鳥籠の中   作:DEKKAマン

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気づいたら小説の時期にリアルが追い付いてきて焦ってしまってる


夢を見て

「燐子さん……」

 

 目の前に蒼音さんがいた。どうしてこんなことになんてわからない、とにかく目の前に彼がいて。

 動かない、動けない。後ろの壁に背中を預け、崩れてしまいそうな足を無理矢理立たせ、視線は彼から離せない。

 

 彼の両手が私の頭の横に、彼の顔が近くに。声が出ない、駄目と発することすらできなくて。

 自然と手が動く。彼を突き放すのではなく、引き寄せるように。

 

 何をされるか、なんとなく予想はつく。瞼が落ちていく、開いているべきだとわかっていても言うことを聞いてくれない。

 彼との距離が後ほんの少し。近づく程に瞼が落ちていき、ついにそれは落ちきって……

 

 パチリと、先程までのが嘘のように目が開いた。

 

「え……」

 

 理解が追いついていない中、アラームの音と激しく鳴る心音だけが耳に入ってくる。そしてゆっくり、ゆっくりと浮かび上がってくるのは恥ずかしさ。

 充分に涼んだ部屋、だが全身沸騰してしまいそうな熱を感じてようやく理解した。

 

 あれは、夢だと。

 

 アラームを消すことすらせず布団にくるまる。忘れろ、忘れてしまえと。でもそれはアラームが鳴り終えて、それでも消えることはなかった。

 

 

 

 離れない、今朝の夢が離れてくれない。そんなだから練習で失敗してしまうしそれも一度程度ですむ筈もなく。

 普段なら夢なんかすぐ忘れてしまうくせに、そもそも思い出すことすら出来ない癖して、今日ばかりは延々と襲われ続けている。

 忘れようとして、でもそうすればそうするほど浮かび上がってきて。それは彼に関することだからか、それとも……彼との、あんな夢だったからか。

 

 練習中でなければ倒れ込んでしまいそう、今でも顔を隠してしまうくらいに恥ずかしい。誰も知らないのに、私だけしか知らないのになんでかそうしてしまう。

 

 あの夢を忘れたい、でもあの夢の続きを今すぐにでも見たい。

 あれが夢じゃなく、現実に起きたとしたら……

 

「白金さん、大丈夫ですか?」

「えっと……何のこと、でしょうか?」

「何と言われましても、顔を赤くしたり抑えたりしてますので……」

 

 体調不良を疑われているようで、大丈夫ですと返しても氷川さんの目は懐疑的なまま。少しでも気分が悪くなったら言ってくださいね、そう言って水を手渡して彼女は練習に戻る。

 こんな考え全部流してしまおうと水分補給をして、やっぱり消えなくて大きく息を吐く。

 

 友希那さんの姿が目に映り、じっと彼女の事を見る。たいした理由なんてなく、練習している彼女に吸い寄せられ離せない。

 あまりに眩しいその姿に息が止まって、なんだか遠くに見えてしまって。

 

 大丈夫とはなんだったか、やっぱり今日の私はどうかしてる。眩しくて、綺麗で、そんな彼女を見てずきりと胸が傷んで、指先から力が抜けていく。

 

「りんりん、今休憩中?」

 

 突然、背後からあこちゃんに声をかけられた。どれほど見続けていたのか、私は友希那さんから視線を外しあこちゃんの事を見ると、もの寂しさと同時に安心感がやってきた。

 彼女の事を見るあこちゃんの目は輝いている。御伽話によく出てくる憧れる少女のよう、私がかつて蒼音さんに抱いたそれのような。

 

「やっぱり友希那さんってかっこいいね!」

「……うん、そうだね」

 

 そうだ、そうだろう。友希那さんは私と違って、私にない物ばかり持っていて……

 

「な~に言ってんの、二人共かっこいいよ」

「わ! びっくりした~」

「あはは、ごめんごめん」

 

 背中を優しく叩きながらそう言ってきたのは今井さん。思考の海から引きずりあげられ、ふと、友希那さんの事を見つめ直してみれば彼女は私の事を見つめていて。

 まるで、吸い込まれるかのような視線を向けられていた。

 

「ねぇ燐子、練習終わった後って時間ある?」

「えっと……大丈夫、です」

「なんの話するの?」

「今度のライブの衣装についてちょっとだけね」

 

