東方逢魔幻譚 ~ Never Cross Phantasm. 作:時間ネコ
天蓋に煌く石桜と雪。微かに舞うそれらに加え、鬼たちの勝利を祝福する不浄の骸が残滓と散る。この地底世界、旧地獄にはあるはずのない地上の自然――それも外の世界のものであるはずの枯れ葉や土塊が旧地獄街道に注ぐと、歪んだ邪気はすっかり霧散していた。
音撃による魔化魍の浄化はここに果たされた。炎と放つ音撃棒はこの手に馴染む。打ち鳴らす音撃鼓の響きもやはり変わらず。
しかし、こうして屋久島のツチグモを祓い清めてなお、ヒビキは違和感が拭えなかった。
「…………」
万華鏡の如く移ろう自然の化身、魔化魍と呼ばれる災害に決まった形はない。大まかな呼び名としてこそ妖怪の名を冠し、恐れ伝えられた化け物としての姿を持つが、それらは人や獣と同様に死に生まれては異なる特徴を持ち育つものだ。
それは花や草木も同じ。一度滅ぼした個体がまったく同じ個体として生まれるはずがない。にも関わらず。一つの自然の要素であるはずのそれは、かつてヒビキが打ち倒した屋久島のツチグモと寸分の狂いもなく
否、正確にはすべてが同じだったわけではない。以前戦った屋久島のツチグモと比べ、新たな能力や強靭な肉質など、強化されている点も数多く見受けられた。
それでもその本質的な要素は、ヒビキに「あのとき屋久島で戦ったツチグモ」と同一個体だと思わせた。不自然な強化を施されているのも気になるが、ヒビキの直感がそれを悟ったのだ。
「……まさか、な」
燻る煙は滾る炎をも鈍らせる。ヒビキは一度大きく息を吸い、魂に響く炎に酸素を供給すると、頭の中を染める淀みをすっかり燃やし散らして。
勇儀とパルスィは自分たちが倒した魔化魍忍群の気配とヒビキが倒したツチグモの気配が去ったことを確認している。微かに残った邪気も地底の妖気に掻き消え、そこには本来あるべき旧地獄街道の空気が蘇りつつあった。
妖怪たちが戻ればすぐにでも昨日と同じ旧都の輝きが戻ってくるだろう。勇儀もそれを安心し、一度旧都の大通りまで戻ろうとするが――彼女はヒビキと共に、
「…………!」
振り返った勇儀たちが目にしたのは、さっきまでツチグモの残滓が漂っていた場所の上空。薄暗い闇に石桜の輝きがぼんやり灯る天蓋の狭間。
――そこに淡く美しくもどこか禍々しく広がる『灰色のオーロラ』だった。
ツチグモが叩きつけられたことで巨大なクレーターを刻んだ大岩の上、虚ろな帳と落ちた光の幕壁が波紋を広げる。水面から顔を出す魚の如く、それは黒く染まった一つの影を現した。鈍く落ち着いた色合いの金色を錫杖と掲げて。
現れたのは黒衣の人影。丸みを帯びた帽子と黒い布で顔を覆い隠したそれは、勇儀たちには見て取れないが、ツチグモの童子と同じ顔、同じ背丈をもった『クグツ』と呼ばれるものである。
「何者か知らないけど、その閉じこもった悪意……気に入らないねぇ」
すでにこの場にはツチグモの邪気も魔化魍忍群の気配もない。それでも大岩の上に立ち灰幕を背にこちらを見下ろす影――クグツの気配は、鬼である勇儀でさえ思わず息を飲むほどの深い悪意を湛えている。
相手はツチグモの童子と同様に痩せこけた長身の男の姿。殴れば折れそうな細身は先日倒した貧相な化生と同じであるのに、こちらは魂を直接貫くような威圧感を見せているのだ。
パルスィの方を見れば同じく正体不明の威圧感に竦んでいる様子。尋常ではない汗の量から察するに、鬼よりも精神的な妖怪として漆黒の人影が放つ悪意をより強く受け止めているのか。
「この気配……人形……?」
パルスィは微かに震える自らの腕を掴んで抑える。嫉妬を操る橋姫として、彼女は藁人形に五寸釘を打ちつける儀式を執り行うこともあった。その知識が空虚な気配として相手の存在を無機質な骸――それそのものに命を持たぬ『人形』だと理解させる。
勇儀もヒビキも、相手に対して覚えている感覚は見上げる黒衣の影への恐れではなく。その瞳の奥に秘める純粋な悪意。呪いそのものを煮詰めたような視線が宿す意思に対して。
「クグツ……やっぱり
歴戦の鬼たるヒビキもまた、鍛え抜いた筋肉が硬直する感覚に一筋の汗を流す。相手が悪意によって操られるただの端末であることは猛士本部、吉野の調査ですでに理解しているというのに、冷たい手で心臓を掴まれるような感覚――本能的な畏怖が未だ慣れない。
