東方逢魔幻譚 ~ Never Cross Phantasm.   作:時間ネコ

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第67話 パラレルワールド

 停止した人間の里には風はない。二度目の四季異変に際して歪んだ季節の中、舞い散る桜さえも張りつくように浮かんでいる。

 ただそこに存在する時空が結界という形で保存されているだけ。それはおそらく八雲紫の境界を操る能力によって切り取られた刹那の因果であり、あらゆる変化を拒絶する境界は竹林の中の屋敷のように不変のまま、何者にも傷つけられることなく在り続けるだろう。

 

 実際、三体のグロンギたちとの交戦で彼らが身に着けた妖力による光弾が散っても、その流れ弾が里の家屋を砕くことはなかった。大地に関しても僅かな衝撃が土を打ち散らすことはあっても、そこに穴が開くことはなく、結界の中で固定された人間の里という時空には何ら変化はない。

 

「おい、立てるか?」

 

「……ありがと。もう大丈夫!」

 

 右手を差し伸べた門矢士の手を取って五代は立ち上がった。痛みを耐える表情をすぐに柔らかな笑顔へと変えるものの、微かに残る陰りを拭い去ることはできてない。

 それは己が痛みに対するものではなく、逃がしてしまった未確認生命体への悔恨。また第14号が行動を開始すれば、その針により多くの者が犠牲になる。五代はその痛みを憂いていた。

 

 その左肩には、見るも痛々しい風穴が開いている。霊夢は医療の知識はないが、せめて少しでも出血を止めてやろうとお札を包帯代わりに結んでやろうとした。

 だが、すぐにそれは必要ないと分かる。すでに霊石の力によって全身に広がった神経状組織による驚異的な再生能力は働いており、グロンギの肉体にも等しいだけの回復力をもって、五代雄介の傷は治癒が始まっていた。

 流れる血はアマダムの能力によってすでに止まり、深い風穴までもが瘡蓋(かさぶた)となってはすでにそちらも完治へ向かっている。この調子なら数十分もしないうちに傷跡さえ残さず全快するだろう。

 

「あんなに太い針が貫通したっていうのに、もう治りかけてる……」

 

 霊夢は改めて戦慄した。五代の話や今までの戦いから理解していたつもりだが、実際にその目で見てしまうと、未確認生命体と等しいというクウガの力に恐れをも覚える。

 もはやその肉体は真っ当な生物のものではない。これほど自然の摂理に逆らった細胞の動きがあればかなりの痛みが伴うはずだが、五代は慣れているのか苦しむ素振りすらなかった。

 

 士はちらりと背後を見ては己が操っていたバイクを確認する。黒と白とマゼンタ色の意匠を持つマシンディケイダー。彼方に見える五代雄介のバイク、ビートチェイサー2000とは外見も能力も違うが、常人が駆るには過ぎたものだという共通点はある。

 ディケイドライバーを開発したのと同じ組織が開発し、次元を超える能力を有したマシンディケイダーならば士の意思で呼び寄せることも可能だ。ディケイドである士の意思により、その法則を有した機体は灰色のオーロラカーテンを伴って次元の境界を超えることができるのだという。

 

「……ん?」

 

 この幻想郷においてもマシンディケイダーの力は機能する。それはつまり同じ能力を宿した者であればこの地に踏み入れるということ。小さく溜め息をつきかけたとき、士は影を見た。

 停止した人間の里を軽やかに過ぎる何者か。少女らしき幻影は──巫女服を着ていたような。

 

「気のせい……か……?」

 

 一瞬だけ目にすることができた幻影はすでに消えていた。否、ただの見間違いであったのだろう。見たところどういう原理なのかこの里に人の姿は一切見られないし、そもそも怪物たちが暴れるこんな場所に現れる少女などおるまい。

 聞いた話によると紅白の巫女装束を纏うのはこの幻想郷において博麗の巫女だけであるらしい。ゆえに霊夢を一目見ただけで博麗の巫女であると判断したのだが──

 

 先ほど目にした少女のような何かは、たしかに紅白の巫女装束を着ていた気がする。視界の端にちらりと映った程度であり、やはり見間違いであったのだろうと片付けられるが。

 少し気になったのは、その幻影が金髪をしていたような、頭の片隅にこびりつく何かの影。

 

「どうかしたの?」

 

「いや……なんでもない」

 

 首を傾げて霊夢の方へと向き直る士。怪訝そうにこちらを見る少女は先ほどの戦いでそれなりの力を消耗したらしく、その表情にはやや疲れが見て取れた。

 

 霊夢は士の答えをやはり訝ると、ちらりと五代の左肩の傷跡を再び見やり、続いて自らの左手に視線を落とす。お札を放った感覚こそいつも通り。されどそこに込めた力はスペルカードルールで許される出力を大きく超えた殺傷の意図。

 符の壱、符の弐、符の参。三つのスペルはかつて三日置きの百鬼夜行──伊吹萃香による異変の特殊なルールで使って以降は使っていなかったが、あのときと比べ左手に返る反動が桁違いに大きかった。無意識のうちに『殺す』ための弾幕を放つことに、慣れてしまっていたのか──

 

 改めて想う。此度の戦いは弾幕ごっこなどではない。命がけの殺し合いなのだと。今まで妖怪を相手に遊びで交わしていた弾幕の応酬が、人間も妖怪も殺し得る一撃となる。五代はそんな凄惨な痛みの中で、これまで仮面の下に涙を隠して戦い続けてきたのだろう。