 それじゃあよろしくね、と言って彼女は練習に戻り私達も練習に。

 今井さんの事を見ていると、練習場所まで戻ってからも私の事を見ていて、視線が合うと外された。話というのはライブの衣装についてだけではない、それくらいわかってしまう。

 

 話すことも悪くないが練習を疎かにし過ぎるのもよろしくない。あこちゃんだって既に練習を再開している。

 深く息を吸い、十分に集中をして鍵盤に指を置き、押す。それは曲通りのものだけど演奏とは言えないようなもので。

 

 集中できない、曲の中に入り込めない。これでは私は部外者だ、曲の中での張本人になりきれていない。どうしたものかと考えていると唇に指が触れ、そんな程度でじわじわと顔が赤くなっていくのが自分でもわかる。

 そんなままで今日の練習は終わってしまい今井さんと二人で外に出る。

 

「えっと……今井さん?」

「……あ、ごめんね、ちょっとぼーっとしちゃってたよ」

 

 なんと切り出そう、頭を掻いている彼女はきっとそんな事を考えている。

 ライブ衣装についてあれこれ話して、簡単に話がついた後やってきたのは無言の時間。聞きたいことがあるのは間違いない、でも、私にはその予想もついていないから私は待つことしかできなくて。

 そして数秒、あるいは数分か、それほどの時間が経って彼女はようやく私の事を見た。

 

「えーっとさ……燐子、友希那と何かあった?」

「友希那さんと、ですか?」

「あー、言いたくないとかならいいんだけど……」

「いえ……友希那さんとは、何も……」

 

 何か勘違いをされているのだろうか、私がそう返すと彼女はホント? とこちらを見つめてくる。

 少しの怖さすら感じるそれに頷くと、彼女は大きく息を吐いて壁にもたれかかった。

 

「よかった~、アタシの勘違いだったみたい」

「いえ……ちなみにどうしてそう、思ったんですか?」

「なんか今日、二人共互いの事を意識してそうだったからさ」

 

 私が彼女を意識していた、というのに心当たりはある。でもそれは私だけのはずで、友希那さんが私を意識だなんて……ありえるのだろうか? 

 

「友希那さんが……ですか?」

「うん、たまーに燐子のこと見てたりしててさ」

 

 気付かなかった? と聞かれ思い返し、でも思いつかない。もしそうだとしたら理由はなんなのか、それも思いつかない。

 

「そういえば友希那とはって言ってたけど、蒼音とは何かあったの?」

 

 笑顔を向けて聞いてくる。答えに期待しているようで、それでいて面白がりそうな雰囲気は微塵も感じない。

 ああ、わからない。こんなことを考えてしまうのだ、やっぱり今日はどうかしてる。

 

「今井さんは……」

「ん、どうしたの?」

「どうして私に……手を貸してくれるん、ですか」

 

 きっと聞くべきではないのだろう。今井さんも困惑している、ああでもわからない、なぜ私に協力してくれるのかなど、聞くだけ損だとわかりきっているのに。

 

「えーっと……もしかしてお節介、だった?」

「い、いえ、そういうわけじゃ……」

 

 —―どうして友希那さんだけでいいはずのそれを、私にもしてくれるんですか? 

 

 彼女の優しさからくるであろうそれ、理由なんてない、多分そう答えられる。わかってるけどわからないから、聞いてしまった。

 友希那さんと私、付き合いでいえばそれこそ比べものにならないくらいは違う筈。それだけだからと言われればそれまで、私に先に相談されたからと言われてもそれまでだ。

 

 彼女は何も答えずに飲み物を飲む。それは予想外で、段々と吸い込む息が深くなっていくのが自分でもはっきりとわかる。

 

「私もね、わかんないんだ」

 

 そう答えると彼女は飲み物を一気に飲み干した。大きく息を吐き、私の事でもなく、まだスタジオに残る友希那さんの方でもなく、あらぬ方向を向いて話し出す。

 

「友希那には幸せになってほしいし、勿論それは燐子もで」

 

 視線を戻され笑顔を向けられる。心臓が一度だけ、大きく鳴った。

 

「だからどうなってほしいのか、自分でもわからなくてさ」

 

 それに対しなんと答えたらいいのかわからないでいると彼女が立ち上がり、彼女の顔が近くに来る。

 

「そういうわけだからさ、なんかあったら気軽に相談してね」

「ありがとう……ございます」

 

