久し振りに聴いた新庄さんの演奏は一日経った今でも頭の中に刻まれている。最初に聴いた曲は彼がコンクールでよく弾いていた曲でどこか懐かしい、そんな感じがした。
そして次に彼が弾いた曲は、私達の曲。友希那さんの歌声と一緒に聴こえてきたその曲はその日私が弾いたものと同じだけど全く違うものだった。
当然と言えば当然、新庄さんはその曲について全く知らないのだから。そもそもそれは私達の曲なのだから正解なんてものはハッキリとしていない。私のだって何度も工夫し、変えた結果できたものなのだから。
「──」
雑音が聴こえてくる。私は新庄さんの演奏を聴いてただただ圧倒された。
あの時聴こえてきた演奏を記憶のままに指に落とす。違う、こうじゃなくて、こう。あの時の演奏以外に頭に浮かぶものを振り払うかのように演奏を続ける。
ああ、邪魔だ。頭の中に浮かんでくるあの光景が邪魔だ。彼の笑顔が、友希那さんに向けて浮かべていたあの顔が浮かんでくる。
どう思っているのだろう、どんな関係なのだろう。振り払いたいのに、そうしようとすればするほど絡み付くように頭の中で根を張り出して、指に絡み付いて鈍らせてくる。
それを払い落とすため、もう一度初めからやろうとしたところで手が止まる。真っ暗闇にキーボード、自分の腕しか映っていなかった視界が広がっていく。
左手を見ればそこには私以外の手が。小さな手、誰のものなのかなどわかりきっていて、釣り上げられるかのように意識が浮上する。
「りんりん、もう時間過ぎてるよ?」
「それにしても燐子は凄いね、話しかけても気づかないなんて」
「ご、ごめんなさい……」
「いやいや、責めてるわけじゃないって。ほら、もう片付け入ってるよ?」
Roseliaの練習中だったのに自分の世界に入り込んでしまった。勿論悪いことなどないのだが時間を守れないとなるといいことではないと思う。
若干の反省をしながら片付けを始める。その最中に浮かぶのも先程と同じ、ついついため息が漏れてしまう。
「りんり~ん、今日の夜NFO出来る?」
「うん、大丈夫だよ」
やった~と喜ぶあこちゃんを横目に友希那さんの方を見る。綺麗、本当に私なんかとは大違い。
彼が友希那さんに向けたあの笑みの意味、ただ演奏が楽しくて漏れ出たものならいい。でもそうでないなら、あれが友希那さんだから出たものなら……
「そういえば湊さん、新庄さんはなんと仰っていたんですか?」
「新庄君? 何も聞いていないけれども……」
「そうですか、感想を求めていましたしメールか何かで既に聞いているものかと」
氷川さんの聞いている事は私も気になっていたこと。新庄さんは私の演奏に対してなんと思っているのか、気になって気になって夜も眠れなかった。
そんなになるならば連絡先も交換しているのだし、自分で聞けばよかったと今になれば思うものの昨日の時点では思い付かなかった。
ただ、思い付いたからといって聞けるかと言われたらそれはまた別の話。
「私は新庄君の連絡先を知らないわ。感想については今度会った時に聞こうと思っていたのだけど……」
片付けていた手が止まった。友希那さんは新庄さんの連絡先を知らない、聞き間違いでなければ確かにそう言った。嘘だと疑う反面喜んでいる自分がいる。
友希那さんが新庄さんの連絡先を知らないこと、私が知っているのに友希那さんが知らないこと。
友希那さんが、新庄さんが、互いの事を好きなのではないか。その可能性がほんの少しでも、揺らいだことを何よりも。
「なるほど、あれほどの演奏が出来る人からの感想を貰える機会はそうないと思ったのですが……」
「リサは確か知っているわよね?」
「知ってはいるけど……燐子、お願いできる?」
「え……わ、私……ですか?」
「そーそー、アタシからだとちゃんと見てくれるかもわからないしね~」
氷川さんと友希那さんから見えないようにこちらを向いてウインクを一つする今井さん。
