「……」
「友希那さん……どうか、したんですか?」
「大したことじゃないわ」
「ほんと~? 練習中もどこか上の空な感じあったよ」
「……そんなことないわよ」
こんな風な話をしているけれど、リサと燐子の言葉は右から左に流れていく。
頭の中に浮かんでいるのはこの前の事、彼の言葉。音楽をやめたら自分の事を嫌いになるかという、あり得ないこと。
きっと深い理由もない、聞いただけとか、そんな。
そうわかっている癖に、そうだと答えていたらどうなっていたのか、というのが頭に浮かんでしまう。
少し怖い、でも気になる。彼は、どちらを取るのだろうか?
「苦い……」
「やっぱりボーッとしてるじゃん」
砂糖を入れ忘れた、いつもなら一番最初にしているけれど、たまたまそうだっただけだ。
真っ黒の珈琲の中に砂糖を混ぜてじっと、起こした渦の中を見つめる。混ざって混ざってもう、元のものには戻らない。
「それで、二人共最近どうなの?」
「どう……とは?」
「それはもちろん……こういうさ」
砂糖を手に取り、それを私の珈琲の中に入れてくる。どういう意味か、きっと昔の私ならわからなかったのだろう。
再びそれをかき混ぜて、リサから顔をそらし燐子がこちらを見てきて、それを受けながら珈琲を口にする。
先程とは違って甘い、やはり苦いままで飲むというのはまだ理解ができない。
「特に何もないわよ」
「私も……特には……」
「ほんとかな~?」
「嘘なんてつかないわよ」
そも、リサが関与するようなことじゃない。私と燐子と、彼での問題で、それ以外は何も絡まなくて、絡ませてはいけなくて、絡ませない。
「それについて二人は思うことないの?」
「…………」
「関わることではないんだろうけどさ、もう秋だし、時間も無限ってわけじゃないし」
お節介なのはわかってるんだけどさ、なんていう彼女はきっと、蒼音にも同じことを言っているのだろう。
余計なお世話、ではない。このことのせいで練習に集中きてないわけじゃない、でもそうじゃないと言いきれるかというと……
いつでも、どこでも、何をしていても、彼が頭にいる。大きくなかったとしても隅っこには必ずあって、それに気づいてしまえば虫食いのように思考の中に潜り込んでくる。
それがあまりに自然で、無意識だから避けようがない。もしかしたら彼もこんな風に考えてくれているのだろうか。
ああ、また。
音楽が好き、彼は好き。滲んで、溶けて、一体どっちの方が強いのか、たまにわからなくなってしまう。
目標も、成すべき事も、歪んで迷ってしまったかどうかさえもわからない。
そんなだから、思ってしまったのだ。
音楽をやめた彼の事を嫌いになると答えたら、彼は音楽より私を取ってくれるのか、なんて。
自分なら答えを出せないそんな問い、浮かべるべきではなかったそんな問い。
足元が見えない未来は当然怖い、だけど待ち続けるのは……
珈琲に砂糖を追加する。そんな考え全部溶かして、混ぜて、一息に飲み干した。
珈琲にはそこそこの量の砂糖を溶かしていた。一つ入れたところで所詮、何も変わらなかった。
信号が変わるのが長い。だけどわざわざスマホを眺めるほどじゃないから理由もなく遠くを見る。
コンクールに出ると決めた、でも課題曲はわからない。それどころかどこでか、いつのものか、全く決めていない。
検索をかければすぐにでも見つけられるだろうけれど、一人ではあまり出たくない。
未だに怖いというわけじゃない、いや、なくはないけれど……燐子さんが出るのならそれと一緒がいい、そう思ったから。
「あ……」
その声はどちらが出したのか、信号が変わって歩き出してばったり、今までなかったわけではないがびっくりして互いに足を止めてしまった。
信号を渡り切ってない中途半端なところで話をするわけにはいかないので道を戻ると、すぐ様信号が変わって車が走り出す。
「えっと……燐子さん」
「は、はい」
「この後って時間、ありますか?」
答えは言ったか言わずか、どちらにせよ走る車の音で聞こえなかった、それでも彼女が頷いたのは見えた。
別に大した用事じゃない、コンクールに出ますと言うだけで、あわよくば一緒に出てくれませんかと聞くだけだ。
どこだってできる、数分程度で済むだろう。だけどこんなところで切り出すのは、なんて考えてしまって口が重くなってしまう。
「……何処に行くかって……決めて、ますか?」
「決めてないですけどそんな長い話でもないですし……」
頭で思っていることと口から出る言葉が噛み合わない。
自分から聞いておいて、それで何処かに行って数分で終えてしまったら彼女に悪いんじゃないかなんて思いながら、それでもそう易々と切り出すのはできなくて。
