東方逢魔幻譚 ~ Never Cross Phantasm. 作:時間ネコ
幾千、幾万の戦士が吼え、数多の矛が宙を舞う。断末魔は吹き荒び、燃ゆる焔と飛び散る鮮血が殺風景な断崖の荒野を染めてゆく。
地獄絵図とも形容すべきこの戦場に、何一つとして尋常なものはなかった。
火焔を吐き散らす龍。円盤の如き鳥や獣。天空を翔ける列車。城を背負った巨大な魔物。等身大の戦士たちもその身に鎧を纏い、一切の肌を晒しておらず、素顔は仮面に隠されている。
彼方には、ただ一人だけ無傷の戦士が立っていた。この地獄の中に一人、それを
後光の如く差し照らすマゼンタ色の輝き。歪に吊り上がった濃い緑色の複眼。額に組み込まれた結晶は紫色に捻じ曲がり、戦場を等しく
破壊の化身は地上に舞い降りた。すべてを無に帰す、滅びの象徴はそこにいた。ここに倒れる全ての戦士は、命を落とした全ての異形たちは、この悪魔を倒すためだけに、その力を振るっていたのだ。
だが、その奮闘も虚しく、たった一人の『それ』を討ち倒すことができる者は誰一人としておらず。この無情なる戦場は、その悪魔――マゼンタ色に輝く『破壊者』の勝利を讃えていた。
「何よ、これ……」
瞬く間に命が消え、骸と屍が積もってゆく。凄惨なその光景の中、一人の少女が風に揺られ、紅白の巫女服を揺らしていた。理解の追いつかない状況に立たされ、茫然と立ち尽くす少女。博麗霊夢はただ、その地獄を傍観することしかできない。
霊夢が疑問と不安に満たされた表情で一面の絶望を見渡していると、虫の息ながらも未だ立ち上がろうとする戦士の姿が視界に入る。
強靭な大顎、金色の双角と赤い複眼、その両目と同じ赤をした胸の装甲は一部、彼自身の血によって赤黒く変色してしまっており、見るに堪えないほどの
色こそ違うが、霊夢はその姿を知っている。頭に浮かぶのは鎧の戦士。それは幻想郷に迷い込んだ外来人たる青年が変身した姿として、霊夢の記憶に新しい。
霊夢の知っている鎧の戦士は、角の短い白い姿だ。だが、今目の前にいる戦士は鮮烈な赤に染まり、その頭部に掲げる二本の角も霊夢の記憶よりも強く大きく伸びている。全身を自らの血に染め上げ、弱々しく拳を震わせているものの、その心は未だ折れてはいないようだった。
「ごだ――」
─―違う。霊夢の直感は、この存在を『五代雄介』だとは認めていない。
見た目は間違いなく、彼が変身した姿そのもの。色の違いこそあれど、同一の存在と見ていいだろう。それでも、霊夢はその戦士を五代と同一人物であるとは思えなかった。
『別の誰か』としか考えられない。五代雄介という人物を詳しく知らない霊夢だが、その違いは感覚的なものとして理解できた。ならば、その戦士は誰なのか。五代と同じ姿になる者が、二人と存在するのか。
そこまで考えて、霊夢の勘は一つの答えを導き出す。同じでありながら、違うのだ。この戦士は、紛れもなく五代雄介と同じもの。だが、五代雄介ではない。ただ、それだけだ。
「待て……っ!」
歩くことすらままならないというのに、赤い戦士はその拳をもって再び戦場へと踏み入ろうとしている。ふらつきながらも拳を構えるその姿は、とても戦えるようには見えなかった。
彼の心は怒りに支配されている。憎悪と憤怒に身を焼かれている。悲しみを内に秘めるのではなく、その吐露として拳に乗せようとしている。その仮面の下にあるのは、笑顔でも涙でもない。
「はぁあああ……っ!!」
圧倒的な力の奔流。広がる青空は掻き乱され、暗く淀んだ雷雲に満たされる。大地を
暗黒が戦士を包む。怒号と
全身に走る金色の血管状組織。暴力的なまでの黒い姿。掲げる双角は歪に捻じれ、空を引き裂かんと伸びる四本角に。口元には獣の如き牙が生え揃い、肩や手足からは隆起した角のようなものが突き出している。
戦士の瞳は、その身と同じ黒に染まっていた。その黒い瞳からは優しさや思いやりなど微塵も感じられない。ただ無限に湧き上がる怒りと憎しみ。目の前のものを破壊したいという衝動。拳を振るうことしか考えられない怪物の視線は揺るぎなくマゼンタ色の破壊者を貫いた。