童子や姫を生み、魔化魍を操るクグツと呼ばれる存在。吉野が記した情報では古くからクグツの存在が知られていた。長らく現代の世に現れていなかったものの、やはりオロチ現象が起きた一年前の年から再び現れ始めた者。
そして関東支部の長たる男に直接接触してオロチの兆しを知らせた『あの二人』――おそらくは悪意の中心、これまで多くの魔化魍を生み出し育ててきた元凶とも呼べる彼ら。吉野はそれを、人為的な手法で魔化魍を操る根幹と定義した。
オロチ現象の終息に際し、クグツやそれらも目立った行動を見せていなかったのだが――
「お前ら、また厄介なことしやがって……今度は何を企んでんだ? ええ?」
ヒビキは変身を解かず、響鬼としての無貌のままでクグツを見上げる。相手が如何なる思想のもと動いていようと、無辜の命を喰らう魔化魍の存在を許すわけにはいかない。自然の摂理であるというなら致し方あるまいが、彼らはそれを歪めているのだ。
響鬼の世界における鬼とは歪んだ自然を清める者。クグツの気配の奥に感じられる悪意の根源、その底なしの威圧感にも怯み慄くことなく。ヒビキは見上げる黒衣に問いを投げた。
「…………」
神経を穿ち射貫くような冷たい視線でヒビキを見下ろしたまま、クグツは言葉を発さない。続けてその傍に立つ勇儀に対しても同じ視線を向けると、右手に持った金色の錫杖、様々な計器を設けたそれを何もない虚空――旧地獄街道の妖気満ちる闇空へと掲げてみせた。
不意に動きを見せたクグツに二人の鬼は身構える。だが、その動きから悪意を感じられなかったパルスィだけは困惑の表情を浮かべて。
錫杖に装備された試験管状の小瓶に蓄えられていく黒い『何か』。ツチグモら魔化魍の邪気にも似ているが、エネルギーとも物質とも呼べないような不可解なそれを回収すると、クグツは掲げた錫杖をゆっくり下ろす。
そのままおもむろに背を向け、クグツは自らが現れた灰色のオーロラに向き合った。ヒビキは未だ身を竦ませる悪意に身体が硬直していたが、その動きを目にしては咄嗟に声を張り上げる。
「あっ、ちょっと! 待てよ、おい!」
顔だけで振り返ったクグツの視線は依然として空虚に冷たく。勇儀にさえ感じ取れなかった微かな『寂しさ』のようなものを、気のせいか――ただパルスィだけが見て取って。
「え……?」
パルスィと向き合ったクグツは視線を逸らし、そのまま正面へ向いて灰色のオーロラへと消えてしまう。クグツを呑み込んだ鈍い曇天めいた色合いの幕壁は霧と失せ、残滓さえも漂わせることなく旧地獄街道の闇空から消えてなくなってしまった。
歪な自然を煮詰めた人形。ただ操られているだけのはずのクグツに覚えた違和感。あるいはそれは橋姫という嫉妬を扱う種族が故の錯覚か。パルスィは、クグツが何かを『妬んでいる』ように見えた。無論、確証などはなく。その視線からそんな雰囲気を感じただけではあるが――
ヒビキはクグツの重圧から解放されて息をつく。勇儀もヒビキほどではないが、その圧倒的な悪意に額に汗を滲ませていたようだ。
その誰もが気づかぬうちに呼吸が疎かになっていたらしい。肺に満ちる空気は地底の妖気を含むが、脳に染み渡った。そして、次に頭蓋に芽生えたのはあの灰色のオーロラに対する疑問だ。
「おやっさんに相談したいとこだけど……まぁ無理だよな」
無意識的に緊張していたせいで力が抜けず、変身を維持していたままだったが、クグツが去ったことを確認すれば頭だけ変身解除をしてヒビキとしての素顔を晒し出せる。
ヒビキは、この地で起きている魔化魍についての異変、新たなる性質やクグツたちの再出現について、おやっさん――ヒビキが所属する猛士関東支部の支部長にして、本部である吉野の事務局長を務めるあの男を頼りたい気持ちが拭えなかった。
吉野や関東支部の文献を調べてもらえれば少しは手がかりが掴めたかもしれないが、今ここでそれを言っても仕方がない。幻想郷と通ずるこの旧地獄、博麗大結界と呼ばれる法則に閉ざされたこの秘境では、勇儀たちの言葉通り、外の世界との連絡手段はほとんどないと言っていい。
「あの黒いやつ……クグツって言ったか。やっぱりその名の通り、操り人形ってわけかい?」
