東方逢魔幻譚 ~ Never Cross Phantasm. 作:時間ネコ
混ざり合い、溶け合う。混沌と深淵の坩堝。八雲紫は長いドレスの裾を揺らし、ゆっくりとその虚無を踏みしめていく。彼女自らが司るスキマの中にもよく似ているが、ここはそれよりもさらに深い虚無だ。鈍く輝く目玉もない。揺らめくような妖力もない。
──本当に何もない。境界を引いて足場を作らなければ、絶え間ない飛翔による移動で無駄な妖力を使わされる。自分が特殊な妖怪でなければ、空気も温度もなく、重力も、素粒子の一つもないこの場所では呼吸や歩行さえ満足にできないだろう。
無の境界。観測されていない世界とは、このようなものなのだろうか。位置も運動量も確定していない、漂うだけの確率の波。確かにあるはずなのに、誰も知らなければ無いのと同じ。
真空の環境は過酷だ。紫自身が境界を操って自身に圧力をかけ続けていなければ、全身の体液などの水分が沸騰し、気化熱が奪われて眼球や口内が凍結しそうになるほど。──もっとも、妖怪の肉体など仮初めのものでしかないが。
どこを探しても見つからなかった謎の質量反応の痕跡は、幻想郷のどこか一部に現れるものではなかった。幻想郷を内包するこの世界──この宇宙。あらゆる次元へと尺度を広げて、まるで伊吹萃香の霧のように、その全体に満ち渡るように広がっていた──滲み渡っていたというべきか。
「こんな境界があったなんて……探しても見つからないはずだわ」
紫が歩むこの世界には光がない。時間や空間の広がりも紫が境界を引いて便宜的に定義している状態。おそらく、この世界は世界とすら呼べはしないのだ。何も存在しておらず、観測されることすらもない。確定していない世界は揺蕩う波導関数のまま収縮することなく漂い続ける。
ここを見つけることができたのは本当に偶然だった。霊夢や魔理沙が幻想郷に現れた怪物を倒し続け、それら別世界の存在を観測し定義してくれたおかげで、紫は幻想郷に繋がった九つの世界の法則を幻想郷に組み込めていったため、微かに隙間が生まれていたのだ。
自分で開いた覚えのない、ほんの小さなこのスキマに、少し違和感を覚えて接続してみただけ。三次元的な空間の広がりすらない、過去や未来に流れる時間さえもない、本当に小さな溝。こんなところに何かがあるとも思わなかったが──
紫が踏み入り、初めて観測した。その一瞬でここは世界と定義され、存在していなかったはずのこの場所には意味が生じた。そして紫は感じ取ったのだ。何もないはずのここに、例の反応を。
「最初から存在すらしていなかったのね。でも、幻想郷はそれを受け入れた」
空気が存在しないにも関わらず紫の金髪とドレスは揺れる。それは確定していない事象の波によるものだろうか。遍在する宇宙の可能性としてしか存在し得ぬこの世界、量子の狭間に掻き消えるシュレーディンガー的境界座標。まだ誰にも開けられていない箱の中の猫の生死。
紫はその箱を開けたのだ。この世界はすでに観測された。即ち確かにここに存在している。まだどんな法則も持たず、どんな物質も持たないだけの、単なる虚無。
言わば産まれたての宇宙。ビッグバンによる開闢を待ち続けるその深淵は、紫という異物に戸惑うかのように境界と広がる仮初めの時空を波打たせた。その波動はやがて波紋を形作り、回折し、反響し、そこに一人の女性の姿を象っていく。
波と揺蕩う黄昏色の髪。逢魔ヶ刻を思わせる深い瞳の色。そして淡く柔らかく膨らんだ白い中華風のドレスに、こちらを見据えるは不敵な──妖艶とも無垢とも取れる胡乱で美しい微笑み。
「あら、どこの美少女かと思ったら」
紫は鏡写しのようなその姿に細い目を丸くする。白い手袋を着けた手で口元を押さえて、あっけらかんとわざとらしく驚いてみせるが、その驚きは本心からのものだ。もっとも、紫は自身が探し求めた『隠れた変数』がこうして観測者と同じ姿を取ることはとうに予測できていたが。
何万、何億というパターンの計算によってようやく算出した座標。この程度の計算でここに辿り着けたのは奇跡と言っていい。──だからこそ、決して逃がすわけにはいかない。
鏡写しの八雲紫は水面の月と揺れ、揺蕩う波紋と掻き消える。だが気配は紫の知覚から消えてはいない。変わらずこの空間全体に滲み広がるように、波動関数として存在する。
すぐに明確な気配となって、それは再び現れた。背後に立つものの気配は、これまで幾度となく存在の痕跡だけを残していっては原因となる自分を雲のように隠してきたものに相違ない。質量はおよそ人間一人分、それも少女のもの。正確には人間の質量ではない。そう解釈する余地があるというだけ。
紫はゆっくりと振り返る。やや距離のある少し先の闇、虚ろに立っているのは紅白の巫女装束を纏った金髪の少女──だろうか。視力や距離の問題ではない。どこか微睡みの中、夢現に向き合う幻のように、その姿をはっきりとは捉えられないのだ。
紅白の巫女装束と金髪という特徴までは分かる。だがその顔は黒く塗り潰されたようにはっきりしない。そこにいるのが人間なのか妖怪なのか、あるいは別の何かなのか、それも分からない。
「ようやく見つけたわ。隠れた変数ちゃん。えーっと、なんて呼んだらいいかしら?」
小さく息を飲み、紫は問いを投げた。あちらに敵意は感じられない。こちらも可能な限り敵意を感じさせないように柔らかく、優しくその名を問う。境界をもって自己を維持しなければ八雲紫でさえ存在を散らしてしまいかねないような虚無の真空にて、ないはずの空気になぜか伝わっていく不可解な声の反響を感じながら。
