ライブというのはやはり緊張するものである。それが自分のものでないというのにこれ程考え込むものなのだ、当人達からしたらたまったものではないだろう。でもこの緊張は普段バイト先で行われているライブの時には感じない。
それは俺が店員ではなくただの客として観に来ているからなのか、今回行われるライブがRoseliaによるものだからなのか。信号が変わるのを待つ間そんなことを考えてしまう。
「来てくれたのね」
「……リハーサルはまだなのか?」
「もうすぐよ」
「他のメンバーは?」
「……時間に間に合えばそれでいいのよ」
それならば俺なんかと会話せずに少しでも早く行こうという心構えを持った方がいいだろうに。口には出さないがそんな事を思ってしまう。
「そういえばあなたは? まだ時間はあると思うのだけど……」
「……本屋に予定があってな」
家にいても落ち着けなくて、なんて言える筈もなくそれっぽい嘘をつく。そうと興味なさげに返事をされ、信号が変われば直ぐに歩き出す。
「一ついいかしら?」
しかし彼女は渡りきれば急に歩を止め、思い出したかのように振り返りそのように聞いてくる。一体何だと思いつつもその問いは一向にやってくる気配もない。
「なんだよ」
「…………いいえ、なんでもないわ」
一体何なのか、ライブハウスに着いてもそれについて話されることなく、それじゃと言う前に湊は中に入っていった。
一体何を聞こうとしていたのか。いいえと言うまでの間がかなり長かったしどうでもいいことということではないのだと思う。
気になるが気になった所で仕方がない。こういうのは一度答えてもらえなかったら二度と答えてもらえないものだ、気にするだけ無駄だろう。
本屋に行くかカフェに行くか少し迷ったが、暇な時間はあるとわかっていたので一昨日リサから借りた恋愛小説を持ってきている。それでも読むかと決めてカフェに入る。人目につく場で読むのは憚れるが、誰かに覗かれるということなどそうそうない。
恋愛というのは本当にわからない。好きとは何か、本に書いてある胸が痛いというのも、ドキドキするというのも、素直になれないというのも、それ以外のことも。
どれかを体感したことはあるのか、どれも体験したことがあるのか。思い出せないなんてこともないのだが……
本当に、好きってなんなのだろうか。ページを捲り、机の上を無造作に指で滑らせた。
わっ、と周りの人間は盛り上がる。ライブが始まりバンドが変わる度に盛り上がりは右肩上がりで、これからもまだまだ盛り上がっていくだろうというのは簡単に予想させられる。
では俺は盛り上がっていないのかと言われたらそれはまた別の話だ。音を聴いていたらそこは違うのでは、なんて思ってしまうのはとても勿体無いことだと周りを見回せばわからされる。
だとしても全てのバンドにどこか惹かれるものがあった。心に響くとは違う、感動させられるというのでもない。それが何かわからないまま次のバンドに。
『続いてはAfterglowの皆さんです!』
そういってステージに登ったメンバーの中にモカと蘭ちゃんが見えた。集中している様子がよくわかる。目配せをして、全員が頷くと同時に演奏が始まる。
Afterglowの演奏は今までのバンドに比べて、より一層目が離せなかった。音がどうとか、そういうものではない。全てのバンドにあった何か惹かれるもの、それが一際強く感じさせられて。
これはこの前のRoseliaのライブの時に感じたものと同じ。目を瞑れなくて、イラつきを覚えて……自分の中で何かが溢れて飛び出していきそうになる。
一体何なのか、少しもわからない。いずれ来るであろうRoseliaの演奏を見ればこれは何なのかわかるのだろうか。それともわからずじまいなのか。
蘭ちゃんの歌は上手い。それこそ今までのバンドの中では一番ではないかと思ってしまう程に。
この前湊の名前を出し、同じライブハウスでライブをするとわかった時蘭ちゃんは少し焦るように練習に向かっていた。
