東方逢魔幻譚 ~ Never Cross Phantasm.   作:時間ネコ

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【 KIVATRIVIA 】
みんな、知ってるか?
チュパカブラとは、主に南米で目撃される未確認生命体、UMAである。
赤く大きな目、鋭い爪や牙を持ち、ヤギの血液を吸い取るという。
その正体は毛の抜けたコヨーテだとされるが、宇宙人という説もあるそうだ。


第54話 交響曲 ♪ 紅のデュオ

 薄く白めく霧の帳。悪魔の居城を彩る魔力の渦は、そんな揺蕩いを鮮烈に切り裂くほど力強い。荒く鼻息を奮わせる蒼穹の冥馬、ステンドグラスの意匠に彩られたホースファンガイアは向き合う真紅に冷ややかな感情を突き立て──長剣を握る右手に熱を込める。

 真紅はその矮躯を見た。月めく仮面(キバ・ペルソナ)に映る蒼穹は、彼がかつて一度倒したはずの相手。されど渡は知っている。ファンガイアの死に、永遠の安寧などない。たとえ骸と散り消えど、残された者の未練がその無念を冥府の淵より呼び戻すことがあると。

 

 ただ、訝しむべきはそこに明確な意思、生前の人格と呼べるものがあることだった。

 死の淵より蘇ったファンガイアは同族の力を吸収して知性なき怪物として復活した亡者に過ぎない。だがこの個体は違う。紛れもなくかつてと同じ意識を保ち、自分自身の自我を有している。

 

「渡、こいつ……!」

 

「……うん。(めぐみ)さんと……初めて会ったときの……」

 

 怪物と向き合う真紅──キバの鎧を纏った渡。腰のキバットベルトに宿すキバットバットⅢ世の言葉を耳に聞き、ホースファンガイアの既視感に在りし日の記憶を紡ぐ。

 ファンガイアと敵対する組織があった。ステンドグラスの荘厳さとは反対の、それでいて等しくもある爽やかな美しさ。素晴らしき青空たる戦闘組織。そこに属する一人の女性と初めて知り合った日に見た、浅ましき蒼穹。

 荘厳な群青は青空とは相容れぬ深き美しさを湛え、その女性の生命(いのち)を喰らおうとした。ただ父の音楽が示すままに戦っていた渡はファンガイアと拳を交え、やがて撃破した。ファンガイアの王の証、真紅の鎧を纏う自身もまた──その高潔なる青空の意志の標的となりながら。

 

 キバの鎧が微かに構えると同時、その身を縛る封印の(カテナ)が擦れ合う。渡の身に装われるこの鎧は、その絶大なる力を何重もの鎖でもって封じられているのだ。

 第一に造られた運命の鎧は王座を表すもの。第二に造られた闇の鎧は、すべての種族の頂点たる威光を証明するもの。そして第三に造られた黄金の鎧──『黄金のキバ』の鎧は、第二に造られた闇と同様にあまりにも強すぎる力を恐れられた。

 黄金のキバは己が身に満ちる輝きを鎖の中に封じ、その力を秘匿された。真紅と白銀を伴う今のキバの鎧は、その絶大すぎる黄金を隠す仮面。真の姿を縛るための、仮初めの殻でしかない。

 

「ブルルォォオッ!」

 

 霧を貫く光を返しながら、蒼きステンドグラスが閃く。荒立てる鼻息と共に、ホースファンガイアの長剣は紅魔館庭園に満ちる微かな霧を一刀のもと切り裂いた。

 それを受け止めるは紅渡が身に纏いしキバの鎧──幾重もの(カテナ)に双肩を、右脚を、その全身を拘束され封印された『キバフォーム』の装甲。

 じゃらりと擦れる鎖の調べを奏で上げ、渡は長剣の一撃を白銀の左肩で凌いだ。無防備になった腹に真紅を伴う右拳を突き出し、その身に滾る王者の風格、紅き魔皇力の波動を叩き込む。

 

「…………」

 

 奇しくもキバの鎧と等しき真紅、レミリア・スカーレットはその戦いを傍観していた。あえて彼らと距離を取り、己が城たる紅魔館のバルコニーへと飛び退いて。紅く気高く天と地の境界を主張する鉄柵に優しく座しながら、少女は見下ろす真紅と蒼穹に想いを馳せる。

 

「あの不自然な魔力……それにあの鎧は……」

 

 紅魔館庭園を染める微かな霧を伝う、己が魔力に等しき真紅の波動。心地よいものではない。全身を震わせる威圧感、自身と同等の鮮烈さを持つ力が、自身の視線の先にいる。紛れもなく不快な感覚。だが──

 レミリア・スカーレットはその未知の不快感に、咲夜の紅茶とは違うものを感じていた。

 

「はぁっ!」

 

 振り上げられるキバの右脚。重厚な白銀、その装甲の上からさらに鎖を巻きつけた鎧。それは重さによって威力を上げるためではない。キバの鎧が秘める真の力、真なる威光、その最大の輝きを何よりも強く抑えるため。

 重く蹴りつけられたホースファンガイアは庭園を抜け、塀を抜け。紅魔館正門の正面に叩き出された。手にしていた長剣はすでになくなり、元のステンドグラスと砕けて散っている。

 

「……ちっ……!」

 

 鈍く立ち上がるホースファンガイアのステンドグラスに映る、若い男の苦い表情。津上カオルは忌まわしきキバの鎧を、その真紅を双眸に映しながら、苦悶の声を零す。

 彼が見るは悠々と歩み迫る王の姿。真紅と白銀を伴うキバの鎧。その手は右腰へと伸び──

 

「……決めるぞ、渡!」

 