今井さんからだと新庄さんは見ないかもしれない、そんなことは絶対ないだろうにそんなことを言ったのは……私のため。
「わかり……ました……」
「……燐子も新庄君の連絡先を知っているのかしら?」
「はい……本の貸し借りとか色々……便利なので」
「…………そう、ならお願いするわ」
暫くの沈黙の後、そう言って友希那さんは出ていった。今井さんもお願いねと私に念を押してから友希那さんを追っていった。
今日の天気は雨、それもとても強いもの。じめじめとしたものだけど不思議と気分は悪くない。雨の音が少しだけ心地よく感じられた。
「……どうしよう」
家に帰って数時間、なんと送ろうか迷い続けて決まっていない。いつも文であれば一瞬で送れるというのに新庄さんが相手の時だけはこんなにも緊張してしまう。
お母さんもお父さんも今日と明日は忙しいというので家には一人、そんなだからベッドに座り込んでずっと考えている。
書いては消して、消しては考え、考えては書き、消す。呆れてその回数すら数えなくなった時突然電話がかかってきた。
びくりとしてつい声が漏れ、相手の名前を見れば新庄さんの名がかかれている。それにより更に驚き一体何故と考え電話に出られない。
しかしだからといって待たせるわけにもいかない。わかってはいるが緊張が収まる様子はなくて一つ深呼吸、それでもスマホを持つ手が震えてしまう。
「も、もしもし……」
声も震える。どうして、理由なんて思い付かない。あれこれと思考を回して、回しすぎて、頭が真っ白に塗りつぶされる。
心臓は向こうに届いてしまうのではないかと思うほどに高鳴って、胸に手を当てて落ち着かせようと試みるが効果はなくて。
『リサから燐子さんから連絡がなければ電話してあげてと言われたんですけれど……何かありましたか?』
「……はぁ」
『……どうかしましたか?』
「い、いえ、なんでもないです……」
無意識のうちに溜め息が漏れてしまった。彼が連絡をかけてくれたのは今井さんが言ったから、ただそれだけの事実によって熱されていた思考が冷めてくる。
別に私に用があるわけでもない、話したいことがあるわけでもない。そう落ち込みはするとはいえ何も話さないというわけにはいかない。
幸い話題になり得るものはある、というよりも聞かなくてはいけないことがある。
「私達の演奏の感想……気になってまして」
『あー、そういえば伝えられてなかったですね』
全体として個人としてアドバイスとも取れるような感想。忘れないようにと近くにあった紙に書き、そしてその言葉を頭の中でもう一度確かめてみる。
必ずしもそれら全てが正解というわけではない。そういう考えもあるというだけのものなのだが、それらには納得できるだけの何かがある。
私達がうすらと感じていたことも、全く気づいていなかったことも。彼が上手だからと知っていなくても考えさせられるかのような。
『……こんな感じですかね』
「ありがとう……ございました」
『いえ、大したことではないですよ』
それじゃあ切りますね、彼がそういった瞬間私は待ってくださいと言っていた。どうしたんですかと聞いてくるその声以上に私の方が困惑している、なぜ私は呼び止めたのだろう。
沈黙が痛いくらいに感じられる、喉は渇いて既にカラカラになっている。聞くなと頭は訴えてくる、聞けと心は囁いてくる。
吐き出してしまいそうな程の緊張、ライブやコンクールで感じるそれと同じ、でも全く違うもので。
何度か深呼吸。暴れまわる心臓の鼓動が喧しい。
「新庄さんは……友希那さんのこと……どう思ってるん、ですか?」
聞いてしまった。求める答えは一つ、だけど今度は新庄さんが何も話さなくなる。私と同じく気持ちを落ち着けている最中なのか、それとも私の言うことが理解できないのか。
やっぱりなんでもないですと切り上げてしまいたい。だけど聞いたのは自分だから、やっと聞けたことだから、込み上げてくる酸っぱさを抑えながらただ待っていた。