蘭ちゃんもギター付きとはいえボーカル。同じボーカル同士、多分ライバル関係みたいなものを蘭ちゃんは湊に向けて抱いているのだと思う。
目を細める。視界が薄らと白く染まる。眩しいな、少し。
そんな事を考えていたら次で最後の曲になってしまった。見落としてはいない、聞き逃してもいない、それでも時間は早く感じさせられた。
相も変わらずその演奏からは、目を離す事が出来なかった。
Afterglowの演奏が終わるとRoseliaの名前が呼ばれ、湊達がステージに上がった瞬間盛り上がりは更に苛烈になる。
胸が痛い。ああ、これはなんだろう。物理的ではない、なんだか締め付けられているかのような、そんな不思議な感覚を感じさせられる。あいつらは人気なのか、そんなことすら考えることが出来なくて。
頭も沸騰しそうなくらい熱くなっていて、今すぐにでも前に進みステージの近くに行きたくなってしまっている。
一歩、目の前の人に当たらないようにと歩を進めようとしたその瞬間に足が止まった。
まるで金縛りにあったかのように動かない、体が欠片も動かない。何かあったわけではない、演奏が始まると同時にそんな現象に襲われた。
それだけではない、不思議と喉が渇く。胸も頭も先程より熱くなり、それによって蒸発させられているかのようで。唾も脳髄も、消えて燃えて亡者になりそうだ。
何故だろう、ステージの上のRoseliaと俺との距離がとても遠くに感じられる。現実的な距離でいえばそう遠くはない。そのはずなのにとても遠く、違う世界にいるかのような遠さ。
鳥肌が立ってきている。どこまでも素晴らしい演奏で……
楽しそうな表情、奏でられる音、その全てが俺を魅了して離さない。
まるで餌を篭の前に置かれた鳥のよう。焦がれ、求め、手を伸ばす。しかしそれは手に入れることは出来ず、ただただ眺めることしか。
あぁ、どうして俺は……
──あのステージに、立っていないのだろう。
そう思った瞬間、全身に冷水をかけられたかのようなものを覚えた。熱くなっていた思考はピタリと止まり、しかし体は動かせないままで。
なぜそんなことを思うのか。湊の誘いを断ったのは誰でもない俺自身。そして断った理由はピアノのことが嫌いだから。
ならばこんなこと思うはずもない。本当にそうであるならば微塵たりとも思ってはいけないはずなのに。
「すごいね」
「うん、私達もあんな風に演奏できるのかな……」
演奏間に斜め後ろから小さくそんな声が聞こえてきたので顔を向けてみる。二人の視線はRoseliaに釘付けで俺に見られていることを気づいていない。
その二人もバンドでも組んでいるのか、それともこれから結成するのか。普段考えるとするならばそんなとこだが今回は別のところに目がついた。
その二人組の目は、憧れているかのような目をしていた。夢見る子供、まるでそんな風に感じ取らされる。
最後の曲が始まった。俺もステージに視線を戻すと、楽しそうに演奏をするRoseliaのメンバーの表情を見て気づく。
どうしてこんな風になっていたのか、何故こんな風に考えさせられるのか。その全て簡単で、単純なもので。
あぁ、俺は…………
楽しそうに演奏するやつらが、羨ましかったんだ。
「私達の演奏、どうだったかしら?」
その言葉で遠くに行っていた意識が戻ってくる。そう問いかけてくる湊の後ろにはRoseliaとAfterglowのメンバー揃い踏み、バンド間の仲はいい方なのだろうか。
「……よかったよ、凄くな」
「そうじゃなくて、もっと具体的に言ってくれないかしら?」
「感想ですか~? それならアタシ達にもお願いしま~す」
「ちょっと待ってください」
そう会話に割り込んできたのはRoseliaのギターの人、名前は……なんだっけか。
「湊さんは彼の事を評価しているみたいですが私は彼の事を知りません。そんな人から具体的にと言われましても……」
「アタシも、腕前もわからない人から言われても納得出来ないと思う」
彼女と蘭ちゃんの意見は至極真っ当であり俺もそうだと思う。