 

 強く拳を握り締める。五代が戦ってきたクウガとしての旅路は、弾幕ごっことは違う。相手を思いやる意思などない殺意の具現が、ただ理不尽に誰かの笑顔を奪い続けてきた。そんな言葉の通じない奴らを相手にして、五代は自らも嫌う暴力という手段に身を投じるしかなかった。

 思いつめる霊夢の表情を見て士もどこか思うところがあったようだ。士は五代の戦った旅路を知らないが、仮面越しでもよく分かる彼の笑顔は──『あの男』によく似ていた。

 

 五代雄介は戦士である自分を好まない。暴力(こぶし)に感じる誰かの痛みが、心の青空を曇らせるから。門矢士は破壊者である自分を好まない。ファインダー越しに砕け散る世界は、写真にも残すことができないから。

 それでも彼らは役割を受け入れる。自分にしかできないなら、自分がやるしかない。彼がかつてやりたいからやると言ったのは拳を振るうことではなく、みんなの笑顔を守ること。彼がかつてそれを旅路と目指したのは、何かを壊すためではなく、旅の果てにすべてを繋ぎ留めるため。

 

 ──ただの冒険家でありたい。戦士の求める青空は、誰もが笑顔でいられる世界。ただの旅人でありたい。世界の破壊者の目指す光は、無垢なる笑顔を写真に残すことができる世界であった。

 

「門矢士って言ったっけ。あんた、通りすがりの仮面ライダー、って言ってたわよね」

 

 怪訝な瞳で士を見やる霊夢。その表情に込められているのは敵意ではなく、信用に足るか否かを見極めようとする者の意思。霊夢にとっては彼女にその自覚がないものの八雲紫に対する不安定な信頼の発露でもある。

 信用はない。それでも無意識に信頼している。霊夢が士に対し、生まれ持った勘という絶対性をもって単なる破壊者、ただの敵ではないと認識したのは──

 

 彼が有する赤と紫の境界たる波動がゆえ。可視光を超えたマゼンタ色の色彩領域。本来そこには存在しない、在り得るはずのないもの。

 そこに幻想の境界である八雲紫と同じ在り方──どこか万物の『スキマ』を垣間見たため。

 

「言った通りだ。……あの胡散臭い妖怪から聞いてないのか?」

 

「残念だけど、私にはほとんど何も言ってくれないのよ、あの胡散臭い妖怪は」

 

 溜息をつく霊夢の傍らで、五代雄介も左肩を押さえつつ苦笑いを浮かべる。それぞれ頭に思い浮かべる紫色の影は、彼らが等しく振り回された幻想の極致であった。

 万物の境界をその手に掌握する妖怪。幻想郷の結界、幻と実体の境界を管理する彼女はこの幻想郷に未知の法則を持つ仮面の戦士、仮面ライダーと呼ばれる者たちを招き入れた張本人として見て間違いはないだろう。

 

 気がかりなのは、彼女自ら『十番目』と称したイレギュラー、ディケイドの存在。九つの物語と表現したのは彼女であるのに、それを否定する十番目の存在をこの幻想郷に容認している。続けて霊夢は思考した。自身の記憶に残っている言葉、八雲紫のあの言葉──

 彼女は『破壊するのは幻想郷ではなく十番目の世界』と言っていた。そしてそれを実行するのは八雲紫ではなく、霊夢(あなた)なのだと。

 この男が元いた世界を破壊するのが目的であるのか? たしかに警告は受けた。この男は世界を破壊させる存在であると。だが、それならばなぜこの男自身を破壊する対象であると告げなかったのか。なぜこの男が存在したであろう、十番目の世界を破壊の対象に選んだのだろうか──

 

「……まぁ、ここで考えてても仕方ないし! 今は、えっと」

 

「あ、そうそう。里がこんなだし、慧音たちがどうなってるか確かめないと」

 

 五代の言葉によって張り詰めていた思考は緊張の糸を解れさせた。頭の中に思い浮かべていた世界の破壊者、ディケイドの姿を彩るバーコードの意匠、縦線の縞模様と呼べるそれは八雲紫が司る境界、スキマと呼べるものを表しているようにも見えたものの。

 それは今考えるべきことではない。光の境界、波動と粒子の移ろい。光という理が二つの性質を持つと証明するあの実験──

 

 霊夢は知らぬ、二重スリット実験と呼ばれる量子力学の精髄を思わせる繋がり。八雲紫であればきっとそこにディケイドと自身の境界を見出したであろう。

 スリット、すなわち隙間(スキマ)。そこに電子という『弾幕』を撃ち込んだ際、一つ一つの粒は粒として彼方の帳を彩るのに、それを続けた先では波として放った際に帳を彩る縞模様と同じものを写す。波でありながら粒でもあるという二重性を持つもの。人々はそれを『量子』と定義した。

 

 電磁波を当てて観測したために波動は粒子となったのか。観測していないがために粒子は波動と振る舞ったのか。

 微視的(ミクロ)な世界においては、観測とはただ見るということだけを意味しない。電磁波を当ててその位置や運動量を測定しなければそれらの情報は得られない。二重スリット実験においては、彼方の帳を彩る電子の弾痕という結果を見ることで観測結果を得ることは可能だろうが。