凄まじき戦士と世界の破壊者が対峙し、構える拳が互いの影を捉える。凄まじき戦士の黒き拳は炎に染まり、向かう破壊者の拳は幾何学的な情報の光に包まれた。
互いが大地を駆け抜け、その拳と拳をぶつけ合う。その瞬間、あらゆる空気が吹き飛び、打ち砕かれる大地と共に、二つの影を中心に――世界の何もかもが消し飛んでいった。
耳を貫く轟音を聞く。肌に焼けつく熱風を感じる。
破滅の閃光、消えていく意識の中に、霊夢は聞き覚えのある紫色の声を聞いていた。
「…………っ!!」
心臓を鷲掴みにされたかのような強い衝撃で霊夢は目を覚ます。布団の中に横たわる自分の身体は、冷たい汗でじっとりと濡れていた。
上体を起こし、落ち着いて呼吸を整える。少しづつ時間が経つにつれ、頭がすっきりと冴えてきたようだ。
凄惨な闘争。殺戮の嵐。絶え間なく繰り広げられる地獄の光景は、今は霊夢の頭の中にしか存在していない。額を伝う一滴の汗を拭うと、霊夢は少しだけ気持ちが楽になるのを感じた。
「……夢……?」
胸の鼓動が激しく聞こえる。霊夢の勘は、脳裏を
肌を撫でる焦げた風。血と炎の匂い。そして全身を震わせる『凄まじき戦士』の気迫。五感のすべてに戦慄を刻み込む幻は、夢と呼ぶにはあまりにも鮮明すぎる感覚だった。
無意識のうちに、震える身体を押さえつける。冷えた寝汗が体温を下げたのか、夢の内容への恐怖がそうさせているのか。たかが夢だ、と頭では思っていても、霊夢は心象に焼きついたその光景を振り払うことができなかった。
寝巻を整え、立ち上がる。纏う布が肌に張りつく感覚が酷く不快だ。もう一度眠りに着く前に、この汗を洗い流したい。博麗神社の近くには間欠泉から引いてきた地熱由来の天然温泉が設けられており、湯を沸かす必要がなく、思い立てばすぐに身体を清めることができる。
軽く汗を流し、丁寧に髪を乾かす。空はまだ暗いが、気持ちが落ち着くと眠気も失せてきた。昨日は連戦に連戦が続き、あんなに疲れていたというのに、不思議なものだ。
霊夢は別に用意しておいた寝巻ではなく、朝に着る予定だった巫女服を手に取り、袖を通す。お気に入りの赤いリボンで髪を結ぶと、心の中の小さな不安も打ち砕けるような気がした。
土間から玄関を抜け、夜の幻想郷を一望する霊夢。五代雄介はまだ寝ている。相当疲れが溜まっていたのだろう。霊夢のことを考慮して座敷とは別の部屋で、布団も敷かずにぐっすりと熟睡している。霊夢の方はいつも通り座敷に布団を敷いて眠っていたにも関わらず、全身に張り詰める緊張のせいか妙な夢を見てしまったというのに。
霊夢が一人で暮らす博麗神社には当然、男物の服など置いていない。五代には申し訳ないが、今は彼が着ていた服をそのまま着せておくしかなかった。近いうちに里で服を調達しておこう。
「……こんな異変、さっさと終わらせないとね」
赤い鳥居越しの夜空には真円に満たぬ月が浮かんでいる。結界の綻びによるものか、あるいはオーロラの影響なのか、霊夢にはそれが不気味に歪んでいるように見えた。
かつて月の秘術によって、幻想郷の満月が太古の月に差し替えられていたことがあった。
そのことに気づいた妖怪の賢者、八雲紫は真相を確かめるべく霊夢と手を組み、境界を操る妖怪の力で
終わらぬ夜をもって、その間に月の異変を解決する。永い夜が続けばそれだけ月の影響を受けやすい妖怪の本能が活性化されやすくなり、夜が明けなければ人間の生活にも悪影響を及ぼしてしまうため、人間側の存在である霊夢としてもリスクの高い方法だった。
しかし、月の違いなど分からない大多数の人間にとって、それは『夜が終わらない』という異変に他ならない。
同じく異変解決者として名を馳せている霧雨魔理沙も、夜を明けなくした犯人、すなわち『永夜異変』の元凶として霊夢と紫を討ちに来たが、魔理沙の努力は霊夢の才能には及ばず、さらに紫も相手にしていたため、魔理沙に勝ち目はなかった。