「それなら……蒼音さんのお家に行ってもいい、ですか……」
聞こえない程の声量のはずなのに、信号の音にすらかき消されてしまいそうなのに、それはどんな音よりも確かに聞こえてきた。
真っ赤な顔をして、なのにいつもと違って顔をそらさず向き合っている。なんて思った瞬間火傷してそうな程赤くなって背を向けられてしまったが。
「大丈夫ですよ」
頭は真っ白なままだがすぐにそう返答する。やっぱりなんでもないです、なんて言わせない、言わせたくない。だから取り消す間もなくそう返した。
それは彼女の勇気とでもいうものを無下にしたくないから……なんて浮かんできたけど綺麗事だ。嬉しいとは違う、何とも言えないものに塗りつぶされたから。
手をつないでまた信号が変わるのを待つ。こうしていると塗りつぶされたはずの思考が、心が、もっと深い色に変わっていくような感じがする。
「お昼ってもう食べてますか?」
「いえ、まだですけど……」
「それなら何か作りましょうか?」
沈黙が嫌というわけではない。この提案は単純に、話す理由が欲しかっただけ。
大したものを作れるわけでもないが返答はなんとなくでわかっている。何があったかと冷蔵庫を探していると返答がやってきた。
「蒼音さんの好きなもので……お願い、します」
予想通りの解答、なのだけど引っ掛かりがある。
好きなものでだけならばわかる、だが俺の好きなものでと。思い違いなのかもしれない、むしろそうである可能性の方が多いだろう。自意識過剰なのか、期待し過ぎなのか、どうにせよそれについては聞かないようにした。
心臓がドクリと脈を打つ。昼飯をご馳走、と言える程大したものではないが振る舞って、片付けも手伝ってもらって、向かい合いに座っているが口を開けないでいる。
二人きりという事、今飲んでいる熱めの珈琲。自分の中と外、形がないものとあるもの。熱の元はおそらくその二つ。
「あー……」
なんとなくで溢したその声は、会話が行われていなかったせいもあってかやけに大きく聞こえてきた。
気づけば珈琲は飲み切っていて、だからか熱が引いてきて黙る言い訳がなくなった。
いや、言い訳をしていたわけではなかったのだが飲み干して、それでもまだ苦いものがずっと残っている。
「燐子さん」
「は、はい……なん、でしょうか?」
頭を一度掻いて彼女の方を向く。こんな改まるようなことではない、わかっているのにこうなのは仕方がないことなのか。
「確かピアノのコンクールに出るん……ですよね?」
「まだ……決めてはない、ですけど……」
そらして、こちらを見てまたそらす。口ではああ言うけれど、恐らく彼女の答えは決まっているはずで。
だから責任はない、どう答えようと俺の勝手。そう、俺が出した答えが紛れもなく、俺の本音だ。
「俺は……燐子さんがいいなら、一緒に出たいって思ってます」
「……一緒に、ですか?」
「はい。一緒に、です」
そこを強調されると途端に引いていたはずの熱が、恥ずかしさに形を変えて混み上がってきた。でもきっと、彼女に比べたらそれはまだ可愛い方なのだろう。
俯いて、更には手で顔を覆い隠している。数秒、数分、恐らくそれくらい経ってようやく、彼女は指の隙間からこちらを覗いてきた。
「あ、あの……」
突然彼女は自分の鞄から一枚の紙を取り出しこちらに渡してきた。
大事に保管していたのだろう、シワどころか折り目一つない。ざっと目を通してみるとそれがとあるコンクールのものであることがわかった。
決めていないとはなんだったのか、そう思いながら目を通していると燐子さんが。
「実は……Roseliaのみんなにもまだ見せて……ないんです」
彼女は微笑みながらそう言った。それのせいか、それとも内容のせいか、熱を感じた。それも今日一番の。
「課題曲が決まったら、参加するかどうか決めようかなって思ってたん、ですけど……」
出るならそのコンクールと決めていたとのこと。
大きな声のわけではない、口調が強かったわけでもない。なのに彼女の言葉からは強い意志が感じ取れた。
因縁があるのだろうか、真相は彼女以外にわかるはずもないのだが……これまた何か引っ掛かるようなものが。
でもこれはさっきと違う、何が引っ掛かっているのかすらわからない。
「それじゃあ……そろそろ帰り、ますね」
「あー……送っていきましょうか?」
燐子さんは大丈夫ですと言いかけて、お願いしますと言い直してきた。
引っ掛かる、引っ掛かる。燐子さんの事を見るとそれが膨らんでいくことだけは確かにわかった。