ルーチェの言葉に、暫し呆然とする。突然の別れを告げられ、悲しみに胸が張り裂けそう──なんてことは流石にないが、急にそんなことを言い出されては驚くのも仕方ないだろう。僕が帰る意志を変えない限り、どのみち別れは必然のことなのだから、そこに関してはどうしたって避けられるものではない。
問題は……そう、問題は僕の生活基盤が整っていないことにある。この街の近くに転移したってことは、この付近に要因がある可能性は非常に高い。だったら、この辺りを拠点にしてどうにか帰還の手段を講じなければならないのだ。そのためには、最低でも衣食住をきっちり揃えておかなければまずい。
なんの強さも持っていない僕が、縁もゆかりもない土地で身一つ、それを築くのは中々に難しい……ん? いや、よく考えたらコタ君という親友がいたな。ならもう大丈夫だ。短くも楽しい思い出を胸にしまい、笑顔で送り出そう。
「僕を捨てるのかい? ルーチェ……あんなに愛し合った仲じゃないか!」
「いつどこでだよ!」
「まぁそれはともかく。急ぐのはわかるんだけどさ、僕がついていく選択肢はないのかい?」
「…聞いた話だと、中央までは四百キロから五百キロといったところだ。街中を走る以上、安全を考えて時速三十キロほどで走り続けるが……半日くらい背負われたままになるぞ?」
「そんなの我慢できるさ。問題があるとすれば、フルがゲロまみれになるくらいだよ」
「おぉい!? …っつーかなんか勘違いしてねえか? あっちでやること終わったら、ちゃんと戻ってくるぜぇ。しばらく面倒見てやるって約束したろ?」
「…? じゃあなんで『別れの挨拶』?」
「そりゃあワールド・ワイド・ウォーカーズの流儀ってやつだ。こんな広い世界で通信機器もねえんだぜ? 一回離れたら、二度と出会える保証もねぇ。奥地まで足を踏み入れて、生きて帰れる保証もねぇ。だから別れるときゃ、今生の別れのつもりで別れんのさ」
あぁ、なるほど……そういうことか。それなら最初からそう言ってよね、びっくりするじゃないか。というか外に出るわけでもないんだから、フルたちが戻ってこれない程の何かがあるとは思えないけど。
…と聞いてみたが、何があるかわからないのが異世界というものらしい。何が起きても後悔だけはしないように行動するのが、ワールド・ワイド・ウォーカーズ。彼女たちはそう言い切ると、手を差し出してきた。握手は万国共通だと言うが、未来でもそれは変わらないらしい。
三人の小さな手を固く握り返した後、僕は小指を差し出す。握手がフルたちの別れの挨拶だと言うなら、これは僕流の再会の約束だ。
「…なぅ、ちょっとこっ恥ずかしいなぁ。昔はこれが普通だったのか?」
「そういうわけじゃないけど……
「…?」
小首をかしげる三人と指切りをしていると、材料を調達し終わったコタ君が帰ってきた。ルーチェが早速とばかりに薬の作製に取り掛かったが、その様子はどう見ても『調理』である。というか女衆に作り方を伝授しているあたり、それそのものだろう。
浮葉への対応は『治療』というよりも、自己治癒力を高める意味合いが強いらしい。そもそも彼等が三つの病気にしかかからないのは、免疫力がべらぼうに高いからこそだ。いま作っている栄養ドリンクは免疫機能を増幅させ、更に体力を回復させる効果があるらしい。原種とは違い、治すのは彼ら自身ということなのだろう。大怪我をしても抗生剤すら必要ないというあたり、その頑健ぶりがよくわかる。
程なくして薬は出来上がり、別室の二人にそれを飲ませ──僅かな時間も惜しいというように、フルたちは慌ただしく出発していった。桃千代たちもついていこうとしたが、体力を消費すると薬の効果が薄れると諭され、数日はコタ君の家に留まることとなった。コタ君の優しさが留まることを知らないぜ。