武者震い以外でこの身が強張るのは久しぶりの感覚。額の汗を拭って拳を固めた勇儀は微かな興奮を胸に抱き、ヒビキに問う。
感じられた妖気と悪意はあの人形からではなく、その視線の奥に宿る操り手――傀儡師たる者の邪気。その本体と直接対峙したわけではないにも関わらず、鬼である勇儀を微かでも慄かせるほどの歪んだ悪意は彼女の身を刺し貫く悪寒として明確に伝わってきていた。
人形を用いた呪術に詳しいパルスィとは違い、勇儀はクグツの物理的構造までは見抜くことができなかったが――
精神を凍てつかせる鋭い気配は、その操り手と言える背後の『何か』からだと感じ取れた。
「……そういう話みたいだな。ただ生憎、俺はその本体のほうには会ったことないんだ」
ヒビキは語る。――クグツでさえ鬼の前に姿を現すのは稀なことだった。猛士の調べですでにあのクグツらが魔化魍の幼体や、それを育てる童子と姫を生み出していることは知っている。だが、実際にクグツ自体と戦う状況はあまり多くない。
たとえ遭遇したとしても凄まじい重圧感で熟練の鬼でさえ容易には動けなくなってしまう。クグツが持つ特殊な念動力のようなもので吹き飛ばされれば、その隙に奴らは消える。ディスクアニマルたちがクグツを発見することもあるが、その多くは破壊されてしまい奴らの情報を持ち帰ることができない。
クグツでさえ、そうなのだ。それを操る本体――猛士が定義した『悪意』と呼ばれる存在が鬼の目についたことはこれまで一度もなかった。
ただ一時、かの『オロチ現象』が起きた一年前の出来事を除いては。
オロチの到来を告げてきた男と女の二人組。姿こそ童子と姫によく似ていたが、その声は見た目通り男は男のもの、女は女のものという大きな差異がある。そして、彼らが纏う衣服はどこか明治の頃を思わせる――さながら旧都の民のような和の装いという特徴があったという。
まともに言葉を交わすことができたのはヒビキもおやっさんと慕う猛士の事務局長のみ。されどそれを一方的に視認し、追跡を試みようとした一人の鬼がいた。
息吹く風の属性を持つヒビキの仲間、吉野が抱える鬼の宗家に生まれたかの男。夏の日差しの下、クグツの操り手と思しき気配を持つその二人を追い、ディスクアニマルたちを使ってなんとか尻尾を掴もうと画策していた。
ついぞ見失ってしまい、その正体を知ることこそできなかったが、ぱたりと邪気が途絶えたところを見るに奴らは結界の中に消えた。そのとき、風の鬼は周囲に奇妙な『洋館』を見たらしいのだ。その報告を受け、猛士はそれら男と女の一組を『洋館の男女』と呼称するようになった。
「クグツを介してもあれだけの邪気が感じられるなんて……とんでもない奴らね」
いつも通りの平静を取り戻せた勇儀とヒビキ。彼らとは違い未だ己が肝を冷ややかに貫くおぞましい気配に微かに震えているパルスィが妬ましげに呟く。
魔化魍そのものは古来よりただの災害――自然現象の猛威に過ぎなかった。そこまでは幻想郷の妖怪と同様、地質の妖気が具現化して形を成しただけの『事象』だった。故意にその在り方を捻じ曲げられ、歪んだ自然の化身として育まれ。魔化魍はいつしか彼ら悪意の手による変質を遂げてしまったのだろう。
猛士が対策をすれば悪意たちはそれを超えてまた新たな実験を試みる。表面上には分からないその繰り返しは何百年も行われてきたが、一年前の戦いでは特にそれが顕著だった。
今にして思えばあの変化はオロチ現象の前触れか、それを食い止めるための介入だったのかもしれない。最終的には鬼たちの手でオロチは鎮められたものの、やはり吉野に敵対する悪意は未だ魔化魍の調整を諦めてはいないのだ。
その根幹を倒すことができれば鬼たちの戦いも終わりが来るのだろうか。否、魔化魍との戦いは自然との戦い。たとえそれを調整する意思が消え失せようと、自然の化身は生まれ続ける。
「ま、とりあえず厄介なもんは倒せたね。これで少しは旧都も安心ねぇ」
勇儀は少しだけ悩むような素振りを見せたが、すぐにその憂いを火の粉と散らした。黒装束を纏ったクグツや洋館の男女と呼ばれる存在についても気になるが、ヒビキと同様に勇儀も思考による結論を好まない。考えても分からないことなら、動けばいいという方針だ。