 それだけ言うと彼女は去っていく。残されてもすることはなく飲み物を飲み干して、でもその場を去ることはできなかった。

 今井さんがわからないといったそれは、きっと誰もがそう思っているのだろう。そも、正解なぞないのだから。

 

「蒼音さん……」

 

 彼はきっと、最も悩んでいる筈だ。わからないと、嫌なくらいに、逃げ出したい程に。

 スマホを取り出してメッセージを作成する。恥ずかしいとかの感情は驚くほどなく、送ってようやく少しだけ浮かぶだけ。

 

 彼が好きなのは、私が好きなのは、友希那さんが好きなのは。わかりきって、でも知り尽くせてはいないこと。

 鞄から一枚のチラシを取り出して、それをじっと見つめていた。

 

 

 

 暑い。雲は流れ蝉が鳴き、地面を太陽が照らし熱が襲ってくる。

 そんなだけど嫌だとは思わない。額の汗を拭って大きく息を吐いて目当ての人物を待ち続け数分、その人物がやってきた。

 

「すいません、待たせてしまって」

「いえ……私が早く、来すぎただけですから」

 

 予定の時間よりずっと早い、そんななのにこんな会話は初めてでない。待ちきれなくて、待たせたくなくて。

 蒼音さんとのカフェも慣れたもので、席につくと彼が私の分の飲み物まで注文してくれる。

 

 彼を呼び出して、伝えたいことがあって、でも会話がないのまでいつも通り。遮ってしまわないように彼は黙ってくれて、私は何故か口を開けない。

 飲み物が運ばれてきてようやく鞄から本を取り出し渡す。彼から返される自分の本は他の本とは別の場所に置いているからこれが何回目か、なんてのも全部覚えてる。

 

「これは……」

「この前渡された本がそういうのだったので好きかと思ったんですけど……読んだことありましたか?」

「いえ、この本はない、です」

 

 その本は彼が買わなそうだと思って渡したものと似たようなタイトル。わざわざ買ってきたのだろうかとページを開く。

 あこちゃんに好評だったけど彼はどうだろう、つまらない、なんてことはなかっただろうか。

 

「……」

 

 私が本を読んでいたからか蒼音さんも読み始める。そうして数分、本から目を外して、でも気づかれないように彼を見る。

 

 気に入ってくれるのか、それはいつも不安で仕方がない。そう怯えながらも本を読む彼を見てしまう。

 ここにいるのは私と彼のみ、他のお客さんはいるけれど見知った人はいないから邪魔は入らない。珈琲を飲む彼を、ページを捲る彼を見続けていると、ふと彼がこちらを見てきた。

 

 理由なんてないのだろうその行為、でも誤魔化すように急いで本に視線を落とす。気づかれたかもしれないということではなく、彼を見ていたというそれに恥ずかしさを感じてしまう。

 

 もしかしたら顔が赤くなっているかもしれないから本を持ち上げ顔を隠す、なんでもないかのようにページを捲るが内容なんて入ってこない。

 本を下げ、目だけ出すようにしてそろりと覗き見る。彼の視線は落ちていてホッと胸を撫で下ろし、だけど少しの寂しさを感じて。

 

「……はぁ」

 

 今日彼を呼んだ理由、それをずっと切り出せない。彼から今日何をするんですかと聞いてくれれば言えるかもしれないが、でもそんなの待っていても来るとは限らなくて。

 理由もない、目的もない、ただ一緒にいたいだけ。そうである時は聞かれたくないと願うそれを今は熱望している、もしそうなったら答えられるかは別だけど。

 

「そういえば燐子さん」

「は、はい……」

 

 突然名を呼ばれ、少し裏返ったかのような声を出してしまう。もしかして、と期待し鞄を引き寄せた。

 

「今度のライブ、楽しみにしてますね」

「えっ……来るん、ですか?」

「はい」

 

 駄目でしたか? なんて聞かれたから首を振る。そんなの聞いてない、来られて困ることなんて何もない、ただ緊張する、それだけだ。

 そうならないくらい集中すればいい。わかってて、簡単で、されど難しいこと。

 

「た、楽しみに……してて、ください……」

「頑張ってくださいね」

 