その言葉は届いた──のだろうか。金髪の巫女は微かに動きを見せた。顔は相変わらず真っ暗で曖昧で認識できないが、輪郭と思しき形の動き、微かな顎の動きで何か喋ったことは見て取れる。
「……そう。可愛らしいお名前ね。でも、そのままだと地霊殿のあの猫と紛らわしいわね」
紫には少女が語った言葉が不思議と聞き取れていた。音としてではない。魂に訴えるような想いが、紫の中に滲み渡るように伝わってきた。奇しくも下の名前、音の響きだけであろうが、紫は自身が知る同じ名前の少女、旧地獄の屋敷に住まう火車という妖怪を思い浮かべていた。
──おかしい。紫は心の中の疑念を悟られないように振る舞い続ける。なぜ確かに隠れた変数と思しきこの少女を観測しているのに、彼女の存在が確定しないのか。不安定な確率のまま曖昧に移ろい続けているのか。
一つの仮説に思い至った紫は、対話によって時間を稼ぐことにした。時間も空間もないこの場所で、それがどれだけの意味を持つのかは分からないが、ここまで来ればどんなことでも試してみる価値はある。ようやく手が届くのだ。計画に影を落とすたった一つの月──逢魔ヶ刻の境界に。
「聞かせてもらえるかしら。あなたはいったい……何をしようとしているの?」
判断を間違えるな。紫は己を戒めるように少しずつ妖力を整え、心に灯した闇にスペルカードの形を与える。この空間に踏み込んだときから自身の境界を解れさせて妖しき雲の如き妖力の波動を滲み出させていたおかげで、スペルカードの発動が即座に悟られることはないはずだ。
弾幕の展開を伴う派手なものではない。かつて鴉天狗に取材として見せたものと同じものだが、その形式は大きく異なり、ただ法則だけが妖しく滲み出していく。
最初に発動されたのは仏教の教義における有と無の基準。この世のすべては等しく不安定な確率存在であり、あらゆるものは移ろい流れるもの。不変なるものは存在しないという教え。すなわち般若心経が語りし『
形あるものは形なきものに、形なきものは形あるものとして存在し得る。奇しくも仏教の理念は古典物理学を大きく塗り替える量子力学の理念に通ずる。ゆえに重ねて発動されたのは、紫の理論物理学者らしい思想に見合う根源的な波動。
量子が持つ波動と粒子の二重性──【 境符「
「…………」
その干渉は確かに成果を得た。紫は目にしたのだ。存在さえ曖昧だった少女が明確に動くのを。隠れた変数と定義した少女の存在をやや強引に波束と収縮させるこの行いは、原理としては幻想郷全体に疎たる霧として漂っていた伊吹萃香を密たる鬼として萃めて実体化させたのと同じようなものだが、霧という液体の分子と量子レベルの素粒子ではスケールが違いすぎる。
成功したのは奇跡的と言っていいかもしれない。だが得られた情報は一瞬。少女はすぐに自分の存在が確定させられそうになっていると悟り、紅白の巫女装束の懐に手を差し入れると、そこから漆黒の『何か』を取り出した。
波束が収縮しつつある今の状況だからこそ紫の知覚でも認識できる。それは紛れもなく門矢士が持っているものと同一。色こそ全体的に黒く、三対の円環を彩るべき部分には深い群青色の意匠が刻まれているが、それは確かに──『黒いディケイドライバー』と呼んで相違なかった。
あくまでそれは観測者である紫から見てそう見えただけ。見えているのは位置か、それとも運動量なのか。どちらか一方が確定すれば必ずどちらか一方は無限大の値に発散し、答えを得ることは永遠にできなくなる。
あれが本当に見えている通りの黒いディケイドライバーなのかは紫には分からない。しかし今はようやく得られた情報を即座に解析に回すのが最優先だ。紫は己が目と共有させた無数の式神たる札に並列計算を行わせていたが──やはり許された時間はほんの一瞬。すぐに好機は失われる。
『■■■■■■』『■■■■■!』
ライドブッカーと思しき黒い板から取り出されたのはライダーカードらしき黒いカード。それをディケイドライバーであろう黒いベルトに装填した直後、少女の波束は発散した。
全身に受けるは風圧のような波動の奔流。空気など存在しなかったはずのこの空間にて吹きつける質量の正体すら分からない。少女が変身した『余波』としか思えぬ圧力に揺れる金髪を靡かせ、紫は黄昏色の瞳を細めて自らの顔を覆う。
袖越しに見えたのは紅白の巫女装束などではない。ただどこまでも純粋に、この闇の中に紛れるかのような漆黒。それでいて在り得ざるマゼンタ色の如き異様な存在感。
矛盾した二律背反の局所性。深く染まりし青の複眼を宿すは、黒き『世界の破壊者』の姿──
──崩壊は一瞬の出来事だった。紫があの『黒いディケイド』を観測した瞬間、極めて不安定な確率振幅で揺らいでいた不確定世界は一気に存在確率がゼロに近づき、存在するかもしれなかった世界は『存在しない世界』として確定。紫が発動していた法則さえも破壊された。
ここは紫があちらに踏み込む前にいた世界である。外の世界の雑踏が鳴り響く喧騒の夜。都会と田舎の境界にして、文明と自然の境界と言える土地の上空だ。
ゆっくりと舞い降りるように白い中華服の裾を下ろし、そのまま高いビルの屋上に降り立つ紫。すでにあの隙間の残滓すらない。二度とあそこに入ることはできないだろう。