中々答えないのは私の気持ちをわかっているからか、それとも恥ずかしいからなのか。彼は大きく息を吐いて、言った。
『湊の事は……好き、です』
たった二文字、ただそれだけの物なのにそれは、今まで受けたどの言葉よりも衝撃的だった。
込み上げていた酸っぱさも、心臓の鼓動もだんだんと収まっていく。だけど胸の痛みだけは、形を変えて残っていた。
弾けそうなものは突き刺すようなものに、焼き尽くされてしまいそうなものは凍えてしまうかのように。それだけは全く収まる気配もなく、私を蝕んでいる。
「……突然こんな事聞いてしまって……ごめんなさい」
『…………』
「また……お薦めの本……貸しますね」
そう言って通話を切ると同時、糸が切れたかのようにベットに仰向けで倒れ込んだ。お風呂は入ったけれど晩御飯はまだ、なのに食欲は少しもない。
ああ、なんだか笑えてきた。勝手に期待して、勝手に落ち込んでいる。自分では何一つきっかけを作れないというのに僅かな可能性には期待をしてしまう。
ああ、本当に……
「馬鹿みたい……」
スマホがまた連絡を知らせてくるが今は誰が相手だと確認する気も起きない。電源を消し、部屋の電気も消し、そのまま目を瞑り寝る体勢になる。
本当に馬鹿みたい。新庄さんからすれば私なんて、それこそなんだってないのだろう。もし彼と出会ったあの時にこの思いを伝えていれば、ずっと前に伝えられていれば、この結果は別のものになっていたのだろうか。
なんて、どうしようもないことだとわかっていることを考え、心地よいと感じていた筈の雨の音に苛ついてしまう。雨漏りでもしてしまったか、ああいや違う。涙なんて出せなくて。
それもどうしようもないことだからと気にしないようにと意識をして、私は意識を闇に溶かしていった。
「白金さん、大丈夫ですか?」
「……あっ、大丈夫……です」
「朝から体調がすぐれていないように見えましたけれど……今日の練習はお休みにしますか?」
放課後、氷川さんからそう話しかけられる。結局昨日はあのまま寝てしまい、今日の朝も食欲はなかった。
熱があるわけではない。ただ昨日の事を未だに引きずっているだけ。
「えっと……」
「無理はよくないですよ。湊さんには私から伝えておきましょうか?」
練習が出来ないなんて状態でないことは自分が一番わかっている。大丈夫です、そう言うべきだともわかっていて、思っていた。
だけど友希那さんの名前が出たその瞬間、喉元まで上がっていたその言葉が唾と共に飲み込まれていった。意思に反する様に、まるでそれが本音であるかのように。
「……はい、お願い……します」
今日は、友希那さんには会いたくない。
大丈夫、今日だけだから。明日には何でもなくなってる。胸の底の暗いこれも、悲しみも、全部忘れていつも通りになることが出来る。
そう、別に何かされたわけじゃない。湊さんが、新庄さんが悪いわけではない。どうしようもないことで、そうわかっているからこそ。
今日だけは、練習を休むことにした。
帰宅後何もする気が起きなかったので無理矢理に寝て、目覚めた時には二つメッセージが届いていた。
一つはお母さん、帰れるのが遅くなりそうだから晩御飯は自分で食べておいてねというだけのもの。
二つ目はあこちゃんから。お大事にねという内容がとても長く、そしてあこちゃんらしく送られてきていた。
「お腹……すいちゃったな」
もう丸一日何も食べていない、お母さんから送られてきた晩御飯という文字が消え去っていた飢餓感を思い出させてきた。
自分で作ってもいいんだけど……めんどくさくてそんな気は起きない。コンビニで何か買ってしまおうと思い外に出る。
雨は朝の時点で止んでいたのだけどあれほど強かった雨、道路には水たまりが幾つか目に入る。下を向き、間違えて踏んでしまわないように気を付けて道を歩く。
そうしてコンビニに着いたところであることに気がつく、財布を持っていない。落としたわけではなく忘れてしまった。