 

 そして量子の振る舞いを持つ粒子はある条件下で二つに分かれ、同じ角運動量を二分した粒子は正反対の角運動量を持つ別の粒子となって飛んでいく。それぞれどちらがどちら向きの角運動量を持つかは、さながら二つの箱に隠された異なる色の玉の如く、神のみぞ知る、というもの。

 

 一切の情報を交わさぬ領域にあっても、二つの量子は繋がっている。どれだけ遠く、世界さえも隔てた場所でも、繋がり合った量子は互いの理を知る。

 観測するまで決して分からぬ箱の中の玉の色。どちらかを開けて片方が赤だと分かったのなら、もう片方は青ということが分かる。量子的にその中身は観測するまでどちらも同じく赤であり青であるという結果が重なり合って存在しているという奇妙な状態にありながら──

 

 片方を開けて赤だと分かったとき、もう片方は青に変化する。どちらも同じく混ざり合ったマゼンタだった状態から、開けた瞬間に確定するというのだ。何の情報も与えずに、世界すらも隔てた距離で、互いが互いの箱の中身すら知らない状態であるというのに。

 もっとも、それも波動関数の観測問題における数ある解釈の一つを前提とするものでしかない。あるいは重なり合った無限の可能性がそれぞれ別の世界となって分岐しているのだと考える結論も一つの解釈として存在する。

 量子というものの振る舞いは既知の古典力学では説明できない相関やそれに関わる現象を引き起こすとされる。外の世界の学者により『量子もつれ』と称されるその現象は、本来ならば触れ合うはずのない、関わるはずのない、世界を隔てた何かと何かに繋がりをもたらすのかもしれない。

 

「慧音……ってたしか、俺が里で初めて戦ったときに一緒に戦ってくれた人だっけ?」

 

「そうよ。里の寺子屋で教師をやってるの。歴史に詳しい半獣だから、その縁ね」

 

「教師かぁ……まだ若く見えたのに、すごいね。いや、妖怪だから俺より年上なのかな」

 

 五代は思考の中に青い衣の女性を思い浮かべながら言った。霊夢の言葉に連想するように、里の叡智たる上白沢慧音、蒼銀の長髪に見合う凛々しさと優しさを持つ彼女が子供たちを相手に歴史を教えている姿をイメージする。

 今や戦士クウガであり、気ままな冒険家でもある自分にも幼い子供の頃はあった。小学生の頃に世話になった、かつての教師、今ある五代の人格を形作った恩師はいた。

 

 誇り高く親指を立てる仕草の意味を五代に教えたのも彼だ。ゆえに五代雄介は約束した。西暦2000年までに2000の技を身に着けてその恩義に報いると。2000の技の最初の一つ、自分が何よりも愛し、何よりも得意とする『笑顔』を見せて。

 そして自身にとっては一年と数ヶ月前。未確認生命体第1号と相見えた折に、ついに大願である2000番目の技──『クウガへの変身』を身に着けて、五代は恩師への約束に届いたのだ。

 

 肩を並べて戦ったのはたった一度。名前すらも交わしていない、慧音という女性。五代は彼女を深く知らずとも、その在り方は暖かく伝わってきていた。

 誰かの笑顔が奪われる痛みを自分の痛みのように感じられる優しい心。そして妖怪という身であれば、人々の営みの中で生きていくには不便もあろう。それは、奇しくも誰かの笑顔を守るために人間の領分を逸脱し、霊石アマダムの力でグロンギと同質の存在と化してしまった五代も同じ。

 

「他にも里の妖怪はいるんだけど、とりあえずここから一番近いのは寺子屋──」

 

 霊夢は晴天の下、人差し指を伸ばして寺子屋の方角を指し示す。びっ、と突き立てた人差し指を向けるは、この里で最も歴史深く、子供たちにも愛された学び舎の方角である。

 ──その瞬間のこと。霊夢の細い指先に震う空気が乱れる。その感覚に一瞬だけ霊夢は違和感を覚えた。直後にそれが普段、自身が無意識のうちに空間を跳躍する結界を形成している際の微細な時空の歪みに似ていると気づいたのだが──

 

 すぐに目の前に現れた灰色のオーロラ──に似た裂け目に意識を奪われる。掲げていた右腕を咄嗟に下ろし、大地を蹴って後退。五代や士の傍らに立ち並ぶ形で『それ』に向き合った。

 

「な、何これ……!? またあの変なオーロラ……!?」

 

 空間と空間を繋ぐ次元の帳。それは紛れもなく幻想郷で定義される結界に他ならない。それだけならば先ほどまでも目にしていた別世界の境界、例のオーロラに相違なく。

 だが、少し違う。その向こう側からは今までのような冷たい風は感じられなかった。幻想を排斥し否定する外の世界の空気が流れてはこない。それどころかむしろ、慣れ親しんだ幻想郷の空気、自分がずっとそこにいた、安らぎのある居場所を思わせるような。

 

 その違和感は五代も士も感じ取ったのだろう。彼らは幻想郷の空気に馴染みなどないだろうが、逆に今まで感じていた外の世界の怜悧な空気との差異、むしろ馴染みのない幻想の風に違和感を覚えている。今この場所、時空の停止し風が止まった里にいればなおさらのこと。

