夏休みも早い事でそろそろ半分程度になってしまった。それでも時間はまだまだある、ピアノをやっていなかった二年間、それを埋めるには足りないくらいだ。
課題はもう終わらせきったし完全に自由、夏休みが終わるまでずっとピアノの練習をして……というわけにはいかない。
燐子さんのこと、友希那のこと、それらはきっと何より優先するべきなのだろう。
こうやってピアノに逃げて、二人に合わない日がない程の行動が出来ず、そんななのにわからないと言い訳する。
もし下手を打って嫌われたりなんかしたら、しなければ済む話だが絶対にそうならないとは限らない。
それが嫌、好きだから、好きになってしまったから嫌われたくない。どれだけ自分勝手なものかはわかってるけど、ふと思うと怖くなってしまう。
でも何も進展のないままでは呆れられてしまうのではないかと、そう考えてしまうと泥沼だ。安全な道なんてない、何処を見回しても棘だらけで……
「……そりゃそっか」
この道を選んだのは誰でもない、俺自身だ。茨がある棘があるとわかっていながら選んだのは。
切り進むしかない、そうしなければ前に行くことができない。棘を恐れては、痛みを恐れては崩れてゆく道に飲み込まれる。
「…………」
スマホを見るに外では雨が降っているらしく、窓から眺めてみれば確かに大雨だ。まぁ今日も明日も外に出る用事はないし関係ないか、なんて思いながらソファーに寝転がる。
「痛いのは……嫌いだな」
痛いのは嫌い、人間誰しもそうだろう。一応好きだという人も探せば何人かいるかもしれないが、少なくとも俺は嫌いだ。
自分が嫌いだから人にはしたくない。誰かの怪我した瞬間なんて嫌でも頭の中に残る、それに自分が関与しているならば尚更。
ましてや、好きな人に対してそんなこと、したい筈もなかろうて。
俺が切り裂くべき茨、前に進むのを咎める棘。そのまま突き進めば大怪我してしまう。
それを切り裂いて、切り裂いて、やっと道が開けた時、その時の事を考えるべきなのだろうがあまりそうしたくない。
その茨は、棘は、自分よりずっとずっと大切なものなんじゃないか。そう思うと手が上がらない、足がすくんで動かない。
道を進むには棘を傷つけなければいけない。何かを得るには何かを失わなければならない。
頭痛がしてきた、でもこんな程度、もし傷つけてしまった時に比べればきっと吹けば飛ぶ埃のようなものなのだろう。
そんなだったら、そう思うと一緒に目を閉じて、崩れた道の底を眺めていた。
昨日の雨は嘘のように晴れている、そんな外を眺めながら今日も練習するかと思ったところでインターホンが鳴った。
宅配はなかったはずだし子どもの悪戯だろうかとドアを開いてみれば、どうやら悪戯ではなかったようで人の姿が二つ。
「ヤッホー、元気してる?」
「……こんにちは」
友希那はリサに引かれてやってきたのか息を切らしている。急ぎの用かと思ったがそうではないらしく、ではなにかと聞いてみれば目の前に友希那を突き出され。
「友希那ってば練習以外じゃ外に出なくてさ、それで連れて来たってわけ」
「……別に大丈夫って言ってるのにリサが聞かなくて」
「そんなこと言ってるけどさ、嫌だとは言わなかったじゃん」
「それは……」
外は暑い、見れば二人も汗をかいている。太陽に晒されいいことなんて一つもないし、入ってくかと聞けば二人共頷いたので家に上げた。
「涼し~」
「……なんも面白いもんねぇぞ」
わざわざやってきたのだ、家を見回すリサにそう言い冷たい飲み物を出すくらいはするかと冷蔵庫を開くと、友希那から小声で話しかけられた。
「その……にゃーんちゃんは……」
顔を赤くして、珍しく恥ずかしそうに。相変わらずだなと思いながら猫の元へ案内すると、友希那は俺の顔を一度見た後猫を撫で始めた。
嫌がる様子もないしアイツも覚えられているのか、なんて考えながらリサの元に戻る。お礼の言葉と引き換えに飲み物を渡すと、一口それを飲んでから話しかけてきた。
「この前送った写真、どうだった?」
「……なんて返答を求めてんだ」
「深い意味はないって。ありがとうとか楽しそうとか、そんなのだよ」
本音はどうだかわかったものじゃない、顔を背けながら俺も飲み物を飲む。
この前リサから送られてきた写真というのは燐子さんの水着姿を撮ったそれ、本人の許可を取っているのかは知らないがこうして聞いてきたということは送り間違えたのではなく故意ということで。
「それとも何、深い意味の方で捉えちゃった?」
「……」
「冗談だって、そんな怖い顔しなくたっていいじゃん」
「……気のせいだ」
その写真を送られたことはどうでもいいとは言わないが、一度見てしまった以上取り返しのつかないことなのでどうしようもない。
でもそれを見てどう思ったか、同じく過去形であるけれどどうしようもないものではない。
好きな人、露出は多くなかったがそれでもその水着姿を見て、まだ何もしていないけれど罪悪感を覚えた。よくないこと……とは言いきれない、でも自分の事が嫌に思えたのは事実だ。
好きという感情があるからそうなってしまう。浅くない、表面だけのものではない、それなのにそこに好きという感情を抱く。
あの水着は、燐子さんに凄く似合っていた。だけれどその格好は、普段の彼女の印象とかけ離れていた。
誰だっていいはずがない。であるけれどもし外見が全く一緒で中身だけが違う、そんな人がいたとしたら俺は、好きだと抱かずにいられるのか?