迷い悩むことも時には必要だが、それはきっと今じゃない。師と仰ぐ背中に導かれて進んできたわけではない勇儀とヒビキ。語る明日のために、今の自分ができることを切り拓くのみ。
「……あっ、そういえば服……まぁいいか。どうせこのまま勇儀の家に戻るしな」
顔だけ変身解除を果たした状態のヒビキはまたしても衣服を失ってしまったことに気づくが、先日の時点で自分の服がこの旧地獄に用意されていることは確認済みだ。勇儀曰く八雲紫なる人物が用意したのだろうとのことで、自分の荷物が自分の知らないところで移動されているというのは気掛かりなものの、正直なところ助かっている。
勇儀の家からここへ至るために使用したバイク──猛士の備品である凱火についてもそうだ。こちらに関してはただヒビキの前へ用意されただけではなく、不可解に鬼の力を込められ強化されている。いくら思考が無意味とはいえ、さすがに何の疑問も覚えないわけにはいくまい。
胡散臭いが、悪い奴じゃない。八雲紫についてそう語った勇儀の言葉を信じ、ヒビキはひとまずその懸念を保留とした。
鮮烈なる鬼の炎によって燃え尽きた衣服の残滓はどこにもない。物理的な炎ではない妖気によるもの、現代の布を容易く焼き散らす熱なれど、それはヒビキにとって馴染み深い灯火である。
「……変身の度に服を燃やしてたんじゃ、いつか全裸で暮らすことになるよ」
「うーん……そうなんだよな。猛士の支援もないし、さすがに何着も無駄にはできないよな」
パルスィの言葉にヒビキは心に燻る不安を淡く吐露した。自らの世界で戦っていた際は猛士から支給される服を使い捨てる形で変身し、ほとんど気にしていなかったが、
無論、そうなれば旧都の仕立て屋にて男物の服を購入すればいいのだろうが、ヒビキは旧都について勇儀から聞いた程度のことしか知らないのだ。
普段使っている金銭が旧都においても使えるのか分からないし、見てくれこそ京の都を思わせる風景だが、ここは妖怪たちが暮らす旧き地獄。こちらの常識が通用しないことは明白だろう。
「服を燃やさず変身する方法とか、何かないの? 鬼の歴史、そっちでも長いんだろ?」
「あったらいいけどなぁ。少なくとも、俺はそういう話は聞いたことがない──」
勇儀の問いに記憶を探りながら答えるヒビキ。言い切る前にその脳裏に微かに浮かんだのは、戦国時代の鬼たちを記した古い文献の内容だ。
今でこそ現代の鬼たちは変身の際に着ていた衣服までもが砕けてしまうことが必定。されど遥か古の戦いを記した鬼の変身にて、衣服が燃えるという記述はなかったとされている。単に記す必要がないと判断されたのか、それとも古の鬼は服を燃やさず変身できたのか。
いずれにしても、実際に戦国時代の鬼たちの戦いをこの目で見たことはないし、見ることもできない。変身時に服を燃やさない方法としては一切聞いたことがなかったが、むしろ変身時に服を失ってしまう現代の方が鬼としては異質なのかもしれない。
もし仮にそのような形で変身できるのなら理想的だ。猛士の備品として配給されているとはいえ、いちいち服を燃やしてしまうのは些かもったいないと感じてしまう。特別な理由がない限り、着ている衣服を維持したまま変身することができるのなら、それに越したことはない。
「最悪、着るものがなくなったら旧都の
確立された手法ではないし、何よりその方法も分からず。ヒビキはやはりその思考を取り払い、結局いずれはこの旧都の衣服を頼ることにする。
猛士関東支部――表向きは東京の下町にて安らぎをもたらす甘味処『たちばな』として経営されているその店で、ヒビキは弟子の少年やその友人らと共に働いていた。レジ打ちなどの技術は拙いが、その話術や人懐っこさで多くの客を招いてきたのは紛れもない事実である。
西暦2005年の1月、冬の日に少年と出会い。2006年の始まりにオロチを鎮め、そしてその一年後、2007年の冬には少年と再会できた。思えば、自分の鬼としての道はいつも冬の時期を基点にしていたのではないかと、旧都に微かに積もった雪を見て想う。
夏にこそ馴染む炎の気を持ちながら、記憶に深い思い出はいつも冬の空に。こうして旧地獄に迷い込み、勇儀たちと出会ったのも。少年と再会してからさほども経っていない、ヒビキにとってはまだ今年――2007年の冬から。