 小さく開いた次元の裂け目は一瞬で膨れ上がっては視界を染めた。心地良いまでに馴染み知った幻想郷の風。不快なまでに馴染み知ったこの感覚は、八雲紫のスキマと同じ妖力の波──

 

「…………っ!」

 

 ふわりと迫る境界のオーロラに顔を覆う霊夢。咄嗟に身構えた士と五代をも、その背後と霊夢から見える彼方にあったもう一機、それぞれマシンディケイダーとビートチェイサー2000の車体をも丸ごと飲み込み、揺らめく時空の境界線はそのまま里から消失する。

 二台の機体(バイク)と三人が消え去った里には、もはや写真のように止まった景色しかなかった。

 

 ただ一つ、存在さえも虚ろに霞む失われた幻想(ロストファンタズム)。紅白の巫女装束を纏った金髪の少女を除いて。

 

◆     ◆     ◆

 

 時空の停止した人間の里において、夢の世界へと誘われることのなかった人間は存在した。ただ無力なだけの、妖怪に怯えて暮らすだけの人間であれば、紫の意思で安全な夢の世界に避難させられ、この現実の里に残されることはなかっただろう。

 彼女らが取り残されたのは、その身に『幻想』という名の神秘を宿していたから。ただの人間と呼ぶには過ぎた力。里の一般的な人間を超えた──超常の領域たる能力を有しているからだ。

 

「間違いない。人間の里の時空そのものが完全に停止してる。十中八九、彼女の仕業ね」

 

 神妙な表情を浮かべて呟くは、どこか長い歴史を感じさせる伝統的な和装を纏った年若い少女。萌黄と若葉の色を帯びた上衣は春の息吹の如く、腰下に装うロングスカートは着物らしき形状を持ちながら洋風のフリルをもあしらった、深い臙脂色のものだ。

 罪深き桜の色を思わせる薄紫色の髪は眉と肩にてそれぞれ切り整え、日本人形めいた出で立ちを見せ。立派な花の意匠を髪に飾り、その身の出自の気高さを言葉なく物語っている。

 

 少女の名は 稗田 阿求(ひえだ の あきゅう) 。この人間の里において名家たる家柄とされる稗田家の現当主でもあり、幻想郷の歴史を紡いできた稗田の一族の末裔である。

 稗田家の当主は代々『幻想郷縁起』という歴史書を執筆し、その生を幻想郷縁起の編纂のために用いる。年若い少女である阿求(あきゅう)はその歴史の基点となった『御阿礼(みあれ)の子』の九代目に当たり、稗田家においても九代目の当主であった。

 

 当代である彼女を含めた稗田家の者は必ず同じ能力を受け継いで生まれてくる。それは幻想郷の妖怪や妖精、あらゆる歴史を必ず伝えていくという役割のためだろうか。彼女たちは初代御阿礼の子、 稗田 阿一(ひえだ の あいち) の時代から『求聞持(ぐもんじ)の能力』──すなわち『一度見た物を忘れない程度の能力』を継承する。

 その目で見たもの。その耳で聞いたもの。幾年月の時間が経とうとも、その情報が御阿礼の子の記憶から失われることはない。彼女たちは代々、その完全記憶能力を活用し、幻想郷の妖怪たちの脅威を里の人間に伝えるための啓蒙書籍として千年にも渡り、幻想郷縁起を編纂し続けていた。

 

「里の人間はおそらくほぼ全員消失している。彼女の息がかかっているなら、つまり……」

 

 幼げながら風格のある顔立ちを飾る、整った眉をひそめる。人間の里とその外側を繋ぐ魔法の森側の門の傍に立ち、いつも通りに緩やかに流れ動く幻想郷の時間、ひらり舞い落ちる桜の花びらを見やったのち。門を潜っては里に踏み入り、空中で停止した桜の花びらを見る。

 この里の全体をぐるりと周って確認したわけではないが、人通りの多い大通りにさえも人の姿は見られず、何より稗田邸の使用人すら一人残らず消えてしまっていた。

 それが幻想郷で噂される怪物の仕業ではないと気づけたのは、この里を包む妖力に覚えがあったから。幻想郷縁起の編纂に際して、あの妖怪は度々口を挟みに稗田の屋敷に現れるのだ。

 

 阿求の思考に思い返されるのは遥か遠い記憶。彼女はまだ十数年程度しか生きてはいない生粋の人間であるが、その記憶の中には何百年も過去の記憶が残っている。

 一度見た物を忘れない程度の能力は、稗田阿求という個人の能力ではない。それは遥か千年以上前の人物である 稗田 阿礼(ひえだ の あれ) が有していた求聞持の能力であり、その魂が同じ稗田の子として出生を迎えた稗田阿一に受け継がれ、そうやって継承され続けてきた九代目、今の阿求にも同じ力があるというもの。

 

 その能力は代々『転生』を続ける、稗田阿礼の魂に宿る能力である。同じく九代目の御阿礼の子に当たる女性の当主、九代目『阿礼乙女(あれおとめ)』である阿求にも最初に転生した阿礼のものに加え、歴代御阿礼の子の魂と記憶が残っているはずであるが──

 その負荷の強すぎる記憶能力の代償として御阿礼の子は代々短命であった。若くして死を迎え、次なる転生を迎え、能力こそ完全に受け継がれども、前世の自分が刻んだ記憶のほとんどは転生に際して失われてしまうとされている。