夜にも関わらず紫が日傘を広げたのは、こちらを見る朝焼けから顔を隠したかったからか。
「藍、観測できた?」
紫は日傘を差したまま少しずつ昇ってくる朝日に目を細めながら虚空に問う。夜明けを意味する暁、東雲、有明の光は、深き夜に向かいて闇宿す黄昏とは真逆。それでも光と闇の境界たる意味は等しく、逢魔ヶ刻の色彩は金色と紫色の交わるままに変わらぬ美しさを見せてくれる。
幻想郷最高の計算能力を持つ八雲紫の最高の式神たる、八雲藍は彼女の傍に控えてはいない。こことは別の場所、幻想郷と外の世界の境界に当たる余剰空間座標において、九つの世界から変換された法則の『歪み』を処理してくれているはず。
そちらの仕事は今は停止中だ。演算処理を効率化すべく、隠れた変数の解析だけに集中させて、藍が担っていた怪人たちの撃破は橙や彼女と同等以上の性能にまで強化した野良妖怪の式神たちに一任。藍は計算札や自身の能力でもって、紫が観測したものの正体を解析し続けてくれている。
『……紫様、あれはいったい……』
妖力を通じた念話で紫の思考に藍の声が届く。相変わらず不安そうな、それでいて信頼を感じさせる声。式神として定義される前は畜生界にて最強を誇った九尾の妖狐であろうと、八雲紫という大妖怪に仕える今の彼女は高度な演算性能を備えるスーパーコンピュータのようなもの。
プログラミングを担う存在である主人から見れば道具でしかない。だが何より大切なかけがえのない道具だ。互いに信頼し合える、家族と言ってもいいほどに。
紫にとって藍とはただの計算機ではない。そもそも、計算能力だけであれば特化した性能を持つ藍でさえも、八雲藍という式神の構築者である紫の能力には遠く及ばない。
八雲紫が求めているのは最強の妖獣──九尾の狐という大妖怪の強さではなく。八雲の名を冠す極めて高度な演算装置でもない。藍という妖怪に八雲の名を与えたのは、プログラムにない感性を期待していたからだ。
決められた方程式の通りに動けば紫が想定した通りの力が出せる。だがそれは想定通りの範疇を逸脱しない。血で血を洗う畜生界の争いに嫌気が差し、現世に出てきた藍に手を差し伸べたのは、単なる紫の気まぐれであったのか。紫は一度小さく溜息をつき、藍の成長を願って口を開く。
「存在しているかさえ定かではないもの……重なり合う位置と運動量の確率振幅……」
白い手袋に包まれた右手を伸ばして朝の陽光を遮る紫。手の平に隠された太陽は紫の視界からは消えてなくなったが、この世界から存在が消失してしまったわけではない。
観測しようがしまいが、それはそこに実在する。だが、微視的視点においては観測されていないものはそこに存在しないという仮説もある。巨視的視点とは異なり、量子レベルに小さい素粒子を真空中で観測する際には必ず何らかの干渉が必要だからだ。
前提として、観測者の行いにより測定結果に影響を与えてしまうという観測者効果と、そもそも量子状態の特性として位置と運動量の値を同時に測定できないという不確定性原理は異なる概念である。
光を当てなければ何も見えない。光を当てれば当たった素粒子は動いてしまう。観測者の行いによって観測結果が変わってしまうのなら、本来の数値を知るにはどうすればよいのか?
知ることはできない。なぜならその数値は『決まっていない』からだ。観測されていないものはそこに存在する可能性があるだけで、存在が確定していない。厳密には測定方法によってどちらか一方の値だけなら限りなく微分できるが──
不確定性原理によりその両方を同時に知ることは決してできない。観測した瞬間にその値が決定するなら、観測前の状態は神のみぞ知る。否、決まっていない以上は神でさえ知り得ぬだろう。
「言うなれば……『幻想』ね」
紫は右手をどけて薄目で夜明けの日差しに向き合った。今日も太陽は昇っている。きっと明日も昇るだろう。観測するまでもなく、統計的に太陽は毎朝昇って来る、確率が高い。
素粒子の世界は未だ分からないことばかり。人間も妖怪も日々向き合い、結論ではなく解釈をもって前に進んでいく。観測した瞬間に波動関数が収縮する解釈。波動関数が粒子として振る舞う可能性の数だけ世界が分岐していく解釈。あるいは波動が粒子を導くように回折し、決定論的な、実在論的な解釈によって量子力学を語る者もいるだろう。
答えではなく、解釈。不確定な想いを抱き、箱を開けてみるまで分からない。そんな見えざる夢、幻、想いの蕾。そこには如何なる世界が花開くのか、如何なる幻想が実を結ぶのか──
「……冴える月は今宵も美しいわ。藍にも見えているといいのだけど」
少し顔を傾けては、空を朝焼けに染めつつある光から目を背け、薄く霞みゆく月を見る。彼女が観測した幻想も、誰かが思い描いた夢なのだろうか。あの寂しげな少女から感じられた霊力には、どこか懐かしいものがあった気がした。
紫はあの少女を知らない。幻想郷の創設を担った賢者の記憶から見ても少女の存在に心当たりはない。彼女が変身を遂げたあの黒いディケイドと思しき謎の仮面ライダーも同様である。
それでも、紫は不思議と焦りを感じていなかった。幻想郷はすべてを受け入れる。それはそれは残酷な話。如何なるものであれ、それが幻想と定義されれば引き込んでしまう。
再び月から目を背け、東の空を見る紫。彼女は誰にともなく目を合わせ、優しく微笑んだ。