月の異変の正体、それは地上の密室化だった。千年も前から地上に姿を隠していた月からの亡命者が、匿っている月の姫を守るために追手の目を欺き、月と幻想郷を繋ぐ橋となる『満月』を封じたのだ。
もっとも、幻想郷には結界があるため、そんなことをせずともすでに密室だったのだが。
「今は一人でやるしかないか……」
今は姿を見せない八雲紫にも、当然、外来人である五代雄介にも頼ることはできない。ならば博麗の巫女である自分一人で異変を解決する。それがいつも通りの妖怪退治。いつも通りの巫女の仕事。ただ変わらず、今回の異変にもそうやって
霊夢は小さく溜息をつく。当初は楽観視していた今回の異変だが、結界の綻びの原因は想像以上に厄介なものであった。例のオーロラが幻想郷中に出現すれば、人間だけではなく妖怪も犠牲になるかもしれない。
実際、人間の里に現れた
今回の異変も月の異変のときと同じく、妖怪と手を組まなければならなくなるだろう。人間も妖怪も関係なく襲う怪物を相手に、人間と妖怪のルールなど気にしている場合ではない。
幻想郷は人間と妖怪が共に手を取り合って生きてきた。だが、妖怪は人間を襲わなければならない。人間は妖怪を恐れなければならない。それが幻想郷のルール。平和な幻想郷を維持するための秩序なのだ。スペルカードルールの制定によって形骸化しているとはいえ、今の幻想郷においては誰もがその規律に縛られて生きている。
人間の少ない幻想郷において、異変を解決するのが『選ばれた人間』だけでは足りない。人間も妖怪も関係なく、幻想郷の戦力を束ねて挑まなければこの異変は終わらないだろう。この異変は、人間だけの手に負えるほど小さなものではないと、霊夢の直感は警鐘を鳴らしていた。
「…………」
─―鳥居の方に視線を向け、博麗神社に背を向けている霊夢は気づいていなかった。自身の背後、博麗神社の瓦屋根に、不気味な影が降り立つのを。
影の両腕から生える翼には薄い被膜が張られ、
……あいつで 一人目だ
「……ガギヅゼ パパン ビンレザ」
異形の顔面がニヤリと笑う。噛みつくことに特化したような鋭い牙、人間の口にも似たそれが歪に釣り上がり、生暖かい息を吐き出した。
鋭く伸びた耳は小さな音を受け止める形に広がっており、細く潰れた双眸は僅かな光を効率的に取り入れる暗視の機能を備えている。たとえ月のない夜においても、音と匂いに加えて闇の中を見通すその視力があれば、如何なる獲物にも喰らいつくことができるだろう。
博麗神社の屋根を蹴り、夜の闇に翼を広げる怪物。風を受けて滑空し、鋭く研ぎ澄まされたその翼爪を構えて霊夢へと飛び進んだ。
まるで目にも止まらぬスピードで、巫女服から露出した霊夢の白い肩を目掛けて飛来する。
一撃。怪物の翼爪は的確に霊夢の左二の腕を捉えた。鋭い爪が柔肌を切り裂き、飛び散る鮮血が月の光を受けて妖しく煌めく。
痛みよりも滲み湧く、冷ややかな恐怖の感情。見えない角度から闇に紛れて攻撃を受けた、という感覚が霊夢の動きを鈍らせてしまい、咄嗟の反撃に出ることができなかった。
「ぐっ……妖怪……!?」
いや、違う。夜とはいえ、博麗神社の境内では人間を襲うことは禁じられている。
不意打ちで一瞬混乱してしまったが、霊夢はすぐにそれが妖怪ではなく、例の『怪物』の一種であると気がついた。血の滴る左腕を押さえ、巫女服の紅白比率が偏っていくのを感じながら、霊夢は目の前で己の爪についた血を舐め取る怪物を睨みつける。
幸い、傷は小さい。よほど深く切りつけられたのか、なかなか血が止まる気配はないが、痛みは大したことはなかった。
それより、せっかく新しく着替えたばかりの巫女服が血に染まってしまったことの方が腹立たしい。日々の妖怪退治の報酬として物はあるため貧乏というほどでもないが、霊夢は通貨としての金銭をほとんど持ち合わせておらず、自由に着られる巫女服もあまり多い方ではないのだ。
うまそうな血の匂いだ……
「グラ ゴグバ ヂン ビゴギザ……」
「あんたたち……本当にしつこいわね……!」
夜の博麗神社に現れた新たなるグロンギ、コウモリ種怪人『ズ・ゴオマ・グ』が恍惚そうに笑みを浮かべる。未確認生命体第3号とも呼ばれたこの怪物は、その見た目通りコウモリの能力を備えていた。