 キバットの言葉と共に渡が動いた。キバットベルトの両腰に備わる『フエッスロット』の右側、自身の右腰に装われたそれから三つあるうちの一つの『フエッスル』を抜く。

 巨像を象った黄金でもなく。魔竜を象った茶褐色でもなく。誇り高き双翼の意匠を象った真紅のそれ──『ウェイクアップフエッスル』を手に。

 その理は呼子笛。覚醒を促す運命の音色。渡はそれを腰のキバットベルトの正面へ。逆さに吊るされたキバットバットⅢ世の口へ。大きく開いたそこへ装填し、その下顎を軽く閉じさせる。

 

『ウェイクアップ!』

 

 強く宣言したキバットは、フエッスルを咥えたまま渡の腰に在るキバックルから離れた。金色の翼を忙しなくはためかせては渡の傍を飛び舞いながら、彼が纏うキバの鎧、その姿が己が正面へと両腕を広げる構え──翼を伸ばすコウモリめいたそれを見る。

 キバットは咥えたウェイクアップフエッスルに気高き魔皇力を伴うコウモリの息を吹き込んだ。呼子笛に伝う風は隙間を吹き抜け、張り詰めた空気を鋭く貫く真紅の旋律を奏で上げる。

 

「…………!」

 

 ──深く漂う魔力の霧。レミリアがその紅き瞳に映すは、かつて自身が幻想郷の空を染め上げたものと似た──古き魔力を帯びた真紅の濃霧。

 面妖なる因果も運命を感じさせるに相応しい音色ではあったが、レミリアが驚いたのはその霧に対してではない。霧が伴う事象。彼女が思わずキバの鎧から視線を外し、空を見た理由。

 

 たった今まで薄く白い霧が漂っていたはずの昼間だった紅魔館は、誇り高き月の明かりでもって庭園を照らし出す、深夜の美しさを持つ側面へ変貌を遂げ。

 ──その濃霧は吸血鬼たる身が肌で感じられる、正真正銘の『夜』を訪れさせていたのだ。

 

「月……」

 

 レミリアは夜天に座す光──弓張る弦と反り返った三日月を見上げつつ、声を零す。昼から夜への時間の変化。咲夜たちを連れ去った時空の歪みによるものか。否、先ほど感じた時空の乱れは今はない。感じられるのは、この身の血を震わせるような紅く鮮烈な魔力だけ。

 

 キバの鎧を纏う者は低く腰を下ろしたまま、正面へ広げた両手をゆっくりと顔の前で交差させる。翼を畳みゆくコウモリ。真紅の両掌は金色の複眼を覆い隠し、次なる運命を見た。

 不意に身を上げ、渡は重厚な白銀に包まれた右脚を高く振り上げる。蹴り上げられた土が舞い、その軌跡は漆黒の空に冴える弧月を描いて。

 月の光を返して鈍く輝く白銀に寄り添うように、キバットは翼をはためかせる。禁断の笛が奏でる音色を受けたその帳は、冷たい鎧に綻びを生じさせ──封印の『カテナ』を解き放った。

 

 (とざ)された白銀の中より姿を見せたのは、真紅の翼と三つの『魔皇石(まおうせき)』を帯びたキバ本来の右脚。おびただしい魔力を纏いし『ヘルズゲート』と呼ばれる禁忌の威光。

 高く右脚を上げたまま、渡はその力の一点に月の魔力を注ぎ込むように、右脚の翼を広げた。

 

「ふっ……!」

 

 大地に着いた左足をもって高く大空へ跳び上がる。月を背にして光を受けて、キバの右脚はより狂おしく、逆吊る翼の誇りを示す。

 月の光が導く先はホースファンガイア。夜天の下には相応しくない蒼穹。その冥馬に対し、渡はヘルズゲートを開いた状態のキバの右脚を向け──紅く迸る魔力と共に死の宣告を下した。

 

「はぁぁっ!!」

 

 闇の中で聴こえてくる、不思議な呼び声。宿命の旋律(メロディ)。時の中へと迷い込む、虚ろな霧を切り裂くように。冷たい殻を打ち破り、逃げられない運命に立ち向かい、キバの鎧の継承者は今ここに。未知の園にて力を解き放つ。

 一人一人奏でる音が違うように──運命もまた同じ。故に彼はただ、彼だけの音を。自分だけの運命の演奏を胸に抱き、真実が知りたいがために。未来への地図を描いてゆく──

 

「────ッ!!」

 

 真紅の翼は宵闇を穿ち、煌く蒼穹に触れた。ホースファンガイアの声は静寂に掻き消え、キバの右脚──ヘルズゲートの力がその胸へと逃れ得ぬ絶望を叩きつける。

 紅き右脚に込められた三つの魔皇石。(そら)と、水と、地と。三つの世界を司る翡翠色の結晶体が、凄まじい魔皇力を滾らせる。その波動はキバの足底たる『魔斬口(まざんこう)』より解き放たれて。

 

 圧壊。夜天より舞い降りるキバの一撃。怪物の胸部を穿った【 ダークネスムーンブレイク 】により、その身は哀れにも紅魔館庭園にて背を打ちつけ夜空を見上げることとなった。その大地に、大いなるキバの紋章を魔力と共に刻みつけて。

 絶大な魔皇力の奔流は蒼穹の肉体を砕け散らせた。そこには炎も熱もなく、黒煙が立つこともない。ただファンガイアの命の証明、ステンドグラス状の破片を美しく夜空に舞い散らせ。きらきらと蒼褪めた光を返すその雨は、皮肉にも王たる鎧──キバの勝利を祝福するが如く。

 