「しっかしあいつら夜通し走り続けるつもりかよ……なんつーか、すげえな」
「人通り少ないほうが走りやすいって言ってたしね。っていうか、コタ君だってそれくらいはできるんじゃないの?」
「できるできないで言やあできるけどよ、やりたかねえな。ましてや、あいつらよそもんだぜ? 人が良すぎんだろ…」
「お人好しっていうなら、君も相当だと思うけどね」
「む……そうか?」
「──悪人は悪人を自覚するけど、善人は善人を自覚しないもんさ」
「へっ、やめろよ。善人なんて柄じゃねぇよ」
「いや、君に言ったわけじゃないけど」
「ぬぐっ…!?」
「自意識過剰なんじゃない?」
「むぐぐ…!」
「冗談冗談、君は善人さ。もちろん僕も善人だぜ」
「…自覚してるなら、お前は善人じゃねえってことになるな」
「これは自覚じゃなくて自称さ」
「ああ言えばこう言いやがる…!」
コタ君をからかって遊んでいると、三人を見送っていた桃千代たちが戻ってきた。フルたちの姿が見えなくなるまでは僕も一緒にいたが、彼女たちはもう少し外にいたかったらしい。道の遥か先にいる家族たちを思えば、三人の安全を願うのは当然のことだろう。
「気は済んだかい? 随分長いこと見送ってたみたいだけど」
「や、ついでにあの飯屋に行って謝ってきたんだ」
「金平糖もらった!」
「甘くておいし~」
「…ったく、子供にゃあめぇな姐さん…」
「僕の分は?」
「ガキにタカるなっつーの!」
「双樹お兄さん、あ~ん」
「ん……ありがと、ミーナ」
ただの冗談だったのだが、くれると言うなら頂こう。人の厚意は有り難く頂戴するのが礼儀というものだ。謙虚すぎでも横柄すぎでもない、ちょうどいい塩梅を探すのが人間関係の基本である。花が咲いたような笑顔のミーナを見れば、ここは甘えさせてもらうところだろう。甘味だけに。
しかしそんなミーナの行動を見て、柿椿が訝しげにこちらへ視線を向ける。尻尾がリズム良く左右に振られているが……猫の尻尾サインに準ずるなら、あまり愉快な感情だとは言えないだろう。
「…なんでそんな仲良いんだ?」
「ん? そうだね……実を言うと僕には、頭を撫でると人を惚れさせる能力があってさ。くくっ……君たちがいない間に、ミーナは籠絡させてもらったぜ」
「なっ…!」
尻尾をピンと伸ばし、驚愕の声をあげる柿椿。しかしその後ろにいる桃千代とコタ君は、呆れた顔で僕を見ている。いい加減、僕の冗談にも慣れてきたのだろう。幼い柿椿だけが、純粋に僕を信じてくれている。ならばここは期待に応えねば失礼というものだろう。ミーナもクスクスと笑いながら、流れに乗っかってきた。僕の肩にしなだれかかり、熱っぽい顔で深く息を吐く。
「私~、もうこの人がいないとダメなの~」
「そ……そんな……目を覚ませよ! ミーナ!」
「ツバキも一緒に堕ちましょ~?」
「ひっ……く、くるな──うわっ!? なっ……ちよ!?」
「ふふふ……実は私も既にな…」
「う、嘘だろ!?」
桃千代も、彼女の慌てぶりを見てにんまりと口元を歪めて参加し始めた。迫りくるミーナから後ずさって逃げる柿椿……そんな彼女を後ろから羽交い締めにする桃千代。二人によって手足を押さえられ、柿椿は完全に拘束されてしまった。
「や、やめろ……来るな…!」
「そんなに怯えなくても大丈夫さ。数秒後には君も──僕が大好きになってるだろうぜ」
「ぎゃわぁぁぁ!!」
動けない彼女の頭を存分に撫でる。頭の上にある耳は少し短めで、ほんのり丸みを帯びている。猫と言うよりは、やはり豹とか虎とかの大型猫科っぽい感じだ。ふにふに触ると、柔らかく折れる。金髪のベリーショートは撫で心地抜群で、いつまでもこうしていたい気分である。