 緊張する、それは彼がライブに来ることなのか、彼に私の演奏を聴かれることなのか、どちらなのだろう。

 似てるようで少し違う。両方かもしれない、好きな彼だからなのか、憧れた彼だからなのか。

 でも好きだから憧れる、憧れたから好きになる。そんなの、全く違うから。

 

「蒼音さんは最近……どうなん、ですか?」

「……やっぱり楽しいですね」

 

 笑いながら、なんともないかのように、恥ずかしげに、そんなのを期待していたけれど、彼は下に俯きながらそう答えた。

 どうしてそんな顔をするのか、聞けるはずもない。ただ寂しそうにしている彼を見ていることしかできなくて。

 

「今度演奏聴いてもらって、何かアドバイスでもくれませんか?」

「そ、そんな……私なんかじゃアドバイス、なんて……」

「それなら聴いてもらうだけでも、誰かに聴いてもらいたいなって思ってたので」

 

 それならと了承して、なんでそんなことをと考える。彼ならきっと私より上手で、立場としては逆の筈なのに。

 先程の表情と何か関係しているのか、そんなことを思い鞄から手を離し、飲み物を口にする。

 

 友希那さんは知っているのだろうか、ふとそう考え、頭を左右に振る。

 

「どうかしましたか?」

「い、いえ、なんでもない、です……」

 

 彼女だけが知っているのが嫌ならば聞けばいい、ああでもあんな表情をされてしまったらそうすることもできない。

 結局、今日の目的は達成することができぬままその日は解散してしまった。

 

 

 

「あ……」

 

 日が落ち始めて地面がオレンジ色に染まってきて、今日の事を思い返しながら帰り道を歩いていると、すれ違った人に目が行った。

 その人も私の事を見て立ち止まっている。銀色の髪に夕焼けが映り、幻想的なその雰囲気に吸い込まれた。

 

「……どうかしたかしら」

「いえ……なんでもない、です……」

 

 目をそらし、閉じる、その行為になにも意味はない。暗闇で過ごす数秒、その間は何もなく、光が戻ってもそう。でも友希那さんはそこにいて私の事を見ている。

 近くを車が通りすぎて、汗が流れるのを感じ取れて、そして彼女が口を開く。

 

「この後時間、あるかしら?」

 

 長くはならないわと言われ頷き、ここではなんだからと歩き出した友希那さんの後を追う。

 彼女との距離はほんの少しで、それこそ彼女の影を踏めるくらい。なのにとても遠く感じてしまって一歩がだんだん小さくなる。

 

 気にしないようにと思っていることは余計に気になってしまう。なんでもそうだ、例えば今日の事だって。

 聞くべきでない、そうわかってる。それに憶測にすぎないことだ、ああでも、思い返してみれば当てはまってしまう。

 

 私が知らなくて、彼女だけが知ってる彼のこと。そしてそれは、彼にあんな顔をさせるもので……

 

「……はぁ」

 

 下を向いてため息をつき、足が止まってしまっていたことに気付き少し早めに歩を進める。

 結局のところ知ったところで私がどうにかできることなのかもわからない。触れられないならそのままでいい、触らぬ神に祟りなしだ。

 

「それで……何の用、ですか?」

 

 友希那さんが足を止めようやく追い付いて、たどり着いたカフェに入店する。このカフェ、この前彼と来たところと同じだ、なんて事をぼんやりと考えていた。

 カフェの中は涼しくて、生き返ったかのような感じさえする。冷たい飲み物だけ頼み、彼女の言葉を待つ。

 

「燐子は……不安になることってあるかしら?」

「えっと……なんのこと、でしょうか?」

「蒼音のことよ」

 

 突然のその言葉はよくわからない。聞く理由も、その意味も。それに彼女はそういったものと無縁、勝手だけれどそんな風に思っていたから。

 

「怖いとか恐ろしいとか、私は彼の事を考えると、最近そんな風に思ってしまうことがあるの」

「それって……」

「勿論彼の事じゃないわ。

 ……いえ、彼の事なんだけど、彼の事じゃなくて……」

 

 弁明するかのような彼女を見て、安心した。わかる、わからないはずがない。だから心の中で同意して、少し嬉しくなる。

 私も抱くのだ、怖い、恐ろしいと。それは彼自身じゃなく、彼の関係に対して。

 

「……わかり、ます」

「……あなたもなのね」

「はい、思わないはず……ない、ですから」

 