 やがてその右脚は再び封印の(カテナ)に縛りつけられる。ヘルズゲートが冷たい白銀の中に包み込まれると同時、魔力の霧は晴れ──

 夜天は晴天の空へ。浮かんでいた三日月の幻影もまた、白昼の彼方へと溶け消えていった。

 

「…………」

 

 そこに残るのは虚ろな力の残滓だけ。足元にて圧壊せしめたファンガイアの命。儚く浮かび上がる白い光球は、これまでホースファンガイアがその吸命牙をもって喰らってきた人間の生命力だ。あるいは『ライフエナジー』とも呼ばれるそれは、死後も力となって残る。

 それはただ純粋なエネルギー。キバは光球を見上げ、然るべき者への施しとして回収する。先代の王が捕らえた獣たち。先代の血を引かぬ継承者たる渡にも仕えてくれる彼らのために。

 普段ならばその回収を代行してくれる竜が現れるのだが──待てどその気配は感じられない。

 

「……うん? おーい、どうした? エサの時間だぞー」

 

 キバの鎧の傍へと舞い降りたキバットが怪訝そうに空へと問う。青空には未だ巨竜の影はなく、ただふわふわと白い光球が浮いているのみ。

 渡は仮面の下、金色の複眼の下で目を伏せ思案した。その思考の月を叢雲に染めるは、紅魔館(ここ)とは別の洋館の前にて聞いた話。あの少女たちは、この世界が元の自分の世界とは違うと言っていなかったか。それが間違いないのなら、王の居城たるあの竜が姿を見せない理由もまた──

 

「渡、ちょっと呼んでみてくれ。こういうときのためのフエッスルだ」

 

 金色の翼を器用に動かし、真紅の両目がキバへと向き直る。渡はその言葉に小さく頷くと、キバットのいないキバットベルト──キバックルの右腰のフエッスロットへと手を伸ばす。手に取るのは先ほどの一撃に使用した真紅ではなく、魔竜の頭を象った茶褐色のもの。

 その背に城塞の意匠をも持つ『ドランフエッスル』を引き抜こうとする──が、その瞬間。

 

 どこからか現れた蜘蛛の糸。絹を思わせる白き一条の光がライフエナジーの光球を掠め取り、それを引き寄せることで瞬く間もなく持ち去ってしまった。渡とキバットはすぐにその先を目で追おうとしたものの、金色の複眼(オムニレンズ)真紅の複眼(キバットスコープ)はどちらもその姿を捉えることはできず。

 ただ、霧染めの白昼へと薄く消え入る──()()()()()()()めいたものの残影だけを除いては。

 

「…………」

 

 渡は微かに見えたその鈍色に心当たりはない。だが、奇妙な胸騒ぎを感じ、静かに俯く。真紅の洋館に背を向けたまま、塀の傍へと停められたマシンキバーのもとへと歩もうとする。重なり響く鎖の音、魔斬口の紋章が地を踏む音を奏で、渡は一歩を踏み出した。

 

「待ちなさい」

 

 ──不意に背後から感じた深い魔力に足を止める。昼間だというのにキバの傍らを横切る数匹のコウモリたち。夜の眷属たるそれらは霧と消え──キバの複眼を微かに背後へ傾けさせる。

 

「さっきのはどういう手品? ぜひともタネを教えてほしいわね」

 

 レミリアはふわりと舞い降りた。その目は紅く、真紅の鎧を見据えている。刹那の夜が明けた朝陽、太陽の輝きを防ぐ特注の日傘をその手に添えながら。

 昼を塗り替え夜にする。そんな魔術は吸血鬼でさえ莫大な魔力を必要とするもの。かつてレミリアも満月が偽りのものにすり替えられていた異変を暴く際、明けない夜を実現したことはあったが、それは咲夜の時を操る能力を応用し、運命の法則に干渉したまでのこと。

 単身でそんな芸当が可能なのは、境界という概念を操るスキマ妖怪くらいのものだ。

 

 ただ魔力の霧で太陽を遮るだけなら彼女にも容易。しかし、あの月は。真なる月の光は。ただ空を闇に染めただけではない。妖怪たちの時間としての理を持つ『夜』を呼び招いたとしか──

 

「あのお嬢ちゃん……さっきまで俺たちの戦いを見ていた……」

 

 レミリアの紅霧のような瞳。キバの月光のような複眼。それぞれが向き合い、異なる運命の旋律を奏でる。キバットは薄紅色の少女が放つ威圧的な魔力に打ち震えた。

 キバの傍を舞うキバットはその鎧を纏う渡に告げる。あの少女は只者ではない。もしかしたらファンガイア──中でも王に選ばれし『三つの駒』に匹敵するほどの存在かもしれないと。

 

「もう一度使わせてみれば分かるのかしら?」

 

 小さな笛の音色一つで、今ある昼を夜へと変えた。そんな魔法(メロディ)があるのなら、ぜひとも譜面を見てみたい。レミリアは無粋を承知で、その帳に指をかけた。

 湧き上がる魔力がオーラとなってレミリアの左手に集約していく。魔力は真紅の槍を形成し、レミリア自身の身の丈を超える長槍となって圧倒的な力の波動を放っている。それを見たキバットは思わず息を飲み、渡もまた少女へと身構えようとするが──すぐに状況の変化は訪れた。

 

「…………」

 

 空には陰りが生じている。夜が訪れたわけではない。ただ空の雲が表情を変え、太陽を隠しただけ。それだけであれば吸血鬼にとっては喜ばしいことなのだが、訪れる未来に眉をひそめると、レミリアは小さく溜息を吐いた。

 肌を撫でるは濡れた風。湿った空気がもたらす運命の匂い。レミリアがつまらなそうに左手から魔力の槍を消失させ、特注の日傘を畳んで同じく消し去ったのは、彼女が吸血鬼であるがゆえ。