「うぅ…」
「どうだい?」
「…あたし、お前を好きになったのか…?」
「自分の心なんて、人に聞くもんじゃないさ。自分自身に聞いてみればいい」
「あたし……あたしは──」
半べそをかいている柿椿を見て、口元をひくつかせている桃千代。三人の中では、彼女が一番『いい性格』をしているようだ。くつくつと喉を鳴らしながら、困惑する仲間を笑っている。一方、柿椿の方は──キッと顔を上げ、僕へと鋭い視線を向けてきた。
「──あたしは双樹が好き!」
「アホかっ!」
「ぐふぅっ!? ──なにすんだ! バカちよ!」
「バカはお前だろ!? 単純にも程があるわ!」
「撫でられたんだから仕方ないだろ!」
「撫でられただけで惚れるバカがいるか!」
「そういう力なんだろ!」
「本気と冗談の区別くらいつけろアホ!」
「なっ…! だ、騙したのか!」
まさか撫でた後も騙され続けるとは思わなかったぜ。しかしそういうことなら、まだ遊び続けるのも吝かではない。桃千代と言い争いをしている柿椿に近付き、もういちど頭に手を乗せる。騙していたのだな、と睨みつけてくる彼女の視線を受け流す。
「柿椿。君はアホでもなけりゃバカでもないさ。さっき言っただろ? 自分自身に聞いてみろって……その上で、君は答えを出した。だったら嘘をついているのは、桃千代の方さ」
「…!」
「『…!』じゃないっつーの! どんだけ間抜けなの!?」
「間抜けなもんか。僕は君の意志を尊重するぜ……君に委ねて、君を信じるさ──柿椿」
「だぁぁー! ややこしくなるからお前は黙ってろ──あばぶっ!?」
「あたしは! 双樹を信じるぞ!」
「私は十年来の友情が信じられなくなったんだけど!?」
「そ、双樹……あたしのことはツバキでいいからな…」
「聞けや!」
「うん、よろしくねツバキ」
「へへ…」
「何がどうなってんの!?」
一人で突っ込み続けている桃千代を見て、コタ君が片手で顔を覆いながら笑っている。煙管を片手に、ニヤリと笑う様子は実に絵になっていた。
そうこうしている内に日もとっぷりと暮れ、部屋の中は行灯の灯りだけがボンヤリと光る、薄暗い状態になった。電気がないこの街だと、日暮れは就寝の合図のようなものらしい。
「部屋は……流石に一人一室は無理だぜ。わりいけどよ」
「うん、お気遣いなく。この一部屋に、布団も四人一枚で充分さ」
「ナニするつもりだオイ!」
「冗談だって。というかこの子たちの寝相によっちゃ死ぬかもしれないし、試す度胸はないぜ」
「あん? …ああ、そういうことか。んな心配しなくても、寝てる時は見た目相応の力しか出ねえよ」
「…そうなの?」
「水晶の嬢ちゃんから聞いたんじゃねえのか? …この『力』に重要なのは『人の意志』だからな。寝てる時、気を失ってる時なんかは働かねえんだ……だからこいつらも気絶させられたんじゃねえか」
「あ、そっか……ということは……なるほど、寝首をかくなら寝てる時…」
「かくなよ!?」
「やだな、物の例えじゃないか」
「例え方ってあるだろ!」
憤慨するコタ君を宥め、就寝の準備をする。三人は昼に隔離されていた部屋をそのまま使い、僕はこの部屋を一人で使わせてもらえることになった──なったが、数分後にふすまが開かれたかと思えば、ミーナたちが布団を抱えながら騒がしく侵入してきた。
「一人じゃ寂しいだろ? 来てやったぞ!」
「それは嬉しいけど……もう少し慎みをね、持った方がいいぜ。男女七歳にして席を同じゅうせずって言うだろ?」
「席じゃなくて~、布団~」
「おっと、それもそうだ」
「もうちょっと粘れよ! …うー……なんでこんな奴と…」
