俺には好きな人がいる。
好きで好きで、溺れてしまいそうなくらい好きで、その人の事を考えると息をすることすら苦しくなる。
手を伸ばしても届かなくて、振り向いてほしいけれど叶わなくて、だけどこの思いは捨てることができないままで……
なんて、小説に書かれている事を自分に重ねてみるけれどその世界に入りきれないでいた。
「はぁ……」
読んでいる途中だが本を閉じる。本を読むとその世界に飛び込んだようになってそれが好きで、なのに、今考えているのはまったくの別のこと。
「……どう、なんだろうな」
散らかった部屋を片付けるのが面倒なように、ぐちゃぐちゃとした思考をどうにかしようとすることがどうしようもなく億劫。
ピアノのコンクールの話を聞いた時、色んな物を感じていた。出たいという本能を、まだ早いんじゃないかという理性を。
出たくないという嘘か本当かわからない、わかりたくないものさえも。
「それじゃあ駄目なんだよな……」
仰向けに寝転がって目を閉じる。燐子さんと友希那の事、考えるべきはそれなのだろう。わかってる、わかっているけれど、片隅ではいつもピアノの事を考えてしまう。
別に今じゃなくたっていいのに、二人の事の方が先に決めなければいけないのに。
待ってますと言われたからいつまでも待たせている。改めて考えるとやっぱり、ずきりと頭痛のようなものも襲ってきて。
家の中にいるとこんなことばっかり考えてしまいそうで外に出る。頭痛に吐き気、目眩、体調不良と言うならばというものの嵐。辛い、苦しい、少し気を抜けば倒れてしまいそう。
ああ、ああ。そう、これでいいのだ。
きっとこれだけを考えるべきなのだろう。そうわかっている癖して逃げ出して、ふらふらと足を動かしながら宛もなく外を歩く。
「おや~? 蒼音さんじゃないですか~」
「……モカか」
「元気無さそうですね~、どうかしたんですか~?」
「……色々とな」
「大変そうですね~」
なんでもない、答えるべきはそれ、事実何もないのだから。だけれどそう言うことができないのは何故なのか。
誰かと待ち合わせでもしているのか、彼女はコンビニの壁に寄りかかったまま動こうとしない。風が吹いてざわざわと音がする。
別に目的があってここに来たわけじゃない、なんとなくで来ただけだ。だか来たのであればとアイスコーヒーを買って外に出ると、モカはまだそこにいた。
「リサさんがもう少ししたら来ますよ」
「リサに用はない」
「またまた~、何か相談したさそうな顔してるじゃないですか~」
どんな顔だ、そう言いかけて、でも言ってしまうとそれを認めてしまうことになりそうだから珈琲と一緒に飲み込んだ。
相談したい。そんなわけがない、そんな大したものじゃない。たとえどれだけ二人の事を考えていたとしても、ピアノのコンクールに出るのか、出ないのか、ただそれだけの話なのだから。
相談など、出来るわけがない。俺一人で悩むべき事で、解決するべきことだから。
「特別に~、モカちゃんが相談を聞いてあげましょうか~?」
「だからないって言ってるだろ」
どれだけ言ってもわからない、何度言ってもわからない。どんな風に思っているのか、自分でわからなくなり始める。
「あなた、何か困ってることでもあるのかしら?」
突然の第三者の声、もしやと思い向いてみればそこには友希那がいた。
「……ねぇよ、そんなの」
「本当かしら?」
一体いつから聞いていたのか。射貫かれるかのような視線を受けて、胸を貫かれるかのような印象を受けた。
一歩、その場から下がった。壁に背中が当たった、右の踵が壁に当たる。視線を友希那からそらした。
「蒼音さんは~、何か相談したいことがあるらしくて~」
「……ないって言ってるだろ」
「あ~、モカちゃん用事思い出しちゃった~」