現在の幻想郷は外の世界と同様、西暦2020年の春。四季の歪みもあれど、先日、勇儀に語られたその時空のズレはヒビキにとっても当然、衝撃的な話として聞いている。
ヒビキは己が生きた世界において世話になった猛士関東支部の面々、支部長である男やその娘、猛士の者として共に魔化魍と向き合ってきた彼女らの顔を思い浮かべつつ凱火を起こした。
この地の名は『
微かに悪意の邪気が残るこの場所にて、その暗闇に相応しい幻想を帯びた土蜘蛛と釣瓶落としが対峙しているのは──
本来ならば雪と寒気が吹き抜ける冬の環境には生じるはずのない『夏の魔化魍』だ。
「グォォォム……」
泥まみれの身体は石桜の煌きに不気味に照っている。田んぼから這い出したような醜悪な泥の塊じみたそれは、無貌に青く若い稲を生やした不快な出で立ちで唸りを上げた。
「こいつ……妖怪……?」
「気配は
地底の土蜘蛛、黒谷ヤマメが向き合うは魔化魍。隣に浮く桶の中で同じくそれを見つめるキスメと共に、妖怪らしい気配の中に帯びる邪気を訝しんでいる。
幻想なき泥田坊の気配を持つそれは確かに魔化魍の一種ではあるが――ツチグモのように見上げるほどの巨体というわけではない。ぼたぼたと肥沃な泥を地に落としつつ、
「地上で噂の怪物って奴だね……! 先手必勝!」
人型としてみればかなり大柄な体格であると言えるが、巨人というほどではない。顔のない泥だらけの身体に植わった泥臭い稲の苗の香り。夏の色を感じさせる情緒ある風といえど、そこに滲む邪気を思えば是非もなく。ヤマメは眉根を寄せて両手に妖気を灯らせる。
「それっ!」
ヤマメが両手を大きく振るうと、解き放たれたいくつもの青い光弾は彼女の周囲に散らばっていく。その直後、光弾はすぐさま色を赤く変えたかと思うと、それぞれが一斉にドロタボウ目掛けて向かっていった。
輝く光弾は右から左から。果ては前から上からも。蜘蛛の糸のように張り巡らされたヤマメの通常弾幕を前に、ドロタボウはくるりと背を向け甘んじてそれらの炸裂を受け止める。
「グォ……ム……」
微かに動きが滞った様子のドロタボウに一瞬拍子抜けするヤマメだったが、すぐに彼女はその表情を変えた。泥まみれの身体がボコボコと泡立つ不快感に目を背けそうになるも、ヤマメと同様にキスメもその変化に目を見開いている。
背中にびっしりとひしめくはタニシめいた小さな殻。それらがヤマメの放った弾幕を受け、泥の塊として剥がれ落ちた。ドロタボウの身体から流れ出る泥に禍々しい邪気が感じられる。それは怪物の身体の一部としてではなく──泥を溢れさせた本体と等しいほどのもの。
泥は瞬く間に歪な人の形を象り、そこに『もう一体のドロタボウ』として立ち上がったのだ。
「分裂した……!?」
「くっ……いったいどうしろってのさ……」
二体に増えたドロタボウ。その光景に思わず声を上げて驚愕するキスメに対し、ヤマメは弾幕を当てた際の奇妙な手応えに違和感を覚えていた。
火力が不足していた──というわけではないことは相手の反応で分かる。紛れもなく相手の身を裂き散らすだけの一撃を与えたが、砕けた泥はもう一体の怪物となって具現した。このまま何の策もなくスペルカードでも使おうものなら、再び怪物の分裂を促してしまうかもしれない。
「(それに、妖怪を攻撃したときとも違う……この感じは……)」
ただの泥の塊に弾幕をぶつけたとは考えられない違和感。さながら雲でも撃ち抜いたかのような空虚な感覚は、相手に物理的なダメージこそ与えられども根本的な攻撃の意味としてはあまり効果がないように感じられた。
不用意に手出しすることはできない。かといって怪物を野放しにしておくことも危険だ。先日、幻想風穴を通り抜けていった巨大な土蜘蛛らしき怪物と同様、目の前の泥田坊らしき怪物にも幻想郷には似つかわしくない露骨な邪気が満ち溢れている。
ぐちゃりと不快な音を立てて泥まみれの身体を緩慢に動かしながら、二体のドロタボウはヤマメとキスメに近づく。
そのとき、二人は泥と稲の香る夏色の風に混じり、微かに鬼の妖気と酒の香りを感じた。
「……グゥ……ゥム……!?」