それだけでなく、チスイコウモリの如く動物の生き血、それも人間のものを好むという性質を持ち、さながら吸血鬼じみた殺人を行うのだ。
ズ・ゴオマ・グが再び翼爪を構える。それに伴い、霊夢も焦ることなく懐から数枚のお札を取り出した。
昼間の疲労はある程度なら回復済みだ。万全の状態とは言えないが、グロンギに対しては夢想封印ほどのスペルカードなら深手を与えられることが分かっている。それならば、周囲への被害を考慮する必要のない今この状況なら、霊夢一人でもこの怪物を倒せるかもしれない。
最初に博麗神社に現れたミジンコの怪物、ベ・ジミン・バはホーミングアミュレットなどの基本的なショットでも倒すことができた。
しかし、里に現れた蜘蛛の怪物、ズ・グムン・バと同様、このズ・ゴオマ・グも『ズ集団』という階級に属している。ベ・ジミン・バのような最下級のグロンギ、『ベ集団』の一つ上に位置する階級でありながら、その戦闘力には天と地ほどの差があった。
見た目の違いこそ腰に巻くベルト状の装飾品、『ゲドルード』のバックルの色が変わった程度でしかないが、体内に秘める魔石『ゲブロン』の出力は大きく異なっている。それは五代の体内にある霊石アマダムと同質の物体。この石の力がグロンギの肉体を変異させ、怪人態としての能力を与えているのだ。
その構造を理解しておらずとも、一度彼らと戦った霊夢には直感で理解できた。このコウモリの怪物、ズ・ゴオマ・グは博麗神社に現れたミジンコの怪物とは違う、と。生半可な戦闘力で倒せる相手ではない。それは夢想封印を耐え凌いだズ・グムン・バが証明してくれている。それでも、あの怪物には十分な深手を与えられていた。
この怪物も、見たところ防御に長けている様子はない。ならば、倒すことは不可能ではないはずだ。これまで培ってきた妖怪退治の技術と、スペルカードが誇る威力をもってすれば。
「私を狙ったのが、運の尽きだったわね」
お札を構えた左手が震える。腕から流れる血はまだ止まっていない。ズ・ゴオマ・グの攻撃によって傷口に何かされたのだろうか。
血液の凝固が遅れ、傷口が塞がりそうにない。左腕に力を込めただけで出血が促進され、放っておけば貧血で意識を失ってしまう恐れもある。これほどの怪物を前にして、それは決定的な不覚となるだろう。
利き腕をやられたのは致命的だ。霊夢のお札は自動的に対象を追尾するとはいえ、これでは標的を上手く狙えない。誘導性能を持つお札以外のショット、パスウェイジョンニードルなどは命中が期待できなくなってしまった。
だが、スペルカードの発動には問題ない。霊力さえ整えることができれば、夢想封印などの大技は問題なく発動できる。目の前の怪物が隙を見せたら、すぐさまそれを見舞ってやろう。
「先手は貰ったわ!!」
ズ・ゴオマ・グが動く前に、霊夢は鋭くお札を投げつける。左腕の傷口から血が溢れるが、今は気にしていられない。巫女服の
真っ直ぐ飛んだ【 マインドアミュレット 】がズ・ゴオマ・グの身体に突き刺さる。他の誘導ショットとは異なり、霊力そのものではなく精神力を込めた特殊なお札。メインとなるお札に付随し、追従するお札の霊体が敵に追加ダメージを与える。威力は低いながら、連続ヒットによるダメージが期待できるため、初手の
投げたお札が青白く炸裂する。やはり大したダメージにはなっていないが、問題ない。ズ・ゴオマ・グは獲物となるべき
自慢の翼も広げず、ただ馬鹿正直に真っ直ぐ突っ込んでくるだけだ。その程度の単純な攻撃、弾幕ごっこで鍛え上げられた霊夢の回避能力をもってすれば、避けることなど造作もない。
「残念だったわね。私が格闘戦に付き合うとでも思った?」
振るい上げられたズ・ゴオマ・グの拳が空を切る。攻撃を外したズ・ゴオマ・グは煩わしそうに霊夢の姿を睨みつけた。
