たす闇の中、集う妖気の群れを鬼の眼光で威圧する。

 近くにいるパルスィや近い気配を持つ勇儀ならまだしも、旧地獄の洞窟に棲みつく一部の妖怪はヒビキの鬼としての気配に気づいていないらしい。異界の存在であり人と鬼の混ざり合った気配はパルスィでさえヒビキが変身した姿――響鬼の姿を目にしなければ分からなかったほど。

 

「ここじゃあちょっと落ち着かないかもね。私に着いてきなよ」

 

 勇儀の視線で奇妙な気配を持つ外来人を襲おうという妖怪たちは身を退いた様子。それでも隙を見出せば即座に牙を剥くような無法者ばかり。地底世界にも地上と同等のスペルカードルールは機能しているとはいえ、地上以上にそれを無視する荒くれ者は多いのだ。

 

 そもそも地底世界に法などあってないようなもの。パルスィもそれを弁えているために、落ち着いて話をするなら地底世界における唯一の町へ向かうことに異存はない。彼女らの住居がある旧都ならそれなりの秩序もあり、人間であろうと不用意に襲われることはないだろう。

 

 地獄の深道に架かる太鼓橋にて歩を進める勇儀とヒビキ。パルスィは少しだけ背後を振り返り、そこに感じたいつも通りの地底の妖気、そこに微かに異質なものを覚えつつ、旧都に向かう勇儀とヒビキについていく。

 あの違和感は気のせいだったのだろうか――パルスィは橋姫として長らくこの橋を守ってきたが、一瞬だけ感じることができた未知の気配は彼女の記憶にない。

 先ほどの怪物の仲間がまだどこかに潜んでいるのか。そう考えもしたが、あれだけ奇妙な気配が残っていればさすがに気づくはずだ。この暗闇と地底の妖気に『影』として隠れ忍べるような者でもない限り、そこには見慣れた地底の妖怪しかおるまい。

 

 パルスィはやはり気のせいだったと自らを納得させて旧都への道に向き直る。打ち捨てられた旧地獄に相応しい古びた大橋は、先へと歩むにつれて華々しく絢爛な意匠を見せていった。

 

◆     ◆     ◆

 

 地獄の深道を越えて、橋の向こう岸に至っては軒並み出迎える瓦屋根。勇儀の導きに従って、ヒビキは薄暗い中にぼんやりと灯る提灯(ちょうちん)がいくつも並んだ『旧地獄街道(きゅうじごくかいどう)』を行く。

 漂う地霊に道行く妖怪は都へ向かうヒビキたちとすれ違い、気の良い勇儀は馴染み深いであろう連中に挨拶をしつつ、微かな雪化粧を施した冷たい石の道を進んでいった。

 

 街道を抜けて地底に響き渡る妖怪の喧騒を耳に聞き。勇儀たちは地底世界にて唯一にして最大の都市である『旧都』へと辿り着く。先ほどまでの荒涼とした地獄の岩肌が嘘のように、その楽園は古臭い妖気を忘れさせる活気に満ちていた。

 未だなお舞い散る天蓋の雪は、地の底を染める宵に白く冴え。されど虚ろな石桜の煌きは旧都が照らす、さながら地底の不夜城の如き輝きに掻き消されてしまっている。

 地底であるがために空に太陽が昇ることはない。絶えず夜の暗さが空を染める地でありながら、そこは妖怪たちの百鬼夜行。日夜を問わず栄える奈落の大江山は、月の(さかずき)に眠らない。

 

 右を見ても左を見ても人ならざる妖気を有した異形の怪異。ヒビキも首から下は彼らと似て非なる怪物じみた姿だが、このどこか京の都を思わせる地底の繁華街――冬の気配が満たされた旧都の道で、ヒビキは少しだけ目立っている。

 人と鬼の入り混じった気配は、旧都の者たちの目には奇異に映るだろうか。じろじろと見られる居心地の悪さを覚えながら、ヒビキは隣にて歩く勇儀の一本角に視線を誘われていた。

 

「…………」

 

「私の角が気になるみたいだね」

 

 ヒビキの視線に気づいた勇儀が隣を歩むヒビキに顔を向ける。彼女の額に突き伸びた真紅の一本角はこの旧地獄を束ねる『鬼』の象徴。気質や妖気は異なれどヒビキの鬼としての、響鬼としての二本角に等しいものだ。