知っていれば勿論そうならない、でも知らなければ? もし俺が燐子さんのこと全部忘れ、そんな偽物を見たとして俺は好きじゃないと言えるのか?
俺は彼女が好きだ。恥ずかしがり屋なとこも、ゲームが好きだという意外な一面も、それ以外も全部ひっくるめてこその彼女が好きだ。
だから全部考えすぎ、彼女だからそう思わされる、彼女が恥ずかしがり屋だから罪悪感があるだけ。
そうだと自分に言い聞かせていると目の前に猫を抱えた友希那が座った。
「あれ、もしかしてその子って蒼音が飼ってる子?」
「そうね、今は眠ってしまっているけど」
小さく浮かべたその笑みに吸い込まれるように視線が行った。アタシも撫でていいと聞いてきたリサに対し適当に返事をしてしまうぐらいには。
数分程彼女らを眺めていると、友希那は突然こちらを向いて話しかけてきた。
「あなたは今日、練習はしないのかしら?」
「……お前らが帰ったらやる予定だ」
「それなら久し振りにあなたの演奏、聴かせてくれないかしら?」
そうやって聞いてくるのも音楽が好きだから、でしかないのだろう。だけれど俺の演奏を求めている、というのは不思議と気分がよくなってくる。
ずっと一人で練習していたし感想を聞いてみたい、というのもあるが。
「この子は……」
「あー……ここで寝かしとけばいいか」
「ソファーの上でいいかしら?」
ああと返せば友希那は猫をソファーの上に移動させるが、名残惜しいのかその場を離れようとしない。
俺は友希那から視線を外しその近く、猫の方に向け……
……ああ、本当に自分が嫌になる。ため息が零れ、どうしたのと聞いてきたリサに俺は、なんでもないと返していた。
「今日はごめんね、急にお邪魔しちゃってさ」
「今度から事前に連絡入れるくらいしろよ?」
「了解、と言ってもアタシ一人じゃこないけどね」
あの後ピアノを弾いて、それ以外何をすることなく彼女たちを送り出すために外に出る。
これからこいつらが何をするかは知らないが、友希那が家を出なくてと言っていたし何処かにでも行くのだろう。
俺もバイト以外での外出などそれこそ指で足りきるほどではあるが、流石に運動くらいはした方がいいだろうか。
「そういえばさ、蒼音って夏休みの課題の調子はどう?」
「終わらせた、やることも多くなかったしな」
「真面目~、友希那はどう、ちゃんとやらなきゃ駄目だよ?」
「やるわよ、私をなんだと思っているの?」
「そんな事言ってるけど、夏休み終盤になるといつも焦ってるじゃん」
「そ、それは……今年は大丈夫よ」
そんなことを話していたらリサが突然、そうだと声を上げ友希那を俺の前に押し出してくる。いったいなんだと俺も友希那もわからないでいると、リサは俺たちの手を取り繋げさせ言った。
「友希那の課題、手伝ってあげて」
「んな急に……」
「勉強を教えてってわけじゃなくて、やるとこちゃんと見ててほしくてさ」
勿論アタシも手伝うけど、なんて言ってくる彼女の言葉に噓はないかもしれないが、すべて言っているわけではない。
俺と友希那の事を思ってのこと、そんなことされなくてもと言う友希那とは既に手は離れている。
期限通りに出せないと練習も出来なくなるよ、という脅しに屈したのか、俺に視線を向けてきたのでわかったと口にした。
「それじゃあよろしくね、蒼音」
「……ごめんなさい」
「……そう思ってるなら早めに終わらせるぞ」
なんて会話をして彼女たちは去っていった。その背中を見つめ、先程繋がされた手を見る。
飽きるほどみたそれ、なんの変化もないけれどそこに残っている感覚は確かなもので……
「期限、か……」
もし決められていたら何か変わったのだろうか。例えば夏休み最後に答えてと言われていたら俺は今、焦るようになっていただろうか。
リサから送られてきたあの写真を見て、ずっと前から消せずに残していた友希那との写真を見て、ずきりと何処かが痛むかのような気がした。