蜘蛛の怪物、ズ・グムン・バとは違い、飛び道具と呼べる武器は持っていないのか。高速で飛行できるという点を除けば、あまり大した能力を備えてはいないらしい。それならば、ある程度の距離を保ちながら弾幕を放ち続けていれば、大きなリスクを背負うことなくスペルカードを発動するための霊力を溜められるはずだ。――怪物がそれを大人しく許してくれるのなら、だが。
「シャアッ!!」
体勢を立て直す間もなく、ズ・ゴオマ・グが再び翼爪を構えて突っ込んでくる。
咄嗟に両腕を構えて防御したが、体格差もあって呆気なく吹き飛ばされてしまった。境内の石畳、硬い地面に背中を打ちつけ、霊夢は痛みに顔を歪める。
呼吸を整える暇さえない。霊夢は次の攻撃が飛んでくるのを視認し、横に転がる形でズ・ゴオマ・グの爪を避けた。
その直後、博麗神社の石畳が怪物の一撃で砕ける音を聞く。もしもあのまま寝ていたら、霊夢の頭は無くなっていたかもしれない。
だが、この距離ならば誘導性能に頼ることなく威力の高い一撃を与えられるはずだ。霊夢は寝たままの姿勢で袖から針を取り出すと、右手の指に挟んだ数本を怪物に向かって撃ち放つ。
誘導性能のない、威力重視のショット。左腕の負傷により、命中が不安定となっていたパスウェイジョンニードルは怪物の皮膚に突き刺さり、霊力を爆発させた。
ズ・ゴオマ・グは真横からの攻撃に怯み、唸り声を上げて後方に退く。霊夢はその隙を見逃さず、パスウェイジョンニードルをさらに強化した対妖怪決戦用の強化ショット、【 エクスターミネーション 】を叩き込んだ。
赤く輝く閃光の霊力はそれそのものが巨大な針の幻影を模し、さながら一条に束ねられたレーザーのように、ズ・ゴオマ・グの身体を焼き払いながらダメージを与えていく。
「よし……このままいけば……!」
弾幕ごっこの範疇を超えた、命を奪うための攻撃。消費する霊力も相応に高いが、怪物の特性を理解していなかった昨日までよりかは確実に有利に戦えている。あとは溜めておいた霊力を解放し、スペルカードを発動すれば勝負はつくはずだ。
里に現れた蜘蛛の怪物は夢想封印を受けてもまだ息があった。この怪物も、それなりの耐久を備えていることを覚悟しておく必要がある。
この怪物を倒すには、最低でも夢想封印級以上のスペルカードを二発か三発。否、できることなら一撃で仕留めたい。霊力も体力も、無尽蔵ではないのだ。大技となるスペルカードを放っておきながら怪物を倒し切れなければ、そのまま返り討ちにされてしまう可能性が高い。
エクスターミネーションで体力を削り、スペルカードによる一撃をもって確実に撃破する。それが叶わずとも、相当のダメージは与えられるだろう。問題は、霊力の枯渇に気をつけつつ、虫の息となったズ・ゴオマ・グを倒せるだけのスペルカードをもう一度発動できるかどうか。
霊夢は一撃で怪物を倒せるよう、可能な限りの霊力を込める。左手に形成したスペルカードは霊夢の意思の具現。普段は何の力も込められていないただの紙切れ。しかし今は、怪物を殺めるのに十分なだけの霊力が力強く輝いていた。
立ち上がり、体勢を整える。エクスターミネーションは霊夢の手から霧散し、その場には呻き声を上げるズ・ゴオマ・グだけが残された。ダメージこそ決定打にはなっていないが、弾幕という怒涛の攻撃手段は相手に確実な隙を作らせることができる。先日のズ・グムン・バ戦で、それはすでに証明されていた。
狙うは一撃。構えるスペルカードを高く掲げ、その名を叫ぼうと口を開いた瞬間──
「グォォーーーォォオッ!!」
「なっ――!?」
─―油断していた。
霊夢は目の前の怪物を倒すことに集中しすぎて、他の怪物が乱入してくる可能性を考慮していなかった。
突如として死角から現れた蜘蛛の怪物、ズ・グムン・バが自身の糸を灰色のオーロラから垂らし、それに掴まることで振り子の要領で迫って来たのだ。
伸ばした足をこちらに掲げ、自身の体重と遠心力を込めた飛び蹴りを放つズ・グムン・バは、もはや先日のダメージなど微塵も残っていないようだ。あれからまだ数時間ほどしか経っていないというのに、その傷はすでに完治している。やはり、怪物の驚異的な再生能力は健在らしい。