 今は生身の頭を晒しているヒビキに角は生えていない。鍛え上げた肉体を変じて至る鬼の力はあれど、それはヒビキの生来のものでなく。語り継がれた力を鍛錬の末に得ただけ。

 

「んー? まぁねぇ。気になるっちゃ気になるなぁ」

 

 この地に誘われたときから感じる気配に、ヒビキもすでに気づいている。向かう相手が自身と通ずる気を持ち、生身にして己が鬼の身と同じ角を掲げるなら。この旧地獄と呼ばれる忘れられた奈落において──人々の恐れによって伝わる『妖怪』が実在するのだとすれば。

 自然の力が歪み変じた化け物ではなく、伝承通りの怪異として存在すると言うのなら、ヒビキは勇儀の気配とその絶大な力、語られる怪力乱神の気迫に。他人事ではない心当たりがあった。

 

「……勇儀は鬼よ。ヒビキさん……だっけ? あなたと同じでね」

 

 二人の後に続いて歩くパルスィの言葉を背後から聞き、ヒビキは微かに目を見開く。

 ――やっぱりか、と。自らの予想が答えとなり、ヒビキはどこか安心したような、それでいて未だ自分の心に整理がついていないような、複雑な気持ちを覚えた。

 

 ヒビキの知る鬼とは古来より人間が鍛え至った自然の化身。木々と大地と空と風と──あらゆる自然の力を借り、歪みし万物を奏で清める音の伝達者。それは妖怪として語られる破壊の怪物ではなく、同じ自然の力にて変じた化け物たる魑魅魍魎に立ち向かう『人間』の道だ。

 されどここにいる鬼は──ヒビキの知るものではない。まさしく現し世の伝承に語られる通りの力の具現。まるで人の気配など感じさせない圧倒的な鬼の妖気は、彼女が生まれながらの鬼であることを証明していた。

 

 その姿は恐怖の象徴となる古今無双の鬼。地獄に名立たる者の気迫は歴戦の戦士であるヒビキの魂を一度は戦慄させたほどのもの。

 だが、それもまた無為な破壊を望む化け物ではなく。ヒビキとは異なる法則の鬼でありながら、彼女もまたどこか清らかな音色を魂の中に宿しているような。猛き闘争を求めて燃ゆる様は、受け継がれる鬼たちの始まりの時代――戦国時代の戦士たちを連想させる、気高き血生臭さ。

 

「鬼ねぇ……幻想郷(こっち)じゃ、俺みたいなのは珍しくないって感じかな?」

 

「まぁ、そうでもないけど……そんなところね」

 

 ヒビキはパルスィの方に顔だけ向けて問う。鬼そのものは古の幻想郷において珍しくない。――否、正確には『珍しくなかった』と言うべきであろう。

 今の幻想郷に鬼はほとんどいない。鬼の切り開いた地である旧地獄にさえ、勇儀を始めとした少数の鬼が見られる程度。かつて幻想郷にいた鬼たちは鬼の国に移り住んでしまい、ここが切り捨てられる前の本来の地獄であった頃にいた獄卒の鬼たちは、地獄の縮小化に伴いこことは断絶された新たな地獄で働いている。

 外来人に旧地獄の事情について説明しても仕方ないと判断し、パルスィは鬼という存在が今は勇儀とその友人くらいしかいないことを述べた。伝承においては彼女の種族である橋姫も鬼の一種と考えられることもあるが――どうやら幻想郷における鬼の定義には満たないらしい。

 

「そういう君は橋姫だな? 鬼の嬢ちゃんと同じくらい分かりやすいかもな」

 

 背後から感じる鬱屈とした妖気を肌で感じつつ、ヒビキはパルスィの種族を言い当てた。日々の鍛錬と共に自然の力が歪んだ怪異を相手にしているが故に、語り継がれる妖怪について知らず知らずのうちに人より詳しくなってしまうのは当然だ。

 それもヒビキの生きた世界における古い文献としての知識でしかなかったが、どうやら世界を隔てても同じ名の怪物は同じ名の妖怪として幻想郷にも伝わっていた様子。種族を当てられたパルスィは少し驚いた表情を見せるも、すぐに不条理な妬ましさを湛えた顔で視線を逸らした。

 

「……そんなに滲み出してたかしら」

 