 

「……やめた。そろそろ雨が降りそうだし」

 

 吸血鬼はあらゆる種族を圧倒し得る強大な生物である。紅渡が生きた世界──『キバの世界』におけるファンガイアと同様に、それは誇り高く夜を支配する月となる。

 だが、紛れもない魔族、揺るぎなき生物種として君臨するファンガイアとは違い、幻想郷に定義された吸血鬼とは妖怪の一種であった。伝承や逸話を由来とし、その存在は空想の中の存在として忌むべき呪いを付与される。日光や白銀など多くの弱点を持つのも吸血鬼の特徴である。

 

 弱点の一つとしてあるのが『流れる水を渡れない』というものだ。雨が降れば地を伝う水が流れとなり、レミリアはその上を超えることができなくなる。

 逆にその弱点はレミリアだけのものに非ず、多くの吸血鬼に共通している。レミリアは妹であるフランドール・スカーレットの行動を抑制するため、親友のパチェが魔法を使って紅魔館の周囲に雨を降らせることにも納得していた。

 ただ、その場合はレミリア自身も紅魔館に帰れなくなってしまうのだが──

 

 日光は傘で凌げばいい。銀の杭も治癒に時間がかかるだけ。ニンニクは匂いが苦手なだけだし、イワシの頭や柊の枝、十字架などに関しては彼女たちにとって脅威でもなんでもない。

 それでもやはり損傷を受けることなく行動を制限される流水だけは如何ともしがたかった。

 

「…………」

 

 レミリアが振り返り、紅魔館の扉に手をかける。彼女の背後で静かな雨音が鳴り始めるが、紅く荘厳な屋根が設けられた扉の前ではレミリアの翼に雫が滴ることはない。

 ギィ……と重苦しく扉を開き、少女は微かに背後へ顔を向ける。小さな翼越しに見るは、美しくも雄々しく、冷たい雫に真紅を濡らした鎧。銀の鎖と月色の複眼を雨に染めたキバの姿。

 

 やがて鎖はその身から解けていく。ぱたぱたと翼を舞わせる金色のコウモリに見守られながら、青年の身体から離れていく鎖の波動が消えゆくと同時、彼は元の生身の姿へと戻る。

 滴る雨の雫。茶髪の先を伝い、幻想郷らしからぬ装いを──あるいは涙のように濡らして。

 

「貴方……名前は?」

 

 レミリアは先ほどまでの力強さが嘘のように儚く見えた青年へ問う。濡れた前髪で隠れた目元にはどんな光が灯っているのか分からない。

 青年の傍を飛んでいた金色のコウモリは忙しなく、レミリアと渡の顔を交互に見ていた。

 

「……渡。紅渡」

 

 小さく呟くその名を聞いて、レミリアは微かに目を見開いた。彼はその場に立ち尽くし、ただ雨に打たれている。思考に渦巻く旋律は、雨音よりも激しく彼の頭蓋に響いていた。

 

(くれない)……運命を変える紅色(Scarlet)……ふっ、そういうことね」

 

 ただ虚ろに雨に濡れる姿に鮮烈さはない。だがレミリアはすでに目にしている。誇り高く力強く、真紅に振る舞う王者の鎧を。彼女自身はその名を知らぬキバの鎧が宿す紅き輝きを。その名に満ちる真紅を尊び──少女は思わず微笑を零した。

 手繰る鎖のその先へ。彼女がいつか目にした運命の導。それは同じ紅色を名に抱く紅美鈴でも、赤き龍の炎を纏う城戸真司でもない。

 永遠に紅い幼き月──レミリア・スカーレットの辿る運命は、奇しくも同じ紅き波動。吸血鬼の在り方を思わせるようなコウモリの翼。あるいは『牙』とも呼べる鎧の継承者であったのだ。

 

「レミリア・スカーレットよ。その(あか)さ……私の運命に相応しいわ」

 

 少女の声は気品を感じさせるが、どこか玩具に喜ぶ子供のようでもあった。これまで見えなかった最後の鎖。ついに譜面に終止記号が浮かび上がった瞬間。新しい運命を見つけたレミリアは、楽しそうな彼女とは打って変わって悲哀の色を見せる渡に振り返る。

 渡は遠慮がちに顔を上げて少女と向き合った。未知の郷にて迷える霧に運命を見失い、右も左も分からないままで手を取り合えるのは小さな翼の友人(キバットバットⅢ世)だけ。だが、渡の憂いはそこではない。

 

「何をしているのかしら? そんなところにいたら風邪ひいちゃうわよ。入りなさい、渡」

 

 レミリアは渡に向かって手を差し伸べた。それは当主として、彼を紅魔館へと招き入れる意思。濡れた捨て犬を拾い上げるように──その首輪に繋がれた運命の鎖を引き寄せるように。

 渡は不安そうな顔で狼狽える。僕のことですか? と問わんばかりに、己の顔を指で指した。

 

◆     ◆     ◆

 

 静かに雨に濡れる紅魔館の窓越しに、深い雲が優しく微笑む。紅魔館に招き入れられた渡は背の高い妖精メイドたちの背に生えた羽に少しだけ驚いたが、目の前のソファに腰かける少女もまた人ならざる翼を持つ者。

 妖精メイドが手にしているタオルで渡は濡れた髪を丁寧に拭われる。衣服も同様に、優しく拭われては雫を落とす。だが、その鮮烈な紅さのソファには居心地の良さはなかった。

 

「あ、あの……もう結構です……自分でできますから」

 

 渡は遠慮がちに妖精メイドに声をかけた。少女の手からタオルを受け取り、彼女はぺこりと一礼しては部屋を出ていく。渡は己の茶髪の雫を拭い、テーブルの上を飾る白いティーカップ、揺蕩う水面に映る自分の顔と向き合った。