風を切り裂く蒼い音。分裂して生まれた方のドロタボウ──背中にタニシの殻を持たず少し小柄なそちらに目掛けて飛来した円盤は青い縁に象られた三つ巴の鬼火を刻み、手の平大だったそれが歌舞伎めいた声と共に大きく広がっていく。
響く律動。突き上がる旋律。子たるドロタボウの身体に設置されたその『音撃鼓』は、ただ静かに鼓動を続け、来たる鬼の音を待つ。
刹那、視界を染める白き霧。地霊虹洞から続く温泉街、そこから流れた水蒸気によるものではない。太古の時代に失われた鬼の力。妖怪の山を統べていた大いなる力。
霧はやがて絢爛なる橙色の髪を砕けた月と湛えた鬼の少女を象りその場に現した。
少女――伊吹萃香は生まれもった鬼の肉体のまま、彼女にとっての生身のままで両手に携えた蒼穹のバチを振り上げ、霧から変じた身をそのままにドロタボウへ叩きつける。
空気を砕くかのような和太鼓の音。しかしヒビキのそれとはまた異なる、炎の激しさというより風の清らかさを思わせる音。萃香が振り下ろした『音撃棒・
動きを止めたドロタボウは萃香が生身で放った音撃に耐え切れず、内なる邪気と木の葉を激しく爆ぜ散らして消滅した。
両手の音撃棒・山背風を右手に束ねつつ、元の大きさに戻った音撃鼓を左手で受け止める萃香。気だるげにまとめた二振りの音撃棒を右肩に乗せ、左手の音撃鼓を手元から消失させる。
「もう夏の奴まで出てくるかぁ。まったくもう……めんどくさいな」
ちらりと目を向ける相手は最初に現れたドロタボウの親個体。彼らのように夏に出現するタイプの等身大の魔化魍は、特定の音撃で倒さなければ分裂してしまう性質があり、さらに言えば夏の魔化魍は童子と姫の手引きにより勝手に増殖していってしまう。
比較的小さいとはいえ際限なく増え続けるが、それは本来は夏だけに起き得る事例だった。響鬼の世界においても、オロチによる異常事態を除けば夏の魔化魍が夏以外に出現することはまずないと言っていい。
されどその異変は幻想郷においてこそ。こちらの季節は四季異変の影響で雪が降る冬の気候。本来ならば春という点を差し引いても、こんな環境ではドロタボウなど生まれ得ない。
怪訝そうな表情で自身を見つめるヤマメとキスメに振り返り、萃香は右手の音撃棒を消失させる。自信ありげに片目を瞬いてみせ、右腰に装ったホイッスル状の道具を手に取った。
鈍く落ち着いた金色に群青の彩りを持つそれ──『
鬼面を正面に向け、萃香は
それをそのままゆっくりと自らの額へと近づける。萃香の額に浮かび上がるは、音笛の波長と等しく刻まれた鬼の面。ヒビキのそれとはまた意匠の異なった金色の貌。
今度は音笛を右側に振り抜くと、萃香は音笛を持った右手で勢いよく目の前の空気を薙ぐ。
蒼白く吹き荒れる疾風――竜巻の如く萃香を包み込む妖気の波動、旧地獄においては滅多にない突風に煽られ、ヤマメやキスメ、ドロタボウでさえ舞い散る木の葉から顔を守っていた。
激しく荒ぶ旋風の中。萃香は太古から続く己の力とは異なる、
「はっ!」
軽やかながら力強い発声と共に、群青の手刀が風を断つ。吹き荒れる竜巻を内側から切り裂き、姿を見せたのは──『伊吹萃香』ではなかった。
振り下ろした左手を構えたままに雄々しく放つは、変わらず『鬼』の気。されどこの地に招かれたヒビキと同様、その姿は幻想郷の法則から成るものではない響鬼の世界の鬼である。
「鬼の
艶やかな光沢に煌く漆黒の皮膚に包まれ、萃香の身体は本来の身体よりもいくらか高く大きくなっている。身体つきこそしなやかな女性のままだが、体格の違いは萃香を知る者が見ても同一人物とは思えないであろうほどの背丈だ。
無貌の顔面を走る隈取りと両腕は果てなき青空を思わせる群青色に染まり、立派に掲げていた大きな双角はどこへやら消え失せ、代わりに額の鬼面からそれぞれ伸びた
反対側の左腰には三枚のディスクアニマルが待機状態で結ばれている。今はまだ銀色の円盤の姿で眠っている浅葱鷲、鈍色蛇、黄赤獅子の三体は萃香がこの『
音撃戦士、威吹鬼。風の如く吹き抜けるその力の本領は、管に息を送りて奏でる管楽器による音撃。されど夏の魔化魍は太鼓による音撃――音撃打以外で攻撃した場合、己が力を分裂させて増殖してしまうという性質がある。
本来ならば金管楽器状の音撃武器を得物とする威吹鬼はそれに倣い、在るべき鬼の元ならざる奇しくも同名の鬼、伊吹萃香に纏われて。先ほど消失させた音撃棒を具現した。