──博麗神社。居間たるその一室にて、霊夢と五代、士と魔理沙は、予期せぬ邂逅を果たした。霊夢は裏山に現れた三体のグロンギを倒してきた疲労の癒えぬまま、手にした食べかけの煎餅をゆっくり口から離して二人を見る。五代も同様に湯呑を置き、襖や障子ですらない『壁』を開けて現れた二人に対し、思わず目を丸くしていた。
困惑しているのは彼らだけではない。扉を開けて入ってきたつもりの士と魔理沙も、自分たちが今いる状況に怪訝そうな表情を浮かべながら振り返ってみたり、扉を見てみたり。
何度見直してもそこはただの壁であった。今はなぜか扉の如く開かれ、光写真館と繋がっているようだが、閉じたとしてもまた扉として機能するのだろうか。これまでもオーロラや時空の歪みによって異なる座標が結びついたことはあったが、このように扉と壁が繋がることはなかった。
「いったいどうなってんだ……?」
魔理沙は士より先に居間へと踏み込んでは、間違いなくここが博麗神社であると確信する。士もゆっくりと居間へと入ってきて、不気味そうな表情を隠すことなく扉を閉じた。
閉じたあともまだ壁に触れればどこか向こう側の空間が感じられる。押せば再び開きそうだ。
「……って、ちょっと、土足よ、土足。何やってんのよ」
霊夢は手にした食べかけの煎餅を大幣のように鋭く差し伸ばして魔理沙を叱責する。それどころじゃないと感じた魔理沙だったが、育ちの良さがそうさせたか、咄嗟に魔法で靴を消した。
士もまた魔理沙と同様に、光写真館の裏口から繋がった博麗神社の居間へと踏み入ろうとする。霊夢はそれを見逃さず、今度は差し伸ばした煎餅を魔理沙から士に向け彼を睨んだ。
細かい奴だなと言わんばかりの目線で霊夢へ視線を返した士は、小さく溜息をつくのだった。
暖かいお茶を飲み下し、霊夢は一息つく。魔理沙と士が戻ってきたところである程度の情報を共有し、それぞれが裏山と里でグロンギを倒してきたことは話し合った。そして、霊夢と五代は如何なる原理なのか時空を超えて繋がった光写真館の内部の探索を済ませている。
今は魔理沙も士も靴を脱いだ状態。普段の振る舞いからは想像がつかない者も多いが、魔理沙は人間の里の大手道具屋、霧雨店の令嬢であり、育ちは良い。幼い頃から礼儀を学んでいるため稀にお嬢様然とした雰囲気が滲み出すこともあるのだ。
もっとも、彼女はすでに実家の父親から勘当された身。里を離れ、魔法の森で魔法使いとしての修行をしてからそれなりに月日が経っており、親との交流はほとんどないと言っていい。
奇しくも門矢士も同様に、人並み以上に育ちが良い生まれを持っている。旅を始めた頃は自身の出自に関する記憶さえ失っていたが、いつかの夏、九つの世界を超えた後に帰ってきた自分自身の世界──門矢士の世界と定義すべきディケイドの世界にて、士は記憶を取り戻した。
取り戻した記憶は大ショッカー大首領としての記憶。そして自身がその玉座に至るまでの人生の記憶。父や母の愛こそ欠けども、そこには裕福な豪邸で暮らし、妹と共に育った記憶があった。
「……光写真館……ねぇ。ざっと回ってみたけど、特に変わったところはなかったわね」
博麗神社の居間の壁から繋がった光写真館の内部を見ても、霊夢は目立った異常を見つけることはできなかった。繋がったのが裏口からであったため、そこから入ることになったが、明確に奇妙だと言えたのは正面の入り口が人間の里に繋がっていたということぐらいだ。
神社から里へはそれなりに距離がある。少なくとも、建物一つを隔てて直通できる距離ではないことは確かだ。これまでもオーロラやスキマによる時空の接続を見ているため、それ自体は今さら驚くことではないのかもしれない。
人間の里は三次元の物理軸から四次元の軸まで、時間と空間が停止していると考えられる。昼という時間のまま固定され、衝撃やエネルギーなどが加わっても里の家屋は破壊されない。
しかしそこに繋がった光写真館、さらには裏口で繋がった博麗神社にもその影響はないらしい。
「お前から見ても何も分からなかったか……五代のほうはどうだ?」
「うーん。俺もあんまり。あの背景ロールの山にも特に心当たりはなかったしなぁ」
魔理沙はちゃぶ台に両肘を乗せて両手の甲に顎を乗せる。五代に問うが、霊夢と共に光写真館を見て回っても強く気になるところは見つけられなかったらしい。霊夢より外の世界に慣れているだろうが、少なくとも彼が自分の世界で訪れたことのある場所ではなかったようだ。
窓から見えた景色も当然ながら人間の里。魔理沙曰く、少し前まで茶屋だったと証言した言葉の通り、霊夢もうろ覚えながらその位置に茶屋があったような気がしたことを認めている。その隣り合う店の壁が、窓の景色を遮っているだけであった。
五代雄介の記憶には光写真館の壁にあった背景ロールの絵にも合致する光景はない。山に向かう二台のパトカーは日本の警察のものだ。五代は日本の警察、特に長野県警と警視庁に多少なりとも縁があるが、あの山には何の心当たりもない。
当然だ。あれは五代が生きた原典たるクウガの世界の景色に非ず。五代雄介というクウガを基点として再編され造り替えられたもう一つの歴史。小野寺ユウスケという人物を別の物語におけるクウガと定義し、そこに幕を開けた別の紡ぎにある物語──再編世界のクウガの世界なのだから。
「クウガの世界と言ってな。お前の世界と俺が旅した世界じゃ、同じクウガの世界でもまったくの別物って話だ。まぁ、詳しくは知らないが。あの妖怪がそんなことを言ってた……気がする」