 渡はファンガイアの血を引いているが、ファンガイアは吸血鬼ではない。紅茶の表面に自らの顔を映し出すことができないレミリアと違って、光は渡の存在を肯定し、その姿を反射させた。

 

「…………」

 

 レミリアは小さなティーカップを手に取り、妖精メイドが淹れてくれた紅茶を味わう。紅い瞳で渡を見つめながら、脳裏に響く運命の音色に耳を傾けている。

 ──舌先を彩る味覚はあまりに普遍的。咲夜のように余計なものを混ぜ込んだりしないのはいいのだが、面白みに欠ける味。客人に出すにはこれで十分だろうと、少女はそれを飲み干す。

 

「……な……何か……?」

 

 渡も同じくティーカップを手に取るが──レミリアの冷たい目線が気になった。紅き血の如く滾る色をしているのに、その奥から突き刺さるような威圧感は暗く、夜の闇を思わせる。

 

「お、おい。渡。やめとけって……」

 

 傍に浮かぶキバットは躊躇なく紅茶を飲もうとする渡を止める。相手が何者か分からない状況で、それも人ならざる者と分かっているのに。出されたものを素直に飲むのは危険であると。

 吸血鬼の少女はソファの上で脚を組み替えつつ、溜息混じりにパチンと指を鳴らした。

 

「お呼びでしょうか? お嬢様?」

 

 現れたのは咲夜ではない。彼女が時空の乱れに巻き込まれて消えてから、妖精メイドたちを統率しているのは少し格上の程度の妖精メイドだ。規律も何もあったものではない。咲夜の教育のおかげでそれなりに使える程度にはなっているものの、所詮は妖精である。

 赤い髪飾りを着けた最上級の妖精メイド。紅魔館の地下室に進入しようとする者の排除を命じられるほど、並みの妖精を遥かに超える強大な個体を呼びつけ、レミリアは渡を見て言った。

 

「そいつをお風呂に入れてやって。……じめじめしてて鬱陶しいわ」

 

「かしこまりました、お嬢様」

 

 妖精は一礼し、渡の腕を掴んで立ち上がらせる。ある程度の雫は拭ったものの、雨の匂いまでは消えていない。その気質が渡の魂さえも濡らしているのか、レミリアには不快だった。

 濡れた空気は震う弦の音色さえも曇らせる。落ちた旋律は濁り、月の光を虚ろな帳に隠す。

 

「こちらへどうぞ」

 

「えっ……ちょっ……あの……」

 

 渡は妖精メイドに導かれては客間を退出していった。扉が閉じる直前に一礼し、キバットもまた連れていかれる渡を追いかけるように慌ててぱたぱたと翼をはためかせ、飛んでいく。

 

「……月が出る頃には晴れてくれるといいけど」

 

 窓の外は今も変わらず。ざぁざぁと降りしきる煩いに今一度息を零し、少女は目を閉じた。

 

◆     ◆     ◆

 

 紅魔館の大浴場は外観のおぞましい真紅に似つかぬ、優しい湯を湛えていた。渡は遠慮がちにその身を清めながら、普段の自分が使っていた慣れ親しんだ風呂──小さな温もりを思い出す。

 

「……ねぇ、キバット。あの子……いったい何者なのかな」

 

「さぁな。だが、ファンガイアって感じじゃなかった。もしかして本当に……」

 

 見渡す限りの泉の色は柔らかい乳白色に染まり。渡はその長い脚を伸ばせるだけの広さを持つ湯に浸かりながら、いつもの癖で。自分が落ち着く姿勢をもって。浴槽の端に座り込み、自らの脚を抱える体育座りの姿勢で湯の水面に映る自分と向き合う。

 小さなバイオリン型の風呂桶はここにはない。キバットは仕方なく紅魔館大浴場に備わった大理石模様の丸い風呂桶に乗り、ぷかぷかと湯を揺蕩いながら渡の憂いを拭うタオルを差し出す。

 

「渡、気をつけろよ。嫌な予感がするぜ……」

 

 キバットの紅い複眼が渡を見る。あの少女──レミリア・スカーレットと名乗った真紅はファンガイアではないのだろう。等しき魔力を湛えていたものの、ファンガイアたる心の音を有してはいなかった。

 渡はこの大浴場にて、すでにキバットにも幻想郷のことを伝えている。廃洋館の前で三人の少女たちから聞いた話を噛み砕き、友たる彼と『幻想』という概念について共有している。

 

 初めは受け入れていない様子ではあったが、キバットには何か心当たりがあるのだろう。キバの世界において、魔族とは『人間族』を含めて13種類。すでに絶滅した種族も在るが、その多くは古来より人間によって語り継がれ、時を超えて長く伝承されてきた。

 幽霊と呼ばれたもの。妖精と呼ばれたもの。あるいは化け物、あるいは妖怪。UMAなどといった呼び名で何百年にも渡って恐怖や好奇の象徴となった。

 

 キバットバットⅢ世はまだ若い。己が始祖たるキバット族の歴史も、己が仕えるべきファンガイア族の歴史も、実際にその目でもって見てきたわけではない。だが──幼少期からの教育でそれがどんな伝説を持っているのかを知っている。

 人間の命を吸い喰らう夜の魔物──それはコウモリめいた翼と共に。幾百の年月を経て変わらず若く、後に『吸血鬼』と恐れられた恐怖はワラキアの領主の逸話と合わさり、語り継がれて。

 

「……うん。でも、きっと大丈夫だよ。あの子は……大丈夫な気がする」

 