そんな馬鹿なと一瞬思ったが制服のまま着替えず、何も持たずにやって来たのだから当然と言えば当然。寧ろ何故気がつかなかったのだろう。
……ああ、何故もどうしても、わかりきっていて。
仕方がない、めんどくさいけれど帰って自分で作ろう。そう思い家に帰ろうとしたところで声をかけられた。
「燐子さん?」
それに対して零れた声は、道行く車の音にかき消された。鼓動がゆっくりと速くなる。
顔を見ることが出来ないのは何故だろう。恥ずかしい、それが少なからずあるのは事実なのだけど昨日のこと、それが胸を締め付けて顔を下げさせる。
呼ばれただけ、それ以上は言葉一つない。だからといって互いにその場を離れるわけでもない。
車の音とコンビニから聞こえてくる音、それしか聞こえてくるものがない世界を破ったのは、私だった。
ただそれは、言葉ではなかったのだけど。
限界だったのか、お腹が鳴ってしまった。
こんなの漫画以外で聞いたことがないと思ってしまうほどのもの。もしかして聞こえてしまったのではないかと新庄さんの方を見ると、こちらから目を離し頬を掻いていた。
顔から火が出そうとはこのようなことか。急に熱が出たのかと思うほどに顔が熱くて、更に深く顔を沈めさせてしまう。
「あー……家近いんで、何か作りましょうか?」
その言葉に驚いたが私は頷いた。私の家だってそんな遠くない、私をどう思っているかわからないが新庄さんは湊さんの事が好き。それはもうわかったこと。
それだとしても、私は新庄さんの隣を歩いていった。
「こんなものですけど」
家に上がらせてもらい暫く待つとご飯を出される。待っている間は落ち着かなくて部屋中を見回してしまった。
広い部屋、そう感じたのは事実部屋が大きいからではあるのだけど、それ以上に部屋に物が少ないのが原因だと思う。
話を聞く限り新庄さんはバイト帰りで、家についたらピアノをしようと思っていたらしく晩御飯は予め作っていたらしい。
その料理は私が作るものよりとても美味しくて、少しだけへこんでしまったのは内緒だ。
「…………」
会話はやはりというべきかない。昨日あんなことを聞いてしまったから重い空気が互いの間に感じられる。
何か話せる事を、そう思案していたら洗い物をしている新庄さんから声をかけられた。
「昨日のあれですけど……その、そういうこと、ですか?」
少し恥ずかしそうな声、不思議そうな声。顔をこちらに向けずに聞いてくる。
そういうこととはどういうことか。なんて聞くまでもなくわかってしまう。伝わってしまい恥ずかしいともあれ、伝わって少し嬉しいというのもある。
……そして、伝わっているのにああ答えられたのだと、少しだけ寂しかったり。
でもここで私がはいとその二文字を言うだけで全てが終わる。そう、その二文字だけで好きだと伝える事ができる。
好きだと、真っ直ぐに伝えられれば私にも可能性があるかもしれない。
振り向かせて、私に興味を持ってくれるかもしれない。でも私なんかが、新庄さんの恋を邪魔していいのだろうか。
諦めて、邪魔をしない方が新庄さんにとって、いいはずだから。
いいえと言ってしまおうとしたその瞬間、昨日新庄さんに言われたアドバイスを思い出した。私の音はどこか遠慮をしているようだと。音の強弱ではなく、表現が弱いのだと、
他人を持ち上げるかのような、バンドとしては間違ってはいないけれどそれでももう少し、自分を出してもいいかもしれない。
多分それは音楽以外にも現れているのではなく、音楽以外でそうだから、演奏に現れてしまっている。
変えたいと願っていた、変わりたいと願っていた。それはいつかだったけど、今でなければ何の意味もない。
だから……
「はい……私は新庄さんが好き……です」
一糸纏わぬ本音。たった一つ、偽りのないこの思い。好きだと、恋をしているという気持ち。
後悔を残さない為だとかそんなものではない。私が望む、これがいいと思える結末の答えを掴むため。友希那さんは彼のことをどう思っているんだろう、なんて奥底に抱きながらも手を伸ばした。