士は己が旅路を振り返るように言う。彼が知るクウガの世界は大きく分けて二つある。原典たる五代雄介の世界と、再編たる小野寺ユウスケの世界。彼が旅をしたのは後者、再編されたクウガの世界だが、どちらにせよ一度はディケイドによる破壊を遂げているのか。
彼としても選んでそれらを破壊していたわけではない。おそらくは終わりなき円環の中にあっただろう繰り返しの旅路、何度それらを壊し続けてきたのかさえ、もはや定かではない。
旅路で繋いだのは出会いの日々。激情の中で捻じ伏せたのは別れの追憶。やがて切り開いた切り札と疾風の世界をもとに、門矢士の──ディケイドの物語を始めることができたのは、今や誇りと振り返ることができる自分自身の揺るぎなき歴史。大切な仲間たちと共に歩んだ旅の思い出だ。
「ふーん。じゃあ、あの山も、その別のクウガの世界とやらにある場所、ってこと?」
「……あれは
霊夢は光写真館を探索した際に見つけたその絵について、士に疑問を投げる。士は自身が旅した世界で見た山、クウガの世界におけるグロンギの聖地について話した。
だが、それが原典のクウガの世界でどのような役割を有していたかは分からない。彼が旅をして実際に訪れたのは再編された世界のみであり、原典の世界を巡ったことは一度もないのだ。
原典の戦士たちと戦ったのは再編世界か、滅びの現象によって歪みが生じた状態の奇妙な改変が起こされた世界、あるいは仮面ライダーの世界が引き寄せ合い、融合を遂げてしまった、凄惨なる闘争の世界──士の旅の円環、その要でもあった『ライダー大戦の世界』においてのみである。
「あ、ってことは、俺の世界でいう九郎ヶ岳遺跡みたいなもんかな。たしか、長野で……」
五代は自分の記憶を振り返って情報を共有する。士が五代の話を聞くにつれて少しずつ表情が訝しげなものに変わっていったのは、そのあまりの違いの多さについてだ。
まず、グロンギが復活したのが長野県であるという時点で再編世界とは違う。灯溶山は東京都に存在した地形であり、パトカーも多摩ナンバーを持つ警視庁のものが配備されており、長野県警がわざわざ現れることはなかった。
続いて、クウガの相棒と言える刑事の性別や人柄が違っている。そしてクウガがアークルを手に入れた経緯や、その世界の様々な点が大きく食い違っている。
士から返すように続けられた話においても五代は怪訝な表情を浮かべた。共通していることのほうが少ないのではないかと思うほどに、二つのクウガの世界はほとんど噛み合っていない。
ただ『クウガ』と『グロンギ』の法則だけを重視し、あとは要素だけ
「……ずいぶん違うな。何かこう……
「いやぁ、ほんとに。でも、会ってみたいかもなぁ、その世界のクウガって人に」
「まぁ、案外、気は合うだろうな。問題はどっちも『ユウスケ』でややこしいってところか」
士と五代は自分たちが知るクウガの世界の違いに少しの疑問を覚えた。明らかに何らかの作為を感じさせるほどに、再編されたクウガの世界は構成情報が削ぎ落とされている。五代がアークルを手にしてから最後の敵である第0号を倒すまでは、一年もの時間がかかったのだが──
再編されたクウガの世界を訪れた士は、再編世界のクウガと接触した。そこからは数日も経たないうちに灯溶山に眠るグロンギの王が復活を遂げ、現地のクウガと協力してそれを撃破することでクウガの世界の問題を解決した。
旅を終えて冷静に過去を振り返っている今だからこそ思い至る疑問か。士は再び訝しむ。どこか自分の旅には不可解な点が多かった。確かに、キバの法則による変身を遂げたあの青年に諭され、すべての世界を救う旅に出て、九つの物語における様々な問題を解決してきた。
その旅路は破壊を求めたあの男の狙い通りとはいかなかったが、結果的には破壊者としての己を受け入れた士の戦いによってすべての仮面ライダーを破壊し、役割を果たすことはできたと言っていいだろう。
疑問はやはり、その旅路がどこか、仕組まれたようだった──気がすること。九つの世界を巡り終えた士が辿り着いたのは、世界のネガフィルム。言わば『ネガの世界』とでも称すべき、法則の裏側たる世界だった。そこでは士は旅の終わりを祝福され、永住さえ求められたほど。
その歓迎と祝福の意図は分かっている。彼らは『もう進むな』『ここに留まれ』『これ以上、何もするな』と言いたかったのだろう。彼らの正体は依然として不明だが、そこは楽園などとは程遠い、怪人たちだけの世界。人間の存在が許されない世界だったのだ。
何のためにあの世界が存在していたのかも不明。だが、士はそんな世界を踏破し、再び旅を続けることとなった。あの不自然すぎるネガの世界があったからこそ、この疑問は今も士の胸の中で燻っているのかもしれない。自分の旅があまりにも出来すぎだったような気がすることを。
まるで自分に解決させるために、目の前に異変や困難をぶら下げられていたような飲み下しがたい違和感。旅をしている最中は必死で、考えが及んでいなかったのだろうか。
大ショッカー、キバたる謎の青年、鳴滝、そして八雲紫。どいつもこいつも真意を語らず、ただ門矢士を──仮面ライダーディケイドを道具として、ただの舞台装置として扱っている。
──決定論的な。そんな言葉が脳裏を過る。自分たちの旅も、この世界のどんな物語でさえも、すべては予め仕組まれた、それこそ文字通りに──何者かの手によって紡がれた物語なのか?