 渡は小さく微笑みながら、白く濁った湯を両手に掬い上げ、指の隙間から零す。彼女が本当にファンガイアと伝承を同じくする怪物、吸血鬼であったとしても。その恐れは渡の心を縛る鎖にはならない。

 それは彼がファンガイアの母を持つ混血の落胤であるからではない。自分をこの屋敷に招いたのは、ただ吸血鬼として己が血を喰らうためではないと、渡は確信している。

 彼女が魔力を束ねて真紅の槍を現したとき。そこにあったのは好奇心と興味と楽しむ心だった。強く高潔な誇りある魂を抱いているのに、子供じみた刹那の快楽を求める──強者の矜持。

 

「分かるんだ。あの子……レミリアちゃんの心の音楽は、なんとなく父さんに似てた」

 

 誰しもが奏でている心の中の音楽。自分だけの旋律(メロディ)。渡は父の誇りに触れ、その音楽を守っていきたいと望んだ。戦う理由のなかった自分に、ただブラッディ・ローズの音色に従うだけであった自分に。己の意思でキバの鎧を纏わせてくれた──父の言葉。

 どうすればその音楽が聴こえるようになるか、問うたこともあった。その答えは自分で見つけろと、父に叱責されたこともあった。

 紅渡の父親は、渡が生まれる前に亡くなっている。渡が生前の父に逢ったのは、母親から受け継いだキバの鎧に伴う古き城、魔竜が秘める禁断の扉の向こう。過去の世界に触れたから。

 

 渡の魂には、鮮烈に輝く父親に似た在り方──レミリア・スカーレットの音楽が届いていた。

 

◆     ◆     ◆

 

 大浴場を後にした渡は新しい衣服に着替えていた。自分が持ち込んだ覚えのない、自分が確かに所有する服。なぜこれがここにあるのか、妖精メイドたちに聞いてみたものの、それを知っている者は誰もいなかった。

 妖精メイドたちは口を揃えて言う。それはお嬢様の指示であると。その多くは遊んでいるようだったが、白い服や赤い服を纏った少数のメイドたちは真面目に働いているようだった。

 

 渡は案内のままに客間へと戻っていく。真紅に彩られた廊下を歩み、広く設けられたその部屋に辿り着く。妖精は渡に深く一礼すると、自分の仕事へ戻っていった。

 軽く会釈をして返し、ゆっくりと紅茶を楽しんでいるレミリアに向き合ってソファに座る。

 

「さて、紅渡。私があんたをこの屋敷に招き入れた理由……もう分かってるでしょ?」

 

「…………」

 

 渡は大きなソファに座りながら肩を狭める。少女はキバの鎧を目にしたのだ。ファンガイアとの戦いをその目で見れば、興味を示してしまうのだろう。

 答えなくてはならない。だが──ファンガイアとは単なる悪ではない。人と同じだ。奇しくもそれは幻想郷の理と同じように、人間と妖怪と同じように。それそのものに善悪など存在するはずがない。人を襲うことも悪意からではなく、自然の循環からだ。

 レミリア・スカーレットに悪意は感じられない。渡はキバットと目を合わせつつ、僅かな逡巡を見せた後、覚悟を決めて言葉を紡ぐ。

 

 キバの鎧を受け継いでから長く戦ってきた。激しく鮮烈な一年間を経た最後、渡は異なる父親を持つ兄と共に等しきキバの鎧を纏い、ファンガイアを統べる王の怨恨を打ち砕いた。

 その音色が、物語の果て。王の血を引く兄は種族の頂点に君臨する支配者としてではなく、種族のよりよい未来のために奮闘する、とある企業の社長として生き、ライフエナジーに代わる新たなエネルギーの開発を進めた。

 ファンガイアが人間を襲う必要がなくなれば、彼らは手を取り合って生きていける。それは幻想郷のルールに等しい新たな平和。強者が弱者を喰らうだけの世界を否定する一つの組曲だった。

 

 人間とファンガイア。二つの血と運命を持つ渡は、その架け橋になりたいと望んでいる。二つの種族は、きっと分かり合える。人間として。ファンガイアとして。生きる道はどちらか一つではない。彼はただ、彼として。『紅渡』として──生きていくことを選んだ。

 選ばれし女王として君臨した母親。強き人間として生き抜いた父親。渡が受け継いだものは王の鎧と古き城、そしてキバットというかけがえのない友。ただ、それだけではない。

 揺るぎなく──誇り高く。この(こころ)に流れる音楽。たとえ傷ついても、立ち上がる強さを。

 

「ファンガイアに……キバの鎧……ね」

 

 レミリアは渡の話を聞いて、紅い瞳にまだ見ぬ運命の譜面を映していた。相変わらず歪な霧の中、手繰る鎖のその先は朧気な闇に閉ざされている。

 だが──その霧の隙間から溢れ出す感情は。輝き放つ黄金は、気のせいだったのだろうか。

 

「そこのコウモリもどき、キバットとか言ったかしら? 貴方も生命力を吸うの?」

 

あいつら(ファンガイア)と一緒にすんなって。俺様は人間と同じ食事だけで十分だ」

 

 ぱたぱたと翼を仰いで抗議するキバット。キバットバット家はファンガイアの王に仕える名門であるが、まだ若いキバットバットⅢ世には王に対する忠誠は深くない。むしろ幼き頃より友として一緒に過ごした渡の相棒として、その身にキバの鎧を与えている。

 レミリアは室内を舞うキバットを眺めながら膝の上に奇妙な生物を招いた。痩せこけた身体に赤く大きな瞳。それはキバの世界においても、外の世界においても。等しく『チュパカブラ』と称される吸血の魔物(UMA)である。