「おいおい、その言い方だと一緒に寝るのが嫌みたいに聞こえるじゃないか、桃千代」
「その通りだけど!」
「仕方ないな……ほら、撫でてあげるからこっちにおいで」
「ええい、触るな!」
「ははっ、恥ずかしがらなくてもいいんだぜ」
「鬱陶しがってんだけど!?」
「えぇ…? …わかったよ。悲しいことだけど……君とは金輪際、喋らないことにする」
「極端すぎる!」
「…」
「いや、別にそこまでイヤってわけじゃないからな…?」
「…」
「お、おい…」
「…」
「なんとか言えよ!」
「…」
「…ああもう! わかったって! お前と寝るのはイヤじゃない! これでいいだろ!」
「…もう一声」
「にゃっ!? ぐっ……お、お前と寝るのも悪くない気がする……ぞ!」
「あと一歩、踏み出してみよう」
「ぬ、ぐ……お、お前と寝たい!」
「もうひと頑張りだ。正直になれよ」
「わ、私と……寝てくださぁい!」
「オーケー、そこまで言うなら仕方ない。ほら、おいで」
「にゃーん! …って、ざけんなゴラァ!」
「君って結構ノリ良いよね」
間違いなく、おだてられて調子に乗るタイプだろう。興奮した桃千代に右手首を噛まれながら、四つの布団をくっつける。こうやって噛み付くとことか、あと不意に見せる仕草はやはり猫科っぽいな。今は甘噛みで済んでいるが、力加減を間違えられると血の雨が降りそうでちょっと怖いぜ。
行灯を消した後も、しばらく四人でお喋りをして──誰とも知れず、一人が寝息を立て始めると皆それに倣った。ちなみに僕はと言うと、目が冴えて眠れやしない。枕が変わると眠れない……なんて繊細な神経は持ち合わせていないが、いくらなんでも時間が早すぎる。
健康的な生活を心がけてはいるが、それでも寝るのは午後九時から十時の間くらいなのだ。今は体感的に、七時前後といったところだろう。連動してはいないだろうけど、スマホを見れば……あ、フルに預けたままだった。
うーん……やはり眠れない。布団から身を起こして、隣を見る。すやすやと寝入っているミーナと桃千代……そして布団から半分くらい、はみ出しているツバキ。というか、浴衣が乱れすぎて色々はみ出している。
湯屋で確認した限り、女性はふんどしか襦袢かノーパンの三択のようである。男はだいたいふんどしだった。大量生産が難しいからなのか、それ以外の理由かは不明だが、やはり色々と不便に見えてしまう。
はだけていたツバキの浴衣を直し、布団に乗せ直す。その足で部屋を出て──夜の街をお散歩でもしよう。都会の夜はいつでも喧騒に包まれているものだが、この街はというと、灯り一つない静寂そのものである。月明かりもない……というか月がない。新月か、あるいは本当にないのか。
月明かりも星明かりもないと、暗闇というものの怖さがよくわかる。手に下げた提灯の朧気な光だけが、辺りをぼんやりと照らしていた。あてもなくふらふら歩いていると、宵闇に吸い込まれそうな気さえしてくる。
ふと気付くと、昼間にも訪れた鐘塔に辿り着いた。お寺なんかでしか見たことがないが、街中に鎮座しているのはなにか理由があるのだろうか。それに見たところ鐘はあれど、それを鳴らす機構がない。しげしげと不可思議な鐘を眺めていると──急に後ろから声をかけられた。
まさか出歩いている人がいるとは思わず、心臓が飛び跳ねる。振り返り、提灯を少し上に掲げると、そこには……怜悧な顔つきで、けれど柔らかく笑う女性がいた。光源が揺らめいているせいか、ひどく幻想的で──まるでこの世のものとは思えないほどに美しい。
「──お化けだぁぁぁ!!」
「ええぇぇっ!?」
この世のものでは無さそうということは、きっと幽霊かなにかの類だろう。僕は全力の限りを尽くし、喉を振り絞って叫んだ。