「ああ、いつもより三割増しで駄々洩(だだも)れさね」

 

 自覚がなかったらしいパルスィの様子に勇儀は思わず苦笑を零す。鬼の力に至るほど鍛えられ研ぎ澄まされているとはいえ、幻想なき世界を生きる外来人にさえ伝わるほどのおびただしい嫉妬の波動が、まさしく彼女の前にいるヒビキ自身を対象としていたからだ。

 隣り合って歩き、共に響き逢う鬼と鬼。自身が鬼と認められなかった妖怪であるから、鬼という種族そのものを妬んでいるのか。あるいはもっと単純に――いつも一緒に隣を歩いていた勇儀の傍に、自分ではなく他の誰かがいるという事実からか。

 勇儀はそんなパルスィの歪んだ素直さに、()し姫と呼ばれるだけの所以を覚えていた。

 

「さ、ここなら安全だよ。少し前から使わせてもらってる、私の家さ。一人で暮らすにはちょっと大きすぎるからね。部屋は余ってるし、人間一人を泊めるくらいなら問題ない」

 

 勇儀が足を止めた先にあったのは旧都の軒並みの中に目立つ、立派な建物だった。彼女は少し前から使っていると言ったが、遥か古の時代にこの地を切り拓いた太古が鬼の言う少し前とは、いったいどれほど過去の話なのか。

 旧都の彼方に見える荘厳なお屋敷――地霊殿ほどの大きさはないにしろ、あちらは無数の動物たちや幾人もの妖怪と共に、地底で最も恐れられる妖怪が住む場所。勇儀一人で住まう個人邸宅とは機能も役割も違う。

 旧地獄に生きる鬼はあまり多くない。その中で紛れもなく最強の力を誇る元『山の四天王』の彼女は、旧都を切り拓いた代表者として山に等しい地位に仕立て上げられた。勇儀と同じ鬼でさえ面白がって認め、いつしか彼女の住まいは──旧都の代表に相応しいものとなっていったのだ。

 

「泊める……って……もしかして俺をか?」

 

「こんな地獄の淵で、行く当てなんざないだろ? 大丈夫、取って食いやしないよ」

 

 頼りがいのある笑顔で語る勇儀に、ヒビキは少しだけ面食らう。自身もまた鬼ではあるが、自然の歪みならぬ純粋な伝承の『妖怪』たる鬼の存在は、さすがに彼の知識にも薄い。相手をどれだけ信用していいか分からなかったが――

 少なくとも彼女は自分を鬼として信用している。そしてその胸の内から響く清らかな魂の鼓動は、決して不浄な妖気を宿した化け物としてのそれではない。

 

 本来ヒビキのいるべき世界、彼女らの語った外の世界なる場所には今はまだ帰れそうにないのだという。(しか)らばこの地に留まらざるを得ないものの、当然、ヒビキには幻想郷にも旧地獄にも心を休められる場所はないのだ。

 頭ではまだ妖怪への対応ができていないが、この身と同様に強く鍛えられた心で。ヒビキは相手を一体の妖怪ではなく一人の女性として、微かに遠慮しつつも、その提案を受け入れた。

 

「もちろん、タダで泊めてやるつもりはないけどねぇ。なぁ、パルスィ?」

 

「さっきの怪物について、あなたのその姿について。いろいろ聞かせてもらいたいわ」

 

 交わる眼光。宿す気配は清らかなれど、鬼の気迫と橋姫の緑眼は、おどろおどろしくヒビキの身を貫く。形式上は地底の妖怪として他者を威圧する魂の咆哮。されどその本質は、古来より行き場を失った地上の嫌われ者たちを受け入れる、優しい暖かさを秘めた鬼灯(ほおずき)の色。

 

「そのくらいなら、お安い御用だな」

 

 自然歪みし魔の脅威には、今も晒されている人々がいよう。彼の世界に渦巻く妖気が消えることは決してない。そこに自然がある限り、絶えず魔たる怪異は現れる。

 それでも彼の世界における鬼は彼だけに非ず。信頼できる仲間たれば、きっと人々を守るための力は世のために風と雷と威吹き轟く。ヒビキはそれを信じて、今はこの地に牙を剥く自然の歪みに拳を向ける覚悟を決めた。