壁から背中を離し、俺に視線を向けながらそう言ってきた。そんなものない癖にと言う間もなくモカはどこかに行ってしまう。リサを待っていたのではなかったのか。
気まずくなって珈琲を飲むが、遂に味覚までやられたか、あまり味がしない。飲み干して、ゴミを捨てることなく壁に寄りかかり続ける。
会話はなくてなんだか息苦しさを覚えるが、何を話したらいいのかよくわからない。これも全部モカがあんな事を言い残したから、なんて考えてたら友希那が隣にやってきた。
空を見上げ、ぼーっと流れていく雲を眺めていた。
「ねぇ、蒼音」
「あれはモカが……」
「何の事かしら?」
この後時間はあるか、そう言われたので首を縦に振る。
それにしても嫌になる、今年だけでこんな風に思ったのは何回目だろう。本当に俺はピアノが好きなのか、なんて考え始めて。
ああでも、二人の事が好き、それは確かなもので、だから何より優先すべきで。
もう一度空を見上げる。ゆっくりと流れる雲が、少しだけ羨ましく思えた。
何処に行くかと聞いてみたが、どこでもいいと言われたのでカフェにやってきた。
飽きるものではないけれど、友希那とも燐子さんともカフェに来すぎてる。どこか違うところにと考えてはみたが特に行きたいところもないし、二人もどこでもと言うことが多いから結局カフェで落ち着いてしまう。
友希那が珈琲に大量の砂糖を入れる。最初の頃は信じられないと思っていたがもう慣れたものだ、自分の珈琲が少し甘く感じてしまうのはいつまで経ってもなくなりそうにないけれど。
これといった会話もなく静かなまま時間が過ぎていく。何か用があるのか、ないのか、わからないしどちらでもいい。
珈琲が半分ほどなくなってようやく、彼女は口を開いた。
「あなたはコンクールに出るのかしら?」
手が止まる。こんな質問をしてきたのは偶然なのか、胸が締め付けられるようなものを感じた。
「……なんでそんなこと聞くんだ?」
「なんでって言われても……」
ただ気になっただけ、こいつはそう言うだろう。なんとなく、深い意味はなく。
そんな友希那にだから言うことができる、こいつが友希那だから言わなくてはならない。
コンクールにはでない、お前と燐子さんを待たせてるのにそんなことをするわけにはいかないと。
「……あなたの演奏を聴きたいから、しかないわ」
喉まできてた言葉は、彼女が発した言葉に押し戻された。
嬉しくて嬉しくて、クラクラしてしまいそうなそれ。
でも、だからどうした、それとこれとは別。彼女の期待を裏切ってしまうことになるけれど、それでもこっちの方が。
思ってるのに、わかってるのに、その言葉が頭をよぎって口の動きを鈍らせてくる。
「それで、どうなのかしら?」
じっとみられてなんだか恥ずかしくなってきて、それでも言わないといけないから、深く息を吸った。
「……コンクールには、でねぇよ」
「……理由は?」
正直に言うか、適当に誤魔化すか。迷ったけれど嘘をつく必要もない。
「お前と燐子さんの事もあるのにコンクールなんて出られないだろ」
「……それはどういうことかしら?」
「……どうもこうも、そういうことだよ」
少し低い声で言われ、座ってさえなければ一歩引いてしまいそうな圧を感じた。
怒っているのか、それとも意外だと思ったのか。じっとこちらを見て再度聞いてきた。
「それはつまり……私と燐子のせいってことでいいのかしら?」
「せいとは言ってないだろ」
「変わらないわよ」
喋れない。目を閉じて甘ったるい珈琲を飲む彼女を前に悪戯に言葉は吐けず、ただ思考をして待つことしかできない。
カップを置く彼女、瞳を開ける彼女、一挙一動に意識が持っていかれてしまう。
「あなたはピアノのこと、好きなのよね?」
「……そうだな」
「それならよかったわ」
いったい何がなのか、そう考えていると突然、彼女は俺の名前を呼んだ。
「私のこと、選ばなくていいわよ」
今、なんと言った?