その力の起源である響鬼の世界本来の威吹鬼は猛士の根幹、宗家の生まれであった若き青年。彼が管による音撃のみでなく太鼓による音撃も行えるよう鍛錬に用いられていた音撃棒・山背風の蒼く美しい鬼石の色を輝かせ、威吹鬼の姿に変身を遂げた萃香はそれを両手に握りて構える。
「童子たちの姿が見えないのが気になるな。あんたたちが倒したの?」
怪訝そうな表情で顔を向き合わせるヤマメとキスメの反応を見て、萃香は彼女たちが倒したわけではないと知った。
静寂の洞窟を吹き抜ける
背後に控えるヤマメやキスメと共に──萃香は鈍き帳から現れる
――幻想郷とは異なる紡ぎ。響鬼の世界と呼ばれた場所と同じ法則を持ちながら、それは本来この世界にあるべき『物語』ではない。
青空と笑顔の世界、可能性と居場所の世界、鏡像と願いの世界。それらに加えて今は灰と夢の世界、切り札と運命の世界、鍛錬と明日の世界に生きた『悪意』たちが導かれ、幻想郷と等しく異なる物語を内包する『器』――『十番目の座標』として機能している。
この地平は十番目。されど
明治の頃を思わせる身なりの良い和装を纏った男と女は、洋館の一室に設けられた暗闇の中で。様々な機器や薬品に囲まれつつ、机の上のケースと向き合いながら小さく言葉を紡ぐ。
「ねぇ、
白い和装と美しい簪を着けた女が問うた。壁に立てかけられたいくつもの錫杖、鈍い金色の輝きを放つ計器つきのそれらを一瞥すると、真剣そうな表情で透明な
女の姿から発せられたのは紛れもなく女の高い声。童子や姫とは異なり、彼らは姿に違わぬ声を持つ。男は縁のない眼鏡の奥に覗く双眸を光らせ、そのまま口を開いては男の低い声を発した。
「あーーうん。聞いてるよ。なんか、よくわからない妖怪が手引きしてるらしいね」
茶色の羽織を纏った眼鏡の男は暗い茶髪を掻き分け、向き合う
両手に携えたピンセット状の特殊な棒か、あるいは単なる木の枝にも見えるそれで掴んだ植物の葉を黒い棘の塊に触れさせ、目に見えることのない波動が微かに大きくなるのを感じながら。
「……どうする? まだ調整段階だけど、強化版の武者と鎧を使う?」
女は白い和装の懐から二つほど、男が見ているものと同様の棘だらけの塊、黒いイガイガを取り出す。やはり目で見ることはできないが、男と女にだけはそのイガイガが放つ波動がケースの中のそれよりも弱いことが分かっていた。
童子たちに飲み込ませることで彼らの装甲を強化できる物質。かつてオロチの災いが見られた一年前の年にも使用したことがあるが、今回のそれはさらに強力なものに調整中だ。
魔化魍や童子たちの変化と成長に、猛士の鬼たちは対応して新たな戦法を試してくる。だがそれに対応して悪意と呼ばれた男と女もまた新しい要素を童子たちに加える。この世に鬼という存在が現れて以来、二つの力は互いにそれを繰り返してきた。
鬼たちの活躍でオロチ現象が食い止められ、世界のすべてが滅びることが回避されたのは彼らの計画通り。自然の循環と輪廻をもって魔化魍を操るには、オロチという災いは彼らにとっても望ましい終わりではない。
だが、自分たちの実験と研究を邪魔するのであれば排除するのみだ。実験のために生み出した魔化魍を育てるのは童子たちに任せ、その産物として生まれた魔化魍の処理は鬼たちに任せればいい。そうすることで、自分たちは自分たちの本分である『研究』に専念することができる。
彼らにとって、童子たちも鬼も等しく。己が存在意義たる実験のための道具でしかないのだ。
「まだちょっと早いかな。
男は一度、作業の手を止めて女に振り向き答える。彼女の手に携えられた黒いイガイガを見ると、その波動が以前のものよりも強いながら未だ安定していないことが伝わってきた。
「それに……今はこっちの方に集中したいしね」
再び透明なケースに向き直り見下ろす男。その波動は女が手にしていた装甲強化用のイガイガよりもさらに強く、かつて鬼たちの手から奪取した吉野の武器に匹敵するほど。あの武器は波動が強すぎて、こちら側でそれを抑えなければ調べることすらできなかったが――