「二匹……!?」
霊夢は咄嗟に身を屈め、ズ・グムン・バの飛び蹴りを避ける。後方に着地したズ・グムン・バは糸を手離し、振り返る霊夢の前で発達した両腕の筋肉を打ち鳴らした。
ズ・グムン・バが霊夢に糸を吐きつける。なんとか身を翻すが、闇の中に白く光る蜘蛛の糸は血の滴る霊夢の左腕を呆気なく縛りつけてしまった。身動きを封じられることは回避できたが、左腕に巻きついた糸の感触が気持ち悪い。
思わず、左手に持っていた光の札を取り落す。物質的なものではなく、霊夢の霊力から構築された疑似的なスペルカードはひらりと地に落ちると、形を失い光の粒と消滅した。
「くっ……!」
今なお左腕に巻きつく蜘蛛の糸は、ズ・グムン・バの口と繋がっている。このまま引き寄せられれば、間もなく霊夢は怪物の餌食となるだろう。それをおぞましく感じた霊夢は、残る右腕を使って懐から一枚のお札を取り出し、霊力を込めて硬質化させた。
刃の如く鋭く研ぎ澄まされたお札を振り下ろし、蜘蛛の糸を切断する。無茶な使い方をしたせいか、お札は糸を断ち切ると同時に砕け散った。
強靭な蜘蛛の糸を切断し、霊夢は余った糸を自らの左腕に巻きつけるようにグルグルと引き寄せる。ギュッと結び目を作ると、ズ・ゴオマ・グによって与えられた傷はズ・グムン・バの吐き出した糸によって綺麗に止血されていた。それはさしずめ、見事な即席の応急処置である。
「……悪いわね。ちょうど、包帯が欲しかったところだったのよ」
多くの血を失い、
人間の里に現れた際、魔理沙を縛りつけていた糸の様子から、この糸に毒性がないことはすでに確認している。
本体から切り離したため怪物からの干渉を受けることはないと判断したが、霊夢は念を押して霊力で糸の性質を変えておいた。傷口の消毒と糸の洗浄も兼ねており、万が一にも蜘蛛の糸による害を受けることはない。
年頃の少女である霊夢にとって、その生理的な嫌悪感は耐えがたいものがあったが。
単純に向かう敵の数は二体。それは、ホーミングアミュレットでも倒すことができたベ・ジミン・バとは違う。四人がかりでも倒し切れなかったズ・グムン・バほどの怪物、赤銅色のゲドルードを持つズ集団に相当するグロンギが二体だ。
もはや、霊夢一人ではどうすることもできない。たった一人の異変解決を、ここまで心細く思ったことはなかった。
だが、霊夢は諦めてはいない。この身体はまだ動く。この心はまだ生きている。スペルカードを発動できるだけの霊力は残っている。なんとか怪物の隙を見つけ、せめて片方だけでも無力化することができれば。残るもう一体の怪物だけに集中することができれば、まだ勝機はある。
「…………!」
失血により頭が回っていなかったのか、ほんの一瞬だけ思考が飛んでいたようだ。飛んでくるズ・ゴオマ・グがその鋭い翼爪を構えて霊夢に向かう。しまった、などと考える暇もなく、霊夢は迫り来る恐怖を防御するため、冷静に防御結界の印を組んだ。
霊夢の身体は次の行動に移れない。十分とは言えずとも、疲労は回復していたはずだったが、出血の影響だろうか。ぐらりと揺れる視界の中、霊夢はその場に膝を着いてしまった。
「はぁっ!!」
─―その瞬間、霊夢の背後から飛び出した男の拳が異形の肉を潰す。ズ・ゴオマ・グの顔面を殴りつけた右の拳は、やはり黒い皮膚と白い装甲に彩られた。
続けて左の拳で怪物を殴る。左腕が黒と白を装う。横蹴りを見舞って怪物の脇腹を打つ。両脚が黒く染まり、両膝が白い装甲を纏う。腰に巻かれたアークルの中心、モーフィンクリスタルの輝きは朱色。翻って裏拳を叩きつける。やがて男の顔は、その全身の姿は──戦士クウガの未完成形態たる、グローイングフォームへと変わっていた。
再び白いクウガとなった五代雄介は回転の勢いを乗せ、最後にもう一発、ズ・ゴオマ・グの顔面に重く鋭い右ストレートを叩き込む。いくら人々を虐殺する異形の怪物を相手にしているとはいえ、人の形をしたものを殴る感触は優しすぎるその拳に
「クウガ……!」
口元を拭い、立ち上がったズ・ゴオマ・グが
