朝は憂鬱、それに大した理由なんてない。頭はあまり回らないし、そんな状態でアラームの音が鳴り響く。
まだ眠っていたい、そんな思いを抱きながらアラームを止めて布団から身体を出す。
今日がコンクールの課題曲の発表日。気になるけれど一人で確認する勇気はないから、スマホを手にしてははみるけれど画面は暗いまま。
ピアノの前に座る、鍵盤に指を置く。実際には弾かない、目を瞑って夢想するだけ。あの舞台で演奏する自分を、夢を叶える自分自身を。
「ふぅ……」
手が震えてる。小さく息を吐いてみたけれどそれが収まる気配は微塵も感じ取れない。
楽しみなのか、待ち遠しいのか、それとも怖いのか。多分それら全てなのは間違いないのだろうけど、そのうちどれが一番なのかと聞かれるとわからない。
きっと楽しみで待ち遠しい。ちょっとは怖いけれど私はあの頃とは違うからきっと大丈夫だ。
鍵盤に置いた指全てをゆっくり、深く落とす。適当に置いたから綺麗じゃないけどそんなのはどうだっていい、そう思ったけれど寧ろそれが悪手となって。
不安が指にこびりついて取れてくれなくて、それは心にも染み渡ってきて身体が少し冷えたような気がした。
わかっているのに、わかっているから……
「蒼音さん……」
思い人の名を呼ぶと少しはマシになったような気がしたのは気のせいだろうか。
窓を開けると、冷たい風が入ってきた。
「ピアノコンクール?」
「はい。今度開催するコンクールに……出場しようと思ってるんです」
「その話はしていたけれど、随分前の話じゃなかったかしら?」
「出るなら……これにしたいって、思ってましたから……」
Roseliaのみんなにコンクールの話をすると驚き半分、でも初めての話じゃないから意外とすんなりと受け入れられた。
コンクールに出たいというのは前々から言っていて、だけれど出るならこれと決めていたから時間が経ってしまった。
「でも、大丈夫? コンクールは人がたくさんいるから苦手って言ってたよね?」
「うん、それにこのコンクールは公開審査だから……見に来る人もたくさんいるんだ……」
「そ、それは緊張するね。大勢の前で一人なんて、アタシだったらヤバいかも……」
今井さんも、氷川さんも、あこちゃんも知らない理由。そして友希那さんでさえ理由の全ては知っていない。
だけれどもそれは蒼音さんにも言えなかったものだから全てを知っているのは私だけ。
尊きものだと思えるこの想い、清きものだと思えるこの夢、自分を変えるための道標。
大切だからこそ漏れ出さないように蓋をする。開けたら溢れてしまうかも、空気に溶けてしまうかも、だから大事に、大事に蓋をする。
「りんりん、平気なの?」
「平気じゃないけど……挑戦してみたいんだ」
誰でもない、私のため。
私じゃない、私の夢のため。
夢じゃない、ただ私のため。
「……そう。うまくいくといいわね」
「はい、ありがとうございます……」
「そうなるとコンクールの練習の時間が必要ね」
「はい、個人練習の時間を作って……課題曲の練習をしようと、思います……」
Roseliaの練習には支障が出ないようには、そう言うといちいち断らなくたっていいと今井さんに言われ、信頼されているのかと嬉しさを感じられた。
「ところでりんりん、課題曲ってどんな曲なの?」
「今日参加要項が発表されたから……サイトに書いてあると、思うんだけど……まだ私も、確認してないんだ」
「へえ、じゃあ見てみよっか」
今井さんがスマホを机の上に置きサイトを開く。私を含め全員がその小さな画面を覗き込み、課題曲はいったいなんなのかと探す。
「あ、あったあった! これだよきっと」
あこちゃんが探し当てたその曲は……あの時コンクールで弾いた曲と一緒だった。
偶然か、運命か。仕組まれたものじゃないことくらいわかってはいるけれど、ああでも、頭の中は真っ白になってまともな思考もできやしない。
「りんりん、どうしたの?」
「その……知ってる曲、だったから……」
全身の血が沸騰したかのように身体が熱い、心に黒い何かが重くのし掛かる。
手が冷たい。ほんとはそんなことないんだろうけど、顔に当ててみるとそう感じさせられて、なんでか知らないけど、震えてる。
「昔、コンクールに出た時に……演奏した曲なんだ」
「え、昔コンクール出た時ってだいぶ前でしょ?」
「その頃に高校生向けの課題曲を弾いていたの?」
私の意思じゃない、先生がこれくらいならできるって言ったから。難しい曲を弾いていた、みんながそれを手放しに褒めるからなんとも言うことができない。
嬉しくないかと言われたらそんな筈ない、嫌かと言われたらそれも思う筈がない。でも、でも、でも、やっぱり……
「頑張ってね、燐子。応援してるよ」
「……はい、ありがとうございます……」
遥か昔の事だというのに、蒼音さんに褒められたのと比べてしまうと……見劣りしてしまうなんて思ってしまうのはきっと、最低なことなのだろう。
だけど当然のことなんだと思ってしまうのは、仕方がないことなのだろうか。
「少しいいかしら?」
「えっと……なんでしょうか?」
練習が終わって、早速コンクールに向けて自主練習をしようと思っていたら友希那さんに声をかけられた。
集中しようと深呼吸をしようとした瞬間だったから変な声が出てしまい、皆から視線が向いて恥ずかしくなる。
「友希那~、邪魔しちゃ駄目だよ」
「……長くはならないわ」
なんと言えばいいのだろうか。怖いとまではいかなくても、そう感じてしまうかのような圧がある。