「…………」
士は思考の中を染めつつあるそんな荒唐無稽な疑念を一笑に付した。そんなことはありえない。彼の知識にはないが、すべての未来が最初から決まっているなんてことはあるはずがない。起こり得る事象を決定する素粒子は、不確定性原理に囚われているのだから。
だがそれは、一つの解釈に限った場合の仮説の一つ。数々の並行世界を巡ってきた士が理解している通り、可能性の数だけ生まれる世界は決して一つではない。
並行世界は無限に並び立っている。だがその法則は未だ未知のままである。波動関数が収縮せず分岐する世界ならば、それらはすべてが決定論的な──確定された未来を辿ることだろう。
しかし、それらは無限の中で無限に分岐する。無限はいくら微分しても無限のまま。波動関数の波長の変化が別の世界として存在していながらもその世界では確率的な分岐が生じ、無数の枝葉がさらなる枝葉の世界を形作っていく。
似通った運命を辿った並行世界はより太く統合された枝葉となるかもしれない。だが正しき幹がどれかなど誰にも分からない。生物が樹木の枝葉を辿るかの如く多様な進化を遂げていくように、無数の世界もまた正解のない道を永遠に探し続けていく。
つまり無限に並ぶ世界はそれぞれが可能性の数だけ存在していながら、その世界の行動によって未来が決定し、別の並行世界の道に進んでいくのだ。よって並行世界の存在が認められていたとしても、その世界に生きる者たちの決断によって未来はいくらでも変わってしまう。クウガの世界も再編と原典でそれぞれ可能性の度に分かれ続け別の世界となっていくはずだ。
一つの綻びへと繋がる解。すべての素粒子が不確定な確率に左右されているのは、それが今ある現実の現在だった場合の話である。
もし、それらの物語が単なる空想で、何者かによって紡がれた架空の物語ということが、何ら比喩ではなくまったくの事実として。自分たちの存在さえもがフィクションに過ぎないのであれば、ありとあらゆる決定論の否定は成り立たなくなってしまうことだろう。
そこまでは士も思考していなかったが、無意識下ではその可能性を危惧している。ディケイドという存在が過去の仮面ライダーを繋ぎ留めるためだけに生み出され、それより先の意味を持たずに解き放たれた架空の象徴に過ぎないのだとしたら。
すべての疑問が氷解してしまうという微かな恐怖に、気づかないフリをするかのように。士はそれ以上の思考をしてしまうことを無意識にセーブしていた──させられていたのか。
戯言だ。それこそ荒唐無稽で他愛ない話。誰もが一度は想像するが、単なる退屈凌ぎの笑い話に終わるだけのこと。何より自分はここに存在しているし、ディケイドとして戦った過去も、数々の仮面ライダーたちの戦いも、実際に命を懸けた本当の出来事だ。疑う余地などない現実である。
「……なんだ? ずいぶん疲れたような顔してるな。あのキノコの毒が効いてきたか?」
「あっ、そうそう! あのキノコのグロンギ! 戦ったって言ってたけど、大丈夫だった!?」
からかうように言った魔理沙の言葉に五代が反応した。魔理沙と士が戦った未確認生命体第26号であるキノコ種怪人のメ・ギノガ・デは、五代にとっては深い因縁とする相手。虚弱な相手であったがゆえの微かな油断もあったのか、五代はあの怪物の毒胞子を吸い込んでしまった。
如何にクウガの呼吸器がフィルターとしての機能を有していたとしても、唇を合わせられ肺に直接、猛毒の胞子を吹き込まれてしまっては防ぎようがない。五代は内側から細胞を腐らせる猛毒に侵され、瀕死にまで追いやられたことがあるのだ。
霊石アマダムが宿主を苛む毒に対抗して五代自身を仮死状態にし、体温を下げる働きをしていなければ、五代は間違いなく死んでいただろう。そのとき彼を必死に蘇生しようとした医師が行った電気的な刺激は『
それは覚醒させてはならない究極の力の片鱗であったのかもしれないと考えられる。戦士の瞼の下に大いなる瞳が現れても、その眠りを妨げるなかれと。碑文の意味は、暗雲だけを残して。
魔理沙が自慢げに戦いを語った通り、どうやら彼女たちには毒の影響はないらしい。五代はあのグロンギの姿を思い出しただけで身震いし、己が唇が思い出す湿った感触に蒼褪めかけたが、見た通り、彼女たちには毒の胞子による後遺症などの症状も出てはいないようだ。
菌糸が散乱しないように結界で包み込んでから仕留めたため、増殖の心配もないはず。魔理沙は五代から話を聞いていたわけではないが、キノコの専門家として本能的に菌糸が成長する可能性を危惧できたらしい。五代は自分の戦いを振り返るように、魔理沙たちに自身の出来事を語った。
「あのときはさすがに死んだって思ったなぁ。
「奇遇だな。俺も何度かは死にかけた経験がある。いや、本当に死んだのかもしれないが」
五代の言葉に相槌の如く返した士も、己の戦いを振り返っていた。彼の場合は怪物の攻撃による死ではない。すべての仮面ライダーを破壊し、ライダーカードとして歴史に刻み込んだ戦いの終わりで、仲間と呼べる女性に仮面ライダーディケイドとしての最期の瞬間を預けた記憶。
ディケイドライバーのワールドファインダーごと腹を貫かれた痛みは今でもはっきりと思い出せる。背中まで貫通した剣が抜かれ、おびただしく流れた己が血の温もりでさえも。