 その記憶を蘇らせるのが、転生前の自分が紡いだ歴史書、幻想郷縁起。大結界を司る大妖怪さえ編纂に協力する幻想郷の記憶そのもの。その著者として、阿求は揺るぎない誇りを持っていた。

 

「……犯人の目的は、里の人間の保護と見たわ」

 

 深い思考に在るは()の大妖怪への訝しみに加えて、ほんの少しの陶酔の色。阿求は幻想郷縁起の執筆に加え、長い編纂作業の合間に趣味として推理小説を執筆するようになっていたのだ。

 それも人間と妖怪の殺し合いの時代を終え、スペルカードルールに移行してから初めて転生した九代目、阿求の時代の平和な幻想郷らしさが心に余裕をもたらしたためか。

 外の世界の名高い推理作家にあやかり『アガサクリスQ』のペンネームを用いて、友人たる貸本屋の娘の協力を得ては幻想郷でも人気の高い推理小説を出版している。この人間の里のかつてない異常に、どこか自身が主人公として物語に登場させている探偵の振る舞いをしてみたのだろう。

 

「そっちも気になるけど……」

 

 阿求の振る舞いを横目で見やりつつ呟くはもう一人の少女。市松模様の赤い和服に、フリルを装った深い緑色のロングスカート。その上からは生家である貸本屋──『鈴奈庵(すずなあん)』の従業員であることを示すクリーム色のエプロンを身に着けている。

 明るい飴色の髪を鈴の髪留めでツーサイドアップとして纏め、髪とよく似た色の瞳を持つ少女。阿求の友人であり、鈴奈庵の看板娘である 本居 小鈴(もとおり こすず) は、不安そうな表情をしていた。

 

「これって、外の世界の漂流物だよね?」

 

 人間の里の郊外に落下した未知の構造体を見下ろし、その仰々しさに何か良くない兆しを想う。妖怪が記した本、『妖魔本(ようまぼん)』の収集を趣味とし、それを読むことに楽しみを見出している彼女は、かつて自身を苛んだあの悲劇を思い出さずにはいられなかった。

 妖魔本は、妖怪の力を刻み込んだ書物。本来ならば人間の常識を超えたその本は、特殊な文字で書かれることが多く、読むことは難しいはずだが──

 

 小鈴(こすず)はその目に神秘を宿している。それは妖怪の書いた文字であろうと、己が知識にないはずの外国の文字であろうと、文字として認識できれば何であれ読み取り、内容を理解することができるという『判読眼(はんどくがん)』の能力。()わば『あらゆる文字が読める程度の能力』だった。

 とある一冊の妖魔本を手に取り、()()()()()を求めたときのこと。小鈴は何かに導かれるように里を抜け出し、里の人々の捜索をもってしても見つけ出せない領域へと踏み込んでいた。

 

 やがて発見された彼女は、極めて危険な妖魔本の中の妖気に身体を乗っ取られ、ほとんど妖怪に等しい状態と化してしまっていた。それはこの幻想郷のルールの一つ、里の人間が妖怪になってはいけないというルールに抵触するもの。

 

 博麗の巫女は妖怪を退治する。かつても一度、人里の易者がある手法を用いて怨霊と成り果て、幻想郷のルールを逸脱したことがあった。その際は自らの意思で人間を辞め、己の存在そのものを妖怪と化したことで霊夢の手で依代たる紙切れに戻されて消滅した。

 里の有力な人間に妖怪が憑依したこともあった。すでにその人間は手遅れであり、もはや元には戻れなかったとはいえ、少し前まで人間だった妖怪(それ)を自らの手で『処理』しなくてはならなかった心境は、博麗の巫女たる彼女にしか分かるまい。

 守るべき人間が──妖怪の犠牲となる。その痛みは、霊夢の青空(こころ)に雨を降らせる。そんな痛みを振り切って、博麗の巫女は人間の里の秩序を乱す者を排除しなくてはならない。

 

 小鈴の場合はあくまで妖魔本の妖気に囚われてしまっていただけ。その妖気さえ打ち払うことができれば、小鈴は元に戻れる。何より、霊夢にとっても彼女は友人であるのだ。完全に妖怪化したわけでなければ、抹殺という最終手段を取らずとも彼女を救うことができると希望を見た。

 

 無論、霊夢とて友人だからという理由で手心を加えてやれるほど無責任な立場の人間ではない。本当にどうしようもないなら、自らの手で友人の命を奪う覚悟を決めていただろう。そんな悲しい結末を避けられたのは、小鈴を裏で操っている黒幕の正体に気がつくことができたから。

 万物の境界を司る八雲紫。彼女が小鈴を妖怪の側に引き入れようとしたのは、霊夢が小鈴を手にかけてしまう未来をその思考でもって予測したからだ。

 

 霊夢であれば妖怪化した小鈴を幻想郷の秩序から剪定する。そう確信した紫は小鈴を言葉巧みに操り、とある古の妖魔本の妖気に触れさせることで妖怪の側に招いた。

 妖怪と化してしまった人間として討ち倒されるのではなく、霊夢たちと同じ立場で人間と妖怪を平等に見られる『妖怪じみた人間』の側に小鈴を置き、霊夢の精神(こころ)を守ってやるために。

 