未完成形態と言っても、白いクウガは常人を遥かに超える身体能力を誇る。だが、それでも魔石ゲブロンの力で驚異の能力を身に着けたグロンギを相手にするには、些か力不足だった。
「霊夢ちゃん、その怪我……!」
白いクウガ──五代がその場に膝を着く霊夢の怪我に気づく。傷口は蜘蛛の糸で縛ってあるとはいえ、すでに流れた鮮血はただでさえ鮮やかな巫女服をさらに赤く染め上げていた。
彼女の全身を汚す土と掠り傷は、ついさっきまでこの少女が戦っていたことを証明している。
また、戦わせてしまったのか。自分が倒すべき未確認生命体を、何の関係もない少女に。
五代は己の拳を強く握りしめる。湧き上がる無力感。どうしようもない情けなさ。それは行き場のない怒りとなって、五代自身の心を貫く。
彼は弱い。それでいて、どこまでも強かった。怒りを覚えても、それを拳に乗せたくない。憎しみを感じても、それを暴力に変えたくない。できることなら戦いたくない。許されるのなら誰にも戦ってほしくない。
五代は、戦いの辛さ、暴力を振るうことの悲しみを、誰よりも知っている。だからこそ、その辛さを、その痛みを。他の誰でもなく、クウガである自分一人で背負おうとしたのだ。
「バカ! なんで来たのよ!!」
霊夢は一人で戦うつもりだった。いずれ幻想郷の妖怪たちと共にこの異変に挑むことになろうとも、幻想郷の外から来た外来人を巻き込むつもりはなかった。
まだ、戦うつもりなのか。自分が解決すべき幻想郷の異変に首を突っ込んでまで、何の関係もない人間が。
霊夢は石畳に叩きつけられた際に強く痛めた左肩を押さえ、激しい痛みに顔を歪めながら立ち上がる。湧き上がる焦燥感。どうしようもないやるせなさ。それは明確な行き場を込めた
彼女は強い。それでいて、どこまでも弱かった。悲しみを覚えても、それを見せたくない。辛いと思っても、そこですべてを投げ出したくない。できることなら戦いたくない。許されるのなら誰にも戦ってほしくない。
霊夢は、争いの愚かさ、実力主義の悲しみを、誰よりも知っている。だからこそ、誰も傷つけ合う必要のない幻想郷を。争いを平和なゲームに変える、スペルカードルールを制定したのだ。
博麗霊夢と五代雄介。二人はお互いに、戦うべきであり、戦うべきではない者だった。
霊夢は当代の博麗の巫女。幻想郷の異変を解決し、平和を取り戻す使命がある。されど、未確認生命体とはまったく関係のない一人の少女。
五代は当代の戦士クウガ。再び現世に蘇り、殺戮を始めようとする未確認生命体を打ち倒す使命がある。されど、この幻想郷においてはただの一人の外来人に過ぎない。
「だって俺、クウガだから!」
「はぁ?」
五代はクウガの姿のまま背中越しに伝える。きっとその仮面の下は、青空のような笑顔に晴れ渡っているのだろう。
ただでさえ仮面を被っているくせに、その下の顔まで仮面を作っていては世話がない。五代との付き合いはほとんどなくても、勘の鋭い霊夢には分かる。彼の心は、戦いへの悲しみで土砂降りの雨模様だ。
霊夢は理解できなかった。その仮面の笑顔は、自らの青空を捧げる覚悟に見えた。なぜ、そうまでして戦えるのか。なぜ、そんなに辛そうな背中を見せてまで、あんな化け物に立ち向かっていけるのか。見たところ、戦うのが好き、というわけではないらしい。ならば、なおさらだ。
「幻想郷に現れた以上、こいつらを倒すのは巫女である私の仕事よ! クウガだかなんだか知らないけど、あんたに戦う義務はないの!!」
震えた心を見た。あまりに辛そうな笑顔を見た。悲しみを知らずとも、伝わってくる思いを感じた霊夢は、五代を戦わせたくなかった。
あんな悲しみに満ちた笑顔で、大丈夫などと言えるはずがない。彼が人間である以上、守ると決めた。重ねて言えば、博麗の巫女として、外来人の手を借りるわけにはいかないのだ。
張り詰めた心を見た。遥かに掲げた覚悟を見た。その強さを知らずとも、五代は霊夢の言葉に衝撃を覚えていた。