その死はきっとディケイドという舞台装置の幕引きに過ぎなかった。門矢士という個人の死ではなかったのかもしれない。だからこそ士はここに生きている。ディケイドの物語を、門矢士として歩み始めたがゆえに。
刻んだ旅路が彼を証明し、門矢士という褪せた写真は光を取り戻したのだろう。それにしては生々しい感触で、今も腹に何の傷痕もない事実に少しばかりの違和感はある。
──願わくば、あの旅がただの茶番などではない、仕組まれた物語などではないのだと、誰かに言ってほしい。数え切れないほどの仮面ライダーを葬ってきた痛みも、覚悟を決めて破壊者を受け入れ、最期を受け入れた己が痛みも、そしてその役目を背負わせてしまった彼女の痛みも。
すべて自分たちの意思で辿った己が道。それは決して、虚構や紛い物などではないのだから。
「……ぞっとしない話ね。あんたたち、命は大事にしておきなさいよ?」
霊夢は二人が語った己が死の過去を
同時に、それは
ただの冒険者であった戦士の話。ただの旅人であった破壊者の話。どちらも幻想郷に住む少女にとっては、まさしく夢物語のような苛烈な戦いの物語。もっとも外の世界の人間たちから見れば、妖怪たちと戦う幻想郷の少女たちも等しく、現実を超えた神秘の存在に相違あるまい。
幻想郷の異変において妖怪を退治する少女たちも、今やスペルカードルールという遊びの範疇で競い合い、勝敗を決めているとはいえ、相手は人智を超えた妖怪。当たりどころが悪ければ弾幕は相手の命を奪う凶器となる。
そんなルールも此度の異変においては通用しない。人間と妖怪の力の差は歴然だ。スペルカードルールというゲームで初めて対等に戦える相手よりもなお厄介な怪物が何体も現れている。
妖怪が相手でも、怪物が相手でも。いつだって死はそこにある。戦うとは、そういうことだ。
深淵の狭間に妖しく立つは幻想郷の賢者と呼ばれし三つの影。いずれも中華風の前掛けを装い、そこに刻まれた意匠は遥かなる歴史を内包する常識外の楽園を象徴するものか。
神と鬼、そして妖怪。まったく異なる立ち位置から等しく幻想郷を支える均衡の柱。その中でも最も深く幻想郷を愛しており、より近い場所から見守る妖怪の賢者、八雲紫は、自らが切り開いたスキマの世界を──この夢の世界に顕現させていた。
ここは夢の中の異空間である。現実の層からは少しだけ浮いた別次元の法則。誰もが等しく深い眠りの中で辿り着く微睡みの幻想は、集合的無意識の想念が溶け合って形成された不安定で曖昧な世界。そこでは誰もが仮初めの肉体となり、夢と現の人格を入れ替える。
賢者と呼ばれた彼女たちならばそんな世界にさえ容易に生身の肉体をもって踏み入ることができるだろうが、今の彼女たちは現実の世界に自分の肉体を置いたまま、普通の人妖たちと同様に夢の世界の住人としてここに存在していた。
彼女たちほどの存在が不用意に夢の世界へ実体を伴う移動をすれば悟られるだろう。ただでさえあそこまで隠れた変数に肉薄してしまっているのだ。だがそれは決して迂闊な決断ではなかった。八雲紫は精密な検算の末にそれを選択していた。リスクを承知で、箱の中を観測することを。
「……なんだ、これは」
「これは……思ったより大変なことになったわね」
深く暗い闇の景色は彼女ら賢者たちの無意識の具現だろうか。常に自分たちの心を律し、余計な感情に左右されない次元にまで精神を鍛え上げているため、彼女たちが見る夢の光景は押し並べて殺風景なものになるのだろう。
そんな光景に淡くぼんやりと浮かび上がっているのは、紛れもなく現実の幻想郷だ。今は怪物の出現も見られず、多種多様な人妖たちが生きている様は彼女たち賢者が創設した幻想郷の基本的な理念に従う。そこに少しの異物、仮面ライダーと呼ばれる力が混ざってはいるが。
神の立場から幻想郷を見守る賢者、摩多羅隠岐奈はその金色の目を細めて不愉快そうに呟いた。映し出されているのはただ幻想郷を上から見下ろした映像というだけではない。妖力や霊力などのエネルギーや時空の乱れのスペクトルをグラフとして表示した、詳細なデータのようだ。
妖怪が多い場所や霊的な地脈は当然ながらエネルギーの波束が大きい。しかし、明らかにそのデータには異常があるのだ。鬼、あるいは仙人の立場から幻想郷を支える賢者、茨木華扇もまた、摩多羅隠岐奈と同様に己が目を疑いつつ呟く。
幻想郷の理を破り貫かんばかりに大きく重いエネルギーの塊が、鋭角に近い巨大な波束となって九つ、幻想郷に点在しているのだ。これまでも幻想郷と外の世界の狭間たる境界領域に強化された怪物が出現し、世界統合の歪みとして具現化、それを殲滅していたのだが──
これらはその比ではない。エネルギーの密度はかつて仮面ライダーたちが原典の世界にて戦った怪物の中でも、特に強大な個体に匹敵する。幸い、それらはまだ幻想郷の物理的な時空に顕現しているわけではないようだ。
しかし、これほど巨大な反応が九つも、それも結界の中で観測されるとは。彼女らは自分たちの膨大な計算を容易く上回る事象に思わず閉口してしまうが、それ以上に疑問が浮かぶ。
これはどこから入ってきた? 結界を超えれば気づかないはずはない。最初から存在していたというのか? それこそ誰も気づかないなどということがありえるのか。なぜ顕現していない段階でここまで強大なのか? そしてどれもが不気味なまでに物理的な影響を及ぼさないのはなぜか?