 それは幻想郷で交わされてきた、ある種の契約。博麗霊夢は妖怪を退治するが、あくまで人間と妖怪のバランスを常に維持しているだけ。人間が妖怪になることを阻止し、人間が妖怪に殺されることを阻止しているだけ。真の意味で妖怪を討ち倒すような真似はしていないのだ。

 実際、異変を起こしてそれを解決された妖怪たちは霊夢によって存在を否定されることなく、いつも通りの幻想郷の循環の中に組み込まれ、博麗神社の場で仲良く宴の杯を交わしている。

 

 小鈴と同化した妖魔本──『私家版 百鬼夜行絵巻 最終章補遺』の妖気は二ッ岩マミゾウの手で断ち切られ、絵巻物の妖気は彼女の身から分離し、無事に元に戻れたのだった。

 

 ──もっとも、そんなことがあっても、彼女の好奇心と行動力は健在。さすがに人でなくなりかけた苦い経験があるためか、以前よりは落ち着いているようだが──

 妖魔本を収集する性質はあまり変わっていない。彼女はそれでも未知の本を愛しているのだ。

 

「ええ。見たところ、とてつもなく古いもののようだけど……」

 

「珍しいよね。クワガタムシの石像だなんて」

 

 阿求と小鈴が共に見やるは人の身の丈さえ超える巨大なクワガタムシの石像だった。石像は見るからに石といった灰色の色合いで森側の門外に鎮座しており、側面に配された丸みを帯びた小さな両目は深く眠るかの如く閉じている。

 大きく迫り出した大顎の牙も、石であろうにその堅牢さが伝わってくるような精巧さを持つ甲虫特有の甲殻も。まるで生きているかのようなものでありながら、やはり無機物らしく。

 

 遥かな過去の記憶をも受け継ぐ阿求の知識にそれはない。多くの妖魔本に囲まれ暮らし、様々な妖気に触れ、一度は妖怪の依代となりかけた小鈴の感覚に伝わってくる妖気はない。

 それは紛れもなく幻想郷の外から現れた、幻想的な妖気を持たぬ外の世界の漂流物であった。

 

「……あっ。ここに書いてあるのって、もしかして……文字なのかな?」

 

「文字だって? どれのこと?」

 

「ほら、ここのところ。なんだか古代文明の象形文字みたい。ちょっと読んでみるね」

 

 小鈴が目にしたのは石像の頭部、クワガタムシの甲殻に刻まれた文字のような意匠の羅列であった。それは彼女らにとって未知たる言語であり、幻想郷においても、幻想郷の存在する外の世界においても存在し得ぬ異なる地平、遥かな太古の言語である。

 クウガの世界、超古代。リントと呼ばれた文明が意思の疎通に用いていたもの。クウガの身にも同様に刻まれたそれら『古代リント文字』は、その世界の人間によって専門的な解析が進められ、解読されていった。

 

 古代文明の文献を参考にしてその意図を読み取り、一文字一文字を参照して解読していく。だが、幻想郷の住人である本居小鈴にそんな作業は必要ない。しっかりと文字に向き合い、石像の頭部に刻まれた文字に手をかざすと、判読眼と呼ばれた彼女の目にはその内容が映し出される。

 

「えーっと……『来たれ 甲虫を 象りし 馬の鎧となる しもべよ』……だって」

 

 その文字には妖怪が刻んだと思しき妖気の痕跡は見られない。やはり、妖怪によって造られたものではなく、古代の人間がその時代において造ったものなのだろう。

 今の幻想郷は様々な世界との接続が成されており、様々な世界からの漂流物が流れ着いてくるのだと噂で聞いている。人間の里は妖怪との関わりが少ないが、まったく影響がないというわけではない。現に小鈴は幾度となく里に現れる妖怪たちと浅からぬ交流を持っているのだ。

 

 天狗と顔を合わせて受け取った新聞を鈴奈庵で販売していたこともある。化け狸の頭領が持ち込んだ外来の書物を売りに出していたこともある。人間の里は、人間の想像以上に妖怪の庇護下にあったらしい。

 それでもこの石像からは妖怪の力は感じられない。妖怪が意図的に用意したというより、何らかの理由でこの幻想郷に流れ着いたか。あるいは石像自体の意思でここに来たか。

 付喪神という可能性も脳裏を(よぎ)ったが──それならば少しくらいは妖気が感じられるはずだ。

 

「……どういう意味?」

 

「さぁ……意味まではちょっと……」

 

 石像に刻まれた古代文字、碑文と呼べるその意味を問う阿求だったが、小鈴には文字の内容こそ読み取れどもそれが何を意味しているかまでは分からない。

 甲虫を象りし。それは分かる。これは見た通り、クワガタムシを模している。だが、馬の鎧とはいったい何のことだろう? この石像が何かのしもべであるというのか? 阿求は自身の記憶にある稗田阿礼から先代の自分自身、八代目御阿礼の子である 稗田 阿弥(ひえだ の あや) までの記憶を想起してみるが、このような意匠のものは見た記憶がない。

 

 おそらくは外の世界の誰であろうとも、これを知らぬだろう。阿求はやはり当初の予想通り、この石像は幻想郷と繋がったどこか別の世界から来たるものであろうと結論づけた。

 幻想郷各地で確認される灰色のオーロラらしきものも気がかりだ。自分たちは戦う力を持たぬがゆえ、オーロラから現れるという未知の怪物と対峙してはいない。人間の里にそれら怪物が現れたという報告を聞いてはいるものの、まだ実際にそれを目にしたことはない。