 その名が表す生物とはまったく違うが、レミリアはそれを『ツパイ』と呼んで可愛がっていた。奇しくも同じく、酒を好み、チュパカブラの生態通りに動物の血液を好物としている。

 

「そう。この子と違ってエサ代が安く済んで助かるわ」

 

「俺様はペットじゃねえっての!」

 

 膝の上でチュパカブラ──ツパイを撫でるレミリアに対し、キバットは大きな紅い瞳を鋭く細めて怒る。レミリアはその様子をどこかチュパカブラに重ねて小さく微笑を零した。

 

 ファンガイアは血を吸わないらしい。代わりに、ライフエナジーと呼ばれる生命力のようなものを吸い上げ血肉や嗜好品としているようだ。幻想郷ではそんな名前のエネルギーは確認されていないが、おそらくは純粋な生命力、あるいは魂と呼べるもののことだろう。

 レミリアにはそれがどういうものなのかは分からない。だが、もしあの馬の怪物──ホースファンガイアが砕け散ったときに現れた七色の光球。あの迸るような魂の波動がライフエナジーの具現であるのだとしたら。

 似たようなものを見たことがある。それはキバの世界とは異なる地平の理。龍騎の世界に基づくミラーモンスターの撃破による光球の現出。ミラーモンスターが喰らってきた命のエネルギー。

 

「(あれがライフエナジーと同じものなら……)」

 

 時空の歪みに伴い、十六夜咲夜は消失した。同時に紅美鈴と城戸真司も消えてしまっているが、レミリア・スカーレットに焦りはない。

 運命は霧の中。されどまったく見えないわけではない。数日中に、彼女らは戻る。それが見えているからこそレミリアはライフエナジーについて思考を馳せることができる。

 

 咲夜や真司がいなければミラーワールドへ行けるミラーモンスターの撃破は難しいだろう。吸血鬼であるレミリアはどうあってもデッキを使えず、生身のままでは当然ミラーワールドへは赴くことができない。

 だが、ファンガイアの撃破によってモンスターのエネルギーと同質のもの──ライフエナジーを得ることができるのなら。愛しい妹(フランドール)の肉体維持に必要なエネルギー供給が滞らずに済むか。

 

「あの……僕からも聞きたいことがあるんだ。君はいったい……何者なの?」

 

 レミリアは再び渡の顔に視線を向ける。強い意志を秘めた瞳。この地においても迷いなく、外来人の身で幻想を切り拓く。そんな在り方を見て少女は思わず口角を上げた。

 

「……その目、幻想郷については知ってるみたいね。じゃあ、もう分かってるでしょ?」

 

 冷たく呟く言葉に渡とキバットは息を飲む。明言せずとも伝わるのだ。その声に込められた意味、彼女が紛れもない吸血鬼なのだと。

 背中の黒く小さな翼。開いた口に見える鋭い牙。白磁の如き肌の色。そして何より、彼女の気配。魂が奏でる運命の音。夜の恐怖を煮詰めたような、深く鮮烈な血の色こそが確たる証拠。

 

幻想郷(こんなところ)に迷い込んで……どうしたらいいか分からないって顔ね」

 

 よほど不安そうな顔をしていたのか、少女は面白がるように渡の表情を覗き込んで笑う。くすっと零した微笑の中に冴える小さな牙を見せて、レミリアは運命の鎖を受け入れた。

 

「そうね。少しの間だけ紅魔館(ここ)を使わせてあげるわ。世話は妖精メイドたちに任せるから」

 

 レミリアは渡の顔を見てそれだけ言うと、ソファから降りて絨毯に足をつける。妖精メイドを呼びつけて紅茶の後片付けをさせ、小さな黒い翼を動かして渡に背を向けた。

 確かに渡には行く宛はない。未知なる秘境に迷い込んで、衣服の替えこそなぜか用意されていたものの、持ってきたのは愛馬たるマシンキバーとキバットが抱くキバの鎧、あとは父の形見である世界にただ一つのバイオリン──ブラッディ・ローズだけだ。

 渡は傍を舞うキバットと目を合わせた。思考する間もなく少女は一人と一匹へ振り向く。

 

「……もうすぐ、貴方のお城が来るみたいだからね」

 

 微かに振り向いたレミリアの顔は、流るる横髪に隔たれ見えない。ただ冴える牙を伴う小さな唇が動く様だけを見届け、渡はレミリアの身がコウモリの群れと散り消える瞬間を見た。

 

「なんだぁ……? あいつ……」

 

 キバットは訝しげに霧と消えるコウモリ──吸血鬼たる少女が部屋を去る様を見届けていた。

 

◆     ◆     ◆

 

 紅魔館地下大図書館。無数の古書や魔導書が見渡す限りの本棚を満たし埋めるその光景に、カビ臭い空気と埃の舞いを淡く漂わせて。

 この静謐の主、パチュリー・ノーレッジは雪崩れ落ちた本の下敷きになっていた。

 

「むきゅー」

 

 愛しい本たちに押し潰され、知識と日陰の少女は項垂れる。これらの本のすべてを理解するだけの知恵はあっても、それらの質量を押し退けるほどの腕力は彼女にはない。

 不意に訪れた時空の歪みによる震動を感知したはいいが──その影響で崩れてきた本に巻き込まれてこの状況だ。これでは計測できた歪みを調べることもできない。パチュリーはなんとか身体に魔力を込めてなんとか本の群れをどかそうする。

 しかし、無理に踏ん張ったせいで貧血の症状に苛まれ、少し意識を手放しそうになった。魔力と知識に自信はあれどあまりに虚弱な自分の肉体を呪いながら、少女は使い魔を呼び出す。

 

「小悪魔ー。助けてー。小悪魔ー!」

 

