「いらっしゃいませー」
その声を一切無視して辺りを見回す。そうして、見つけてしまった。
「ねぇ」
「……なんですか」
自分でもこんな声が出るとは思わなかった。どこまでも底冷えした、歌では決して使わないであろう声。
それを聞いた彼女はこちらを見上げ、対抗心でも抱いているかのような目をこちらに向けている。
運がいいのか悪いのか、昨日の今日で彼女を見ることになるとは思わなかった。
「ここ、座ってもいいかしら」
「……いいですよ」
いや、運だなんて嘘、羽沢さんのお店にわざわざ来ておいてそれはないだろう。
ここならいるんじゃないかというのが頭の片隅にあったのだろうか。まぁ、そんなことはどうでもいい。
「…………」
睨まれている、そう感じてしまうのは気のせいか。でも仕方がない、多分、私もそのようなものを向けてしまっているかもしれないから。
「えっと……何になさいますか?」
「珈琲をお願いできるかしら」
珈琲が届けられて、席を指定したにも関わらず一言も会話をしていない私たちを見て羽沢さんは不安そうな表情を浮かべている。
届けられた珈琲に砂糖を入れかき回していると、美竹さんから話しかけてきた。
「湊さん、そのまま飲まないんですか?」
「……それが?」
「いえ、その……」
いつもなら否定したり誤魔化しているものだからか、明らかな困惑の色が見て取れる。でもそんなのはどうだっていい、ただ少し、イラついてるだけだ。
「……用があるなら早く言ってくれませんか?」
「昨日の事よ」
「昨日って……あ」
まるで言われるまで忘れていたかのような反応。珈琲を飲んで、甘くて、止まりそうにない。
「……見てたんですか」
「見られて困る事だったのかしら?」
「別に、大したことではないですから」
「大したことがない、ね」
どの口が言っているのだ、カラオケ店から蒼音と出てくるところを偶々見てしまったとまで言った方がよかったのか。
わかった上でそう言っているのであれば……舐められている。
まず最初に目を疑った、次にどうしてだと思考を巡らせた。そして最後に、彼女への怒りが浮かんできた。
八つ当たり、そうとも言うのだろう。でもこれは正当で、どうしようもなくて、そうでも思わないとどうにかなってしまいそうだったから。
珈琲を飲む、その味は感じなくて。
「歌を聴いてもらっただけですよ」
「なんとでも言えるわ」
燐子には抱かないようなこれ、どうして美竹さんには抱いてしまうのか。
横取りだから? 燐子とは距離が近いから? わからない、わからない。ああさては、美竹さんと蒼音との関係がわからなかったからか。ああ、でもどうでもいい、理屈なんてものじゃない。
ぐるぐると、ぐるぐると、何度も珈琲をかき回す。
「それなら新庄さんにも確認取ればいいじゃないですか」
「それは……」
そんなのわかっている。でも、でも……怖いから、そんなのできるわけがない。
目をそらす、壁に何があるわけでもない、だけど返す言葉が何もないからそれをじっと見続けていることしかできなくて。
「……もしかして、怖いんですか?」
ドキリと心臓が大きく跳ねた。
言い当てられてしまって、否定できなくて、肯定すらできない。だからなんだと、そんな風でいられればいいけれど、まるで体が小さくなってしまっているかのようで。
そんな私を見てか、小さく笑う声が聞こえてきた。その元は言わずもがな、抵抗しようにも声は出ず、睨み付ける事しかできない。
「湊さん、本当に新庄さんの事好きなんですね」
「だったら何なのかしら」
「いえ、別に」
身体が熱くなってきた。珈琲が温かいから、お店が外より暖かいから、そんな筈もなくて。
怒っている、じゃあなんで? それは彼女が彼と一緒にいたから。ならばそれはもう一人にも向けられるべきだ。
燐子にも……蒼音にも、同じように。
「本当に歌を聴いてもらっただけですから、安心してください」
「でも……」
「信じてもらえないなら……よくないですけど、湊さんは新庄さんの事も信じられないんですか?」
「そんなわけ……!」
どうして? なぜ私は彼に対してこんな無責任な信頼をどうしてできるのか。ましてや、私と燐子という前例があるというのにだ。
結局は自分が信じたいものがなにかというだけ、見た目が違うだけで中身は全くの同じだというのに。
ふっと身体が一気に冷えた。狭苦しかった視界がほんの少しだけ広がったような気もする。
「……ごめんなさい、少し熱くなりすぎてたみたい」
「大丈夫ですよ、でもちょっと意外だったので驚きましたけど」
「意外?」
「新庄さんの事を好きっていうのは知ってましたけど、こんなとは思わなかったので」
意外、なのだろうか。わからないから比較のしようがないけれど……無関係、ではないけれど彼女に伝わっているのだ、きっと彼にも。
そう考えるとこそばゆいが、嬉しさは違いなくある。
ほら、こんな風に彼の事を少しでも考えると止まらなくなって、それ以外に考えられなくなって、やがて音が聞こえなくなって、最後に目を閉じてしまう。
彼は音楽が相当好きなのだろう、そしてそれは私もだ。こんな風に、落ちるかのように意識が持っていかれる。
なら私は音楽と蒼音、どちらが……ああ、駄目だ、こんなの決められないし、そうするべきではないのだから。
でも、でも……彼は、どうなのだろうか?