 友希那さんの事を見る。じっと、瞬きすら忘れてしまったかのように。そうすると彼女も私の事を見返してくる。

 自分と蒼音さんとの関係、友希那さんと彼との関係、そしていつか訪れる未来、それら全てが痛いくらいの不安を押し付けてくる。

 

「……それだけよ、私が聞きたいのは」

 

 そう言って砂糖を入れた珈琲を飲む彼女は先程とは違い、なんだか近くにいるように感じ取れた。

 目の前で座っているのだからそれはそう、でもそうじゃない。彼女もそんな事を思うんだと、そんな風に知れたから。

 

 

 だからこそ、許せない。

 

 

 私と同じ風に感じてしまう彼女が知っている事を私が知らないという事。彼女自身じゃなくその事実と、知らない私が許せない。

 だから今日あったこと、私は気がついたら既に聞いていた。彼と音楽のこと、それを知りたくて、知らずにはいられなくて。

 

「……どう言えばいいのかしら」

「知って……いるんですね」

「ええ、でも……」

 

 友希那さんが窓から外を見る。言いたくないのか、言えないのか、どうにせよただ彼女の言葉を待つだけで。

 

「……燐子は、どこまで知っているのかしら?」

「どこまで……?」

「そうね……彼が音楽をやめていたことは?」

「え……」

 

 これくらいは知っているかと言う風な様子で言われたその言葉はあまりに衝撃的で、信じたくなくて、嘘だと願ったけれど彼女の表情は真剣そのもの。

 なんで、どうして、彼女の口は開かない。聞きたくて、でも聞きたくない。私の憧れた彼がピアノをやめていたなんて認めたくないから。

 

「……友希那さんはその理由、知ってるん……ですか?」

「ええ、でも……」

 

 知っているけど言えない、言いたくない、再び窓から外を見る彼女からはそんな考えが読み取れる。

 私も外を眺める。景色はオレンジ色に溶けて、いつか見た夢よりずっと現実味がなく幻想的だ。だからこそこれが夢だったらいいな、なんて思ってしまって。

 

「…………」

 

 言葉はない。何を話せばいいかもわからなくて、今は何も聞きたくなくて。踏み込んでしまえばいい癖に、最初から聞かなければよかった癖に。

 友希那さんと別れてカフェを出て、それでもまだ上の空のまま、ただ時間だけが過ぎていった。

 

 

 

「はぁ……」

 

 真っ暗な部屋、ベッドに横になり電気もつけずにぼーっと天井を眺める。

 ネットで彼の事を調べたら出てくるだろうか、なんてことを考えながらも実行する気がどうにも沸かない。

 

 もう、よくわからない。私の憧れていた彼は音楽をやめていた、ただそれだけ。それに今は再開してる、いいじゃないか、終わりよければと言う言葉があるかのように、今がよければそれでいいはずなのにどうして。

 憧れていた存在がそうなっていたことが悲しいのか、それとも彼がそうなってしまったことに思うことがあるのか、そんなことすらわからなくて。

 

 ……いつから、なのだろうか。私と再開する前から既にピアノを再開していたのか、それとも、私と再開した時には辞めていたのか。じわじわと、侵食されていくかのように思考が汚されていく。

 思考はそれきりで、身体が電話をかけていた。着信待ちの音だけが鳴る部屋、私の中で心音が静かに響いている。

 

『どうかしましたか?』

 

 その声を聞くと思う、改めて思う。私は蒼音さんのことが好きなんだな、と。

 

「蒼音さんは……ピアノのこと好き、ですか?」

『……はい、好きです』

「……そう、ですか」

 

 よかった、と声が漏れた。その回答は、私の夢を叶えるために必要なものだから。

 ずっと昔の言葉、彼は忘れてしまっているであろうそれを私は思い続けている。

 

『……突然どうしたんですか?』

「いえ……ただ、声が聞きたかっただけ、です」

 

 今度あった時、その時こそ今日の目的を果たそう。彼がピアノを好き、それだけわかればもう、迷う必要はない。

 その後少し会話をして電話を切る。また真っ暗な天井を眺めるけど先程とは違う。知れたから、彼のことじゃなく、私の本当の気持ちを。

 

 彼を憧れていたから好き、好きだから憧れた、そんなの全部関係ない。

 彼が好き、それに理由なんてない。ただそれだけ知れた。

 

 目を閉じる。なんだか今日は、いい夢が見れる気がした。

 

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