 

 それらと戦う謎の外来人の存在も噂では聞いている。このクワガタムシの石像がしもべであるのなら、その主たるは果たしてどちらなのか。幻想郷を()()()なのか、幻想郷を()()()なのか。その答えのすべては──いったいどこにあるというのか。

 そこでふと、阿求は石像の節足、クワガタムシの脚となる部分にも文字のようなものが刻まれていることに気がついた。甲虫という生物を模している都合上、体高の低いその像を見下ろしていた形から、阿求はその場にしゃがみ込むと、門外の大地につく三対の脚の一部に視線を向ける。

 

「こっちにも何か書いてあるわ。ここにはなんて書いてあるの?」

 

「ふむふむ。『戦士と しもべ 手と手を 繋げ さらば 大いなる 未来 あらん』……」

 

 阿求の言葉を受けた小鈴もまた同様にしゃがみ込むと、石像の節足部分を見やった。前足というべきか、クワガタムシの一番前の足の部分、その先端を飾る爪は全体を見ればかなり小さな部位と言えるものの、石像本体が相当の大きさであるため、解読に支障はない。

 その碑文の内容は先ほどよりも抽象的なように思えた。戦士とはこの石像の主と呼べ得る何かであろう。だが、どうにも曖昧な『大いなる未来』というものが何を示すのかは見当もつかない。

 

「あ、この『未来』って文字。もしかしたら『飛翔』かも。二つの意味があるみたい」

 

「……大いなる飛翔、ねぇ」

 

 小鈴の解読を聞いてもいまいちピンときていない様子の阿求。その言葉を文字通りに受け取るのであれば、この石像が空を飛ぶとでも言うのだろうか。

 幻想郷では魔力や妖力、霊力などといった力で説明のつかない飛翔を遂げる者が多く存在する。外の世界からの漂流物とはいえ、未知なる戦士や怪物が現れていることを考えると、幻想が排斥されていく外の世界からのものにもそういった超常的なものはあるのだろうが──

 

 再び立ち上がって石像に目を落とす阿求は溜息をつく。ざっと見積もっても七十貫(262kg)はありそうな質量のそれが、幻想的な力を借りずに空を飛ぶなどとは到底思えない。

 あるいは、この石像という姿そのものが真なる能力を隠した状態であるのか? いずれにしても分からないことが多すぎる。不用意に触れないように、小鈴に釘を刺そうとした瞬間のこと。

 

「手と手を繋げって……こういうことかな?」

 

 小鈴は湧き上がる興味と好奇心のまま、碑文の通りに石像の爪をその手で掴み取った。何の警戒もなく、クワガタムシの爪と握手でも交わすかのように。

 慌てて小鈴を石像から引き離し、阿求は彼女を守りつつ石像を見る。すると、石像は閉じていた目の意匠を大きく見開いたかと思うと、地鳴りじみた音を立てて震え始めたではないか。

 

「うわっ!?」

 

 巻き起こる風圧は石像がもたらしたもの。あろうことか、クワタガムシの石像はその巨体を自らが放つ力によって浮き上がらせ、阿求と小鈴を風に煽りながら舞い上がったのだ。

 瞬く間に遥か高空へ飛び、春風香る青空へと飛び込んでは──石像は飛び去ってしまった。

 

「いやはや……これは大いなる飛翔だわ」

 

 突然の出来事に呆然とそれを見上げるしかなかった二人だったが、石像の姿がすっかり見えなくなってしまってから現実味を取り戻した阿求が呆れた様子で呟く。

 人間の里でどれだけの時を知っても、それはこの世界の、狭い幻想郷における狭い保護区の知識でしかない。世界には、まだまだいくらでも外側の領域がある。幾度の転生を迎え、様々な未知に向き合ってなお。次元を超えた別世界があるなら、そこに終わりはないのだと思い知らされた。

 

◆     ◆     ◆

 

 最果ての空。幻想郷の上空。彼女が愛したその世界を一望できる境界にて、八雲紫はこの愛しき幻想郷を構成する情報を改めて観測し直していた。

 三途の川の川幅は絶えず変化し続け、死者の罪の重さで川幅は無限に広がるという。そんな不規則な数値でさえ、幻想の境界たる八雲紫の頭脳は一瞬にして算出する。妖怪という極めて超常的で幻想的な存在でありながら、彼女の思考と行動理念は極めて論理的なものだった。

 

 その傍らに現れた自慢の式、最強の妖獣である九尾の狐を自ら組んだ法則でもって式神と成した獣。八雲藍は自らの目と自らの式で観測した幻想郷の現状を主に報告する。

 藍が伝えた言葉を聞き、紫は神妙な表情でスキマの裂け目に腰かけたまま長い脚を組み替えた。

 

「……そう。やっぱり、妙ね」

 

「はい。鳴滝という男の謎の行動や怪物の出現を変数として考慮しても、この数値は……」

 

 今この幻想郷には本来有する幻想郷特有の最初の法則に加え、各世界の楔を打ち込んだことによって『九つの法則』が取り入れられている。紛れもなく戦士として戦い抜いた彼らの歴史が、物語が。この幻想郷にて記録され、楔という形で記憶の基盤に宿っている。