 たとえ異なる空の地平でも。己が知る化生のすべてを、鬼と橋姫に伝えるとしよう。彼女らとて守るべき少女には違いあるまいが、それらは祈り待つ人ではない。ヒビキと肩を並べて戦えるだけの力を示した者たちに、いつかの弟子たちのそれにも似た強い眼差しと響く炎を感じ取った。

 

◆     ◆     ◆

 

 勇儀の家に招かれたヒビキは今もなお頭だけを晒した鬼の姿のまま、立派な座卓に向かい合い勇儀とパルスィに自分が見てきた妖怪――その伝承を語る。

 古より妖怪と伝えられた怪異。されどその本質は幻想郷に存在するような、本当の意味で妖怪と呼べるものではなく。人々の恐怖や信仰などが具現化した抽象的な概念としてではなく、遥か昔から大地に根付く自然の妖気、それらが歪な地脈の乱れなどにより変異し、大いなる怪物として具現したもの。

 

 それらは自然発生する一種の災害のようなものだったが、ある時期において人為的にその活動が仕組まれ始めたことがあった。

 変異の力によって生まれた化け物を育て、より強く大きくしようとする悪意。その起源が何十年前か、何百年前かはヒビキの属する猛士でさえ知らない。本来ならばただ生まれただ暴れるだけの現象だった怪物は、その荒魂(あらみたま)を導く番いの怪異を伴い始めたのだ。

 それがこの旧地獄にて勇儀とパルスィたちも出会った男女一対の怪異、童子と姫。彼らは同様に自然の歪みから生じ、己が子たる怪物に肉や体液などの『餌』を与え、自然の循環の一部として育む。人を喰らい成長した怪物は、世界を輪廻させる血か、あるいは単なる本能の獣なのか。

 

「あいつらは童子と姫って言ってな。『魔化魍(まかもう)』を育てる親みたいなもんだ」

 

 木々と大地と空と風。巡る命が乱れた果てに至る、歪み変じた魑魅魍魎。魔化魍と呼ばれたそれは、ヒビキたち『鬼』と起源を同じくする大自然の化身である。

 地震や竜巻に等しいその事象。災害とされた魔化魍を操り、何らかの目的を果たそうとしていた未知の悪意の存在に、猛士は気づいていた。その根源と接触することができた鬼もいたが、ついぞ真実は闇の中。

 例年通りなら成体の状態で人々を襲う魔化魍が現れることは多くはなく、鬼たちの仕事も激しくはないはずだったが――彼ら童子と姫の手によって育てられ調整されたことで、ヒビキにとっては一年ほど前である『あの時期』は異常なほどの魔化魍の出現に追われていた。

 思えば、今でこそ弟子であり友として親しい少年と出会ったあの瞬間からすでに。彼らの悪意による魔化魍の変異は始まっていたのかもしれない。

 

 童子と姫を生み出していたとされる見えざる悪意たち。彼らでさえ恐れたのは、世界そのものの妖気が狂い、無作為に魔化魍が湧き出る最悪の事態――終焉の始まり。

 戦国時代最強とされた伝説の魔化魍の名からか、『オロチ』と称されたその現象は童子と姫を統べる彼ら悪意でさえ望まぬこと。

 空が、海が、大地が。木々も風も何もかも、あらゆる自然が歪みて染まり、災禍の具現たる魔化魍を絶え間なく産み落とし続ける。童子も姫も関係なしに乱れ狂う未曽有の百鬼夜行は、命あるもの悉くを喰らい尽くしてこの世界を滅ぼしてしまうことだろう。

 妖は人が故に在るモノ。人が失せれば妖もまた露と消え、それは幻想郷に生まれし妖怪たちに通ずる。鬼である勇儀はそうなるまいが、人の嫉妬を糧に生きるパルスィはよく理解できた。

 

「魔化魍……魔と化した(すだま)ってところか。確かに、幻想郷(こっち)じゃ聞かないね」

 

「それで、その……オロチとかっていう現象? それはいったい、どうなったの?」

 

 幻想郷に在らざる未知の怪異を知り、妖怪の新たな可能性を並行の空に想う勇儀の隣。他人事ならぬ神妙さで問うパルスィの口調は、話に聞く限りどこか空気の似た彼の世界――響鬼の世界とも呼ぶべき場所と同じことが起きる可能性を、この幻想郷にも危惧しているかのよう。