「……聞いてますか?」
「え……ごめんなさい、聞こえなかったわ」
なにやら話しかけられていたらしく、釣り上げられるように意識が浮かばされる。
何を思ってかは知らないが一つため息をつかれ、恐らく先ほど言われたのであろう言葉を言ってきた。
「湊さんは新庄さんに好きって、伝えてるんですか?」
「ええ」
「ほんとですか?」
「……どういうことかしら?」
信用されていないのか、それとも嘘をついていると思われているのかは知らないが私は事実しか言っていない。
好きだと言っている、きちんと本人に。だから伝わっているはず、もし伝わってないというのなら……まさか、彼はそれがわからない程頭が悪いわけがない。
「心配してるだけですよ」
……私はどんな風に思われているのだろうか。まぁどうでもいい、私と彼の事は私と彼だけわかっていれば。
ああでも、私と彼の事、本当に全て何もかもわかっているのかと聞かれたら自信はない。
「好きって一言に言っても色々あるじゃないですか」
「そう間違われるようなものでは伝えてないわ」
「じゃあ、その強さは伝えているんですか?」
強さ? 好きという気持ちに強いも弱いもあるものなのか。
私はきちんと、そこを違えず伝えているはず。
「自分はこんなにもあなたの事が好きなのに、っていうのです」
「別に、示す必要はないでしょう?」
「必要はないですけど、意味はあります」
どれくらい好きかと、具体的に見えるわけでもないのに示す意味。
まず私はどれくらい蒼音の事が好きなのだろう。音楽と同じくらい、心臓が痛くなる程、燐子が抱くそれよりも……
ああ、なるほど、そういうことか。
「でもどれくらい好きか、なんて示せないじゃない」
「できるじゃないですか、湊さんなら」
「私なら?」
それは何なのか、答えは浮かばず珈琲を飲んでいる彼女の口が開かれるのを待つ。
そして、それは数秒後の事だった。
「歌えばいいんですよ」
「歌?」
「それが一番じゃないですか、湊さんなら」
歌う、一体何を? そんなもの決まっている、彼への思いをだ。
音楽は好きだ、彼の事も好きだ。であれば……それを溶け合わせればきっと、寸分の狂いもなく想いも全て伝えられる。
ああ、でも……
「私、そういったものは聴かないから……」
そう、所謂ラブソングとでも言うべきものは聴かない、聴いたことがない。
当然聴こうと思えば聴けるし、練習さえすれば歌うことはできる。でも、でも、それは違う気がして。
「作ればいいじゃないですか」
「私が?」
「他人の想いなんて口に出しても、なんの意味もないですし」
作る、私が、私の想いを、歌にのせて……彼のために。
ごくりと喉を空気が通った。不思議と更に身体が熱くなった気がする。
「……なるほどね、やってみるわ」
「手伝いましょうか?」
「大丈夫よ、一人でやりたいから」
「そうですか」
誰も関与しない、させない。これは私のものだ、彼へのものだ、口出しなんてさせないし許さない。
彼以外には見せない、聴かせない。彼だけが知ればいい、彼しか知らなくていい。
自然とそんな風に思えて、そうと決まれば早めに帰るにこしたことはないだろう。
お会計を済ませようと立ち上がり、ああ先に言わなければいけないことがあるなと美竹さんの方を見る。
「今日はごめんなさい」
それと、と彼女の答えを待たずに付け足した。
「今日はありがとう、感謝するわ」
「…………」
なんと言ったかははっきりとはわからないけれど、顔をどこかに向けながら小声で、まぁ、文句は言われてないのだろう。
会計を済ませて外に出る。冷たい風が襲ってくるが、曲の事を考えていると熱くなる身体からしたら気持ちのいい程度のものだった。