 クウガ、アギト、龍騎、ファイズ、ブレイド、響鬼、カブト、電王、キバ。それらの物語は幻想郷において『幻想』として定義され、幻想郷の記憶の中に統合されていることだろう。

 

 だが、どれだけ計算し直しても明らかに求められる数値がおかしいのだ。幻想郷全体を構成する波動関数や質量とエネルギーの変化、引き込んだ楔や出現する怪物の存在に加えて、計画のためにディケイドの法則を提供してきたあの男、鳴滝の行動を視野に入れたとしても。

 幻想郷の状態を調べる結界のパラメータと万物の境界を司る目で観測した質量とエネルギーが、どういうわけか一致していない。

 

 八雲藍に組み込んだ式も、八雲紫自身の計算能力も。外の世界における量子状態の重ね合わせを宿す理論上の演算処理システムに匹敵するだけのものがある。人間にも既知の古典的なコンピュータにも難しい膨大な量の計算でさえ、彼女らは僅かな時間で算出できた。

 それゆえに、計算結果がおかしいことが分かってしまう。たしかにどれだけ優れた計算機をもってしても僅かな誤差までは完全には無くせまい。紫と藍が計算結果に拭えぬ疑問を抱いたのは、それが明らかに誤差とは呼べないほどの数値。無視できないほどの大きな差異であったからだ。

 

「仮面ライダーたちや彼らが持つ武具や乗り物、それらによる影響でしょうか?」

 

「一部のものは時空を揺るがすほどの力を秘めたものもあるでしょう。でも、違うみたい」

 

 この幻想郷に引き込まれたものは既知の法則を超越している。それこそ今ある幻想郷の外の世界でさえ幻想と呼べ得るような、まさしく空想上の概念に等しいほどの叡智だ。

 それらはたしかに人々が思い描いた夢物語であっただろう。だが、無限に連なる並行世界に紡がれる物語たちは、この世界と重なり合った『実在する』波動関数の中に紛れもなく存在した。箱の中の猫が生きた状態と死んだ状態のどちらともが重なり合って存在するとき、それらは観測と共に混ざり合った世界から分かれ、無限の世界に分岐していくのだ。

 この世界も観測され得ぬ箱の中。量子の揺らぎにより無限の道に枝分かれしていく無数の世界のどこかには、外の世界の人間や月の民ですら想像もつかぬ技術が実現されているだろう。

 

 そして選ばれた九つの物語。それを束ね破壊し接続する十番目の物語。八雲紫はこの幻想郷に、決して交わるはずのない世界の法則と因果を統合した。

 この時空を歪めるだけの力をも含むそれらは幻想郷に多大な負荷をかけてしまう。無論、そんなことは始めから分かり切っていたことだ。紫を含めた幻想郷の賢者たちはその影響を何度も何度も厳正なる計算に計算を繰り返した末、最適な結論を導き出していたはず。

 

 鳴滝なる男の行動はあくまで計画を早めただけ。各世界の法則、仮面ライダーの技術を幻想郷に多く取り入れることで、物語の定着を加速させていただけに過ぎない。そして法則の統合を行えば遅かれ早かれその世界の悪意、怪物たちが流れ込んでくることも想定していた。

 それ以外にも多くの変数は観測できたのだが、どれも可能性として起こり得るものとして処理できる範囲であったため、藍や橙、隠岐奈の配下である二童子、華扇の配下である動物たちの働きによって何ら問題なく解消することはできていた。

 

 八雲紫の頭を悩ませているのは、幻想郷の数値に影響を及ぼしているものが何なのか分からないことだ。九つの世界のいずれにも該当しない未知の振る舞いをする情報、数値自体は誤差とは思えぬほどの差なのに、調べようとするとその数値は波動関数の海を泳ぐ量子のように消失しては再びどこかに現れ、揺らめく確率の波となって正しい数値の中に隠れようとする。

 十番目の法則を招いた直後から数値がズレ始めたため、門矢士の影響かとも思ったが──

 

 明らかにおかしい。この数値は絶えず挙動を変えている。まるで自らを何かの不具合なのだと。ただの誤差でしかないのだと訴えるような。自らの存在を観測者に否定させたいかのような。

 

「(……()()……()()……?)」

 

 数値の変化量はおおよそ人間一人分の質量を最大値としているが、相変わらず安定しておらず、それが具体的に何を意味しているのかはっきりしない。

 スキマ経由で幻想郷中に張り巡らせた目をもってしても観測し得ぬ『何か』。紫は無機質ながら口ほどに物を言う数値だけの存在に、どこか不気味で不明瞭な底知れぬ懐かしさを覚えた。

 

 ある夏の日。紅い霧を目指す巫女と魔法使い。選ばれることのなかった──もう一人の名は。




ポプテピピックのオープニングテーマ『POP TEAM EPIC』の歌詞がとても感慨深い……

いつだって君は監視されてる。誰も知らない存在理由。
またお別れね。次の世界で待ってるから。
破壊と創造の幾何学模様。パラレルワールド 旅して 散りばめる願いに気づいて。

世界をリメイク。

ディケイドは半年間の放送で予定調和された打ち切り作品とも言え、その先でまた会える。
八雲紫の『境界を操る程度の能力』も論理的創造と破壊の能力と表現される。
そして弾幕シューティングゲームにおける弾幕とはまさしく幾何学模様に他ならない。美しい。

次回、第68話『世界の破壊者』
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