五代も同じ気持ち。未確認と戦うのは、クウガである自分でなくてはならない。クウガである自分にしかできないことだと思っていた。だからこそ、無関係の少女たちを巻き込みたくない。彼女らが関わるべきではないと。そう、思っていた。
かつて無二の相棒に言われた言葉。今の霊夢と同じ、誰かを巻き込みたくないという想い。
「……お互い、『中途半端に関わるな』ってことだよね」
その言葉は、今でも五代の心に残っている。初めてクウガの力を手にしたとき、何の関わりもない未確認生命体の事件に首を突っ込み、後に相棒となる刑事にひどく叱責されたものだ。
「大丈夫! 俺、中途半端はしないよ! しっかり関わるから!」
五代は振り返り、正面を向いて霊夢にサムズアップを見せる。
ふと、霊夢は五代の心の中に降りしきる雨が、少しだけ止んだような気がした。理由は分からないが、今度ばかりは本当の笑顔。嘘偽りのない五代自身の青空で掲げられた親指は、霊夢の心に
しかし
「……っ! 邪魔よ!」
五代は目の前で表情を変えた霊夢に突き飛ばされ、境内の石畳に黒い強化皮膚で覆われた尻を打ちつける。無論、クウガの皮膚は人間の何十倍もの強度があるのだが、不思議と衝撃は痛みとなって尻に響いた。
すぐさま霊夢は自らの袖に眠る手の平サイズの玉に祈る。道教における太極図をそのまま立体化したような紅白の宝珠は、霊夢が愛用する『
真なる陰陽玉の本体は今なお霊夢の袖の中に。霊力で生み出した傍らの二つは、ある種の弾幕と定義された陰陽玉の能力そのもの。
それは魔理沙の使い魔と違って、霊夢の思考のままに複雑な動きで敵を翻弄することができるという特徴を持っている。博麗神社の秘宝として受け継がれた特殊な鉱物による宝珠は、霊夢の武器たる威光を示し。
迫り来る二体の怪物。ズ・グムン・バとズ・ゴオマ・グ。霊夢はクウガを突き飛ばしたことで空いた軌道上に陰陽玉を向け、その二つを重ねた。
重なり合った二つの光球に収束する霊力が輝きを増していく。やがて陰陽玉は怪物を目掛け、赤紫色に輝くお札のショット、封印装備の【 妖怪バスター 】を解き放った。
妖怪バスターは拡散するお札の弾幕。機動力を重視した場合においては前方を大きく撃ち払う広域射撃となるのだが、今の霊夢はその場に留まり、オプションとなる陰陽玉を目の前で密接に重ね合わせた状態だ。
この状態で撃ち出された妖怪バスターは、前方中範囲へと扇状にお札を広角拡散させる形になっている。どちらにせよ純粋な威力こそ散逸してしまうものの、一気に解放された霊力のお札はさながら散弾銃の如く。二体のグロンギは、その圧倒的な物量に呆気なく吹っ飛ばされた。
「……足、引っ張ったら承知しないからね!」
爆発的な霊力の波を一度に撃ち出すと、陰陽玉は役目を終えて消失する。妖怪バスターはスペルカードではないため、霊力の消費は大きくない。
だがその分、遠距離ではホーミングアミュレットに劣る程度の威力しかなく、怪物への決定打にするには心許ない。敵と接近していれば高い火力を出せるが、基本的には相手の体力を削るための通常ショット、あるいは
「や、やるなぁ……霊夢ちゃん……」
白いクウガは地面に座り込んだまま、霊夢にサムズアップを見せる。すぐに立ち上がり、霊夢の傍に控える形で背中を合わせた。
己の血に染み、赤に染まった巫女の隣に、己を失い、白に染まった戦士が並び立つ。巫女は掲げるお札を構え、戦士は拳を握ってファイティングポーズを取った。
青空の底を、雨雲が埋め尽くしても。降り注ぐ涙が晴れ渡る笑顔を濡らしてしまっても。きっとその雨を降らせている雲の向こうにはどこまでも青空が広がっている。
止まない雨などない。この心に降りしきる悲しみも、やがていつかは青空になる。
博麗霊夢は快晴の巫女だった。その気質は、
青空と快晴。封印と封印。その身に装うべきは赤か白か。先代の意志を受け継ぎ、共に己に正しくあろうとする覚悟は、まさしく戦士。
博麗の巫女として選ばれた霊夢の心は、幻想郷における『クウガ』に相応しいものだった。
五代雄介、こういうのを知ってるか。
小説を書くときに一番難しいのは、改行タイミングだ。