 司書たる悪魔は未だ現れず。蚊の鳴くような脆細い声が届かぬことは承知の上。魔力による命令の波動をもって彼女を呼びつけているのだが、それすら届いていないのか。主に命じられた金色のコウモリ探しに集中してしまって、気づいていないのかもしれない。

 埃の煩いに小さく咳込み、溜息を吐く。そのとき、現れたのは己が親友たる吸血鬼であった。

 

「何やってるの? パチェ」

 

「……助けてもらえるとありがたいんだけど」

 

 パチュリーが相変わらず眠そうな目でレミリアを見る。レミリアもまた返すように溜息を吐くと、指をパチンと鳴らして放つ魔力の波動のみで無数の本を吹き飛ばしてみせた。

 またしても埃が舞う。パチュリーは再び咳込みながらなんとか立ち上がり、服を払った。

 

「もっと本を大切に扱ってほしいわ」

 

「注文が多いわね。それより、調べてほしいものがあるの」

 

 薄紅色の衣を揺らして、レミリアは懐から図書館の照明を返す煌びやかな破片を取り出してみせる。地下たるこの図書館からは遠く見えざる蒼穹の色を思わせる、鮮やかな結晶。それは先ほど紅渡が撃破したホースファンガイアの一部、ステンドグラス状の体組織だった。

 

「……これは……」

 

 パチュリーはその破片を受け取る。先ほど渡の──キバの一撃で怪物が砕け散った際、きらきらと降り注ぐステンドグラスの破片は瞬く間に消滅していった。だが、レミリアが微かに魔力を込めたおかげで、この破片だけは存在を保っているのだ。

 ステンドグラスの破片を見つめるパチュリー。見ようによってはそれはレミリアの妹たるフランドール・スカーレットの羽根にも似ている。きらきらと光を返す薄い結晶片。パチュリーが感じた魔力の質は──先ほどまで追い求めていた金色のコウモリが放つ魔力と極めてよく似ていた。

 

「パチェが言ってた金色のコウモリ、見つけたわ。外来人の男と一緒に招いてある」

 

「外来人……? もしかして、城戸真司とは別の……仮面ライダーってこと?」

 

 陰鬱な雰囲気で顔を上げるパチュリーに対し、レミリアは神妙な面持ちで向き合う。彼女が問うた言葉は龍騎の世界における鏡像の騎士たちを指す言葉。だが、おそらく彼はまた別の世界から訪れた者だ。九つの鎖を運命に見たレミリアは、九つの世界を知っている。

 虚ろな霧の中に見えたそれら九つの世界。どうやらそれぞれの世界には別の法則を持つ仮面の戦士、龍騎の世界における呼び名を借りるのであれば『仮面ライダー』と呼ぶべき者たちが存在しているようだ。

 ──キバの鎧。彼はそう言っていた。さすれば、彼のいた世界はキバの世界と呼ぶのが相応しいだろう。ミラーワールドの法則に由来するものではない。紅渡曰く、その鎧はレミリアの知らない種族──ファンガイアと呼ばれる存在によって生み出された、王のための鎧なのだという。

 

「美鈴も湖で未知のライダーに会ったと言っていたわ。グロンギと戦う戦士と……」

 

 パチュリーは深く思考する。その話はすでにレミリアにも伝わっているものの、パチュリーには九つの世界の運命を見通す力はない。ただ自らの魔法をもって、手に入れた物質を調べて少しでも友の眼に追いつくだけだ。

 グロンギの腕輪から得られた情報と美鈴が聞いてきた話。霊石を腰に宿す仮面の戦士。さらに加えてフランドールの身から零れた灰の粒子と、取り逃がしてしまった金色のコウモリから得られた魔力のサンプル、レミリアから受け取ったステンドグラスの破片。

 レミリアの曖昧な観測だけでは九つの世界の深奥まで知ることができない。パチュリーの地道な研究だけでは九つの世界の情報をまとめることができない。二人は自然にそれを理解していた。

 

「それより、さっきの凄まじい時空の歪みは何? ……レミィがやったの?」

 

「……うんにゃ。運命の悪戯ってやつかな」

 

 レミリアは魔法で本を片付けるパチュリーに答える。適当に選んだ本を拾い上げ、ぱらぱらとページをめくってはその難解さに眉をひそめると、レミリアはその本を後ろに放り投げた。パチュリーは魔法をもって手も触れず、それを空中で受け止める。

 運命は彼らを見ている。紅渡と城戸真司が──そして咲夜と美鈴が。顔を合わせることがなかったのは、如何なる因果であろうか。

 紅渡の辿る運命を観測しようと試みた。だが、曖昧に混ざり合った霧の中では正しき鎖の先がよく見えない。レミリアの瞳に映る運命はどれもはっきりせず、霞む朧月の如く虚ろに揺蕩う。

 

「まるで万華鏡ね」

 

 小さく呟く。幾重にも連なった鎖。水面に映る月の光。乱反射する祈りは願いと共に、金擦れる不快な音楽を軋ませている。

 見えぬ運命に想いを馳せるのも悪くない。未知への好奇は長く生きたからこそ。魔法使いとして魔導の研鑽を続けるパチュリーも同じ心境であろう。

 レミリアが見た運命の欠片。パチュリーが導いた法則の欠片。砕けた鏡を貼り合わせるように、千切れた楽譜を繋ぎ合わせるように。やがて、それは一つの大いなる祈りとなって蘇る。

 願わくば、それがさながらフランドールの在り方を思わせる『破壊』でなければいいのだが。




鳥類のファンガイアはいないけど、すべてのファンガイアは鳥の意匠があるらしいですね。

次回、第55話『弦奏 ♪ エリュシオンに血の雨』
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