何か友希那さんの気に触れるようなことをしてしまったか、最近の事を思い返せど見つからない。
「二人で話したいから、リサ達は先に帰って貰えるかしら?」
「すぐ終わるんでしょ? なら外で待ってるよ」
そんなに大事な事なのか、でも友希那さんは長くはならないと言っていたし。
先に謝ってしまおうと思ったけれど息苦しさから声は出ない。早い鼓動、飲み込んだ唾が確かに感じられた。
みんなが部屋から出ていって、友希那さんは一つ息をついて話しかけてきた。
「……聞きたいのはコンクールについてよ」
「コンクールについて、ですか……」
単純に興味があるだけなのか、でもそれだけならば今である必要が、みんなを退出させた理由がわからない。
曖昧な質問であるから彼女が問う意味を探すことから。彼女は無駄なことは聞いてこない、そう知っているから思考を巡らせる。
ならば……そうして出てきた答えは肝を冷やさせるものだった。
「ご、ごめんなさい……」
「急に謝ってどうしたのかしら?」
「えっと……今日の練習に集中、しきれてなかったことに……怒っているのかと……」
集中していなかったかと言われたらそれは否、でも集中しきれていたかと言われたらそれも否。
友希那さんは大きくため息をつき、だけれど違うと言うから驚かされる。であればそれこそ何も思い付かないが……
「それについてはまた後で聞くことになると思うけれど、そうね……」
──今聞きたいのは蒼音とあなたと、コンクールの関係についてよ
恐ろしい程の静寂が部屋を埋め尽くす。そんな個人的な事だとは欠片も思わず、それで驚き思考が止まってしまった。
「言いたくないのならいいのだけれど」
「い、いえ……でも、なんて言ったらいいのか……」
少しは示されたとはいえこれでは大して変わってない。範囲が狭まったとしても、何処にあるかはっきりわからなければ誤差のようなものだ。
ああ、でも、ゆっくりと口は開いていた。
「蒼音さんは私の好きな人で、目標で、夢で……コンクールはそのための場所……です」
自然と言ったそれは自分でもはっきり聞こえ、顔が赤くなって視線が床に落ちる。
ああ、きっと笑われる。そう思って顔を上げてみると……彼女はじっとこちらを見ているだけだった。
「……そう、時間を取らせて悪かったわね」
それだけ告げて彼女は扉の方へ。もう終わりなのだろうかと思うとなんだか拍子抜け。
握った手を胸に持ってきて、息を止める。真っ白に染まった思考の中、私は彼女の事を呼び止めていた。
「私からも……いいですか?」
彼女が返事をしてこちらを見る。私が呼び止めた癖に何を話したいのか、何を聞きたいのかわからない。
その癖思考はゆっくりとしていて焦る様子はない。時間がゆっくりとなったかのような、そんな感覚の中、私の口は自然と動いていた。
「友希那さんにとって……蒼音さんはどんな人、なんですか?」
「どんな、って言うのは?」
その問いには答えず、なんでこんなことを聞いたのだろうと順序おかしく考える。
何を気になったのだろう、私はどんな答えを求めているのだろう。ふと、彼女から目をそらして鏡に映る自分の姿を見る。
ああ、きっと……
「…………好きな人よ」
随分と長い時間をかけて絞り出されたその言葉は、それと反比例するかのように短く、単純で、純粋なものだった。
無駄なことはない、あんなとかこんなとか、そういった装飾のないどこまでも簡潔なもの。
どんなところがとは聞かない、彼女はきっとわからないとか、全部とか、そういった答えを出すと思う。そんな目が潰れてしまいそうなほど純粋なものを言葉ではなく、表情でもなく、なんとなくで感じ取れる。
なんとなく、とは言うものの同じ人を好きになってしまったから感じ取ってしまうのは仕方がないのだろう。そしてそれは、彼女も同じはずで。
「友希那さんは、もし……」
喉から言葉が出かけたけれど、飲み込む。なにかしら、と彼女に視線を向けられて、そらしてしまう。
蒼音さんに選ばれなかったらどう思いますかなんて、簡単に聞いていい筈のないものなのに。
「なんでもない……です」
自信があるわけじゃない、寧ろ友希那さんと自分を比べて、私が勝っていることなんてそれこそ……と考えてしまう。
だから怖くて、不安。口から出かけた意図もわからない。共感を求めているのか、それとも彼女の口から聞いて安心したいのか。
この前彼女は言った、怖いのだと、不安だと。表面的なそれじゃない、その深層、もし選ばれなかったら彼の事を、どう思ってしまうのか。
私が抱いているものをまるっきり同じように考えているのか、私が考えていることは普通だと思いたいから。
……ああ、どうにせよだ。天井のライトが嫌に眩しく感じ取れた。
「邪魔しちゃってごめんなさいね」
「い、いえ……大丈夫、です」
彼女が扉を開けて部屋から出ていく姿を見送った。なんだか手が痺れる、少しだけならとその場に座り込む。
ずっと握っていた手を開く、そこには何もない。その手を何度か閉じたり開いたりして、ライトに向かって手を伸ばす。
届きそう、でも届かない。透けて見えそう、私の薄い薄い心の持ちようまで。
ああ、よく見えない。数秒の間、ぼーっとその手を眺め続けた。
「……練習、しなきゃ」
小さくため息をこぼしてから立ち上がる。指をキーボードの上に置いて大きく、大きく息を吸い、吐いた。
視界が暗くなっていく、狭くなっていく、でも頭の中はスッキリしない。だからそれを払うかのように冷えた指を躍らせた。