初心者ならばいざ知らず、腕前のある人間からすれば上手さもわからない人間からの意見など、相当切羽詰まってでもいない限り寧ろ邪魔にしかならない。
根本的なものであれば本人達も気づいているだろうし、細かいところは意見した側が間違っている可能性もある。それこそ個々の好みであるものかもしれない。
しかして腕前がわからないと言われてもどうしようもない。そう思っていたらモカがポン、と手を叩く。
「蒼音さんが演奏すればわかるんじゃないんですか~?」
名案を思い浮かんでしまったと口には出さないが、モカはわかりやすくそんな表情を俺に向け、それに続いて湊を覗いた全員の視線が俺に向かってくる。
「その……新庄君は……」
「それでいいなら。と言ってもどこでやるんだ?」
そう言うと湊は驚いたかのような視線をこちらに向けてくる。それを見てかリサも、燐子さんも不思議そうな視線を向けてくる。
それも当然か、今まであれほどピアノは嫌いだと言って誘いも蹴っていたのだ、頭でも打ったのかと心配されてもおかしくない。しかしそんな事はどうでもいい。
「う~む、ここを使うわけにはいきませんし~……どうしますか~?」
「それならここの近くで路上ライブしてる人をこの前見たぞ、時間的にも丁度いいんじゃないか?」
「さ、流石に路上ライブをしてもらうのは……」
「俺はそれでも……とは言ってもピアノがないと話にならないんだけど……」
「そ、それなら……私ので……大丈夫でしょうか?」
存在した二つの問題、まず場所に関してだがこんな突然の提案なのだ、許可を取っているはずもない。しかし路上ライブ程度初犯なら注意される程度で収まるだろう。赤髪の人の提案を受けることにした。
そして次の問題であるキーボードの確保、これも燐子さんの助けで無事解決した。
他にもピアノとキーボードの違いなどはあるのだが……二年程やってないのだ、それに比べれば微々たる物だろう。
「それじゃ片付けが終わったらね、すぐに終わるから待ってて」
リサがそう言うと湊と燐子さんを除いた全員がこの場を離れていった。目を険しくさせ湊は俺に聞いてくる。
「……どういう風のふきまわしかしら?」
「さぁ、酔っ払ったのかもしれないな」
それだけ言うと湊も控え室に向かっていき、燐子さんもその後に続く。
嫌いだ、嫌いじゃない。好きじゃない、好きだ。別々のものが混ざりあってどれがどれかもわからない。そんな状態だというのに頭はとてもすっきりしている。
外に出てベンチに座り赤色に染まる空を見上げる。空は雲一つなく、晴れ渡っていた。
案内されてやってきたのは駅から少し離れた場所。確かにここなら雑音は少ないので路上ライブをするなら理にかなってはいるのだろう。
ただ駅への道ということもあり人通りは多い、邪魔にならないところを探し演奏の準備をする。
「ごめんなさい、こんなことに協力してもらって」
「い、いえ……本当に大丈夫……です」
周りを見れば同じく路上ライブをしている人がちらほらと目に入る。
準備が完了し鍵盤に指を置くと指が震える。緊張からか、武者震いとでもいうやつか、それとも弾くなと心の片隅が叫んでいるからなのか。
息を大きく吸い、昔演奏を始める前にやっていたように指を動かしてみると震えはパッと収まった。
「……さて、何を弾けばいいのかな?」
「新庄さんの好きなもので大丈夫です。楽譜もありませんし」
「わかりました」
ギターの人、来る途中でリサから教えてもらったが紗夜というらしい。彼女からなんでもいいと言われたので一番弾きなれた曲を思い浮かべる。
ここは色々な音が聴こえてくる。人の歩く音、他のバンドの演奏、ペットの鳴き声。だけど、いつも聴こえていた母親のピアノの音は聴こえない。
鍵盤を指でなぞり、また一つ深呼吸をして、演奏を始めた。
あぁ、これだ。なくしたピースを見つけた感じがする、そしてそれがピタリとはまったような。指が勝手に動く、頭が真っ白になっていく。
真っ白になったものをある一つの感情が埋め尽くしてくる。楽しい、頭の中はそれ一色。あぁ、結局俺はピアノのことが……大好きなんだ。