選ばなくていい? 何を? そんなもの一つしかない。
嫌われたのか、呆れられたのか、考えて考えて、だけどわかりそうな気がしない、わかりたくない。
何かしてしまったかと考えて、どうにかできないかと思考して、でもやっぱり思い付かない。
友希那は俺から視線を外していて、両手を何故だか握りしめている。ふっと体から力が抜けて、入らなくて、手で身体を支えなければ倒れこんでしまいそうになる。
なんて聞けばいいのかわからない。頭の中で言葉が浮かんで消えて、数分、あるいは数時間考え続けているかのような感覚に襲われる。
「……どうしてだ?」
「どうしてって?」
「どうしていきなりそんなこと言うんだよ」
二人のうちどちらかを選ぶのに悩んでいる、そのうち片方が相手を選べと言ってきた。全部解決することだけれど俺はそれを許したくない。
どこまでも自分勝手、でも仕方がない。そう簡単に引き下がれるものであれば元より悩んでなどいやしない。俺は友希那の事が本当に好きなんだなと、今更ながらに、何度目かの再確認をさせられる。
「こうすればあなたは悩まなくて済むんでしょう?」
「……お前、俺の事が嫌いになったんじゃないのか?」
「そんなわけないわ。もしかして、そうなるようなことをした覚えがあるのかしら?」
よくわからない、だけど友希那が俺の事を嫌いになったわけじゃない、それだけわかると一気に安堵が襲ってくる。
けれどそれを味わう暇はない。あぁでも、悪いことをしたわけじゃないから謝るに謝れなくて、どう話すべきかわからない。
「……お前はそれでいいのか?」
「えぇ、構わないわ」
静寂が痛いくらいに体を刺してくるようになって、それを破るようにして出したのはそんな言葉。
彼女は何処か遠くを見ている。何を思って発したのかはわからない、けれどそれが彼女の本心だと認めたくなくて、それが嘘だと願って。
何もかもが気にくわないというわけじゃない。俺のためだとすること自体はいい、むしろ嬉しささえある。ただそのやり方だけだ。
「たまたま私だっただけで、この話を燐子が聞いていたのなら彼女も同じ事を言ってるだろうから」
「……どういうことだ?」
「わかってないのね……」
──あなたのピアノが好きだから、私がそれの邪魔になるくらいなら選ばれなくていいわ。
どこまでも力強く、だけれどもどこか弱々しく感じられる言葉だった。
そういうことだったのか、なんてわからない。俺のピアノにそんな価値はない、全部過去に置いてきてしまっているものだから。
「……演奏くらいいつでもしてやるよ」
「それは私への音楽でしょう? あなたがする、あなたのための音楽、私はそれが聴きたいのよ」
じわりと、何かが染み渡っていく感じがした。ティッシュを手に取り、しかし珈琲は既に飲み干していたから、それが自分の内で起きたことなのだと理解した。
そんなに言うならコンクールに出てやる、そういうわけじゃない。俺の音楽が好きだと言った彼女を説得するには、本気で、本心で答えなければならない。
「……なぁ、友希那」
「なにかしら?」
「お前って俺の事好き、なんだよな?」
「……突然何を言うのかしら?」
何って、意味なんてない。そうだと言えばそれだけで、隠すように違うと言われればそれだけ。本心から違うと言われたのなら……それまでだ。
「……ええ、好きよ。何度も言ったでしょう?」
顔をちょっと赤くしている。恥ずかしい、なんて思っているのだろうか。
友希那は言った、燐子さんも同じ事をと。もちろん本人がいないので確認のとりようがないが、そうであるならば、むしろコンクールに出なければ彼女にも悪くなってしまう。
決意の言葉、その前に一つだけ確認の言葉を入れる。
「もし俺が音楽をやめたらお前は俺のこと、嫌いになるか?」
「……どういうことかしら?」
「別に、気になっただけだ」
「そんなわけないわ」
ため息が聞こえてきた。当然だと呆れられたのか、そうであるならば……嬉しい限りだ。
「ありがとな」
「……突然何かしら」
口からは感謝の言葉が、あぁ、結局俺はそうしたいということなのだろう。騙して、隠して、それでもいつも簡単に掘り起こされる。
これは正しいことである、なんて言いきることはできない。友希那がそうしろと言って、俺もそうしたいと思っていて、ただそれだけだ。
「コンクール、出るって燐子さんに言ってみる」
「……そう」
それ以上はなにもない。残っていた珈琲を一息に飲み込んで、彼女の小さな笑みに胸を締め付けられ、だけどこれは全く苦しくなくて。
コンクールがいつなのか、それはまだ知らない。だけど多分、そう遠くはないことなのだろう。
いつまでもじゃない、決めるんだ。コンクールが終わったらどっちが好きなのかを。
俺には好きな人がいる。
その人の考えていると胸が苦しくなって頭がおかしくなりそうで。
手を伸ばすと取ってくれる人がいる、垂れ下がった手を引き上げてくれる人がいる。背中を押してくれて、一緒に休んでくれる人がいる。
外は明るい。今日はいい日で、そうなれば明日もきっといい日の筈で。
未来は一つだけ。後悔はしない、したくない、してはいけない。きっとそうなる、そうしなければ。
空では相変わらず、雲が泳いでいた。