 

「なんとか食い止めたさ。あのときは俺も必死で、仲間がいてくれなかったらさすがに俺も喰われてたかもな……」

 

 幻想郷の妖怪とヒビキの生きた世界における魔化魍は違う。自然の具現たる魔化魍は人の恐れを必要としないのかもしれない。それでも、童子たちを操る存在から鬼たちの方へ接触してきてまで、その厄災を知らせてきたのだ。

 オロチという災いは彼らにとっても不都合があると考えて間違いない。だが、魔化魍を故意に生み出し人を襲わせる悪意のために戦ってやるわけではなく。

 ただ乱れる災禍を鎮めるため。多くの人々を、彼らが生きるこの大地を清めるため。ヒビキは本来それを成すべき宗家の鬼に代わり、たった一人で荒れ狂う魔化魍の群れに勇み飛び込み儀式を行った。駆けつけた仲間たちがヒビキを守り、彼がオロチを清める要となりて。

 

 年の始まりに祈った通り、また生きられるように。いつでも背後に死が笑う鬼の生き方に約束された明日などない。だからこそ、森羅万象、自然の全てに感謝して悔いなき今日を良く生きる。それが鬼の修行の第一歩だ。

 共に語らう夢の如く。明日なる道に輝く鬼道。大地と共にあるすべてを尊び生きる。それは己も獣も人々も変わりなく――在るべき自然の循環なれば。生も死もまた、共に背負う灯火だと。

 

「オロチが終わっても魔化魍は現れ続ける。倒し切れる相手じゃないしな……」

 

 さすがに出現頻度は元通り、全国で一年に100体程度にまで落ち着いてきている。オロチの影響で異常発生していた魔化魍も勢いを弱め、猛士の仕事も安寧を取り戻した。

 元より関東圏内だけを担当とする猛士関東支部所属のヒビキも数日ぶりの出撃であったが、出動していない期間においても当然、鍛錬を怠ることはなかった。

 一年ほど前のオロチ現象の過酷さを忘れず、悪意が育てた魔化魍に対し。今なお鍛え抜かれた肉体は衰えることなく、猛き炎の如く悠然と魔化魍を響き清める鬼として燃え立っている。

 

「ってことは……あいつらが育ててるはずの魔化魍がまだどこかにいるってことね」

 

 パルスィはヒビキの言葉に小さく眉をひそめてみせた。話に聞いた通りの童子と姫は先ほどの戦いで撃破を見届けている。されど彼らが育成していた化け物――魔化魍なるものの姿は見受けられなかった。

 旧地獄であれば無力な人間などほとんどいない。だがヒビキたちは番いの異形が妖怪の持つ力を狙っていることにすでに気づいていた。

 ヒビキが知る童子たちは魔化魍に与える餌として人間の肉や体液を求める。しかしこの幻想郷という特殊な地、人ならざる勇儀やパルスィが狙われたとしたら、おそらくは人間よりもエネルギー効率の良い餌として旧地獄の妖怪を喰わせようとしているのだろう。

 

 ここに生きる妖怪たちはその力を地上で疎まれた嫌われ者たちばかり。あるいは魔化魍が相手でも自力でそれらを退けられる者も多いかもしれない。だが、それが人の生きる地上に出ないとも限らない。現に地上にも未知の化け物が現れていると聞いている。

 相手がヒビキの語った魔化魍であれば、幻想郷の妖怪に似た特徴としてその噂が勇儀たちの耳に届いていてもいいはずだ。そうでないということは、また別種の怪物という可能性もある。

 

「そういえば、元の姿には戻らないのかい? そっちの姿の方が旧地獄らしいけど、鬼と人の入り混じった気配ってのは、気持ち悪くて慣れないねぇ」

 

 同じ座卓に向き合うヒビキの姿に、勇儀がついぞそれを口にした。顔だけ人の身を晒し、首から下は紫色の光沢を放つ鬼としての肉体のまま。忌避された幻想が集う旧地獄でさえ異形と呼べる姿と気配に――勇儀は苦笑気味に頬を掻く。

 

「いや、ね。俺もそうしたいのはやまやまなんだけどさ。ほら、俺の変身見てただろ?」

 