あのときはまだ未覚醒の段階だった『最強の童子と姫』によって無断で持ち出され、結局は鬼たちのもとへ戻ってしまった。吉野の技術を解析できるかと思ったが、どうやら結果的には鬼の戦力を強化することになってしまったらしい。
もっとも、それがオロチを鎮めるための力の一部となったのなら成果としては十分だ。鬼に利用されたことになるというのがやや癪ではあるものの、世界のすべてが滅ぶよりはマシだろう。
「あら、噂をすれば」
洋館の一室に吹き込んだ風が髪を撫で、女はその気配に気づく。その瞳には、部屋の中に広がった灰色のオーロラが映っていた。
幻想郷に現れたクグツと同様に、オーロラに波紋を広げて顔を出す人影。その顔はやはり童子やクグツ、洋館の男とも同じ顔立ちではあるが、張り詰めた気配はその何れとも違う。邪気の濃度は通常の魔化魍を遥かに凌ぐほどであり、童子と呼べる低俗さには収まらない。
武者の如き漆黒の鎧に、連獅子を思わせる白く絢爛な頭髪。内側が血染めの真紅に染まった外套を纏い、その腰元にはおぞましい気配の刀を携えている。
童子や洋館の男と同じ顔に装うは、左目を覆い隠す赤い仮面のようなもの。その奥から覗く瞳に映るものは、あるいはすべてが血塗られた怨嗟に染まっているかと思わせんばかりに。
その怪異の隣にもう一人。そちらは洋館の女や姫と同じ顔をした女の人影ではあるが、やはりこちらも隣に立つ童子と同じく鎧めいた甲冑に身を包んだ武人の如き出で立ち。暗く褪せた深い茶髪を馬の尾と束ね、己が隣に在る童子と同様の黒い額当てを着けていた。
並みの魔化魍を超える邪気は姫の方も等しく、彼女は右目を覆い隠す紫色の仮面、鎧を彩る白い装飾と黒衣の裏地に映える紫色の美しさが、虚ろな気品と底知れぬ威圧感を滲み出させている。
「……例のものは完成したか」
連獅子の如き童子――それは世界を滅ぼす『現象』としてではなく、その名の由来となった伝説の魔化魍に仕える者たち。かつて戦国時代最強と謳われた魔化魍『オロチ』の親にして従者となるべき道を選んだ『オロチの童子と姫』であった。
洋館の男女とは異なりその声は童子として共通の女の声。空気を凍てつかせるほどの邪気を湛えながら、童子と姫という枠組みの中において、童子の声はやはり高く通る女のものとなる。
「あともう少しかかる。と言っても、あとは最終調整だけだから。そんなに焦らなくていいよ」
顔を上げてオロチの童子と向き合った洋館の男。同じ顔をしたそれに不快な違和感を覚えないではないが――元となる悪意が異なれども、今は目指す未来を同じとしている。
女の方も自身と同じ顔をしたオロチの姫に眉根を寄せている様子だが、その感情は洋館の男もまた同じ。視線を落として調整段階にある黒いイガイガの入ったケースを見つつ、男は眼鏡を少し上げて進捗を伝えた。
オロチの童子と姫は互いに小さく顔を見合わせ、意思を合わせるかのように微かに頷く。今なお緩やかに揺蕩う灰色のオーロラを背にしたまま数歩だけ後ずさりながら。
「……我々は『
紫色の仮面で右目を覆い隠したオロチの姫が言う。その声はやはり魔化魍の姫としての低い男のもの。それだけ伝えると、彼女らは背後のオーロラに溶けて消え、その彼方にぼんやりと映し出された鬼の如き岩の城に吸い込まれていった。
二人の怪異を呑み込み、オーロラはやがて洋館の一室から消え失せる。旧地獄街道にクグツが現れたときと同様、オーロラが消えた場にはあれだけ強かった邪気の欠片さえも残っていない。
「……『
洋館の男がその名を小さく口にする。その組織の名は──遥けき過去、戦乱の世において没したはずだった。オロチを首領と仰ぐ魔化魍たちによる組織。単なる自然現象であった魔化魍を束ねたのはオロチ自身であるのか、それともそれを育む童子たちか。
そのような組織の名は古い文献で微かに見た程度。自分たちと同じ顔をした者たち、童子と姫という同じ構造の者たちながら──洋館の男女はその組織と関わりを持っていない。
深い海の底に眠る岩の城、鬼岩城。鬼と敵対する身にして、鬼の意匠を持つその居城は乱れ狂うオロチへの供物が如く、鬼の血を求めている。
彼らの持つ妖術は洋館の男女も知らなかった未知の法則。猛士のものでも、自然由来の陰陽術でもない。
かもしれない、かもしれないだけです。たぶん名前が同じなだけで関係ないです。たぶん。