「うっそ……」
「これは……」
声は邪魔だ、視界は邪魔だ、自分の世界に入り込む。もうピアノの音しか聴こえてこない、そしてそれは俺の奏でているもので。
音が皮膚から体の中に入ってくる、自分の血であるかのように身体中を駆け巡る。最高だ。終わらせたくない、ずっとこうしていたい。
そうは願うもののどんなものにも終わりはある。たった一曲、それだけなのに名残惜しさを感じながら演奏を終えた。
「蒼音さんすっご~い!」
「……まさか、これほどとは」
「これは流石のモカちゃんも驚きを隠せませんな~」
顔を上げるとそんな声が拍手と一斉に聞こえてくる。見回せばその中には知らない人もちらほらと。あぁ、そういえばここは路上だった。
わからない、どんな顔をすればいいのかが。大勢の前での演奏なんて数えきれないほどやった、それからの拍手も体に染み付くほど受けた。
だというのになんだか恥ずかしくなって、そして自分の意思でピアノを弾いたという事実を改めて感じさせられ、下を向いてしまった。
本当にこれでいいのか、ピアノが好きだと認めてしまっていいのか。もし認めてしまったのなら俺は、父親になんて顔をすればいいのだろう。
今ならこれも気の迷いと誤魔化せるかもしれない、そんなことを思いながら俯いたまま止まない拍手を受けていると、突如左手に痛みが走った。
「次、やるわよ」
「は?」
「観客からの期待には答えるべきでしょ?」
前を向くともう一回、そんな声が聴こえてきた。アンプがないのだから聴こえづらいだろうに、もちろん褒められているのだから悪い気はしない。
恐らく軽くではあるがつねられたのであろう左腕、未だにヒリヒリはするが……前を向ける力は貰えた。
しかしやるわよとは一体、まさかとは思うが……こいつも歌うつもりか? ここにはマイクなんてものはないというのに。
「お前もやるつもりか?」
「当然、嫌とは言わせないわよ」
「マイクあんのか?」
「声量には自信があるわ。曲は……そうね、あなたと会った時ので大丈夫かしら?」
初めて会った時の曲、忘れるはずもない。それは今日のライブでも聴いたもの。早速演奏を、と思ったところでリサの声が割って入る。
「友希那、蒼音はやったことないんだよ? いきなり合わせるなんて出来るわけ……」
「大丈夫よ」
リサと燐子さんが声を漏らす。Afterglowの人達も紗夜にあこちゃんも不思議そうな表情を向けている。そしてなにも知らない客たちは演奏をいまかいまかと待っている。
「あなたなら出来るでしょう?」
そう言うと俺の返事を待つこともなく、いつも通りの表情でこいつは前を向く。それとは正反対に不安そうな表情をリサと燐子さんから向けられる。
楽譜などない、だけど頭の中には存在する。あってるも間違ってるもない、もとより正解などないのだ、俺だけの楽譜がある。
フレーズと音を知っているのだ。そんなもの、どうにでもなる。
初めて聴いた時、こんな風だろうと決めつけた。
今日のライブ、ハッキリと輪郭を知ることができた。
ならば弾けない道理はない。目を瞑り、思い出しながら演奏を始めた。
俺と湊の音が交わる。あぁ、やはり演奏は楽しい。先程浮かんだ悩みなんて一瞬にして消え去った。父親なんて関係ない、母親なんて関係ない。
俺
ふと前を向くと前で湊が歌っている。後ろからというのもありどんな顔をしているのかはわからない、がどこか楽しそうというのはわからされる。
締め付けられるように胸が痛む、ドキドキするというのはこういうことだろう。
ピアノは好きだ。そう素直になれたから、ようやく認められたのかもしれない。
もうやめだ、自分に嘘はつくことは。ピアノが嫌いと言い続けて拘ったからといって生まれ変われる訳でもない。
だからこの感情も、どんな否定をしようとそれが事実。それなら……全部引きずってやろう。
俺は、湊の事が好きだ。
その日の演奏は多分これから先、一生忘れることは出来ないだろう。そう、思わされた。