「そうかしら? 見つけやすくなって助かるじゃない」
妖怪の立場から幻想郷を導く、誰よりも幻想郷を愛している賢者は笑う。きっと、これらは卵のようなものなのだ。あるいは胎児と言えばよいか。まるで母親の胎の中で目覚めの光を待つ、狼や虎の赤ん坊。あるいは羽化を待つカブトムシやアブラムシか。
水辺にて牙を光らせるワニだろうと、荒れ狂う角を振るうスイギュウだろうと、等しくこの世に産まれたいと願うは必然。命そのものに悪意があろうはずもないのだろう。
無慈悲に人を喰らうサメであれども無垢なる命は悪ではない。たとえ異形の成長を遂げたカニであっても、産まれることは罪ではない。枯れ葉に擬態して自分の身を守ることを選んだカマキリの一種も、それは自然界の生存戦略であって、悪意によって他者を欺いているわけではない。
「…………」
これらの反応は今は沈黙を貫いているものの、観測されたばかりの揺らぎだ。念のため不用意な刺激を避けて結界による解析に留めているが、まだ顕現までの時間は予測できていない。これらが一斉に顕現すれば、小さな幻想郷は情報を処理し切れなくなり、崩壊の恐れがある。
仮に大結界が崩壊しなかったとして、これほどの存在を一度に相手することは現実的ではない。幻想郷の最強の戦力を総動員すれば、顕現したばかりで不安定な状態を突いて撃破は可能かもしれないが、吸血鬼や亡霊、神といった存在が本気でこれらと戦闘を行って、幻想郷が無事で済むとは考えられなかった。
紫はすでに、この反応を最初に見た瞬間から何度も思考実験を繰り返し、計算していた。そして最適と言える解を出している。そのためには計画の大幅な修正が必要になるが──是非もない。
「──浮かび上がった揺らぎは九つ。繋いだ世界の数と一致するわ」
産まれてもいない命を産まれる前に摘み取る。それは悪意による所業と糾弾されることであろうか。ただ己が繁栄のために遥かな旅路を経て根を下ろしたセイヨウタンポポの種は、ただ命を広げたいという無垢な本能を否定されるに足るだろうか。
幻想郷はすべてを受け入れる。だが八雲紫はそれを残酷な話だと言った。受け入れてはいけないものも受け入れてしまう。幻想郷というただのシステムは、その取捨選択ができていない。
「例の『隠れた変数』とやら……か。まさか、水面下でここまで肥大化していたとは」
「ようやく尻尾を掴んだの。これでまた計算はやり直しかしらね」
隠岐奈の言葉に紫は嬉しそうに返す。まるで失くしていた宝物を取り戻した少女のような笑顔に普段の妖しい胡散臭さを見失って隠岐奈は思わず面食らうが、彼女も小さな喜びを感じていた。
「ふ、嬉しい誤算だよ。究極の絶対秘神として、心が躍るというものだ」
「やれやれ、さすがに同情しちゃうわね。あの旅人さんに」
尊大な振る舞いで不敵に笑う秘神の傍らで頭痛に俯く鬼たる仙人。緊張感のないやりとりに三人は少しのあいだだけ幻想郷に迫る未曾有の脅威を忘れそうになってしまうが、すぐに真剣な表情を取り戻して幻想郷を映し出すデータに向き合う。
強い反応が見られるのは旧都、太陽の畑、命蓮寺、地霊殿、妖怪の山、白玉楼、そして紅魔館と博麗神社だ。特に、紅魔館には二つの巨大な反応が重なって表示されており、極めて危険な状態にあると言える。最優先で対処すべきは当然二つの反応がある紅魔館──と言いたいところではあるのだが。
どうやらどちらも顕現の兆しはない。最も不安定なのは博麗神社にある反応だった。ここには今、十番目の法則そのものである門矢士が存在しているはず。ゆえにその法則に引き寄せられるように波束が収縮しつつあるのか。あるいはこの九つの反応そのものが──
博麗神社は幻想郷を幻想郷たらしめる博麗大結界の要だ。まずはここに顕現するであろう巨大な歪みを取り除かなければ。幻想郷の急所に刃を突きつけられている状態を放置できるはずもなく、紫は最優先で
計画の修正と反応の計測、そしてその対応をすべて同時に並行して計算し続ける。式神の制御も同時に行うその所業は、普通の妖怪には決して真似できない恐るべき
「…………」
九つの揺らぎはすべて紫が隠れた変数と定義したあの未知の存在に似た波形。その質量とエネルギーは大きく違うが、存在すら曖昧だった法則であることは間違いない。それが十番目の法則、ディケイドの法則を帯び実在の数値へと波動関数が滲み出している。
紫は寂しげに息を吐いた。自分の計算が正しければ、これらを一つ一つ破壊していけば幻想郷は完全に安定し、九つの法則は揺るぎなく幻想郷の因果に刻み込まれて定着するが──
これらの揺らぎはどういうわけか、楔となる九人の仮面ライダーを招き寄せた原典の世界と強く結びついているようだ。原典には存在できなかったはずの歪みにも関わらず、原典にあったはずの物語として、在り得たであろう可能性として。
すなわちこれらを破壊してしまうということは──原典たる仮面ライダーたちとの繋がりを断ち切ることに相違ない。元より当初の計画にはあったことだが、いざこういう形で『破壊』してしまうとなると、どこか自分たちの選択に傲慢さを覚えずにはいられなかった。
九つの歪みを、異物を排除して幻想郷を安定させる。それは門矢士に求めた贖罪。そして同時に自分自身が成す贖罪でもある。戦いを終え、物語を終えて歴史となった仮面ライダーたち。彼らの運命を道具の如く弄ぶことになるのは、
「さぁ、見せてもらおうかしら。すべてを破壊し、すべてを繋ぐ、ディケイドの物語を」
八雲紫のその言葉で隠岐奈と華扇の姿は夢から消える。現実の自分へと意識が戻り、夢の世界の主人格である彼女たちは消失を遂げたのだ。少し遅れて紫の姿も消えてなくなる。やがてスキマの広がり自体が幻想郷のグラフごと消え、あとには無意識だけが広がる。
九つの楔はすべて揃い、九つの物語は刻まれた。ここからは世界を超えた
──あるいは、誰かにとって最も憧れる
量子力学には多くの解釈がありますが、やはり並行世界を扱う作品は多世界解釈が一番熱い。
でもせっかくいろいろ面白い解釈があるので、やりたい放題に混ぜてしまいます。
世界はいっぱいあってほしいけど決定論であってほしくはない。精神がストリウスなので。
決定論にしてしまうと本編での頑張りとか苦戦とか全部茶番になってしまいますしね。
仮面ライダーはテレビの中の絵空事だから虚構で茶番に過ぎない? そういう解釈もあります。
東方的に言うと、霊夢ルートも魔理沙ルートもどっかしら正規ルートで混ぜたい感じで。
仮面ライダー的に言うと、本編も劇場版もパラレルだけど、どっかしら要素を混ぜたい感じで。
答えではなく、解釈。これが言いたかったんです。量子力学って二次創作ですよね(超暴論)