 そう言いながらヒビキは右手を額に掲げ、音角をかざす動きを再現する。焔と燃えたヒビキの肉体は妖気に包まれ鬼の姿に至ったが、鍛え抜かれた彼の身とは別に纏っていた衣服は燃ゆる妖気に耐え切れず焼け落ちていた。

 変身時は紫色の炎に覆われていて特に気にならなかったが、もし、あのままの状態がその堅牢な皮膚の下にあるなら。気を抜いて変身を解けば、人目に(はばか)られる姿となっているはず。

 

「もしかして、そういうこと?」

 

「そういうことです」

 

 深刻そうな表情で頷いたヒビキにまたしても苦笑する勇儀。普段なら変身の際は欠かさずキャンプに代えの服を用意しておくのだが、こうして未知の場所に迷い込んでしまった状況においてはそう簡単に着替えを取りに戻ることもできそうにない。

 勇儀たちのような幻想的な妖怪としての鬼や、それに類する妖力、魔力を持つ者なら、たとえ衣服が燃えても妖術で構築したものを即座に装うこともできるが、それは妖怪の身に合わせた変異の術。鬼に鍛え至ったとはいえ、仮にも外来人のヒビキに求めるのは酷な話だ。

 

 生憎と勇儀の家に男物の着物はない。それでも旧都の仕立て屋に顔を出せば適当なものを見繕ってくれるだろう。ともあれ、それまでは常に力を込めて変身を維持し続けなければ──

 

「ねぇ、ここに置いてあるのって……あなたの荷物じゃない?」

 

「……ええ? おお、本当だ……っていうか、俺が用意したのより多いぞ……?」

 

 勇儀と向き合っていたヒビキはパルスィの声に振り返る。彼女の手はこの忌まわしき嫌われ者の地、古き妖気が漂う都には似つかわしくない近代的な荷物を示した。

 それはヒビキが用意したものとは別。キャンプに戻れば衣服はあるが、パルスィが示したそれは一度や二度の戦闘を前提に考えられたものではなく。長きに渡って野宿することができるほどの備えであったのだ。

 この場所に来ることが予め分かっていた──などということがあるはずもない。勇儀はその様子を見て訝しんだが、すぐにそれが『あの妖怪』の仕業だと感づく。異世界との接続や未知の怪物の噂、地上から持ち込まれた妖しげで胡散臭い話は、ほとんど彼女に収束すると言っていい。

 

「(だとしたら、こいつも私も今は駒の一つ……ってわけかね)」

 

 小さく笑みを零した勇儀の思考。浮かぶ八雲はヒビキの炎と同じ色。幻想郷の境界を司る彼女が指した一手なら――その(かく)はやがて遥けき王を取るだろう。

 金、銀、角、飛車、歩。王将気取りで駒を指すのはいつだって彼女ら賢者たちだった。されど勇儀は知っている。王将でさえ、盤上においては駒の一つに過ぎないということを。彼女らが誰より幻想郷のために動いているということを。

 

 この地底に誰にも邪魔されない楽園を築くことができたのも、賢者たちのおかげ。勇儀は怨霊を見張るという契約の上で成された自由に対し、賢者たちに感謝している。

 妖怪の賢者――八雲紫。あいつがこの地へ招いた異界の鬼であればきっと。それは必ず、意味のある手だ。ただ賢者の意思に従うだけというのも癪ではあるが、この男の存在は地底へ魔化魍なる怪物を認める証として機能する。

 祭りの本番にはまだ早いと響く鼓動が告げていた。今は準備を楽しませてもらおうじゃないか、と。自身と共に鍵と成り得るだろう存在──ヒビキが向ける紫色の背中を瞳に映して。

 

「……ちょっと、あんまり見ないでくれる?」

 

 怪訝な表情で振り返るヒビキ。その言葉を受けた勇儀は鬼と人が切り替わる瞬間を少しだけ見てみたいと思った己を収め、おとなしく鬼の姿から目を背ける。視界の外から微かに差し込む白い光は、ヒビキが顔だけを晒したときに放たれたものと同じ光だった。

 不意に、勇儀の背後から鬼の気配が失せる。今感じられるのはただの人間の気配。強く鍛えられているものの、彼女にとっては少し物足りない力強さ。

 妖気の波動こそ大きく変わったが――その心から伝わる清らかさは、変わることはなかった。




自然の具現という点においては、魔化魍は幻想郷の妖怪よりも妖精たちに近いかもしれない。

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